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1章2話 家猫の邂逅

「本当に、あの野放しの家猫(セスト・ミウ)さんには困りますね」

 ベラルカが溜め息を吐いてティーカップを口に運ぶのを見つめながら、ミランダは小首を傾げていた。出来の悪い生徒にも根気強く教え込むのが得意な、辛抱強いベラルカにしては、珍しい弱音だ。

 食堂を行き交う生徒の中に彼女の姿が無いか、ミランダは首を巡らせた。偶々目があった若い女生徒が、「お先に失礼します、ミランダ導師」と一礼した。

 食堂から出るときまで、そんなに堅苦しく気を遣うことは無いのに。

「良い夕べを、お嬢さん」

 微笑みを返してあげると、女生徒は笑顔でもう一度お辞儀をした。

 笑顔は大事。ベラルカは、少しは笑顔を覚えるべきね。いつも岩みたいな仏頂面ですもの。

「ええと、誰のことですって?」

 ミランダがとぼけると、ベラルカは苦い顔をした。

「先週も貴女に相談したばかりでしょう。オルフィーナさんですよ」

「ええ、そうでしたそうでした。先週は、一人だけ灯火の術ができなかったんでしたっけ?」

 その後の補習で、呪文を唱えて杖に光を灯すところまでは、何とか追いついたと聞いているが。

「灯火の呪文と光球の呪文は、似ています」

「ええ、光球の呪文の前半は、正に灯火の呪文そのままですね」

 光の生み出し方は同じなのだから、当然だ。

「なのにあの娘ときたら、その前半の呪文が言えなかったのですよ。ほんの三日前に補習したばかりなのに。本質を理解していないのです」

 落胆した顔で悲しそうに呟くと、ベラルカは、もう一度、溜め息を吐いた。

 ミランダは、オルフィーナの顔を思い浮かべる。ミランダの歴史学の講義中も、半分以上は船をこいでいるような娘だ。尤も、これは何も、オルフィーナに限った話ではないが。ただ、オルフィーナは戦争の歴史にだけは、強い興味を示す。男の子のように、英雄達の活躍に目を輝かせる訳ではない。戦争そのものに対して、ひどく哀しがるのだ。

「戦争はどうすれば無くせますか、ミランダ導師」

 無垢な彼女のその質問に、自分は果たして何と答えたのだったか。

「あんなに物覚えが悪い生徒は久しぶりです。野放しの家猫(セスト・ミウ)は自分のやり方に拘る頑固者が多いのは知っていますが、初級の呪文で躓くようでは、先が思いやられます」

 ミランダの印象としては、オルフィーナは決して愚鈍だとも、記憶力に劣っているのだとも思わない。ただ、何と言うか、思考が常人離れしているのだ。頭を使うポイントが、明らかにずれている。

「そこまでの娘だった、と言うことかも知れませんよ」

 少し意地悪い気持ちになって、ミランダはそう言った。

 確かにオルフィーナは問題児ではあるが、そのような生徒は例年、二、三人はいるものだ。どんなに努力しても初級から先に進めない生徒が半数だし、魔力を引き出す事すらできずに魔法科から去っていく生徒だっている。どうしても、才能に依るところが大きいのだ。ベラルカほど経験のある導師ならば、オルフィーナは特別ダメな生徒とも言えないはずだ。

「そんな訳がありません。あの娘は素を織る才能に恵まれています」

 予想通りベラルカは、真剣な顔で身を乗り出してきた。

「呪文を唱えた後の素を織る手捌きは、それはもう見事な物でした。鍛えれば導師級の実力を身に付けられる才能があります。この私が、保証いたします」

 ミランダは苦笑した。期待するからこその失望、と言うわけだ。

 正にベラルカは、頑固なサルタ人そのものだ。自分が正しいと思ったら、頑として譲らない。同郷の贔屓目を抜きにしても、何とかオルフィーナをモノにしたいと思っているのだろう。

