1章6話 クリストフという少年
クリストフ・ドレンシア・ランドシャは、天才を自認していた。そして事実、彼は極めて優秀な少年だった。
クリストフは、かつて大陸を席巻した銀の帝国オグルリヒテンの上級貴族の家系に産まれた。『征帝』の憂き目にあって滅んだ一族の、最後の生き残りだ。
征帝当時、産まれて間もなかったクリストフは、乳母に匿われ、処刑を免れた。中立地帯である商国ホルス・ロウで、父バリウスと懇意だった商人の孫として、大切に育てられた。
皇帝の直参だったドレンシア家は、代々学者の家系だった。その血を色濃く継いだクリストフも幼い頃から利発で、神童と呼ばれていた。ダンマー人に多い銀色の髪はホルス・ロウでは珍しがられたが、その特徴がまた噂を呼び、商都の一部では、ちょっとした有名人であった。
クリストフがミルズフィア学院に入学したのは、二年と少し前、十歳の時のことだ。父バリウスが商人と交わした約束であったらしい。クリストフ自身は別段、親の意向に興味は無かったが、知識欲豊富なクリストフにとっては、貴重な書物に溢れるミルズフィアは、楽園のような場所だった。
クリストフは一年次から頭角を現し、あっという間に主席になった。ここにも、クリストフに敵う級友はいなかった。
クリストフは級友達から尊敬されたが、クリストフは彼らと友人になろうとは思わなかった。口には出さないが、レベルが低い連中だと思っていた。
ライバルと言えるほどに優秀だったのは、同い年のシフォンという少女くらいだった。だが、シフォンもクリストフと比べてしまえば、特別何が秀でている訳でもない。加えてクリストフもシフォンも人との関わりを積極的に持つタイプではなかったので、会話を交わすことも無く、二年の月日が流れた。
二年生までは、読み書きや算術などの一般的な教養や、魔道の基礎理論や歴史と言った、座学の講義ばかりだった。天才たるクリストフには、イストゥール古代語の習得も、さしたる苦労は無かった。
二年生の終盤から、魔力を引き出す訓練が入り始め、三年生になり、ようやく初級魔法の実技が始まった。クリストフは魔法使いとしての才能にも恵まれており、その豊富な知識に裏打ちされた理解力、応用力で、実技でも飛び抜けた成績を修めた。
しかし、クリストフは知ってしまった。こと、魔術の扱いに関してだけは、自分よりも遥か上の実力者が、級友の中にいたことに。
オルフィーナ。クリストフが、ただの幼稚な小娘だと断じていた、田舎臭い三つ編みの少女がそれだった。
彼女が野放しの家猫であることは導師から聞いていたので、素を引き出すのが誰より早かったことは、特に気にならなかった。最初から出来るからこそ、野放しの家猫なのだ。
何度かベラルカ導師の初級魔術の実技演習を経て、クリストフは軽くオルフィーナを追い抜いたことを確信した。オルフィーナは絶望的に物覚えが悪く、呪文も所作も、およそ作法と言えるものは総て、簡単な初級魔術のものですら、おぼつかなかったのだ。
転機は、三ヶ月ほど前の、対抗魔法の初めての実技だった。それまでベラルカ導師に習っていた初級魔術とは明らかに毛色が異なる『魔力の盾』の謎掛けに、オルフィーナは――相変わらず頭は悪かったが――見事、答えて見せたのだ。オルフィーナは明らかに、クリストフには見えない何かを見ていた。間違いなく、その時のオルフィーナは、クリストフを凌いだのである。
それから、オルフィーナはメキメキと実力を伸ばし始めた。クリストフから見ると、理解ができない事態だった。
オルフィーナは、実技演習の間ですら、呪文が書かれた魔導教本を手放さなくなった。導師に指名されても、教本を辿々しく読んで、呪文を唱えるのだ。所作に至っては、杖を適当に振り回しているだけ。何から何まで出鱈目だ。でも、何故か術は発動する。それどころかオルフィーナは、いつも誰よりも早く、新しい術を成功させた。
最初は導師達も、教本を丸読みするオルフィーナを叱っていたが、頑固に「わたしバカですから!」と言い張り続ける彼女に、いつしか諦め、好きにさせるようになっていた。
いや。導師達も気づいていたのだろう。そんなやり方で術が使えるオルフィーナは、普通ではないのだと。
――何なんだ。一体何なんだ、この女は。
クリストフは、苛ついた。バカか、さもなければ天才か。そのどちらかだろうと思った。
そして、一つの確信を得る。彼女こそが天才なのならば、自分は少なくとも魔法の分野では天才ではないのだろうと。
気がつけば、クリストフはいつもオルフィーナを目で追うようになっていた。何を考え、どんな練習をしているのか。普段どんな話をしているのか。彼女の探求に、心を奪われていた。
そして、正に今日。クリストフは、学院の裏山に、秘密の訓練場を見つけたのだった。
木陰からクリストフが見つめる先。同級生のシフォンが、杖を水平に真っ直ぐ突き出し、口を真一文字に結んでいる。呪文は一切、唱えていない。身ぶり、手ぶり。定式にあるような所作は、何もない。
