嘘つきは恋人の始まり 1
空は快晴。時刻は昼前。窓の向こうには暖かな日差しが降り注ぎ、まだ若い葉が瑞々しく輝く。春の香りがする風が、午前の勤務を終えた騎士団の隊員達の軽やかな笑い声と共に踊る。いたって平和で平凡な、レオルゼ王国王都の一場面だ。
そんな外の風景とは裏腹に、騎士団隊舎の端にあるこの埃っぽい資料室には、重く張りつめるような空気が充満していた。
ニーナは、そんな重い空気に押しつぶされるようにして背中を丸め、じっと足元に視線を落としていた。耳下で切りそろえられた短い濃灰の髪の彼女は、最後の審判を待つ罪人のような気持ちだった。が、彼女は罪人ではない。というか、むしろ人々を守るためにそういう人間を斬ったり、捕らえる側の人間だ。身を包んだ純黒の騎士団の隊服はその証である。
「――で」
びくり。
ニーナは肩を跳ねさせた。
彼女のほとんど正面に置かれた机に腰を下ろした、同じく漆黒の隊服に身を包んだ男が、温度のない声を出す。歪み一つない黄金の髪をきちんと後ろに撫でつけたその男は、髪と同じ色の瞳で、彼女を射抜くように見た。
「ニーナ・フィント、説明してくれ」
長い節くれだった指が、いたずらに机を叩き始める。小さなその音は、心臓の音さえ聞こえそうなほど静まり返ったこの部屋ではよく響いた。
ニーナは俯いたまま、前髪の隙間から農灰色の瞳でちらりと男を見た。そしてすぐに、見なければよかったと後悔した。
男――カイト・ディンスターが、ぞっとするほどきれいに笑っていたからだ。
何も知らない街娘たちならばきっと、とろけた砂糖菓子のような表情でカイトを見ただろう。彼はこの王都では知らない者などいないほどの美青年で、若くして騎士団の第3部隊隊長を務めるほどの剣の腕を持ち、かつディンスター家の次男という超優良物件。こんな完璧な笑顔を向けられたら、さぞかし嬉しいだろう。
だが、不幸なことに、カイトの部下であるニーナは知っている。
この男がこうして作り物のような顔で笑うときは、めちゃくちゃに苛立っているいるときなのだと。
「どうした、ニーナ」
子供に語りかけるような柔らかい声が、答えを催促する。机を叩く指の音は、いささか早くなったような気がした。
ニーナはしばらく考えたが、彼を納得させられるような説明はなにも浮かばなかった。頭の中の混乱と罪悪感が押し出したのは「すみません、隊長」という、情けない声の謝罪だけ。
「俺は謝れなんて言ってないだろ」
間髪入れずに飛んできた言葉で、ニーナの背中はますます丸まった。
「は……はい。す、すみません」
「俺はただ説明してほしいだけだ」
「……は……い」
「どうして俺が“ニーナの恋人”、なんて、噂になってるのかをだ。なァ、ニーナ?」
死。
ニーナの頭に、物騒な言葉が浮かんだ。
***
話は1週間前に遡る。
ニーナは久しぶりの休暇を利用し、故郷のロシトへ帰っていた。
ロシトは山間の小さな街で、ニーナの父親はそこの領主だ。領主、なんて大層な呼ばれ方をしてはいるが、ニーナの父親はとても庶民的な人間だった。自らも畑を耕し、贅沢を好まず、毎日のように街へ出ては便利屋よろしく困った人を助けるためになんでもしていた。
『リエッタが体調を崩している。久しぶりにお前に会いたいと言っているんだが、近々戻る予定はないか』
そんな父親から、手紙が届いたのは1か月前ほどのことだった。リエッタとは、父親が1年ほど前に再婚した女性の名前だ。
ニーナは14の時に家を出て、それからはずっと王都で生活をしている。見習いの頃は時間に余裕もあったので定期的に故郷へ戻っていたが、正式に騎士団へ入隊した後は、それも年に1回か2回になってしまっていた。前回故郷へ戻ったのは約1年前。父とリエッタの再婚のパーティーのときだ。が、リエッタは招待客への対応で忙しく、ニーナは彼女とほとんど話すことができなかった。それでも、わずかな時間の中で、彼女の人となりは分かった。こんなにいい人が父と一緒にいてくれるなら安心だと、ほっとしたことを覚えている。
できればもう少しゆっくり話したいと思っていたので、ニーナは少し無理を言って休みを貰い、実家に戻ったのだ。