「なるほど。でも呪文を唱えた後の、とは、とても奇妙に聞こえますね」

 普通の魔道士は、呪文を唱えながら、呪に合わせて素を織り上げるものだ。それが呪文の後に来ると言うことは、呪と所作がバラバラなのだろう。術の作法に則っていない。野放しの家猫(セスト・ミウ)にはよくある話だ。要するに、魔術の体を成していないのだ。

「彼女の式は、そう。非常に……独創的でした。基礎的な作法を、きちんと教え込まなければなりません。野放しの家猫(セスト・ミウ)ならばそれで十分でも、魔道士としては直ぐに行き詰まってしまうでしょう」

 上級の術にもなると、複数の式を組み合わせた複合式を織り上げる技術が求められるようになってくる。基礎的な初級の式を定式に従って織れないと、複合式に組み入れたときに、複合に失敗したり、思わぬ反作用をもたらしたりする。これは非常に危険だ。

 複合式を操ることが出来なければ、一人前の魔道士とは言えない。そのためにもイストゥール古代語は必須の基礎知識である。思い入れが強ければこそ、ベラルカも焦っているのだろう。




 ささやかな夕餉を食べ終え、ミランダはベラルカと別れて自身の研究室がある土の塔に向かった。

 砂の国ベアリスの生まれであるミランダは、厳格なベラルカとは逆に、どちらかと言えば奔放な導師と見られていた。導師然としたローブ姿でいることは式典を除けば殆どなく、薄手で身体の線を強調するような、良く言えば活動的な、悪く言えば扇情的な服装を好んだ。砂漠の民であるサンドラ人は髪の毛を細い何本もの三つ編みにするのが習慣だが、ミランダもその例に漏れず、長い三つ編みを何本も踊らせている。街文化が進んだホルス・ロウに来て、ミランダは更に、三つ編みに独自のアレンジを加えることにも楽しさを覚えるようになっていた。三十を幾つか過ぎて落ち着きが出、昔ほど無茶はしなくなったが、今でも気になったことには首を突っ込まずにはいられない性分だ。この学院で全界の歴史を研究しているのも、そんな性格から来ている。

 ミランダが広い廊下を歩いて、塔と塔を繋ぐ連絡通路の手前に差し掛かった時、光の塔の螺旋階段から、見覚えのない魔道士が降りてくる場面にかち合った。

 聖職者のような白いローブを纏った、目を引く赤毛の青年だ。サンドラ人の女性にしては長身なミランダよりも、頭二つ分は背が高い。恐らく二十代の半ばだろう。ミランダよりは、大分年下だ。恐らく外部の魔法学校を出た魔道士だろう。

 自分好みの若者だったので、ミランダは無意識に彼を目で追い掛けた。赤毛の青年は階段を降りると、ふと何かに気付いたように、中庭に目を向けた。そのまま迷いのない足取りで、中庭に向かっていく。

 この階段の上は、学院長ら学院のお偉方(アーキウィザード)の居住区だ。とすると、他の学校からの賓客なのだろうか。それにしては、随分と若い。ミランダは少し逡巡してから、彼の後を追い掛けた。

 中庭は、西日を受けて橙色に染まっていた。長い影を引きずりながら滑るように進んでいく青年の先には、見覚えのある女生徒の姿があった。

「ルー、ルシルト、ランフ、プニプニ、えと、えと……なんとかセーヤ!」

 三つ編みを揺らし、出鱈目な呪文を唱えながら練習用の杖を振るのは、ベラルカが頭を悩ませる野放しの家猫(もんだいじ)、オルフィーナだった。

 勿論、そんな呪文では術は発動しない。オルフィーナはくりくりとした大きな目をぱちくりさせて、「あれぇ?」と呟きながら、足下の魔導書を拾い上げた。

 ここでずっと練習していたのか。講義中の居眠りは多いが、彼女は基本的には真面目で努力家だ。こういった姿勢は好感が持てる。

 赤毛の魔道士は、そんな彼女を見守るように、少し離れた所で立ち止まった。ミランダも邪魔にならないよう、樹木の陰に隠れて覗き見た。

「ルー、ルシルト、ランフ、ラプニ、リヒ、リヒ、イピセーヤ。ルー、ルシルト、ランフ、ラプニ、リヒ、リヒ、イピセーヤ。ルー、ルシルト、ランフ、ラプニ、リヒ、リヒ、イピセーヤ」

