1章5話 無詠唱魔術
「――ルール、ヴィリ・ヴァスヒ」
シフォンは、大きく息を吸い込むと、覚えたての呪文を唱え始めた。
「イーヴェ・ヴァスヒ・シセラ」
水の素を引き出しながら、杖を一周。
「ヨール・イザフ」
地の素。
「ファウ・シセラ、シセラ」
ぐるりと杖を一周、二周。二つの素を円盤状に渦巻かせるイメージで流れを作り。
「フィー・モーフェ・マギカ・ヴォーレ」
これを始海に巡らせて、『魔力の盾』が完成……
「……あ、あれっ?」
素の端を再び始海に戻そうとしたが、上手く始海に繋がらない。引き出した素が行き場を失い、膨れ上がるのが分かる。シフォンは焦りを感じながら、杖を回して何とか流れを維持した。だが、次の周回も、その次も、始海に素を流し込むのに失敗してしまう。
そして三周目。既に、流れが大きくなりすぎている。魔力がどんどん吸われていくのが分かる。早く制御しないと。
だが、始海への扉がどうしても開けない。素を引き出すために、既に一つ開いているからか。二つの扉を同時に開く練習を、先にしておくべきだったんだ。
術として発現させることも、始海に戻すこともできない。現界に引き出した流れがあまりに大きすぎる。魔力で渦の流れを維持できなくなり、太くなった素が暴れ始める。遂には水の素と地の素がバラバラになって、鞭のようにしなり始めた。
「きゃ、ちょっ……!」
身の危険を感じ、パニックになるシフォン。暴走、という二文字がシフォンの頭を過ぎった。
魔術の暴走とは、魔法使いが自分の限界を超えた量の素を引き出した結果、素をコントロールできなくなった状態の事を言う。ひとたび魔術が暴走すると、何が起きるか分からない。爆発が起きて命を落とした者。すべての魔力を吸い尽くされ、再起不能になった者。腕の一本くらいで済めば軽い方だと言ったときのベラルカ導師の声色を思い出し、シフォンの背筋が寒くなる。
「やだ、助けて、助けてオリィ!」
シフォンは思わず、隣で見守る親友の名を呼んだ。無駄とは分かっていながら。
わたし達は、まだ見習いだ。暴走しかけた魔力を、自分たちだけで何とかできる訳がない。もっと、慎重にやるべきだった。
「はーい、お任せ!」
だが、返ってきたのは場違いに明るいオルフィーナの声だった。オルフィーナは気安い返事と共に、いきなりシフォンの手元に自分の杖を差し込んだ。途端に、暴れ回っていたシフォンの地の素と水の素が、オルフィーナの杖に巻き込まれるように消えていく。シフォンが何が起きたのか理解するのには、数秒を要した。
オルフィーナの杖の周りの透明な揺らぎは、昨日見たのと同じだ。そう、ダグラス導師が使っていた。
(これって、『魔力の盾』!?)
オルフィーナは、シフォンの暴走する魔力を『魔力の盾』で吸収しているのだ。
「シフォン。シフォンってば。術を止めないと倒れちゃうよ?」
心配そうなオルフィーナの声に、シフォンは我に返った。そうか。式の維持を止めれば良かったんだ。何やってるんだろう。
シフォンが扉を閉じ、魔力の供給を止めると、暴れ狂っていた素の流れはぴたっと止まり、後にはオルフィーナの『魔力の盾』だけが残った。
「はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……」
激しく息を切らせて、シフォンはその場にへたり込んだ。頭がくらくらする。大量の魔力を一度に放出したからだ。
「シフォン、大丈夫?」
心配そうにしゃがみ込んで、シフォンの背中をさするオルフィーナ。シフォンは思わず、オルフィーナにしがみついた。
「シ、シフォン……?」
戸惑うオルフィーナだったが、すぐにシフォンの体が小刻みに震えていることに気づき、ぎゅっとその細い体を抱きしめた。
「うん、びっくりしたねー。もう大丈夫だよー」
ポンポン、と背中を叩かれ、シフォンはやっと、声が出せた。
「こ……怖かった……。死ぬかと思ったよ……」
絞り出すように呻くシフォン。目に涙が滲んでいる。だが。
「あはは、大袈裟だよシフォン」
