あらし 4
カイトは、王城にほど近い場所にある、ディンスター家がいくつか所有する屋敷のうちの一つに住んでいた。瀟洒なたたずまいの屋敷は、木々に隠されるようにしてひっそりとそこにあり、隊員の中でカイトの自宅を知らないものが多いというのも納得できる。曰く、ここは王都にある3番目の家で、実際にディンスター家の人物が王都滞在の際に使うことはほとんどないのだという。
さらりと出た“王都3番目の家”という金持ちの言葉を軽く流しつつ、ニーナはカイトの家の門をくぐった。3番目といいつつ、中はそれなりに広く、使用人や料理人までいた。
「……隊長、私の家に来た時どう思いました?」
「藪から棒になんだ」
「いえ……隊長、一人暮らしなのに使用人さんがいらっしゃるんですね」
「普段は昼間だけだ。アリシアが来ているから、夜も滞在してもらっているが……」
「はぁ」
一張羅のロング丈のワンピースを着て、ヒールまで履いたが、それでもこの家の中では浮いているような気がした。ニーナはスカートの裾を直しつつ、羽織を使用人に渡した。
初老の使用人は目を細め、「お食事の用意はできております」としなやかに頭を下げた。
「あ、泥棒猫!」
階段の上から、すっかりお馴染みの声が降ってきた。
二階の欄干から、アリシアが身を乗り出すようにしてこちらを見ている。
「こんばんは、ルーエン様」
「忌々しい。こんな時間にカイト様の自宅へ押しかけるなんて!」
「ご招待いただきましたので。今晩はよろしくお願いいたします」
図々しい! と地団駄を踏むアリシアを見て、ニーナは力ない笑顔を作った。「絶対に二人っきりになんてしませんからね!」と、“フォントニアの華”らしからぬ形相で吐き捨て、アリシアはトトと共に部屋へと戻っていった。
「……悪いな」
カイトは眉間を抑え、言った。
「うーん、なんとか仲良くなりたいんですけどねぇ」
「どうだか。気難しいぞ」
「でも、私、彼女のこと嫌いになれないんです」
「散々迷惑かけられただろう」
「いやぁ、まあ、そうなんですけど……」
ニーナはカイトを見上げた。カイトは、隊服を着ている時よりも少しだけ若く見える。隊長という肩書を取り除いて見れば、彼もまた、一人の人間だ。部下である自分よりも、アリシアはずっとただのカイトの姿を知っているのだろう。
「隊長」
「なんだ?」
「……いえ、なんでもありません」
美しく花で彩られた食卓には、豪華な料理が並んだ。わざわざフォントニア出身の料理人を呼び寄せたというだけあって、並んだフォントニア料理はニーナの目を楽しませた。あまり見たことのない料理に心が躍る。一口運べば、期待を裏切らない味に、体が震えた。
「まあ、よっぽど貧しい食生活を送っていますのね!」
嫌味っぽい言葉に、ニーナはカイトの隣に腰かけるアリシアを見た。アリシアは優雅な手つきで食事を口に運び、眉一つ動かさずにそれを咀嚼した。一連の動作が「わたくし、これくらい食べ慣れていますのよ」と雄弁に語る。
「アリシア」
「事実ですわ」
事実だ。だからニーナは特に言い返すつもりもない。
こちらに来てからはずっと一人暮らしで、食事も隊舎の食堂か街の酒場や食堂で食べることがほとんど。もちろん自炊もするが、簡単なものばかりだ。金に困っているわけではないが、ロシトでも豪華な料理を食べることなどほとんどなかったので、むしろそういうものの方が口に馴染む。
「泥棒猫、図星でしょう? だから言い返せないのね」
「はい。とてもおいしいですね」
あっさりとした返しが気に入らかなったようで、アリシア「ふん」と鼻を鳴らして再び食事に戻った。
「……すまない」
「いいえ」
「なぜカイト様が謝るんですの!」
「常識的に考えるんだ、アリシア。そんなことを言われたら、誰だって気分が悪いだろう」
「気分を悪くさせたくて言っているんです」
まさかそこまではっきりと言われるとは思っていなかったのか、カイトは一瞬言葉に詰まった。その隙を見逃さず、アリシアは畳み掛ける。