久しぶりに訪れた家の庭では丁度、リエッタが花の手入れをしているところだった。
「……リエッタさん?」
ニーナが呼ぶと、彼女は目を丸くして驚いたあと、手入れしていた花のような優しい笑みを浮かべた。
「あら、ニーナさん。こんにちは。お久しぶりね」
「こんには、お久しぶりです」
近くに寄って、ニーナは首を傾げた。
リエッタは最後に会った時よりも、少しふくよかになっている。ゆるいウェーブのかかった茶色い髪の艶もいいし、農作業中だったこともあって、頬は赤い。とてもではないが、体調を崩しているようには見えないのだ。
「ええと、その、お変わりないですか?」
「ええ。変わりないわ。元気よ」
「そう、ですか」
あっけらかんと伝えられた言葉に、ニーナはどう返事をしていいのか迷った。そんなニーナを見て、リエッタも不思議そうに首を傾げつつも、「あなたも、変わりないようでよかった」とほほ笑んだ。
「……ええ、おかげさまで」
「ところで、どうしたの、急に」
「え?」
「来るなら手紙をくれればよかったのに。何も用意がないのよ」
リエッタは困ったようにそう言って、顎に手をやりながらぶつぶつと今ある食材で作れる料理を羅列しはじめた。
「いえ……あの、リエッタさん、私、手紙を書きましたが」
「あら、そうなの?」
「と、いうか、リエッタさん。体調はもういいんですか?」
「体調? 体調は、見ての通りすこぶるいいわ。なんなら、ちょっと太っちゃったくらいよ。幸せ太りかしらねって、街の人たちとも話してたばかりなんだけど……どうしてそんなことを?」
「体調が悪いと……それで私に会いたいとおっしゃっていると聞いて」
「そりゃあ、あなたには会いたかったけれど、お仕事のことも知っているし……呼びつけたりなんか……」
どうにも話がかみ合わない。彼女は体調なんて崩してはいないし、それどころか私が会いに行くと手紙の返事をしたことさえ知らない。なんなら今日ここに来たことさえ初耳のようだ。
そこまで考えて、とある人物の姿が浮かんだ。
「お父様……」
どうやらリエッタも同じ答えに辿り着いたらしい。「またあの人は……」と眉間を抑える。
「おお、ニーナ!」
その時だった。タイミングを見計らったかのように、家の扉が開いて、父親が両手を広げて飛び出してきた。そのまま、熊のように大きな体にぎゅうぎゅうに抱きしめられる。「おかえり! 元気そうでなによりだ!」と体と同じくらい大きな声で、耳が痛い。
ニーナは「ただいま戻りました」とほほ笑みながらも、父親の体を強く押し返した。その額にはうっすらと青筋が浮かんでいる。
「……騙しましたね」
「……な、なんのことかな、ニ、ニーナ」
父親はそう、どもりながら返すが、ニーナには確信があった。
「リエッタさんをだしにして、私を騙しましたね」
「い、いや~」
「だ、ま、し、ま、し、た、ね!」
強く言い切ると、父親は大きな体を小さく丸め、リエッタに助けを求めるように視線を投げた。が、リエッタも胸の前で腕を組み、その表情は穏やかではない。周囲に助けてくれる人物が誰もいないのを理解して、父親は「……すまないことをしたと思っている」と蚊の鳴くような声で言った。
「だが、頼む! ニーナ、お前に会わせたい人がいるんだ」
次いで出て来た予想通りの言葉に、ニーナとリエッタは顔を見合わせ、深いため息をついた。
ニーナは父親が「結婚する」と言った時、心底驚いた。
母が亡くなって18年間、父に家族や仲間からたくさんの見合い話が持ち込まれたが、どれ一つにも首を縦に振ることはなかったからだ。「母さんをまだ、愛しているんだ。他の人なんて……」と父はいつも寂しそうだった。
だから、リエッタさんを紹介されたときは驚いたが、嬉しかった。ようやく父が、心を預けることができる人が現れたのだ、と。
そう、そこまではよかった。
問題は、再婚した父親がすっかり「結婚はすばらしい!」とお花畑状態になってしまい、自分にやたらめったら見合いや結婚を進めてくるようになったことだ。
「お前の仕事を応援しているが、命の危険も伴う厳しいものだろう。だからお前にも、心を預け、穏やかになれる場所が必要だ」
私のように!
