さよなら、愛しき平穏な日々よ 2
世界は、今日もなにも変わらない。
王都は穏やか、街の人々の笑顔も変わらない。同僚たちもいつも通り。ディオとトナーと昼食を食べ、見習いたちの訓練の相手をする。ニーナの日常は、今日も変わらずここにある。
先輩に頼まれた資料を探すため、資料室で同じ背表紙の分厚い本をひっくり返しながら、ニーナは舞った埃で小さく咳込んだ。
この辺りは、自分が第3隊に入隊したころの記録だ。粗暴な字で書かれた報告書の中に、自分の書いた報告書も混ざっていて、なんだか懐かしい気持ちになる。頬を緩ませ、今よりずいぶん丁寧に書かれた文字をなぞった。初めて騎士団の制服に身を包んだ日、初めて先輩なしで見回りに出た日のこと、最初の大きな仕事のこと、全部、今でもよく覚えている。
「思い出に浸っているところ悪いが」
突然降ってきた声に、ニーナの息が一瞬止まった。
「話がある、ニーナ」
顔を上げなくても、自分の背後にいるのが誰かすぐに分かった。けれどそれを確認する度胸はない。報告書に視線を落としたまま、石のように固まった。
「た……隊長……」
「そうだ。とりあえず報告書を棚に戻してこっちを見ろ」
普段よりもきつい言葉尻に、否応なしに体が動いた。本を閉じて棚に戻し、体がのそのそと反転する。深呼吸を一つ。ゆっくりと見上げた顔は、なんだかずいぶん久しぶりに見た気がした。隙のない髪型も、その金色の美しさも、世界中の女を虜にできそうな顔もなにも変わってはいないのに。
「お、お久しぶり、です?」
「久しぶり? 昨日も一昨日も、その前も仕事だっただろ?」
「はは……そうですね」
ニーナは引きつった、乾いた笑い声を落とした。カイトの顔に浮かんだ笑顔が恐ろしい。間違いなく、怒っている。心当たりは、ありすぎるくらいある。
カイトの顔を見たまま、ニーナはじりじりと、蟹のように足を横に滑らせ扉へと向か、
「おい」
「ひっ」
えなかった。
顔の横に叩きつけるように置かれた腕に、逃げるという選択肢ははじけ消えた。
「仮にも“婚約者”に、ずいぶんな態度じゃないか」
「いや、隊長のこれだって、とても婚約者にするような態度じゃ……」
「何か言ったか?」
「いいえとくになにも」
にっこり。そんな効果音が付きそうな素晴らしい笑顔で、カイトは「そうだよな」と言った。カイトのこめかみに浮かんだ青筋を見れば、ニーナの答えはいつだってイエスオアイエスだ。
「――で」
始まりを告げるカイトの声に、ニーナはびくりと肩を跳ねさせた。
「ニーナ、説明してくれ」
棚についたカイトの指先が、いたずらに本の背表紙を叩き始めた。小さなその音は、心臓の音のさえ聞こえそうなほど静まり返った部屋の中で、やけに大きく聞こえる。
どこか既視感のある状況だ。ニーナはいつかの自分を思い出しつつ、カイトにすべき説明を頭の中で並べた。
なんか隊長の顔を見たくなくて、思いっきり避けてました。すみません。
隊長の顔を見たら体が勝手に逃げだしちゃって。どうしてでしょうね。
自分でもよく分からないんですけど、隊長の顔、見たくなかったんです。
火に油!
