あらし 6
「た、助けてください!」
「……きみは……」
トナーは振り返り、自分の腕にしがみつく少女を見た。
陽気な音楽に彩られた夜に相応しくない少女の姿に、隣に立つディオを見る。ディオもいぶかしげに首をかしげた。
「ルーエン様」
視線を合わせて名前を呼ぶと、つい先日“温室の花のよう”と同僚が言った可憐な少女の目から大粒の涙が零れ落ちた。髪を乱し小刻みに震える姿は、どう見ても普通の状態ではない。できるだけ優しく「どうなさいましたか」と尋ねてはみたが、彼女の口から落ちる音は意味をなさない。
トナーは困り果て、ディオに視線で助けを求めた。
「……とりあえず、隊舎に連れて行こうか」
「だ、だめっ」
ディオの言葉に、アリシアが叫ぶように言った。
「だめ、だめです。まだ、あの人が、助けて、し、死んでしまうかもしれません!」
3人の周りだけ、空気が変わった。足元に不穏さが漂い始める。
「……ルーエン様、大丈夫、落ち着いてください」
「わ、私が……ど、どうしましょう……わたくしのせいで……カイト様の……」
「ルーエン様」
トナーはアリシアの肩を支え、穏やかにほほ笑んだ。
「ゆっくりで大丈夫です。ここは安全です。さあ、深呼吸をして。そう、上手です。まず何があったか教えてください」
「……わたくし、逃げて来たんです」
トナーは表情を崩さず、「お怪我はありませんか?」と続けた。
「わ、私は大丈夫です。でも、彼女はきっと怪我を……」
「彼女とは?」
「あの方です。ニーナさんが……」
「「ニーナ?」」
声が重なった。
先ほどまで感じていた酔いはとっくに冷め、作った笑顔が崩れる。
「わたくし、男性に連れられて変なところへ行ってしまって、そこへ、ニーナさんが助けにきて、それで、私だけこっちに、ど、どうしたら……」
落ち着きかかっていたアリシアは、再び顔を覆って涙を流した。わあわあと声を上げて泣く少女に、好奇の視線が寄せられる。
ディオはアリシアを隠すように、その体を抱きしめた。
「無礼をお許しください、ルーエン様。ご無事でなによりです。ここからは俺、ディオ・グランツが、あなたを騎士団隊舎までお送りいたします。隊舎で温かい飲み物をご用意いたしますよ」
「で、ですが」
「ニーナは彼が」
ディオは人懐っこい笑みを浮かべ、トナーを指さした。
「おまかせを」そう言い残し、トナーは駆け出した。
トナーは夜の街を走った。
アリシアの記憶は、定かではなかった。が、断片的なものだけでも、おおよその場所は特定できる。だてに毎日見回りに出ているわけではない。後は時間との勝負だ。目星を付けた通りの怪しい場所をしらみつぶしに確認していく。
ニーナのことは信用している。例え相手が多かろうが、丸腰だろうが、負けることは有り得ない。そんなやわな人間ではない。そうは思っているが、焦る。開けたドアの向こうになにもなかったり、覗いた路地にあるのが静寂だけだと、足元から不安が沸き上がった。いつだって、万が一のことは想定している。
丁度角を曲がった時、数軒先のドアが破られて、中から人が飛び出してきた。
「ニーナ!」
目的地を見つけ、トナーは駆け出した。飛び出してきたのは男だ。品のいい商人のように見えるが、このあたりでは見ない顔だ。その男を横目に、薄く光が漏れる建物の中をのぞいた。
「おい、ニーナ!」
室内はひどいありさまだった。一度天地をひっくり返したのかと思うほどだ。かつての名残なのか、残されていたテーブルや椅子は倒れ、木箱がいくつも倒れ、割れている。カウンターの上に雑に置かれた壊れかかったランプが、床に散らばった窓ガラスの破片をゆらゆらと照らしていた。
そんな世界の真ん中に、トナーは目的の人物を見つけた。
闇に溶けそうな色のワンピースを着たニーナは、地面に転がしたガタイのいい男を足蹴にしつつ、ロープで縛りあげている最中だった。
「あ、トナー」
隊舎で偶然すれ違った時と変わらないトーンで掛けられた声に、トナーは全身から力が抜けていくのを感じた。
