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嵐のあと



 清々しい朝だった。

 いろいろあってベッドに入ったのはずいぶん遅く、倦怠感で体は重いが、それでも澄み渡った空を見ると、今日はいいことがあるかもしれないと思えるくらいには、清々しい朝だった。足の傷や腕の傷が若干痛んだが、予想していたよりはずいぶんましだ。体を一度大きく伸ばしてから、ニーナはいつも通り顔を洗って髪を整え、隊舎へ向かった。


 街は何事もなかったように平穏の中だ。昨晩の戦闘のことなど誰も知らない。誰も知らないままに終えられて、本当によかったと思う。

 取り調べの結果、やはり彼らは例の海賊と関係があった。残党たちは王都に入ったのち、いくつか拠点を作っていたらしく、昨晩の場所はそのうちの一つだったようだ。今日明日にでも、残りの片付けが始まるだろう。その作戦に参加するかしないかは、上が決めることだけれど、ある程度の心づもりはしておいた方がいいかもしれない。

 そんなことをぼんやり考えながら歩いてると、隊舎の正門に見慣れた姿を見つけ、ニーナは大きく手を振った。


「ルーエン様!」


 振り返ったアリシアはあの日と同じように、行く手を塞ぐように仁王立ちをしてこちらを見上げた。その横では従者のトトが深々と頭を下げている。


「おはようございます。ご無事でなによりでした」


 駆け寄り、ニーナはアリシアを見た。無事だとは聞いていたが、昨晩は顔を見ることができなかったので、こうして実際に顔を見ることができてほっとした。どこにも怪我は無さそうだし、顔色も悪くない。


「……もう傷はいいんですの?」


 アリシアは無表情でこちらを見上げたまま、どこか拗ねたように言った。

 つんけんした態度も変わらないままで、ニーナはなんだか嬉しくなった。「はい。おかげさまで」と返す表情が緩む。


「なにへらへらしてるんですの」

「すみません、つい」

「……ふんっ! ゴキブリのような生命力だこと!」

「ごっ……!?」


 なかなかのパンチ力を持った言葉が飛んできて一瞬たじろいだが、慌ててアリシアが「いいえ、ごめんなさい。こんなことを言いたいわけではないのよ」と謝ったので、ニーナはさらにたじろいだ。


「な、ど、どうなさったんです……? やっぱり昨日どこか怪我でもされたんじゃ……」

「失礼ね。私はただ……その……あの……」

「はい」

「……わ、悪かったわ」

「…………え?」

「だから、悪かったと言っているのよ!」


 アリシアの顔は真っ赤だった。


「いろいろあなたに意地悪なこともしたし、迷惑もかけて、怪我をさせてしまって、悪かったわ」


 感動にも似た驚きで、「あ、はい」と間抜けな声が口からニーナの口から出た。

 アリシアはそれがたいそう気に入らなかったようで、美しい顔が一瞬で歪む。


「なによ! わたくしが謝っているのに、なにその間の抜けた反応は!」

「す、すみません」

「っ、もう! こんな話がしたいわけじゃないのよ!」


 アリシアは地団駄を踏み、こちらを指さした。その覚悟に満ちた顔を見て、ニーナはごくりと唾を飲む。


「泥棒猫、ちょっと付き合いなさい」




 隊舎の中庭に設けられた花壇といくつかのベンチは、むさくるしい騎士団隊舎における、憩いの場であった。天気のいい日は休憩がてら誰かかしらがいるものだが、今日に限って誰もいない。誰もいないのがいいことなのか悪いことなのか、ニーナには判別しかねるが、少なくともこの重苦しい空気の中に飛び込んでくる人間はいないだろうな、と思う。

 隣に腰かけるアリシアは、難しい表情で花壇を見たまま、先ほどから何も言わない。ニーナは助けを求めるように少し離れた場所に立つトトを見たが、軽く頭を下げられてしまう。もう少し付き合って欲しいということらしい。