と、胸を張った父に、ほんのり湧いた感情を“殺意”と名付けて問題ないだろう。
それからは、もうありとあらゆる手を尽くし、自分に恋人、さらにいえば婚約者を見繕おうとする父親との闘いだった。信じられないような量の見合い相手のリストを送ってきたり、結婚生活の素晴らしさを書いた手紙を送ってきたり、隙あらば男性を紹介しようとする。「結婚をする気はない」と何度言おうが、右から左へ抜け出ていってしまっているようだ。
最近はもう手紙も無視していたし、父親が王都に出向いてくるときは理由をつけて遠征に出ていたが、まさかこんな嘘までついて……
ニーナは呆れにも似た怒りを押し殺すように言った。
「会いませんよ」
「なっ!? た、頼むよニーナ」
「会いません」
「この街に出入りのある商会の子息なんだ。私の顔を立てると思って、今回だけでも」
「うぐ……」
そう言われてしまえば、どれだけ不服で怒りが湧いていようが、立場上断りきることができない。
そうして渋々会った男性は、自分より幾分か年上の優しそうな人だった。
穏やかな物腰の人物で、顔も申し分ない美形だ。出会って早々、上品な笑みと共に「美しいお嬢さんだ」と手の甲に唇を落とした。エスコートもスムーズで、別れ際に「贈り物です」と小さな花束を渡していくのも100点。完璧だ。
そのはずなのに、着慣れないワンピースの袖の下で鳥肌が立つ。必死に取り繕ろった笑顔は、まちがいなく引きつっていただろうと思う。
「いい方だっただろう」
夕食時、満足げな父親に、ニーナはもう何度目か分からないその言葉を伝えた。
「お父様、私、結婚とかはいいです」
父親はもう何度もその言葉を聞いているはずなのに、まるで初めて聞いたかのように驚いた顔をした。
「なぜだ。彼はいい方だっただろう」
「ええ、そりゃあもう」
「顔も性格も問題ないし、彼はとても仕事に誠実だ。結婚するならああいう人間がいい」
「それは……まあ……」
そんなことニーナだって分かっている。けれどどうしても、恋をするだとか結婚するだとかのロマンチックなことに、前向きにはなれない。
歯切れの悪いニーナに、父親は心底不思議そうに尋ねた。
「どうしてだニーナ。何が気に入らない」
「気に入らないというか……」
「一生一人で生きていくつもりなのか?」
「そういうわけじゃ、ないですが……」
「結婚したくない理由でもあるのか」
「いやあ……」
要領を得ない言葉に、父親は突然、はっと目を見開き口元を抑えた。
「……もしかしてお前、もう交際している男がいるのか?」
ニーナは思いっきり咽た。「まさか」と言いかけて顔を上げた先で、父親の目には隠し切れない期待が輝いている。
「そうか……すまない、父さんの余計なお世話だったんだな」
「いや、お父さ」
「お前は、剣や仕事ばかりで他のことなんか考えられないんだろうと思っていたが、そういう相手がいるなら、いくらか安心できる」
「いやお父様、だから……」
「ああ、丁度いい。再来月、私とリエッタの結婚1周年の祝いのパーティーをしようと思っていてね。その相手とぜひ来てくれないか」
聞いちゃいねぇ! ニーナは頭を抱えた。
父は昔からこういうところがあった。一度信じたら梃子でも動かないというか、信じたことを曲げない頑固なところが。
「で、相手は誰だい?」
「だから相手なんて」
いない。と言いかけた言葉を、ニーナはぐっと飲み込んだ。
いない、と言えばまた父親から男性を紹介され続けるだろう。分厚い見合いリストが送られてきて、“どの男が気になる?”と催促の手紙が届くだろう。そういうのはもう、正直しんどい。めんどくさい。
「誰だい?」
父親の期待に満ちた目。そして隣に座るリエッタも、父親を諫めてはいるが、どこか期待を隠し切れずにいる。彼女もまた、父親ほど強引ではないが、結婚や見合いにはどちらかといえば賛成派なのだ。
名前を言えば、開放される。もう男性を紹介されることもなく、分厚い見合いリストが送られてくることもない。平和に仕事に集中できる。
魔が差した。ニーナはつい、頭に浮かんだ名前を言ってしまった。
「……カイト・ディンスター隊長、です」
と。
「……なるほどな」
一通り話を聞き終えたカイトがゆっくりと、立ち上がった。
こつりこつりと自分に近づく足音が、まるで死へのカウントダウンを知らせる秒針の音のように聞こえた。ニーナはごくりと唾を飲み込み、自分の正面に立った男の靴の先を見た。きれいに磨かれた靴だ。このつま先が、自分の腹にのめり込むのを覚悟する。ただこれは蹴りの一発や二発で済むような問題ではない。
「要するに、今回の騒動の原因は、お前のくだらない嘘だと」
「は、はい……」
「どうしてそんなくだらない嘘が広まる」
「そ、それは……分かりませんが……」