 二人の魔道士に観られていることに気づきもせず、オルフィーナは共通文字(コモン)で読み方を併記した入門用の魔導書を何度も復唱しながら、『光球』の呪文を確認している。やがて納得したのか、魔導書を置いた。

「よーし、今度こそ!

 ルー、ルシルト、ランフ……ラプニ、リヒ、リヒ……イピセーヤ!」

 今度は辿々しいながらも、正しい呪文だ。しかし、所作が呪文に合っていない。これでは、正しい式は織れる訳がない。

 だが、ミランダは目を見開いた。オルフィーナの杖の先に光が灯ったかと思うと、木に向けて光が撃ち出されたのだ。だが光は真っ直ぐ飛ばず、途中で軌道を大きく上方向に曲げると、薄闇に包まれ始めた空に吸い込まれていった。

「もー。やっぱりこれだと変な方に飛んじゃうよぉ」

 もう厭だ、とばかりに、駄々っ子のように腕を振り回すオルフィーナ。しかし、ミランダは激しい衝撃を覚えていた。

(信じられない。何て速さなの)

 ベラルカの期待が高いのも頷ける。素を織り上げる手捌きが、全く見えなかった。導師級の魔道士でも、あんな速さで素を織れる者は一握りだろう。呪文と所作さえ伴えば、複雑な工程を踏まなければならない上級魔術の巨大な式さえも織り上げられるようになるのではないだろうか。なるほど、これは天才かも知れない。――でも、彼女を天才と呼ぶのは何か、違和感がある。

「お困りですか、お嬢さん」

 青年の声に、ミランダは我に返った。暫しオルフィーナを見守っていた赤毛の魔道士が、彼女に声を掛けているところだった。

「ええっと……?」

 初対面の人にいきなり声を掛けられ、面食らったように目をしばたかせるオルフィーナ。癇癪を起こしたところを見られていたことに気づいたか、顔が真っ赤になり、左手が落ち着きなくスカートの皺を摘まんでいる。

「私はユウと申します。この学院の者ではありませんが、魔法学校で生徒を教える立場におります」

 青年は、年下の見習いに対しているとは思えないほど丁重に挨拶すると、頭を下げた。オルフィーナも慌てて、頭を下げ返す。

「わたし、この学院の三回生で、オルフィーナです。オリィって呼ばれてます」

「ではオリィさん。貴女にヒントをあげましょう」

 そう言って、ユウは左手を胸の前に掲げた。その掌に、唐突に光が宿る。

「これが、貴女の光球です」

 そう言うと、ユウと名乗った魔道士は、弾くように光を押し出した。途端に光球は、螺旋を描くような軌道で、空中を駆け上がり始めた。オルフィーナは、ぽかんとそれを見ている。

(無詠唱魔法!?)

 ユウが、呪文を唱えた形跡はない。しかも素を織り上げたのは、先程のオルフィーナにも引けを取らない速さだった。この男、かなりの実力者だ。魔法学校の導師と名乗ってはいたが、一体、何者なのだろうか。

「そう、あんな感じで飛んじゃうんです。ユウさんには、何が悪いか判るんですか?」

「ええ、勿論ですとも。それでは今度は、これを比べてみて下さい」

 ユウは微笑むと、今度は左手に並べるように、右の掌も上に向けた。唐突に、三つの光球が生み出され、宙に浮かんだ。また、無詠唱だ。

「さあ、違いが判りますか?」

 ミランダには、その三つの光球の違いが判らなかった。敢えて言うなら、真ん中の光球が少し暗いことくらいか。

 だがオルフィーナは、驚いた顔で、あっ、と声を上げた。

「これです! この真ん中の! ベラルカ導師の織り方です! 右がわたしの織り方ですよね。左はこのぐるぐるが裏向きなのかな? へー、あ、ここかぁ。ここをこうして……うーん、こんなに違ったんだー」

 光を灯したユウの手元を覗き込みながら、しきりに何かに感心するオルフィーナ。

 ミランダは、戦慄を覚えた。おお、お師匠様。この娘には、一体何が見えていると言うのですか?

