あらし 2
「食べすぎじゃなくって?」
「え?」
「泥棒猫は食欲旺盛なのね」
すぐ隣から聞こえた声に、ニーナは口に運びかけていたスプーンを中途半端な位置で止めた。むさくるしい食堂の中、完全に浮いてしまっているアリシアが、小馬鹿にしたような笑みを浮かべている。
言いたいことはいろいろあった。
後ろのトトさんがストレスでどんどん弱っているけど大丈夫ですか、とか。その“泥棒猫”っていう呼び方、恥ずかしいんでやめてください、とか。
テーブルを挟んで正面に座るディオとトナーもいろいろと思うところがあるのだろう。渋い表情でこちらを見ている。だが安心してほしい。こちらは大人。ニーナは小さく頷いた後、スプーンを皿に戻し、穏やかに語りかけた。
「ルーエン様も食べますか?」
「まさか!? 庶民の食事がわたしくしの口に合うとでもお思いで!?」
「……ですよね。失礼しました」
「わたくしは、ただ、あなたの女性らしくない食欲と、大口を開けるはしたない食べ方に驚いただけですわ」
うーん、難しい。
ニーナはアリシアが言うところの“女性らしくない食欲”に従い、“はしたない大口”でスプーンを再び口に運んだ。
アリシアと同じ年くらいの女の子との接点は少なくない。見回りの最中によく会うからだ。多少すれている子もいるけれど、みんな明るく素直で、ちょっとしたことでお腹を抱えて笑ったり、泣いたり。そんな彼女達らと、アリシアはまるで別の生き物のようにも感じる。アリシアを横目で見遣ると、その表情は変わらずよろしくなく、彼女の前には一枚の皿も置かれていない。
「……あー、おいしい」
少しわざとらしい言い方になってしまったが、ニーナは片頬を抑えて続けた。
「今日のランチは最っ高。特にこの鶏肉の煮込み! 香辛料が効いてるわ~。カイト隊長のおすすめだけある~」
「……カイト様の?」
かかった。内心ほくそ笑みつつ、ニーナは明るく言った。
「ええ。これ、隊長好きなんですよ」
「……カイト様も、こちらでお食事を……?」
「もちろん! お忙しいし、役職上あまりここで食べられることはないんですが、好きだと言っていましたよ」
嘘だけど。
この鶏肉の煮込みが好きかどうかは知らないけれど、隊長だろうが誰だろうが、基本的にはここの食堂で作られたものを食べているのだ。そこは、嘘ではない。
けれど嘘でもなんでも、食事は食べてもらわなければ困る。アリシアの「目を離さない」というのは多分本気だ。自分から目を離さないのに、ここで食事を取らないとなると、アリシアは食事のタイミングを失ってしまう。可愛らしい客人を、空腹で倒れさせるわけにはいかない。
その意図はディオとトナーにも伝わったようで、「そうですよ! おいしいですよ」とディオの援護射撃も飛んできた。ニーナは最後のひと押しと言わんばかりにもう一口食べ、「おいしい」と笑ってみせた。
「…………そ、そうなのね。カイト様が……」
アリシアは口元を抑え、何度かニーナと皿の上を交互に見た後、意を決したように言った。
「カ、カイト様が召し上がるものなら、わたくし、食べてもいいですわ」
「ちなみに、甘いものの用意もありますから、一度メニューを見てこられたらどうですか?」
「そうね。一度、見てきてあげてもいいわ。カイト様の日常生活を見る上でも、必要なことよね」
「そう思います」
「泥棒猫、わたくしが戻ってくるまで、絶対に動かないでくださいな」
「もちろんですとも」
トトを引きつれて席を立ったアリシアを見送って、ニーナは小さく息を吐いた。
「……な、なかなか強烈なお嬢様だな~。ルーエン家のお嬢様だけあるぜ」
「ね。エネルギッシュ」
あっけにとられた様子のディオに返事をしつつ、ニーナはここぞとばかりに食事を口に入れた。アリシアがいたら食べられないというわけではないが、見られながらの食事は心地いいものではない。
「本気でニーナの側から離れないつもりかな? 見回りや訓練も?」
「そうじゃないことを願うけど……もしそうだったら、どうしたらいいと思う?」