「丁度いいところに。さっき外に蹴飛ばした男、縛ってくれないかな? 多分、こいつらこの前第2が取り逃したの海賊の残党か関係者だと思う。証拠品は中のそこら辺に散らばってる木箱の中に」
「……」
「足元、気を付けてね」
トナーは投げられたロープを受け取り、外で伸びている男の首根っこを掴んで、建物の中に引きずり込んだ。そして言われたままにロープをかける。
縛った男は、他の3人同様に部屋の隅へ投げ捨てた。対角線上の角には、男たちのものであろう武器が寄せられている。
全てが、終わった後だった。
「……遅くなって悪かったな」
「ん? 余裕だよ」
足蹴にしていた男を、残りの4人の元に転がし、ニーナは笑った。
その顔があまりに能天気で、トナーは思わず顔を抑えた。
「え、どうしたの?」
「いや……どうしたの、じゃない」
「どっか痛い?」
「こっちのセリフだ」
げんなりしつつ、トナーは指の隙間からニーナを見た。
けろりとしてはいるが、頬には赤い線が走っているし、口の端は切れて血が出た跡がある。体も同様だ。スカートの裾はずたずたで、全身ほこりやら血で汚れてしまっている。闇にぼんやりと浮かぶ白い足についた細かな傷が痛々しい。
「……靴は?」
「動きにくかったから、脱いだ」
言葉の通り、この場に似つかわしくないハイヒールの靴が転がっていた。
トナーは自分の上着をニーナにかけ、もう一度「遅れて悪かった」と言った。ニーナは口の端を吊り上げ、「ありがとね」と勝気にほほ笑んだ。
「でも、トナーが来てくれたってことは、ルーエン様は無事に逃げたってことだよね? 彼女怪我は?」
「見た限りはない。とりあえずディオが隊舎に連れて行った」
「そっか、よかった」
ニーナは、とても「よかった」と言えるような姿ではなかったが、心の底から安堵したように眉尻を下げたので、トナーは何も言えなかった。
建物の外は、先ほどまでの喧騒を思い出せなくなりそうなほど静かだった。
簡単な手当てを済ませ、ニーナは店先に置かれた古い酒樽の上に腰かけた。その横に、建物内部の確認を終えたトナーがやってきて、壁に寄りかかるようにして立った。
月の光が降り注ぎ、穏やかな静寂が満ちる。見上げた空には、月がぽっかりと浮かんでいた。
「……デートか」
「ん?」
「めずらしい服着てる」
トナーは周囲に気を配りながら言った。
「ああ、うん、まあね。ちょっと夕食に」
「ずいぶんな夕食だったんだな」
「……まあ、いろいろあって、こんなことに」
ニーナは苦い笑みを浮かべた。「ふうん」とトナーは興味なさそうに返し、小さく続けた。
「……合ってないんじゃないのか」
「なにが?」
「隊長と」
その言葉に、ニーナは目を丸くした。
見上げた先のトナーと視線がぶつかる。いつも表情のない彼の顔は、珍しく歪んでいた。
「……どうしたの?」
「別に……ただそう思うだけだ」
「……うーん……まあ、つり合ってはない、よね」
「そういうことじゃない」
トナーは強く言い切った。苛立ちを隠し切れないその言葉は本人も不本意だったようで、「悪い」と小さな謝罪が続く。
「でも、本当にそういう意味じゃない。俺はお前が隊長とつり合いがとれないなんて思っていない」
「そ、それは、どうも……」
今日のトナーはよくしゃべるな、とニーナ思った。表情も、いつもに比べて随分豊かだ。ディオと一緒だったということは、多分今日も二人で飲みに行っていたんだろう。よっぽど酒を飲んだんだろうかと、少し不安になった。けれど、頬は別に赤くない。
トナーは空を見上げ、月を見た。
深い呼吸を一つ。瞬きの後、濡れたような美しい瞳が月光に輝いた。
「月、綺麗だな」
「……やっぱり酔ってる?」
「酔ってない」
「普段そんなこと言わないじゃん。覚えてる? 昔、私が月が綺麗だって言ったら、“どうでもいい”って言ってたんだよ」
「大昔の話だろ」
「そうだけど……」
「今は、違う」
「そりゃあ、そう、だけど……」