カイトと交際しているという嘘を言ってすぐ、ニーナは自分が言ったとんでもない発言を心底後悔した。時間を戻せるなら、3秒前の自分をぶん殴ってでも止める。
が、時間は戻らないし、「そうか!」と目を輝かせて喜ぶ父親たちに、今更嘘だと言うこともできなかった。
どうしたらこの発言を穏便に、かつ、なかったことにできるのかニーナは必死に考えた。考えた結果、「彼との交際は立場上まだ誰にも言っていないから、どうか秘密にしてほしい」と家族に必死に頭を下げることで、この話をここで塞き止め、1週間か2週間後に「いろいろあって別れた」ということにしようというところに落ち着いた。これなら話は広まらないし、別れたと言った後家族からどうこう言われることはないだろうと。ニーナは後ろめたさを感じつつ、どこかほっとして王都へ戻ったのだ。
ところがどっこい、王都に戻ってすぐ、やたらめったら視線を感じる。女性たちからの怒りと憎しみのこもった視線、同僚たちからの好奇交じりのそわそわした視線。まさか、と思っていたところで王城内でばったり会った、まだ幼い第3王女からのトドメの一言。
「ところでニーナさん、カイト様と交際しているんですって?」
7歳の彼女から、一切の疑いもなく投げかけられた言葉に、ニーナは持っていた資料室へ戻す予定の本を全部落とした。
「マママママロン様……い、いまなんて……」
「あら、ごめんなさい、ニーナさん、これは秘密だったわね」
「い、いえ。そっ、そういうことではなく」
「でも風の噂でそう聞いたんですの。ニーナさんがそう言っているのを聞いた方がいらっしゃると。これは、部下と上司の秘密のロマンスだって」
どこか恥ずかしそうにはにかんだ王女に、言葉を失った。
血の気が引く、という感覚をニーナは人生で初めて味わった。助けを求めるように、王女に付いていたメイドたちに視線を向けるが、返ってきたのは生暖かい視線だけ。「よかったわね、ニーナさん」と追い打ちを掛けられ、思考が停止した。
どういうわけか、どこから広まったのかまったく分からないが、ニーナの嘘は瞬く間に山を越え、すっかり王都に広まっていたのだ。
ニーナは頭を抱えた。
どうしようという言葉が頭の中で踊るが、解決策はなにも出てこない。第3隊の詰所に戻るに戻れず、かといって戻らないわけにもいかない。頭の中の混乱そのままにうろうろしているところで、急に腕を引かれた。声を出す間もなく引きずり込まれたのは、埃っぽく、人気のない資料室。
「おい」
頭の上から不機嫌な声が降って来て、ニーナは全てを察した。
そして話は冒頭へと戻る。
一体だれが、どこから、どうやって。
頭の中で、噂を広めたどこかの誰かに怒りがわいたが、そもそもの発端は自分がついた嘘。悪いのは100%自分だ。
ニーナは何度目かわからない「すみません」を口にし、カイトは何度目か分からないため息をついた。
「だから謝られたって……」
「本当に申し訳ありませんでした。でも、隊長、私、あの、本当に、嘘なんです。信じてください。私、隊長に恋慕の気持ちなんて、本当に小指の爪の間の垢ほどもありません!」
それは心の底からの気持ちだった。神に誓って、ニーナはカイトに恋心なんてない。
「ただ、故郷に帰る前の訓練でボッコボコにされたし、戻ってきたらすぐに書類を出せとか悪魔のような形相で怒ってたので名前が記憶に残ってたと言うか……」
「ほー……」
「ああ、いえ、そのつまり、とにかく、隊長のこと好きじゃないです!」
ニーナはカイトの顔を見上げた。眉が不愉快そうに歪んだのを見て、考えるよりも先に、慌ただしく口から言葉が飛び出してくる。
「こんなことで隊長を巻き込んでしまい、本当に申し訳ありません! もちろん、みんなのところをまわって誤解を解きますし、今回の件で、どのような罰を受けることも覚悟しています! その……本当に……本当に、申し訳ありませんでした」
もう一度、ニーナは深く深く頭を下げた。
「……どのような、罰も、ね」
「はい」
その言葉を最後に、再び沈黙が落ちた。
頬を冷や汗が伝い、心臓の音がやけに大きく聞こえる。
「……ニーナ・フィント、顔を上げろ」
ニーナは恐る恐る顔を上げた。自分を冷たく見下ろす男の顔に浮かぶのは、怒りだ。戦場で見せる表情にも似ていて、思わず喉が引きつった音を立てた。戦場で彼と対峙してきた敵は、こんな気分だったのかと、足が震える。
「どのような処罰を受けようと、異論はないな」
「……はい」
ニーナは小さく頷いた。
カイトは悪魔のように微笑む。
ついに罪人に審判が下るときがやってきたのだ。ニーナ静かに目を閉じ、次の言葉を待った。
「……では、ニーナ。今日からお前は、お前の愚かな嘘の通りに行動しろ」
たっぷりの沈黙の後、ぱっちりと目を開けたニーナの口から出た「は?」の一言は、随分間抜けな響きをしていた。
→