「無視したらいいだろ」
「「うわ……」」
容赦ないトナーの言葉に、ニーナとディオの言葉がきれいにハモった。「「人でなし」」と続けると、トナーの眉間に微かに皺が寄る。
「……俺は、お前の方が大事だからな」
「え、なに、急に愛の告白」
「おっ、泥沼三角関係か!?」
「お前ら五月蠅い」
ディオとげらげらと笑っていると、「泥棒猫! 下品な笑い方をしないで!」と、すぐさまアリシアがすっ飛んできた。後ろからトトが二人分のトレーを持って慌ててやってくる。危なっかしい。と思ったのとほとんど同時にトトは転び、食事を見事にぶちまけた。
阿鼻叫喚の食堂の中、片付けを手伝いながら、ニーナはしばらくは前途多難な日々が続きそうだと頭が痛くなった。
「ニーナ・フィント」
名前を呼ばれ、ニーナは一歩前へ出た。自分よりも頭一つ分高い位置にある男の顔を見て、「よろしくお願いします」と口の端を上げる。ニーナより5つ先輩にあたるその男は「相変わらず生意気そうだな」と言って歯を見せた。
訓練場の空気が張りつめる。
互いに腰に差した剣を抜き、構える。正式な隊員同士の訓練では、普段から使用している本物が使われることになっている。磨かれた銀色が、鈍く光った。
「いつでもいいぜ、ニーナ」
この男には、まだ勝ったことがなかった。そろそろ負かしてやろう、とニーナは唇を舐めた。
見守る隊員たちの目が、楽し気に細められる。「どっちが勝つと思う?」と賭け事が始まるのはいつも通り。自分の勝ちを予想する隊員が少ないのもいつも通り。けれどそれも今日までだ。剣を握る手に力を込めた、その時だった。
「なっ、なにしてますのーー!!」
弾丸のように一人の少女が訓練場に飛び込んできた。アリシアだ。
アリシアは一目散にニーナの元に駆け寄ると、剣を持った腕に飛びついた。
「なっ!? だ、だめですよ! 危ないから離れてください! 本物ですよ!? っていうかどうしてここに!? 訓練だから室内で待つように言ったじゃないですか!」
「やっぱり見張っておいて正解でしたわ! なぜ泥棒猫が剣なんて持っているの!」
「なぜって……」
「危ないことはやめなさい!」
どっちが! そう怒鳴ってやりたかったが、アリシアのあまりに必死な形相に、言葉がつまる。ニーナは仕方なく、持っていた剣を捨て、足でできるだけ遠くに蹴飛ばした。
遅れてやってきたトトが、慌ててアリシアの体を掴み、ニーナから離す。
「離しなさい、トト!」
「すみません! すみません! すみません! すみません!」
真っ青になりながら全方向に頭を下げるトトにあっけにとられていると、今度はカイトが鬼のような形相で訓練場に入ってきた。
「アリシア!」
ニーナが肩を跳ねさせてしまうほど、怒りを隠さない声だった。
「カイト様!」
負けじとアリシアも怒った。トトの拘束を振り払うと、大股でカイトに近づく。
この間、隊員達は完全に置いてけぼりだ。
「カイト様、なぜ彼女が剣を持っているんですの!?」
「なぜ、って……隊員だからに決まっているだろう。アリシア、確かに君には通行証が渡されているが、仕事の邪魔をするなと言ったはずだ!」
「でも、切られたら、泥棒猫は死んでしまうんですのよ!」
突拍子のない話に、ニーナは目を丸くした。アリシアの指が自分を真っすぐに指しているが、なんのことかさっぱりだ。訓練予定だった相手と顔を見合わせ、首を傾げる。そりゃあ、実践を想定したものだから使う剣は本物だが、あくまでも訓練だ。少々の怪我はともかく、命に関わるようなことはあり得ない。そんなこと、アリシアとトト以外、ここにいる全員が分かっていることだ。
それなのに、カイトはひどくショックを受けたような顔をしていた。
「……あ、あの、隊長?」
戸惑いながら声をかけると、不安げな瞳がこちらを捉え、はっとしたように視線を逸らされた。
「……悪かった。しっかり言い聞かせておく」
「いえ……」
「続けてくれ」
そんなこと言われたって……。