ころころと笑われて、シフォンは思わずオルフィーナを睨みつけた。自分は本当に死を覚悟したのに。笑うなんて酷い。でも、オルフィーナに悪気は無さそうだ。勉強嫌いのオルフィーナのことだから、魔力が暴走したときに何が起きるか聴いていなかったか――それとも、誰より正しく理解しているか、だ。
シフォンは大きく深呼吸すると、オルフィーナの薄い胸元から顔を離した。
「……ありがと、オリィ」
「ううん、いつも勉強教えてもらってるんだもん、言いっこなしだよ」
明るく笑って、オルフィーナはシフォンの肩をポンポンと叩いた。思わず微笑むシフォン。
「て言うかオリィ、今『魔力の盾』使ったよね」
シフォンが指摘すると、オルフィーナは目をぱちくりさせた。
「え? 『魔力の盾』?」
「違うの? ダグラス導師の盾と同じように見えたけど」
オルフィーナは暫し考え込むように頭を可愛くカクカクさせると、出し抜けに大声を出した。
「ホントだ! わたし今、『魔力の盾』使えた!」
今更のようにその事実に気づき、はしゃぐオルフィーナ。
練習開始直後の一回目。先に試行したシフォンが失敗し、それを助けるべくオルフィーナが使ったのが、正に今練習している『魔力の盾』の術そのものだったのだ。
「あんな使い方もあるのね……凄いよ、オリィ」
暴走した式を吸収するという、使いどころとしてはイレギュラーな場面で、初めて使う術を見事に応用してみせたのだ。その冷静な処置にシフォンは、素直に感心した。
だが、オルフィーナの口から出てきたのは、思わず背筋が寒くなるような台詞だった。
「あのね、どうやって術の暴走止めればいいんだったか忘れちゃったから、何とか素の流れをわたしの方に持って来られないかなーって考えたの。それで、何となく素を始海に引っ張り込んじゃえばオッケーかなーって思いついたから、そんな感じで」
「そんな感じでって……『魔力の盾』を使うつもりは無かったの?」
「うん。でも、『魔力の盾』を習ったから、それを思いついたんだと思うよ。始海に素を流し込むなんて、昨日まで考えたこと無かったもの。ダグラス導師に感謝だよね」
その『魔力の盾』の練習のせいで、シフォンはこうしてへとへとになって座り込んでいるわけだが。シフォンは引きつった顔で、「そうね」と曖昧に返事した。
「……思い出した。友達が術を暴発させそうになってたら、杖を叩き落とせって言うのが、ベラルカ導師の教えだったっけ」
術が暴走している最中は、そんな考え、頭の片隅にも過ぎらなかった。せめて、練習を始める前に思い出しておくべきだった。
オルフィーナも、思い出した思い出した、と手を叩きながら、結果オーライだね、と笑った。
「じゃ、もっかいやってみるね」
オルフィーナは弾けるように立ち上がると、杖をくるんと回し、「えいっ」と可愛らしく掛け声を上げた。途端に、杖の先にキノコの傘のような透明の揺らぎが生まれる。ほんの一瞬の出来事だ。
――無詠唱魔術……。
思い返せば、先ほどもそうだったのだろう。呪文も唱えず。大仰な身振りも交えず。「えいっ」の声一つで、盾を出して見せたのだ。
――わたしは、才能が無いのかも知れない。
シフォンは、杖から自分で出した『魔力の盾』をぐるぐる回しながら観察するオルフィーナの姿を見ながら、溜め息を吐いた。
オルフィーナが天然――もとい天才なのは知ってはいたが。まさか、練習を始める前の最初の一回から、無詠唱で術を発動させるほどだとは思っていなかった。それに引き替え、自分のこの体たらく。オルフィーナがいなかったら、今頃どうなっていたか分からない。
ふと、クリストフの横顔が浮かぶ。やっぱり、オルフィーナには勝てないのだろうか。
「……うん、多分合ってるね」
そんなシフォンの内心など知らないまま、注意深く盾全体を調べていたオルフィーナだったが、やがて満足そうに頷くと、
「じゃ、呪文覚えよっと」
また、訳の分からない事を言い出す。
「いやいやいや。おかしいおかしい。オリィ、それ絶対おかしいから」
シフォンに全力で否定され、オルフィーナは、きょとんとしている。
「なにが?」
「だって、術できてるよね。呪文が無くても、術、使えてるよね」
「それは、うん、そうだけど。でも、まねっこだよ?」