「泥棒猫なんか、気分を悪くして帰ればいいのよ」
「アリシア」
咎めるように名前を呼ばれても、アリシアは言葉を続けるのをやめなかった。
「泥棒猫だけは、絶対にだめ」
そこまで言われてしまうと、反対に聞きたくなってしまうのはなぜだろう。ニーナは恐る恐る「理由を聞いても?」とアリシアを窺った。すると、美しい顔を歪めた彼女から、刺々しい言葉が吐き出される。
「逆にどうして自分でいいと思われるのか、わたくしは不思議ですけれど……まあ、いいですわ。教えてあげます。あなた、ロシトの領主様の娘さんのお一人だとか。ですからまず、家柄が釣り合っていません」
ニーナは「なるほど」と頷いた。
「次に容姿。これは説明するまでもありません」
アリシアは勝ち誇った顔で言った。うーん。これも事実である。自分の容姿を悪いとは思わないが、正直人並だ。アリシアのように、カイトと並んでつり合いが取れているかと聞かれると、正直答えられない。
「そして性格。最初に会った時から思っていましたが、あなたには女性らしさがありません。カイト様に必要なのは剣の強いお方ではなく、お家でカイト様の帰りを待てる方です。カイト様の心が癒される場所が必要なのです」
「わかります」
つい口に出た言葉に、アリシアの厳しい視線が飛んできて、ニーナは慌てて唇を結んだ。
けれど、分かる。家に帰って家の灯りがついていて、温かい食事が用意されていると、心が癒される。騎士団の隊員達は多少の差はあれど、仕事中毒みたいな人間が多い。隊長はその最たる例の一つだ。いつだったか「仕事以外のことを考えたくない」と言ったのを聞いたが、どこかで心を休めないと、寿命が縮むんじゃないかと心配になる。
「とにかく、あなたはカイト様には合っていません! 騎士団の女性隊員なんて、絶対にだめです」
アリシアは堂々と言いきった。
さすがにこれだけ言われてしまうと、多少へこむ。けれど同時に、ニーナは少しほっとした。アリシアは、ただ、カイトのことが大切なだけなのだ。
「アリシア、言い過ぎだ」
「わたくし、謝りませんわ」
「隊長、かまいません」
そうして庇われたことも、アリシアにとっては気に入らないらしい。フォークを持った手がわなわなと震えていた。なにかフォローの言葉を言うべきだろうかとニーナが考えていると、部屋にはデザートが運ばれてきた。
皿の上に乗ったケーキには砂糖細工の花があしらわれており、クリームがたっぷり添えられている。
「おいしそう!」
ほとんど無意識に出たニーナの言葉に、カイトは微笑みをこぼした。
「前、甘いもの好きだって言ってたもんな」
「覚えててくれたんですね」
「まあな。多めに用意させた。好きなだけ食べてくれ」
「嬉しいです。ありがとうございます」
ニーナは早速フォークを持ち、ケーキを少し大きめに切り、クリームをつけてから口に入れた。瞬間、広がるさわやかな甘さ。あまりの感動で世界が輝いた。おいしい! 食べてしまうのがもったいないな、と思っていたが、こんなにおいしいとあっという間になくなってしまう。
口の中の余韻に浸っていると、ふと、カイトと視線があった。
少し細めた目が、こちらを見ている。ゆるい笑みの浮かんだ彼の表情は穏やかで、なぜか恥ずかしい。じんわりと頬に熱が集まり、ニーナは慌ててケーキに視線を戻した。砂糖細工の花弁が、キラキラと輝いている。
「……カイト様、ご存じですか?」
氷のような言葉が、ぽつり、アリシアから落ちた。
アリシアはケーキを切り分けようとした姿勢のまま固まり、手元をじっと見つめている。
「彼女、傷だらけなんです」
突拍子のない話で、ニーナはしばらく、その“傷だらけ”という言葉が指すのが自分のことだと分からなかった。
「わたくし見たんですの。彼女、腕や、背中や、いろいろなところにひどい傷跡がありますのよ」
アリシアの口元には、わずかに笑みが浮かんでいるようにも見える。
「女性として、あり得ません」
「……アリシア」
「そんな、汚い体で、」
