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あらし 5


 アリシアは一人、夜の街を歩いた。

 何もかもが忌々しかった。酔っ払いたちの楽し気な笑い声も、風にのって流れてくる陽気な音楽も、ぽっかり浮かぶ満月も、夜の道を暖かく彩る柔らかな明かりも、何もかもが忌々しい。

 傷だらけで女らしさのかけらもないニーナとかいう女も、それを庇ってあんな風に怒るカイトも見たくなかった。

 あんな女、全然違う。カイト様の隣に立つのにふさわしくない。カイト様の愛を受けるのに、ちっともふさわしくない。本当なら、あの場所にいたのはあんな女じゃなく――。

 思い出すと泣きそうになる。けれど泣いてなんかなるものか。アリシアは奥歯を噛み締め、俯いた。何もかもが忌々しい。笑い声も、音楽も、あの女も、こんな風に泣きそうになる自分も。


「大丈夫かい、お嬢さん」


 アリシアは足を止めた。

 正面に男が立っている。こざっぱりしたシャツを着た、商人風の若い男だ。歳はカイトと同じくらいだろうか。紙袋を抱えた男は、心配げにこちらを見下ろしている。


「こんな時間に一人で歩いていると、危ないよ」

「……ほっといてちょうだい」


 アリシアは目元を拭い、ぷいと視線を逸らした。

 そして、自分がずいぶん薄暗い場所に来てしまったことに気が付いた。さっきまで聞こえていた笑い声はずいぶん遠く、陽気な音楽も聞こえない。灯りは闇の中にまばらに浮かぶだけ。振り返っても、ここがどこかは想像もつかなかった。もちろん、いつもは後ろにいるトトの姿もない。

 あっという間に不安が襲い、口元がこわばった。


「ほら、迷子だろ、きみ」


 男は困ったような笑みを浮かべ、腰を折り、アリシアと視線を合わせた。


「王都には旅行かなにか? どこに泊まっているの?」


 アリシアは答えなかった。トトに口酸っぱく、『知らない人に自分のことを話すな』と言われている。


「僕が怖いかな。送っていこうと思っただけなんだけど……大丈夫、僕はただの商人だよ。王都には仕事で来たんだ」

「……道さえ教えていただければ、自分で帰れます」

「この辺りは薄暗いし、心配だよ。じゃあ、せめて大通りまで送らせてくれないかい、可憐なお嬢さん?」


 男がそっと手を出した。

 カイトよりは細いが、しっかりした大人の男性の手だった。

 アリシアは戸惑いがちにその腕に自分の手を重ねた。男性は目尻を下げて穏やかにほほ笑んだ。


「では、参りましょうか、お嬢さん」


 男は紳士だった。

 夜道は怖くありませんか、と尋ねてくれたり、段差があるときはやさしく手を引いてくれた。そして男は穏やかな声で物語を読むように自分のことを話してくれた。数日前に仕事で大きな失敗をしてしまったこと。その失敗を取り戻すために王都に来たこと。王都に来てからの仕事はいたって順調なこと。この調子でいけば、仕事の失敗は取り戻せそうで安心していること。再び胸を張って仲間の元へと戻れそうなこと。

 男の落ち着いた声は、ざわついた心によく沁みた。


「あなたは真面目な方なんですね」


 アリシアはぽつりと言った。


「そうでしょうか」

「ええ、そう思います。わたくし、実は最初にあなたを疑いました。あなたの善意を無下にしようとしたりして、すみません」

「かまいませんよ。あんな夜道で声をかけられて、怪しむなというほうが無理でしょう」


 男は苦笑交じりに言った。


「きっと僕も、警戒します」

「ふふ」

「ですが、あなたは愚かでしたね」

「……え?」


 今までと変わらない声のトーンで落とされた言葉の意味が分からず、アリシアは顔を上げた。男は穏やかな笑みを浮かべていた。浮かべているように見えた。その目はちっとも笑っていないのに、今気が付いた。

 咄嗟に腕を引きかけたアリシアだったが、その何倍もの力で体を引っ張られ、すぐそばの建物に押し込まれた。何が起きたのか理解できないまま襲ってきた突然の眩しさに目を閉じる。


「あ、なんだこのガキ」


 しゃがれた声が、すぐそこから降ってきた。

 アリシアはゆっくり顔を上げた。顔に大きな傷のある男が酒瓶片手にこちらを見下ろしている。本能が“ここは危険だ”と体を後ずさらせようとした。けれど、


「おみやげ」


 背後から自分の背中を強く押した腕が、それを許してはくれなかった。


「迷子の箱入り娘だよ。見ろよこの恰好。相当な金持ちだ。人質にしてもよし、身代金ぶんどってもよし、売ってもよし……今ここで味見してもいいしね」


 商人らしい語り口で紹介されているのが自分のことだとは思いたくなかった。恐る恐る見上げると、男の顔は先ほどまでと何ら変わりない。どうしてそんな顔でこんなにも恐ろしいことを言えるのか、アリシアには理解できなかった。


「へぇ」

「いいでしょ。このまえ失敗しちゃったし、ボスへのお土産にしたら、ご機嫌取りくらいにはなるんじゃない?」

「まあ、そうだなぁ」


 酒瓶を足元に投げ捨てた男の手が、アリシアの顔を無遠慮に掴んだ。酒臭い息が頬を撫で、恐怖で呼吸が速くなる。男の背後からは、下品な笑い声が飛んでくる。ここにはほかにも人間がいるらしいが、それを確認できるほどの余裕は、もうなかった。