「まねっこ? また?」
「うん。今度はダグラス導師がゆっくり見せてくれたから、ダグラス導師のまねっこなの」
見るだけで、素の織り方が解るものなのか。術が発現する前ならシフォンにも、どんな素がどんな流れになっているのか、朧気には見える。素を引き出せるようになるとは、そう言うことだ。導師の補助を得ながら、少しずつ万物素を引き出す感覚を身に付け、半ば全身で万物素が見えるようになってくるのだ。
でも、発現した術は、存在がより確立された状態になるので、素の流れが見え辛くなる。オルフィーナが観察していたのは、完成した『魔力の盾』だった。そこから織り方なんて。
――見えるんだ、野放しの家猫には。
シフォンは確信した。彼女の言う『まねっこ』とは、つまりそう言うことなのだ。術そのものの組成を目で見て理解し、それを再現しているのだ。これは――もしかすると、物凄い才能なのではないだろうか。
「……オリィはそれで、いいんじゃないのかな。ユウさんも、そう言ってたんでしょ?」
彼女が尊敬するユウの名を引き合いに出すと、オルフィーナは困った顔をした。
「うん……だから、術はそうやって覚えようかなってやってみてるんだけど。でも、呪文も知らないと何か、魔道士っぽくないもん」
オルフィーナらしい理屈に、シフォンは思わず吹き出した。馬鹿にされたと思ったか、ぷうっと頬を膨らませるオルフィーナ。
「シフォン! わたし、真面目に言ってるの!」
「ごめんなさい。馬鹿にした訳じゃないの」
とは言え、本当に意味があるのかは疑問だ。普通の魔道士は、呪文と決められた所作に合わせて式を織る。でも、シフォンの理解では、呪文そのものに特別な力は、きっと無い。所作も同じだ。でないと、無詠唱で術が使える理由が説明できない。重要なのは、素の織り方。多分、それだけだ。
ただ、基本的な呪文と所作、引き出す素とその織り方にはパターンがある。今回のように新たなパターンが出てきたときには苦労するが、それをひと通り身に付けたら、あとは術ごとに、その組み合わせを覚え、呪文の通りに身体を動かすだけで良い。イストゥール古代魔法は、上級の魔術までそうした体系でまとめられていると言うのが、シフォンが考えた推論である。
でもオルフィーナの場合は、呪文は一応唱えてはいるものの、所作が全く伴っていない。それどころか、式を織るのが早過ぎて、どんな早口でも追い付けないだろう。要するに、シフォンから見ると、呪文を唱えている意味が無いのだ。
オルフィーナと話をして、シフォンは確信した。イストゥール古代魔法の作法は、見えない人が見えない素を織れるようにするための、言わば凡人のための作法なのだと。必ずしも、天賦の才に恵まれた野放しの家猫に向いた作法ではないのかも知れない。
シフォンがそう自分の考えを説明すると、オルフィーナは目を丸くして驚いた。
「すっごいよシフォン。大発見だね。
……そう言えばユウさんも、導師じゃなかったら呪文は別にいいよ、みたいに言ってた。あれって、そう言うことだったんだ」
「うん、きっとそう。だから、オリィはまねっこで良いって言ってくれたのよ。
……でもこの話、導師様にはしない方が善いかも知れないね」
「んー? 確かに、教えてること完全否定みたいな勢いになっちゃうかぁ」
導師達が教えているのがあくまでもイストゥール古代魔法である以上、その作法に従わない生徒は不合格の烙印を押されてしまうかも知れない。それは、二人とも困るところだった。
二人は一旦話を切り上げると、シフォンの『魔力の盾』の練習に戻った。シフォンが、素を始海に戻すコツを尋ねると、オルフィーナは暫し小首を傾げて、「ちょっと大きめに穴を空けとけばいいんじゃない?」と助言した。
「え? 同じ扉に戻してたの?」
てっきり、扉を二つ用意するものだと思っていた。引き出す素の流れと戻す素の流れが干渉したりしないのだろうか。
シフォンが聞くと、素の束と同じくらいの間隔が空いていれば――要は接触しなければ大丈夫、とオルフィーナは答えた。感覚的には今開けている扉のサイズは素の流れと同じくらいだから、三倍くらいの大きさにしないといけないのか。集中力が問われそうだ。
