さよなら、愛しき平穏な日々よ 1
海賊たちの後始末に、ニーナは参加しなかった。
足の怪我を考慮した結果だと言われたが、こんなものは怪我のうちには入らない。やる気満々だったのに、この決定はいささか不服である。
けれどまあ、第4隊が手に入れた情報を基に、第2第3が合同で行った作戦で、残党たちはきれいさっぱり刈り取られた。大きな被害が出る前に全てを終わらせることができたし、王都は再び平穏な日常を取り戻すことができた。嵐のようなアリシアも去り、すべてが丸く収まった。よかったよかった。めでたしめでたし。
――の、はずだった。
「……なにしてんだ」
「しっ……静かに」
隊舎の廊下。柱の影に身を寄せて、ニーナはじっと息を殺していた。偶然隣を通りかかったトナーが、不審者を見るような目でこちらを見下ろしているが、この際気にしないことにする。今は、それどころではないのだ。ヤツが、すぐそこまで来ている。
「ニーナァ!」
来た。
顔に似合わない雷のような叫び声と鬼のような足音に、自然に体が固まる。ニーナは呼吸を止め、気配を消した。私は石。無機物。と、心の中で唱える。
そんなニーナとカイトの姿を交互に見て、トナーは小さくため息をついた。
「隊長」
「トナーか、いいところに。あの馬鹿見なかったか」
「さっき、“悪魔が来る~”とか言って、資料室の方に走って行きましたけど」
「馬鹿め、隠れるつもりか!」
引きずり出してやるからな! と鼻息荒くカイトが去っていったのを確認して、ニーナはようやく息を吐いた。柱にすがりつきながら、よろよろと立ち上がる。
「あ、ありがとう。助かった……」
「別に」
「助かったけど、“悪魔が来る~”なんて私言ってなくない? 火に油注いでない? あとで見つかった時に死ぬパターンじゃない……?」
次に会った時のカイトの表情を想像してしまい、ニーナはぞっとした。自分を抱きしめつつ、肩を落として重たい息を吐く。まあ、とにかく、この瞬間は難を逃れることができた。
「で、理由は?」
「ん?」
「あんな風に追いかけられてたんだ。またなんかしたんだろ」
「失礼な。なにもしてないよ。というか……なにもしてないからこそというか……」
「は?」
ニーナはふわふわとした言葉を表すように、へらりと笑った。
「ちょっと、隊長を無視しちゃってる感じというか……」
「……はぁ?」
トナーの眉間に皺が寄ったのを見て、ニーナは慌てて両手を顔の前で振りながら訂正した。
「いや、別に無視しようと思って無視してるわけじゃなくて」
「じゃなくて?」
「なんか、隊長を見ると、逃げちゃうというか……」
トナーの眉間にはますます皺が寄った。何言ってるのかさっぱり分からん、と普段は乏しい表情も今ばかりは雄弁に語る。でも仕方がない。実際のところ、ニーナも、自分が何を言っているのか、はたまた何をしているのか、よく分かっていないのだ。
ただ、アリシアが去ったあの日から、カイトを見ると体が自然と逃げ出してしまう。
「……喧嘩?」
「まさか! 隊長と喧嘩なんて、そんな自殺行為しないよ」
ニーナは体をのけぞらせながら否定した。隊長と喧嘩なんて、世界が終わってもしない。想像もできない。第3隊の誰もが、隊長と喧嘩なんてしないだろう。というか、できない。
けれど否定すればするほど、トナーの表情は曇っていく。
「喧嘩もしないのか」
「え?」
「婚約者なのに、喧嘩もしないのか」
その言葉で、すっかり旅行に出ていた“設定”が慌てて脳内に戻ってきた。ニーナの首筋に、冷や汗が流れる。一隊員としては隊長と喧嘩をするところなんて想像もできないが、それが恋人同士になると不自然になってしまうらしい。
「あー……えっと……ほら、喧嘩しない、っていうか……仲良し、だから?」
「今、逃げてるのに?」
「う、うーん……」
まずい。とてもまずい。ニーナはイエスでもノーでもない、返事のような唸り声のようなものを出しつつ、視線を泳がせた。
そういえばつい先日、海賊の残党とやり合ったときに、トナーは「隊長と合ってないんじゃないか」とかなんとか言っていたような気がする。もしかすると、騎士団内で交際することに、あまりいい印象がないのかもしれない。挙句の果て、仕事中に“恋人同士の喧嘩”なんて公私混同甚だしいだろう。
今度は、先ほどとは違う意味で冷や汗が出た。
「……ごめん」
「は? なんの謝罪?」
「めちゃくちゃ反省した……」
「意味が分からないんだけど」
「……うん、もっと仕事に集中する!」
ニーナは勢いよく自分の両頬を叩いた。景気のよぎる音に、トナーはぎょっと目を見開いた。ニーナの頬は真っ赤だ。
「……本当にどうした」