「はい、正解です」

 にっこりと笑うと、ユウは両手を下げた。右の光は螺旋を描いて上に飛び、左の光は沈みながら消えていく。そして、オルフィーナが選んだ真ん中の光だけが、中空に浮かんだまま、光を放ち続けた。

「それでは、これはどうでしょう?」

 おもむろに、ユウの目の前にもう一つ光球が出現した。隣に浮かぶ真ん中の光に比べると明るくて揺らぎが少なく、かつ安定して浮かんでいる。オルフィーナが、再び驚いた声を上げた。

「どうしてこの織り方を知ってるんですか?」

 オルフィーナの質問に、ユウは一瞬目を見開くと、少し嬉しそうに、これは驚いた、と呟いた。

「目的を果たすためには必ずしも、広く周知された作法が最適とは限りません。これは、永く、明るい光を灯すことを突き詰めた式です。貴女がこの織り方を知っているのであれば、それは恐らく、貴女がごくごく自然な姿勢として、理を追い求めた結果、同じ結論に至ったと言うことでしょう」

 ユウの説明に、オルフィーナが喜色を浮かべたのが分かった。思わぬところで仲間を得た。そんな喜びだ。

「えへへへへ。わたし、この織り方は間違ってるとばっかり思ってました」

「間違いなんてありませんよ。それも一つの術式には違いありません。

 でもね、オリィさん。貴女に一つ伝えておきたいのは、ある面では一見劣っていても、広く知られる作法にもまた、それなりの意味や理由はあると言うことです」

「ええっと、なるほど……?」

 相槌らしきものを打つオルフィーナ。あの顔は、絶対に理解できていない。

「……他の使い道があるということです」

「他の……? 照明の使い道……?」

 今度こそ、首を傾げるオルフィーナ。

 ユウは苦笑すると、「どうやら、貴女には実践が一番のようですね」、と小さく手を動かした。途端に明るい光球と暗い光球が、もう一つずつ生み出される。

 暫くすると暗い光球は、元あった光球に吸い込まれるように絡みつき、少し大きな一つの光球となって安定した。だが、明るい光球はいつまで経っても二つのままだ。それを見て、オルフィーナは目を輝かせてはしゃいだ。

「すごぉい! こんな風になるんだ、知らなかった!

 わたしの織り方だと、こんな事出来ないです。だから、導師(せんせい)も正しい織り方が大事って言ってたんだ!」

「納得して頂けましたか。もっと上位の魔術に触れるに連れて、基礎的なその織り方が如何に大事かが解るようになるでしょう。

 繰り返しますが、貴女のアプローチも大切なのです。きっとそれは、貴女にしかできない貴女の強みになるでしょうから。でも、今暫くは、基礎を完璧に身に着けなさい。独自の工夫を凝らすのは、それからでも遅くありません」

「は、はい、ありがとうございます! ……あ、でも、わたし、古代語が苦手なんですよ……」

 一時の興奮もどこへやら。現実を見つめ直したオルフィーナは、身をくねらせるように俯いた。本人は何の気なしの仕草だが、一々愛らしい。ユウは、優しく微笑むと、ゆっくりと首を横に振った。

「大丈夫。貴女は良い目を持っています。注意深く観察して、真似なさい。きっと入学以前は、貴女はそうしていたはずです。貴女には、そのやり方が一番合うと思いますよ」

「え? まねっこでいいんですか?」

 オルフィーナは驚きと嬉しさがない交ぜになったような表情で、くりくりとした目を輝かせた。ミランダも驚いた。この魔道士は、なんと言うことを吹き込むのだろう。彼は言外に、イストゥール古語を覚えなくて良いと唆したのだ。

