昔の話 1
焦燥が身を焦がす。
『昔の話 1』
目を開けると、突き抜けるような青空が広がっていた。
一歩遅れてやってきた痛みとで、『ああ、また負けたのか』とぼんやり思う。その証拠に、「大丈夫か」と声が降って来て、視界に一人の男が入ってきた。
カイト・ディンスター。呼吸どころか、撫で付けた金髪の一本さえも乱してはいない自分の上司を、地面に仰向けになったまま見上げ小さく息を吐く。ニーナはこの男に、一度たりとも訓練で勝ったことがなかった。それどころか、まともにやり合えた試しさえない。
「……大丈夫です」
「そうか。前よりは悪くなかった。が、やはりお前は攻撃を受け流された後の体の引きが遅い。気を付けろ」
「はい」
伸ばされた手を掴んで、ニーナは立ち上がった。
もろに喰らった蹴りで痛む脇腹を抑えつつ、ディオとトナーの隣に倒れるように座り込む。ディオに「お疲れ」と、慰めるように背中を叩かれ顔を上げると、すでにカイトの前には次の隊員が剣を抜いて立っていた。間髪入れずに始まった訓練を目で追いながら、自分に足りないものを盗むために神経をとがらせる。
騎士団に正式に入隊して約半年。隊員達は、目前にせまった“剣技会”に向けた訓練の真っ最中だった。年に一度開かれる剣技会は、その名の通り、騎士団の隊員達がそれぞれの剣の力を、王家の人間や市民たちの前で披露するイベントだ。参加者は全国の若手隊員達で、試合はトーナメント形式で行われる。優勝者は名誉を手に入れることができ、また、今後出世を狙う者達にとっても重要な大会だ。
が、正直なところ、ニーナはあまり名誉や出世に興味はない。けれど、負けられない理由はあった。
「……マリド・ゼン」
ニーナは訓練に視線を向けたまま、一回戦で当たる男の名前を、忌々し気に呼んだ。
マリド・ゼン。見習い時代から、嫌な男だった。
「……おい」
「ん、何?」
剣がぶつかり合う音の隙間から聞こえたトナーの声に、ニーナは声だけを返した。
「……お前、あんまり気負うなよ」
「気負ってなんかないけど」
「マリドがムカつくのは分かるけど、剣技会までに怪我したら意味ないだろ。最近、ちょっとやりすぎだ」
「負けたら、もっと、意味ない」
そう言うと、トナーは呆れたように息を吐いて、それ以上何も言わなかった。
マリド・ゼンはニーナの同期のうちの一人だ。
地方の貴族の三男坊で、「名誉と地位が欲しい」と言って騎士団の見習いになった男。騎士団の見習いにはそんな人間はごろごろいるが、大抵は、厳しい訓練についていけず故郷へ帰っていく。マリドがそんな彼らと違ったのは、名誉と地位に恐ろしいまでの執着を持っていたことだ。その執着によってマリドの剣は磨かれ、彼を騎士団の隊員へと上り詰めさせた。
しかし同時に、その執着は、マリドに「騎士団に入隊するためならばどんな手だって使うさ」とも言わしめた。
言葉の通り、マリドは自分のライバルになりそうな見習い達を、様々な手を使って脱落させたのだ。もちろん、ニーナも例外ではない。女のニーナが自分と対等に争う相手だというのは、彼のプライドをひどく刺激したようで、マリドはニーナを脱落させようとありとあらゆる手を使った。
下品な悪口は日常茶飯事。道具に小細工をされるのは当たり前。訓練の前日に、食べ物に薬を混ぜられたこともあった。あの時は流石に怒鳴り込んだが、いかんせん証拠がなかった。マリドは狡猾だ。ニーナは結局、最後まで訓練では負け越したままだった。
だから、今回は負けるわけにはいかない。気負うなという方が無理だ。今回の負けは、すなわち第3隊の敗北でもあるのだから。
マリドを完膚なきまでに叩きのめし、自分や第3の力を見せつけなければいけない。そのために、どんな努力だって惜しんではならない。
ニーナは来る日も来る日も、訓練に明け暮れた。
もちろん、新人隊員としての日々の業務だって怠らない。珍しい女性隊員ということで、街の人々の中にはまだ自分を信頼してくれていない人もいる。騎士団の中でも、まだ自分の立ち位置を確保できていない。ここが頑張り時だ。できること一つ一つ、全力で取り組んだ。
そんな合間を縫っての訓練は、正直楽なものではなかった。「やりすぎじゃないか?」とディオやトナーには止められたが、少し大変なくらいの方が、安心感があった。これだけやっているのだから、大丈夫だと。