「じゃ、私とりあえずこの前の海賊の件で第4隊のところに行ってくるから」
軽く手を上げ、ニーナは駆け出した。「人の話を聞けよ……」というトナーの呆れ声は、当然ニーナの耳には届いていない。
***
『ミリアルト』と書かれた看板をくぐると、広い店内にすでに客はいなかった。テーブルを拭いていた、エプロン姿の男性が、「すみません、今日はもう閉店で」と言いかけて、言葉をとめる。
「やあ、ニーナさん」
目尻を下げた穏やかな笑顔に、ニーナも笑みを返した。
「ロニーさん、どうも、こんばんは」
「こんばんは。ジェナから話は聞いてるよ。こちらへどうぞ」
「すみません、閉店後に」
「気にしないで」
ロニーはジェナの夫だ。『ミリアルト』は、二人が経営する、小さな酒場である。ニーナはロニーが引いた椅子に腰を下ろし、ピカピカに拭き上げられたテーブルに視線を落とした。ランプの光が滲むように反射している。「何か飲むかい?」という言葉に甘え、店で一番甘い酒を注文した。
店の奥へと戻っていったロニーの背を見送り、ニーナは小さく息をついた。なんとなく、ロニーさんと話すのは緊張する。友人の夫というのもあるし、ロニーさんが、今までの人生であまり接したことのないタイプの人間だというのもある。彼は、まさに、“普通の人”だ。見た目の通り穏やかな性格で、当然だが人生で一度も剣を持ったこともない。殴り合いの喧嘩は子供の頃に数回したきりで、そのすべてに負けたと、からから笑っていた。
ロニーを見る度、ニーナは“ジェナはなぜ彼に惹かれたのだろう”と不思議に思う。
「はぁい、お疲れ、ニーナ」
そんなことをぼんやり考えていると、目の前に鮮やかな朱色の酒が入ったグラスが置かれた。
「珍しいじゃない、あんたが相談なんて。しかも一人でうちの店に来るなんて」
髪をまとめ、質素なワンピースにエプロン姿のジェナは、何度見てもどこか不思議な感じがする。ニーナは困ったように微笑んで、「そうだね」と正面に腰を下ろしたジェナを見遣った。
「仕事終わりにごめん」
「いいのよ。今日は客が引けるの早かったし」
「そっか」
「ええ」
ぷつりと途切れた話題を繋ぐ方法を探しながら、無意味にグラスの縁を指でなぞる。昔何回かこの酒を飲んだことあるな、あのとき誰と飲んだんだっけと、相談とは関係のない話題が頭に浮かんでは、音にならないまま消えて行った。
相談がある、と、ジェナにもちかけたのは自分だ。休日を待てず、店の終わりにでも会いたいと言ったのも自分だ。けれど肝心な相談を、どう切り出していいのか分からない。
指先がグラスの縁を3周ほどしたところで、ジェナが小さくため息をついた。
「ディンスター隊長のことでしょ」
疑問ではなく、確認だった。ニーナはゆるゆると顔を上げた。
「さすが、元第4隊所属」
「馬鹿。こんなの第4がどうとか関係ないわよ。いつもくっついてるトナーとディオを連れず、わざわざ私のところに来るなんて、それ以外ないでしょ」
「そういうもの?」
「そういうもの」
呆れたようにそう言って、自分と同じ色の酒が入ったグラスに口を付けたジェナにつられるように、ニーナも一口それを飲んだ。リクエストの通り甘い液体が、喉を流れていく。ほとんど空っぽの胃がじんわりと暖かくなった。
「で、どうしたの?」
「……うーん」
ニーナはグラスをゆっくりと置き、揺れる水面をぼんやり見たまま続けた。
「なんか、最近、隊長の顔、上手く見れないっていうか」
「なんで? 喧嘩でもしたの?」
「いや、喧嘩はしてない。それで無視してるみたいになっちゃってるっていうか……」
「喧嘩もしてないのに無視って……なにかきっかけがあったでしょ。なんか思い当たるようなことはないの?」
きっかけ。そう言われて思い当たるのは、一つしかない。
ニーナはグラスを持ち上げ、先ほどまでよりもワントーン低い声でぼそぼそと言った。
「……隊長の昔の話を聞いたら、なんか、どういう顔で会っていいのか分からなくなっちゃって」
「……昔の話?」
ジェナは一瞬眉を寄せたが、すぐに「ああ」と頬杖をついた。
「元カノの話ね」
ニーナは飲みかけていた酒を盛大に噴き出した。「うわ、掃除したばっかりなのに!」と声を荒げ、慌てて机を拭くジェナを、幽霊でも見るような目で見る。顎先からぽたぽたと水滴が零れるのも、上着が汚れるのも気にせず、「なん」「どうして」「え?」と言葉にならない疑問をぽろぽろと落とした。
「それくらい、普通に予想つくわよ。恋愛ド初心者のあんたと一緒にしないで」
「恋愛レベルが上がると、そんなことが予想できるようになるの……?」
「そうよ」
「こわ」
差し出されたタオルで口元を拭いた。拭いた後、これ机拭いてたやつじゃん、と気が付いた。