ニーナはじっとトナーの横顔を見た。夜に染まったような紺色の長い髪が揺れる。ふと、髪が一房、束からはぐれてしまっているのに気が付いた。
「トナー」
ニーナは小さく笑って、それに手を伸ばした。
「髪、ちゃんとしばれてないよ。ほら、これ」
髪に指先が触れた瞬間、その手が取られた。冷たいトナーの手が、今日は熱い。
自分を見下ろす顔は、呼吸を忘れてしまったかのように苦し気だ。
「……トナー?」
「……ニーナ」
顔が近づいた。夜色の髪の束が揺れる。ほんのりと、あの強い酒の香りが香った。
その時だった。
「ニーナァ! トナー!」
ディオの絶叫が路地に木霊した。
声の方を向くと、飼い主を見つけた大型犬が、しっぽを振りながらこちらに飛び込んできた。ディオの腕が体の細かなに傷に触れ、ニーナは思わず「うぐっ」と呻いた。
「無事でよかったぁ~!」
「今のディオので無事じゃなくなった。いてて……」
「あ、わり。ほっとしてさ~」
ばしばしと背中を叩くディオに殺意を抱きつつも、ニーナもほっとした。見れば、カイトをはじめとした見慣れた隊員たちが数人、こちらに駆け寄ってくる。その姿を見ると、全身の力が抜け、今更ながらに足の痛みが気になり始めた。
「ディオ、ルーエン様は?」
「安心しろ。医務室に預けてきた。今は寝てるよ」
「よかった……ああ、安心したら、なんかめちゃくちゃ眠くなってきた……」
「おう。寝ろ寝ろ~。背負ってってやるよ。トナーが」
「そこは俺が運んでやるって言ってよ」
「トナーほど力持ちじゃないからな~」
「失礼な」
ようやくふざけるだけの余裕も、体の疲れを感じるだけの余裕も出てきた。
負ける気はしなかったが、丸腰での戦闘はさすがに体力的にも精神的にも疲れた。大きなものはないが、久しぶりに傷もたくさん負った。目を閉じたらこのまま眠れそうだ。
トナーとディオが建物内部の状況について話すのを聞きながら、ニーナは重たくなり始めた瞼に従って、ぼんやりと足元に視線を落としていたが、ふと、そこに影がかかり顔を上げた。
「あ、隊長」
カイトが自分を見下ろしていた。あの時濡れた髪は、もうすっかり乾いている。冗談交じりに「よ、水も滴るいい男」と言ってみたが、「軽口言うだけの元気があるなら安心だ」とも「俺に向かって冗談とはいい度胸だ」とも返ってこない。見事にすべったらしい。
恥ずかしさに頬をかきつつ、改めて声をかけた。
「隊長、よかったですね、ルーエン様が無事でっ、いたたたたた!?」
突然だった。
言葉もなく、ニーナはカイトに抱きすくめられた。
腕の力は強い。傷口をぎゅうぎゅう押され、先ほどのディオの抱擁とは比べ物にならない痛みがニーナを襲った。眠気が一瞬でどこかに吹き飛んでしまう。
「た、隊長! ふ、普通に、めちゃくちゃ痛いです!」
カイトの背を叩きながら、ニーナは「ギブです! ごめんなさい!」と叫んだ。
「……うるさい」
耳元で聞こえた消えかかった声に、ニーナの動きがぴたりと止まった。甘えんぼうの子供のように、肩口に頭を埋め、カイトは「もう少し」と小さく続けた。
「隊長……?」
もうこれ以上の返事はなかった。
周囲からは生暖かい視線が向けられている。が、逃れるすべがない。ニーナは背中を叩き損ねた手で周囲を“見るな”と追い払い、戸惑いがちに背中の真ん中あたりに手を置いた。
そこでやっと、カイトがかすかに震えていることに気が付いた。
――ああこの人も、こんな風に怖がったりするんだな。
いつもは完全無欠、自分より優れた人間などいないとでも言うように隙もなく堂々と振る舞う男の弱さを垣間見て、安心すると同時に、見てはいけないものを見てしまったようで胸中がざわつく。
「……大丈夫ですよ」
ルーエン様も無事で、あなたの部下も無事です。だから、大丈夫ですよ。
心の中でそう続けて、一度だけ頭を撫でた。少しだけ、腕の力が弱まった気がした。
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