 アリシアはもう、声も出なかった。

 こんな風に自分に触れる人間なんて、今まで一人だっていなかった。嵐の夜に一人で放り出されたようだ。どうしたらいいのか分からない。ただただ、怖い。


 ――だれか。


 心の中で叫んだ。


 ――だれか、助けて。


 けたたましい音と共にドア横の窓が割れた。振り返る前に、黒い影が横切り、目の前の男が吹き飛ぶ。声を出す間もなく体を抱えられ、そのまま顔を柔らかい所に押し付けられた。

 怒号が飛び、何かが割れる音で空気が震える。唐突に灯りが消え、闇が覆った。荒れ狂う海の中に投げ込まれたように体が揺れ、状況が理解できないまま、ようやく動きが止まった。


「……ご無事ですか」


 頭上から落ちてきた音に、アリシアはゆっくりと顔を上げた。そして、そこにあった顔に、不覚にも涙が出た。


「探しましたよ、ルーエン様」

「泥棒猫……」


 ニーナは「はい」と穏やかにほほ笑んだ。





 泣き始めたアリシアの背を撫でながら、ニーナは「大丈夫ですよ」と何度も伝えた。

 間に合ってよかった。と内心息をつく。が、油断はできない。ニーナは倒した木箱の影に隠れながら、灯りが消え薄暗い室内を見渡した。

 おそらく元酒場。当時の内装がそのまま残っていて、テーブルや椅子もほとんどそのままにされている。けれど大量に積まれた木箱は当時のものではない。今隠れるのに使っている木箱もまだ新しい。割れた隙間から零れ落ちているのは、小さな球体。小さく伸びた導火線。花火の類ではない。すぐそこで倒れた箱からは見たことのない剣が散らばっている。残りの箱も、中身は似たようなものだろう。

 ――海賊の残党。

 浮かんだ答えは、おそらく正解。間違っていても、この状況を見たら、どのみち見逃すわけにはいかない。問題は……。

 ニーナは腕の中で震えるアリシアを見た。


「っ、いってぇなあ!」

「あの女、どこだ!?」


 大きな物音と共に、男達の吠えるような声がした。部屋中のものを力任せにひっくり返しながら、こちらに近づいてくる。大きな音が立つたびに、アリシアが肩を大きく跳ねさせた。

 ざっと見た感じ、男が5人。多くはない。が、こちらは丸腰、履きなれない靴とワンピースで戦闘には向かない。挙句ここは武器庫のようなものだ。アリシアを抱えて戦うにしろ、逃げるにしろ、あまりいい結果にはならないだろう。それならば――。


「……ルーエン様、今から私が言うことを、黙って聞いてください」


 ニーナはアリシアを強く抱きしめ、背中を擦りながら、耳元でささやいた。


「折を見て私が飛び出し、そこのドアを開けます。ルーエン様はドアが開いたら、全力で走ってここから出てください。出たら、右へ真っ直ぐ走ってください。途中かなり細い路地もありますが、ルーエン様なら問題なく通り抜けられます。しばらくしたら人のいる通りに出ますから、誰かに助けを求めてください」


 いいですか? と背中を一度軽く叩いたが、アリシアの首は横に振られた。


「…………泥棒、猫、は?」


 蚊の鳴くような声だった。

 ニーナはアリシアの顔を覗き込んだ。涙をいっぱいにためた目が、不安げにこちらを見ている。


『死んだら、どうするの?』


 音にならなくとも、その目はそう言っていた。

 ニーナは自らの服を、すがるように握るアリシアの手を取った。


「アリシアさん、大丈夫です。私、すごく頑丈なんですよ」


 男たちの怒鳴り声が近づく。すぐ近くで何かが割れる音がした。


「今まで、痛いことも、大変なことも、たくさんありました。死にかけたことも、まあ、それなりにあります。でも、全部大丈夫でした。私は今もこうして生きていて、そしてこれからも、元気に生きて行くつもりです。こんなところで、死んだりしません」


 握ったアリシアの手は、やっぱり自分とは違うと、ニーナは思った。

 きっと彼女はこれからも剣など一度も握らない。切っ先を向けられることもない、殺意を向けられることもない。そうであって欲しい。たくさんの愛で満たされた優しい世界で生きていって欲しい。

 私はそれを守るために、ここにいるのだ。


「アリシアさんは無事に逃げられます。そして私も、ここを片付けて、すぐにあなたのところに向かいます。安心してください。みんなあなたを探しています。すぐにあなたを助けてくれる人に会えます。合図をしたら、走り出してください。大きな声がしたり、音がしても、振り返ったり、足を止めてはいけません。できますね」


 わずかな沈黙の後、アリシアが小さく言った。


「……ぜったいに、死なない?」

「もちろん。約束を破ったら、怒ってくれていいですよ」

「死んだら怒れないじゃない」

「そうですね。だから、死にません」


 アリシアはほんの少しだけ口元を緩め、「そうね」と頷いた。

 ニーナは一度アリシアの頭を撫で、それから自らの背に隠すように前にしゃがみ直した。

 男たちは近い。呼吸を整え、神経をとがらせ、男たちの一挙手一投足を観察する。

 一人がすぐそこの机をひっくり返した瞬間、ニーナは弾かれたように飛び出した。男の横っ腹に体当たりをし、倒れ込みながら、足で思いっきりドアを蹴破った。


「走って!」


 アリシアは建物から飛び出した。悪意を固めたような声や、何かが倒れる大きな音から逃げるように、走った。夜の闇は重く、静寂は恐ろしい。それでも彼女は、ニーナの言葉を道しるべに、走り続けた。



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