「で、元カノの話を聞いて、なに? 自分と比べちゃって自信がなくなった?」
「いや……そういうわけじゃ、ないと思うんだけど……っていうか、自分でも理由はよく、分からなくて」
「ふぅん?」
「でも……なんか、そのこと考えると……隊長の顔どうやって見ていいのか、分からなくて」
「ほー?」
「胸が、痛くて……」
「へぇー?」
「……なんか、楽しんでない?」
「まさか、そんな、友人の一大事に」
とは口で言いつつも、心がこもっていない。ジェナの目は楽し気に細められている。ニーナの口がへの字に曲がった。
「楽しんでないってば」
「……本当?」
「ほんと、ほんと。で? ニーナはどうしたいの?」
軽くあしらわれたような気もするが、一旦それは置いておくことにした。ジェナの問いに、ニーナは間髪入れずに答えた。
「仕事に支障が出ないようにしたい」
「…………はい?」
ニーナはこの世の終わりのような顔で続けた。
「隊長とちゃんと話せないと仕事に支障が出るから、今まで通り、普通に話せるようになりたい。今日はジェナにその相談をしたく、」
「ちょ、ちょっと待って」
ジェナはニーナの言葉を遮って、こめかみを抑えた。
「“仕事に支障が出ないようにしたい”?」
「うん」
「……そこはさ、普通は恋人として普通に話せるようになりたい、とか、どうやったらこの嫉妬心を受け入れられるか、とかじゃなくて?」
「ん? ちょ、ちょっと待って」
今度はニーナがジェナの言葉を遮る番だった。けれど致し方ない。どうしても、引っかかる言葉があった。
「し、嫉妬……?」
「それがなに?」
「……誰が、誰に?」
「あんたが、隊長の元カノに」
「な、なんで?」
「なんでって、あんたが隊長の恋人だからでしょーが!」
びし、と音が聞こえそうな勢いで、ニーナは固まった。
おーい。大丈夫? 生きてる? と、目の前でジェナの手が振られるが、大丈夫ではなかった。突然、丸裸で海の真ん中に放り出されたような気分だった。
――嫉妬。
その感情は、よく知っている。見習いのとき、そういう気持ちになったことがあった。例えば自分よりも短い時間の訓練でみるみる剣が上達していく人を見た時だとか、男であるトナーとディオのように剣を振るいたいと思った時だとか。
煮えた鉄が腹の底でうごめくようにどす黒くて重い、幼稚な感情。それが、嫉妬だ。
「……チガウ……」
ニーナは壊れた機械のように、口を動かした。
「……大丈夫?」
「……チガウ」
「ちょ、ちょっとニーナ」
「違うよ、ジェナ。これは嫉妬なんかじゃない」
ニーナは勢いよく立ち上がり、ジェナの両肩をつかんだ。
「嫉妬なんかじゃない。だって私、胸が痛いんだよ。苦しくて、なんか悲しいんだよ。別に、隊長の元カノになりたいなんて、思わないし」
だから、これは嫉妬なんかじゃない。
まるで自分に言い聞かせるように何度もそう言って、ニーナは最後に一度、力強く頷いた。
「……馬鹿」
呆気に取られていたジェナは、必死の形相のニーナを見てぽつりとこぼした。
「……え?」
「あんた、本物の馬鹿ね。じゃあ、どうして胸が痛むの?」
「それは……」
「それは?」
「っだから、それが分からないんだってば」
「あーあ、本当に、恋愛してこなかったのが、よぉく分かるわ」
ため息混じりにそう言って、ジェナは自分の肩に置かれたニーナの手を剥がした。ニーナの目はまるで迷子の子供のようだ。すがるようにこっちを見て、正しい道を教えてくれと懇願している。
「いいわ。教えてあげる、ニーナ」
うっそりとほほ笑んだジェナは、小さな子供に言葉を教える教師のように、穏やかに言った。
「誰かをうらやましいと思うことだけが嫉妬じゃないのよ。好きな相手のすべてを独占できないと気が付いたとき、胸を締め付けるのも嫉妬。あんたがどう思ってるかは知らないけど、恋は綺麗な砂糖菓子なんかじゃないの。恋はいつだってあなたを世界で一番幸福な人間にしてくれるけれど、同時に、どうしようもなくあなたを苦しめる」
言葉を理解する速度で、ニーナの目に浮かんだのは、絶望にも似た色だった。
「いい、ニーナ。あんたはディンスター隊長に“心を奪われた”のよ。そうなったらもう、自分の意思でどうこうできるものじゃない」
いやだ。ニーナの唇が、音もなく否定の形を作った。
むりよ。ジェナは瞼を閉じて、一度首を横に振った。
「もう昔には戻れない。平穏で満たされた日々も、心も、もうどこにもないの。あんたはディンスター隊長のことが、どうしようもなく好きなのよ。まずは、それを受け入れなさい。全ては、それからよ」
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