ニーナは頭の中に浮かんだ、失礼極まりない説明の数々を殴り飛ばした。というか、どれ一つまともな説明になっていない。これでカイトを納得させることなどできるわけがない。
答えを吐き出せない唇が、中途半端に開いては閉じるを繰り返していると、呆れたようなため息が落とされた。咄嗟に、「すみません、隊長」という、情けない声の謝罪が飛び出す。
「俺は謝れなんて言ってないだろ」
「は、はい。すみません」
もう一度、カイトのため息が聞こえて、ニーナはなんだか泣きたくなった。だって、本当に自分でも、説明なんかできない。本当は、こんなことしたくないのに。昔みたいに、普通でいたいのに。
「……別に、俺を避けてた理由を無理に聞こうとは思わない」
「……え?」
カイトはゆっくりニーナから体を離し、がしがしと頭を掻いた。
「ただ、お前にあんな風に避けられ続けるのは初めてだったから、てっきりなにか抱え込んでるんじゃないのかと思ったんだ」
「抱え込んでる?」
「いろいろあるだろ。提出期限を大幅に過ぎた報告書だとか、高価な備品を壊したことを黙ってるだとか……」
「こ、高価な備品は壊したことないじゃないですか!」
慌てて訂正を入れると、カイトの表情が楽し気に緩んだ。大きな手が伸びてきて、ニーナの頭にそっと置かれる。
「なにも困っていることがないならいい」
カイトのどこかほっとしたような穏やかな声で、ニーナはようやく気が付いた。
この人は、ただ、自分を心配してくれていたのだと。自分が、よく分からない理由で「隊長の顔が見れない!」だとかのたうち回っているのなんて知らないで、自分に言えないような何か困っていることがあるんじゃないのかと、ただただ心配してくれていたんだ。
「……すみません」
自然と零れた謝罪に、カイトは一瞬目を丸くした。が、すぐに悪戯っぽい笑みを浮かべ、犬でも可愛がるかのようにニーナの髪をかき乱した。
いつもだったら「やめてください」と言いたくなる場面だが、不思議とニーナの口は動かなかった。それどころか、この時間が、もっと続いてほしいと思う。なぜか胸の辺りがぽかぽかする。この手が、自分から離れないでいて欲しいと――
「俺はお前の上司だからな」
ばしゃり。頭から水を掛けられたかのように、ぽかぽかしていた胸の辺りが一気に冷えた。
「まったく……手のかかる可愛い部下ばっかりだな、本当に」
カイトの手が最後に頭を軽く叩いてから、離れた。ニーナの頭に残った熱は、心に引きずられるようにあっという間に冷めていく。
部下。そうだ、部下だから、私は隊長に心配してもらえるのだ。そんな当たり前のことを、なぜか今、思い出す。
ニーナはへらりと笑った。
「大丈夫です。提出期限の過ぎた報告書、今はありません」
「今ってなんだ、今って」
「今後も、努力します」
――あんたはディンスター隊長のことがどうしようもなく好きなのよ。まずは、それを受け入れなさい。
頭の中でジェナが言った。
そんなの、絶対に受け入れるわけにはいかない。私は隊長の部下で、隊長は私の上司だ。恋人だの婚約者だのは、上司である隊長が私を気遣って付き合ってくれている嘘。もうすぐある両親のパーティーに参加したら、それも終わる。全部、嘘をつく前に戻るのだ。
「……隊長」
「ん?」
ニーナはカイトの顔を見上げ、尋ねた。
「……私は、あなたのよき部下でしょうか」
予想外の質問だったのだろう。カイトは不思議そうに返した。
「なんだ、藪から棒に」
「なんか、気になったんです。ほら、さっきまで、ちょうど第3に来た頃の報告書を見てたので」
「ふぅん」
カイトはそう言って、自分の顎の辺りに触れた。「そうだな……」と思案する彼の顔を、ニーナはどこか祈るような気持ちで見つめた。
しばらくの沈黙の後、カイトの口から出た言葉は、ニーナが望んでいたものだった。
「……いい部下だ。心の底から、信頼している」
無理に言わせた気もするが、それでも嬉しい。ずっと、この人の役に立ちたいと思っていたから。“心の底から、信頼している”なんて、部下に対する最高の誉め言葉だ。それ以上望むことなんて、なにもない。
「……ありがとうございます」
だからニーナは、胸の奥にある、微かな痛みを見ないことにした。
隊長のことが好きだなんて、そんなの絶対にありえない。
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