けれど結果は、なかなかついてこない。
「っう、げほっ……うぐぅ……」
地面に這いつくばり、ニーナは歯を食いしばった。隙間から情けないうめき声が漏れる。
みぞおちに入った拳は容赦がなく、せり上がる吐き気をいなすことで精一杯だ。流石に、隊長の前で吐くわけにはいかない。今日の訓練も、負けだった。
「すまない、大丈夫か?」
「だ、だいじょ、ぶ、です。避け、損ねました……す、すみません」
「おい、誰か、ニーナを医務室へ」
「い、いえ、大丈夫ですから」
ニーナは落ちた剣を拾い上げ、それを支えに再び立ち上がった。
腹部はまだ痛んだが、それよりも胸の辺りで暴れまわる感情の方が強い。ざらついた目で、再びカイトを見る。
「隊長、もう一度、お願いします」
「馬鹿か。もう無理だ」
「いいえ、もう一度……もう一度できます」
「……お前、自分の状況が判断できないのか?」
カイトは、どこかあざ笑うように言った。
その笑い方が、下品な悪口を吐き出すときのマリドと重なって、胸の中にどす黒いものが溜まっていく。
「……できます」
「無理だ」
「できます。大丈夫です」
「無理だと言っている」
「……私が、女だからですか」
その言葉で、周囲の空気が凍った。
「……あ?」
のちに、訓練を見守っていた第3隊の隊員は言った。
あの時の隊長は、完全に悪魔だった。俺はあの声と顔で凄まれたら、正直ちびる。と。
「隊長も、私が女だからって舐めてるんでしょう?」
「お、おい、ニーナいいかげんに……」
ディオの制止の声を振り切るように、ニーナは言葉を続けた。
「私はまだ、できます」
ぶつ。と、何かが切れた音が聞こえた気がした。けれど構わなかった。ニーナは剣を構え、迷いなく切っ先をカイトに向けた。
カイトは小さく息を吐き、一度は戻した剣を、再び抜いた。
「……後悔しろ、ニーナ」
そう言って笑ったのが、ニーナが覚えているカイトの最後の姿だった。
***
気が付いたら、医務室のベッドの上に横たわっていた。
起き上がろうと体に力を入れると、想像を絶する痛みで声にならない悲鳴が出た。体を丸め、ベッドの上でのたうちまわる。
半分閉められたカーテンの向こうから、女医の「お、起きた? でもまだしばらく起きないほうがいいから寝てなさいー」という気の抜けた声が飛んできて、大人しく従った。
背中をベッドに沈め深呼吸を一つ。また負けたのか、とニーナは思った。今回は、もはやどう負けたのかも覚えていない。
「……情けない」
目元を腕で覆って、ため息と一緒に吐き出す。
カーテンの向こうで、小さな物音がする。備品の整理でもしているのだろうか。次第に意識がまどろみ始め、現実と意識の境目が曖昧になっていく。
『女のくせに、出しゃばってくるんじゃねぇよ』
マリドとの試合が決まったあと、何度もこの言葉を思い出す。
胸の辺りがきりきりと締め付けられるように痛い。慌てて自分を飲み込みそうな負の感情から目を逸らす。一度直視してしまったら、飲み込まれてしまう。
「せんせー。ニーナ、どう?」
無遠慮なノックと共に、ディオの声が部屋に響いた。「奥のベッドにいるよ」との返事をもらうと、足音が二つ部屋の中へ入ってくる。ディオとトナーだろう。ニーナは震える息を吐いて、固く目を閉じた。
「おい、ニーナ大丈」
「待って」
カーテンが揺れたのと、制止の声を上げたのはほとんど同時だった。
「ごめん、開けないで」
「……どうした? 具合、悪いのか」
ディオの声は、心からの心配を含んだものだった。そうでない、と言いかけたが、ニーナは結局なにも言えなかった。声を出したら、泣いてしまいそうだったから。
手がかかったカーテンが、互いの不安さを表わすように揺れる。
しばらくの沈黙の後、声を出したのはトナーだった。
「……無理するなよ」
「……ん」
鼻を鳴らしたような情けない返事を聞いてか聞かずか、二人はそれ以上なにも言わずに医務室を出て行った。ほっとしたのは束の間。すぐに、罪悪感と情けなさが津波のように襲ってくる。
ニーナはシーツに丸まって、歯を食いしばった。
“ほんとうは、負けるのがこわい”
なんて、ディオにもトナーにも言えない。こんなふうに情けない姿、絶対に、誰にも見られたくなかった。
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