 とはいえ、一応仕事中の身だ。このまま二人、無言で花を見続けるわけにもいかない。


「……あの」

「わたくし、」


 声を出したのはほとんど同時だった。ニーナは慌てて口を閉じ、アリシアに言葉の続きを促した。


「わたくし、カイト様の言う通り、本当に婚約者なんかじゃないのよ」


 多分、そう聞いていると思うけれど。と付け加えられ、ニーナは控えめに頷いた。


「はい。そんな話は……聞いてます」

「まあ、そうなるかもしれないと、どこかで思っていたことは事実だけれど、別に心からなりたいと思っていたわけじゃないわ。でも……」


 アリシアは、一旦そこで言葉を切った。そして、自嘲をするような薄笑いを浮かべる。


「でも、風の噂で“カイト様に恋人ができた”って聞いたら、いてもたってもいられなくなってしまったの」

「……隊長が、好きだから、ですか?」

「いいえ」


 ニーナの控えめな問いかけに、アリシアははっきりと首を横に振った。その言葉には、わずかな迷いも嘘も、含まれてはいないように思える。


「わたくし、カイト様に恋愛感情はありません。カイト様はどちらかというと、兄のような存在です」

「じゃあなんで……」


 ゆったりとした瞬きの後、美しい瞳が王都の空を、正確にはもっと遠くを見上げた。


「多分、許せなかったんです」

「……なにを?」

「お姉様を裏切ったようで」


 お姉様。

 その言葉に、ニーナは一瞬呼吸を忘れた。

 アリシアは一度ニーナを見遣ってから、再び言葉を続けた。


「……カイト様は、わたくしのお姉様の、婚約者だったんです」

「……だった?」

「ええ。お姉様はもういません。12年前に病気で亡くなりました」


 今まで、小さな違和感はいくつもあった。


 『仕事のこと以外は考えたくない』と言った迷子のような顔。

 アリシアの『普通に考えたら次は私が婚約者でしょう』という言葉。

 『アリシア様まで失うわけにはいかない』というトトの混乱した声。


 宙に浮いていた点と点が繋がって、ニーナの心にカイトの過去の婚約者が、すとんと落ちてきた。


「お姉様が亡くなった時、カイト様がひどく落ち込んでいたのをよく覚えています。あまりの落ち込みように、カイト様がお姉様のあとを追ってしまうんじゃないかと、みんな心配していました」


 アリシアは視線を落とし、伸ばした足の靴先を見つめた。品の好い靴に着いた小さなガラスの細工が、太陽の光を受けて輝く。


「だから、恋人ができたと聞いた時、悲しくて腹立たしかったけれど、ちょっと安心しました。ああ、あの人は自分の心を預けることができる人と、再び出会えたんだと」


 小さな笑みが、アリシアの口の端に浮かんだ。けれどやはりその横顔は、どこか寂しそうに見える。


「でも、その“噂の恋人”が騎士団の隊員だと聞いて、カイト様が信じられませんでした。騎士団の隊員というのは素晴らしい仕事です。でも、命の危険が付きまとうでしょう? もし、また、恋人を失くしてしまったら、次は耐えられないと思ったの」

「……だから」

「そう、だから、あなたはカイト様の恋人にふさわしくないと思った」


 心地よい風を受け、花壇の花が揺れた。ニーナはぼんやりとそれを見つめた。

 いろいろなことが頭に浮かんだが、浮かんだだけだった。何一つ、考えることができず、次第に透明になって消えて行く。


「でも」


 アリシアが立ち上がった。


「でも、もういいわ」


 その声は、どこか晴れ晴れとしていた。

 後ろで手を組み、踊るように歩く姿が、後ろの花壇でしなやかに揺れる花の姿と重なった。


「……なぜですか?」

「そんなこと、言いたくありませんわ」


 振り返ったアリシアは、いたずらっ子のように小さく舌を出した。


「あなたは危ない仕事をしていて、ガサツで、顔だって普通だし、家柄だって到底ディンスター家に釣り合うものではないけれど――カイト様を、よろしくね」


 アリシアは、花壇で太陽の光を受け美しく開いた花のように笑った。






 予定していた時間よりもずいぶん早く、アリシアの迎えはやってきた。

 馬車の中から飛び降りてきた初老のメイドが、わんわんと泣きながらアリシアを抱きしめ、トトを怒り、そして見送りに出たカイトとニーナに丁寧な謝罪をした。


「カイト様、多大なるご迷惑をおかけし、本当に申し訳ありませんでした」

「構わない。久しぶりににぎやかな日々で、楽しかったさ」


 メイドはその言葉で、再び溢れかかった涙を隠すように、深く頭を下げた。


「カイト様、では、失礼しますわ」

「アリシア、あまりトトに迷惑をかけるなよ」

「善処しますわ」


 多分、トトの苦労はこれからも続くだろうと、ニーナは思った。

 アリシアは最初にここにやって来た時のようにカイトに抱きつき、カイトはその体を抱きしめ返した。


「元気でな」

「カイト様も、フォントニアにお戻りの際はルーエン家にも顔を出してくださいな。まあ、泥棒猫も、歓迎してあげないことはないわ」

「……楽しみにしています」


 アリシアを乗せた馬車は、嵐のようにやってきた彼女とは違い、静かに、そしてゆっくりと道の向こうに消えて行った。

 息をつくと、そこにはもう、いつもの王都の姿が広がっている。


「……悪かったな」

「……いいえ……」


 カイトは大きく体を伸ばし、ニーナを見下ろした。


「……怪我は、もういいのか」

「はい。おかげさまで」

「お前には迷惑をかけた。また改めて、礼をさせて欲しいんだが」

「気にしないでください」


 そう言って、ニーナはいつも通り笑顔を作った。つもりだった。笑顔を浮かべたはずの顔はこわばり、そもそもどうやって笑顔を作っていたのか思い出せない。つい、乾いた笑いが漏れて、見下ろすカイトの視線が不審がるようなものに変わる。


「どうした?」

「……なんでもありません」

「なんでもないって顔じゃないだろう」

「本当になんでもありませんから」

「怪我が痛むなら今日は無理しなくても」

「っなんでもないって言ってるじゃないですか!」


 馬鹿か。ニーナは思った。こんな風に声を荒げて、なにが“なんでもない”だ。

 自分で馬鹿だと理解できているのに、止められない。「どうしたんだ?」と心配そうに伸びてきた手を振り払って、「なんでもありませんから」と繰り返す自分が、ひどく滑稽だ。カイトの驚いた顔を見ると、ますます自分が馬鹿みたいに思えた。

 これ以上カイトと向き合っていられなくて、ニーナは振り返った。


「すみません。仕事に、戻ります」


 制止の声から逃げるように、ニーナは走った。背後で戸惑ったようなカイトの声が上がったが、足を止めることはできなかった。


 自分が分からない。どうしてこんなに、胸が痛むのだろう。



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