いまだ小言を言い続けるアリシアの腕を引くカイトの背を見送って、ニーナはみぞおちあたりを撫でた。なぜか、気持ち悪い。落ち着かない。
訓練は再会されたが、ニーナは結局、今日もその相手には勝つことができなかった。
散々な一日だった。人気のない更衣室の中、ニーナはため息と一緒に訓練着を乱暴に脱ぎ去った。
結局、さきほどの訓練はこてんぱんにやられてしまった。間違いなく、今までで一番最悪の出来だった。本当の戦闘だったら死んでいたかもしれない。訓練でよかった、と言うべきなのだろうが、まだそこまで穏やかにはなれない。切っ先がかすった腕には、赤い線が走っている。
「失礼」
控えめなノックと共にドアが開いた。入ってきたアリシアは、しゅんと足元に視線を落としている。どうやらあの後、隊長に怒られたらしい。その姿はなんだか年相応に見えて、ニーナは小さく笑った。
「どうしました?」
「……先ほどは、お仕事の邪魔をして、悪かったわ」
「かまいませんよ」
ニーナの答えに、アリシアはほっとしたように顔を上げた。そしてぐるりと更衣室を見渡すと、「狭い部屋ね、倉庫みたいで、泥棒猫にお似合い」と、早速可愛げがない言葉が飛んでくる。よくもこれだけぽんぽん悪口が出てくるもんだと感動していると、アリシアの視線が自分の腕あたりで止まっているのに気が付いた。
「どうかされましたか?」
ニーナは首を傾げた。
「血が……」
「血? ああ、さっきの訓練でちょっと切っちゃったんですよ」
ニーナは腕の切り傷を見ながら、苦笑した。
「……笑いごとなんかじゃ……」
「え?」
「笑いごとなんかじゃないわ」
アリシアはゆっくりとニーナに近づき、その腕に触れた。
「……泥棒猫には、傷跡がたくさんあるのね」
「……まあ、職業上」
「大きな傷も、あるのね」
「まあ、そうですね」
アリシアの視線が、まくれたインナーからのぞく、脇腹の大きめの傷跡をなぞっているのに気が付いて、ニーナはそっとインナーを下げた。彼女のような女の子には、少しショッキングなものだろう。
「……騎士団をお辞めになったほうがいいんじゃなくって」
そう言ったアリシアの声はひどく弱々しいものだった。
「……心配してくださってるんですか?」
「あなたの心配なんかじゃありません」
じゃあ誰の? とニーナが聞く前にアリシアは続けた。
「カイト様が、心配なんです」
「え? 隊長?」
「ねぇ、どうしてカイト様は騎士団で働くあなたを婚約者にしたんですの? カイト様に聞いてもはぐらかされてしまいますの。どうして……どうしてこんなに危険なことをしているあなたを」
「どうしてと、言われましても……」
まさか本当のことを言うわけにもいかず、ニーナは口ごもった。アリシアの答えを求める目に、いい答えは浮かばない。
「……カイト様は、まだご存じじゃないのかしら」
「な、なにを?」
「泥棒猫のこと」
「え? な、なんの話です?」
アリシアは「そうだわ、そうに決まっている」となにやら自己完結したようだが、ニーナは完全に置いてけぼりだ。彼女が来てから何度かこうして訳の分からない話をされるが、一度も核心には触れられない。
腕に触れていた手が、ニーナを突き放すように押した。
「ともかく、わたくしあなたに負ける気がしませんわ!」
すっかりいつもの調子に戻ったアリシアは、勝ち誇ったように胸を張った。
「わたくし、こちらではカイト様の自宅に滞在しているんですのよ!」
「は、はぁ……」
「うらやましいでしょう?」
「別に……」
「別に? なぜ? 婚約者の家に別の女性が泊っていて、なぜうらやましくならないの? 本当にあなたカイト様を愛しているんですの?」
「ひぇ……」
ここは更衣室。男性の立ち入りは禁止。恐らく扉の向こうで顔を青くしているトトの助けは期待できない。矢継ぎ早な質問から逃れるように、ニーナは慌てて隊服を着直した。
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