オルフィーナが言うには、扉を同時に二つ作る方が遥かに難しく、彼女でもそれと素のコントロールを同時に行うことはできないらしい。右手と左手に、同時に全く違う動きをさせるような感覚だそうだ。
「ダグラス導師もそうしてたよ。でも、くっつかないように出す方と入れる方をしっかり押さえないといけないから、結構、力業だね」
オルフィーナが力業と言った意味は、二度目の試行でシフォンにも解った。今度は三周回した素の流れを扉に戻すことには成功し、一瞬『魔力の盾』を生み出すことはできた。だが、三つ数えるより早く、僅かにブレた戻る素の流れが、引き出す素の流れに触れてしまった。するとたちまち、引き出す流れが戻る流れに絡め取られ、盾ごと始海に吸い込まれてしまった。かねてからのシフォンの懸念どおりだ。元々無理矢理始海から汲み上げているので、引き出すよりも戻る方が、圧倒的に強いのだ。
ダグラス導師が、流れのコントロールに苦労すると言っていたのはここのことだろう。多分シフォンは、難しく考え過ぎていたのだ。
「オリィと一緒だと、凄く捗るよ」
何が起きて失敗したか、何が悪かったか、見てすぐ教えてくれるオルフィーナの存在は、非常に大きかった。シフォンは親友に感謝すると、三度目の試行に入った。今度は扉をもうひと回り大きくし、扉の付近で素の流れが拡散しないように、注意深く捻りこんだ。紙縒を作るような感覚だ。そして、戻す方の流れにも同じアレンジを加え、扉に入れる。今度は流れが安定した。杖の先に透明な盾が発生し、十数える間、それを維持することができた。成功だ。
見届けたオルフィーナは、パチパチと拍手してシフォンを労った。
「凄いね、シフォン。あんな風に捻ってバラけないようにするなんて。感心しちゃったよ」
「うん、お裁縫だったらどうするかって考えてね。結構、そう言うのがヒントになるんだね」
「そうそう! よくあるよね、そういうの! ……あ、でも、戻すところは捻らない方がいいかも」
「どうして?」
「だってほら、盾が魔術を防いだ後って、違う素も取り込んじゃってるでしょ? 絡まっちゃいそう」
「あ……なるほど。そうね」
シフォンはオルフィーナの指摘に納得した。何が含まれているか判らない素の流れを捻ったりしたら、どんな反応をするか、想像もできない。アレンジするのは、引き出す側だけで良いだろう。
そこからまた三回練習して、シフォンもオルフィーナも、ほぼ完璧に『魔力の盾』の術を使いこなせるようになった。
いつになく順調に自主練習が終わったので、シフォンはふと、その先が見たくなった。
「ねえ、オリィ。わたしも無詠唱魔術が使えるようになりたいな」
シフォンは、笑われるのを覚悟で、そう切り出した。
オルフィーナは、笑った。でも、小馬鹿にしたような笑い方ではない。心底から嬉しそうな、満面の微笑みで、「うん、じゃあ一緒に練習しよ!」と頷いてくれた。否定的な反応が皆無だったことに、逆に戸惑うシフォン。
「オリィは、わたしにも使えるようになると思う?」
シフォンが怖々尋ねると、オルフィーナはさも当たり前のように頷いた。
「だって、わたしにできるんだから。シフォンができないわけないじゃん」
滲み出る信頼。オルフィーナの中では、シフォンは、自分よりも優れた才能の持ち主ということになっているのだろう。そのキラキラとした真っ直ぐな目に、シフォンは思わず釣られて頷いた。この視線に込められた親友の期待は、裏切れない。
「それに、シフォンと一緒にだったら、新しいこと見つけられそうだし! わたしは大歓迎だよ。ね? いいでしょ?」
自分から切り出した筈なのに、気がつけばオルフィーナの方から勧誘されている。あべこべだ。
シフォンは苦笑すると、オルフィーナの誘いを快諾した。
こうして、この日を境に、二人は本格的に無詠唱魔術の自主研究に取り組むことになる。
オルフィーナとシフォン。この二人が無詠唱魔術の使い手としてミルズフィアを騒がせることになるのは、もう少し先の話である。
そして、彼女たちの隣には、もう一人の天才が寄り添うことになるのだ。