バンッ、と大きな音を立てて机が揺れた。食器やカラトリーが音を立て、グラスの中の水面が揺れる。
ニーナは驚いて、音の発生源を見た。大きな音に驚いたからじゃない。その発生源に驚いたのだ。その音は、カイトが拳を机に叩き付けた音だった。
「いいかげんにするんだ」
カイトは唸るように言った。
怒りを込めた視線が向けられたのはアリシアだ。アリシアは、突然現実に引き戻されたようにはっとし、口元を抑えた。
「アリシア、謝るんだ」
「……隊長、私は別に」
「だめだ」
カイトはアリシアを見たまま、もう一度「謝るんだ」と凄んだ。
「あ……わ、わたくし……」
「言っていいことと、悪いことの区別くらいつく歳だろう」
「……い、いやです。わたくし、謝りませんわ」
「アリシア」
「謝りませんわ!」
アリシアは勢いよく立ち上がった。アリシアの目にはうっすら涙が浮かんでいる。
「ど、どうしてそんなことをおっしゃるんですか! わたくしはカイト様の心配をしているだけなのに! それに、なんで……なんで急に出て来たこんな女なんかにカイト様を取られなければなりませんの!? カイト様はもう……もう……お姉様の、」
「今そんな話はしてないだろう!」
カッと、アリシアの頬に朱が差した。小さな手がコップを掴み、そのまま中身をカイトに向かってぶちまけた。カイトは見事にその水をかぶり、ニーナは絶句した。
驚いたのはアリシアだった。まるで自分がしたことが信じられないとでも言うように、空になったコップを見ている。
「わ、わたくし……」
アリシアがじりじりと後退していく。踵が椅子の足にぶつかって、倒れて大きな音を立てた。
「わたくし、何も、間違っていません!」
自らに言い聞かせるように叫んで、アリシアは部屋を飛び出した。
「ル、ルーエン様! ちょ、た、隊長。彼女、出てっちゃいましたよ!」
ニーナは慌てて立ち上がった。
開け放たれた扉の向こうで、トトとアリシアが言い合う声が聞こえてくる。それなのに、カイトは項垂れたままぴくりとも動かない。恐る恐る顔を覗き込んでニーナはぎょっとした。
「すっ、すみません……」
別に悪いことなんて一つもないのに、つい口から謝罪の言葉が出た。
カイトは、今までニーナが見たことのない顔をしていた。眉間に皺を寄せ、まるで涙をこらえる子供のように唇をかみしめる姿は、彼の普段の姿から想像もできないほど弱々しいもので、見てはいけないものを見た気分だった。
「……隊長……」
返事はない。
アリシアを追いかけなければいけない。けれど、カイトをこのままにもしておけない。
ニーナは覚悟を決め、カイトを強く抱きしめた。
「私、彼女を追いかけてきます。隊長も、着替えたら、すぐ来てくださいね!」
返事を待たず、ニーナは駆け出した。部屋を出る間際、かすかに聞こえた「すまない」という小さな謝罪にどこかほっとしつつ、スカートの裾をたくし上げ片側で軽く縛る。不格好だが、彼女を放っておくわけにはいかない。王都の治安はいいが、夜遅く若い女の子、それも見るからに裕福な子が一人で出歩くのは危険だ。土地勘のない彼女が細い路地なんかに入ってしまえば、安全は保障できない。
階段を飛び降りると、トトが「ニーナさん!」と駆け寄ってきた。
「ルーエン様は!?」
「すすすすすすみません。ふ、振り切られてしまって、アリシア様、外へ」
「すぐ、追いかけます」
「お、お願いします。ああ……どうしよう……」
トトは髪をかき乱しながら倒れるようにその場に座り込んだ。
「だ、大丈夫ですか?」
「どうしよう……どうしよう……」
「落ち着いてください。すぐに隊長が来ますから。指示を仰いで、」
「何かあったら……」
「トトさん聞いて」
絶望、焦り、恐怖。全てがぐちゃぐちゃに混ざった声で、トトは絞り出すように言った。
「アリシア様まで失うわけにはいかないのに……」
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