しかし、シフォンの杖から風が噴き出したのを見て、クリストフは大きく目を見開いた。風は足下の雑草を揺らし、正面に立つオルフィーナの三つ編みとローブの裾を大きく巻き上げて、その背後の木立まで揺らした。予想外の風圧だったのか、オルフィーナが「うわわわわ!?」と叫びながら仰け反って、腕をブンブンと振り回す。
それを見て、シフォンは慌てて術を止めたようだ。途端に風がぴたりと止み、オルフィーナはその場に尻餅をついた。膝下まであるローブが大きくめくれあがり、太股が丸見えになっている。
「あたたたた……」
お尻をさするオルフィーナに、顔を青くしたシフォンが駆け寄った。
「ごめんなさい、こんなに強い風になるなんて思わなくて。大丈夫?」
「あはは、大丈夫大丈夫。ちょっと風の素が多すぎたね」
笑顔で手を振るオルフィーナ。クリストフは遂に我慢できず、そんな二人に声を掛けた。
「今のは、無詠唱魔術か?」
いきなり現れたクリストフを見て、二人の同級生は、面食らったようだ。シフォンは思わず杖を取り落とし、両手で口元を押さえた。一方のオルフィーナは小さく悲鳴を上げながら、乱れたローブの裾を両手で膝の間に捻りこんだ。
「質問に答えたまえ。今のは無詠唱魔術だろう。そうだね?」
つかつかと歩み寄りながら、詰問するように繰り返すクリストフ。
――いけない。僕の悪い癖だ。少し高圧的になってしまった。
柔らかく言い直そうとした時、「そうよ」とシフォンが答えた。震えの混じった、掠れた声だ。全く同時に、オルフィーナが「見たの!?」と裏返った声で叫ぶ。
「ああ、確かにこの眼で見たとも」
クリストフは内心で二人を警戒させてしまったことを後悔しながらも、表情には出さなかった。
この反応からして、導師達にも内緒の、秘密の訓練だったのだろう。無詠唱魔法は学院では教えていない。研究者として研究している魔道士はいるそうだが、少なくとも初級の詠唱魔法もおぼつかない見習いには過ぎた技術と見なされているのは間違いない。練習していると知れたら、杖を取り上げられることだろう。
だが、現に出来ている。シフォンは間違いなく、無詠唱魔術を成功させたではないか。クリストフは、柄にもなく胸が躍るのを感じていた。
「君達が善ければ、ぼ」
「もー! クリスのエッチ!」
「……え?」
だが、クリストフの交渉は、一歩目を踏み出す前にオルフィーナによって叩き潰された。
「変態! この変態!」
いきなり横っ面を引っぱたかれたように、間の抜けた顔で立ち尽くすクリストフ。未だかつて、彼に対してこのような罵詈雑言を投げてきた級友はいない。
「ちょっと待てオリィ。君は何を言ってるんだ」
「だって、見たって言ったじゃん!」
「いや、見たけど」
「ほら!」
顔を真っ赤にして裾を押さえるオルフィーナを見て、クリストフはようやくオルフィーナの勘違いに気づいた。
「いや、違う。そうじゃない。君の下穿きの色になんか興味はないんだ」
クリストフの弁解に、何故かオルフィーナだけでなく、シフォンまでもが表情を強ばらせた。本当の事を言っただけなのに。
「やっぱり見えてたんだ……」
半べそをかきそうな顔で、ショックを受けたように呟くオルフィーナ。そんな友人を気の毒そうに見やると、シフォンは怖ず怖ずとクリストフの方を向いた。
「クリス君、お願い。この事は、内緒にして。オリィは悪くないの。わたしがオリィにお願いして、教えてもらってたの」
シフォンの懇願を聴いて、クリストフは驚いた。教えて貰っていたと言うのか。自分に次ぐ成績を誇るシフォンが、このオルフィーナに。
「それがダメならせめて、わたし一人でやったことにして。お願い」
クリストフが黙っていると、シフォンの表情がどんどん泣きそうな顔になっていく。彼女もまた、大きな勘違いをしている。クリストフは自らが招いたこの状況に、頭を抱えたくなった。一体、何を間違えたんだ。
兎に角、誤解を一つずつ解いていくしかない。まずは、話が分かりそうなシフォンからだ。
「違うんだ。僕の話を聴いてくれ。僕は君達を糾弾する気はさらさらない。寧ろ」
「あ、ひょっとしてクリスってば、仲間に入りたかったの?」
立ち直ったらしいオルフィーナの明るい声に、クリストフは、「よ、要はそう言うことだ」と頷いた。いきなり核心を突いてくるか。話が早くて助かるが、どうにも、オルフィーナと話をするとペースを崩される。
「僕も、無詠唱魔法には非常に興味がある。お願いできないだろうか」
シフォンは驚いた顔で、クリストフとオルフィーナを交互に見た。
「いいよ! ね、いいよねシフォン!」
「え? ええ……うん。喜んで……歓迎します……」
半ばオルフィーナの勢いに圧されるように、最後は何故か顔を赤らめながら、消え入りそうな声でシフォンも同意した。
こうして、こっそり無詠唱魔法を練習してすごい魔道士になってみんなをびっくりさせようの会、略して「びっくり会」に、三人目のメンバーが加わったのであった。