「きっと、この学院の導師様方には批判されるでしょうけどね。イストゥール魔道の流儀には反しますから。でもね、オリィさん。魔法とは元来、そう言うものなのです。それを気にするのは、私のように教職に在りたいと願う者だけで十分なのです」

「?」

「オリィさんは将来、この学院で学んだことを使って何をしたいですか?」

「世界を平和にしたいです!」

 瞬き一つ分の逡巡もなく、元気な答えが返ってきた。横で聴いているミランダの方が恥ずかしくなるほどに、その言葉は真っ直ぐで、青臭かった。

 でも、ユウは笑わなかった。真剣な顔で頷くと、「素晴らしい抱負です」と呟いた。

「そして、素晴らしく健全な精神をお持ちですね。そんな貴女ならば、或いは理想にも手が届くかも知れません。

 ……少し長居をしてしまいましたね。私はそろそろ、失礼致します」

「え!? ……もう行っちゃうんですか、ユウさん?」

 オルフィーナが、悲しそうに眉をハの字にする。

「ええ、これ以上、貴女の導師様にご心配をお掛けするのも偲びありませんしね」

 ユウはやおら振り向くと、にこりとミランダに笑いかけた。彼と目が合い、戸惑うミランダ。一体、いつ気づいたのだ。もしかして、最初からか。

「あ、あの、わたしを弟子にして下さい!」

 唐突に、とんでもないことを言い出すオルフィーナ。ユウも、流石に驚いた顔だ。

「そうですね。貴女が学院を卒業した後ならば、考えても良いかも知れません」

 ユウはやんわりと断るが、オルフィーナは尚も食い下がった。

「でも……でも……もっと、いっぱいいろんな事を教えて欲しいです。わたし、ユウさんが先生だったら、もっともっといろんな事ができるようになる気がするんです。一人前の魔道士にだって、なれるかも知れません」

 何とかユウを引き留められないかと、オルフィーナは訴えかけるようにユウを見つめる。だが、赤毛の魔道士は優しい眼差しで首を振った。

「心配しなくても、貴女が努力を怠らなければ、この学院で立派な魔道士になれますよ」

 子どもに言い聞かせるようにそう告げると、ユウはオルフィーナの頭を撫でた。そしてふと思いついたように懐を探ると、鎖が付いた小さなペンダントを取り出した。銀の円盤に紋章のような精緻な意匠が彫り込まれた、その辺りの店ではちょっと取り扱っていないような細工物だ。紋章の中央には、麦粒ほどの大きさの、虹色の石があしらわれている。魔道士の杖にも使われる、魔法石だ。もっとも、この大きさではさしたる力もないはずだ。ただの飾りだろう。

「もし自分の成長に躓くことがあれば、このペンダントを見て、基本に立ち返って下さい。きっとそこに、答えが見えてきますよ」

 オルフィーナは躊躇いがちにペンダントを受け取ると、じっと円盤を見つめ、頷いた。

「貴女が一人前になったその時に、更なる深淵を求めたくなったならば、私は喜んで力と知恵を貸しましょう」

 オルフィーナは、泣き笑いのような表情でもう一つ、大きく頷いた。

「約束ですよ」

「ええ。では、いずれ。機会があれば、またお会いしましょう」 

 ユウはオルフィーナと、そしてミランダに一礼すると、真っ白なローブを翻し、滑るような足取りで中庭を後にした。

「あ、ミランダ導師……」

 ペンダントを大事そうに握りしめ、名残惜しそうに赤毛の魔道士の背を見送り。そこで漸く、オルフィーナはミランダがすぐ側に立っていることに気づいたようだ。

 ミランダは考え込むような顔でオルフィーナを見つめていたが、ややあって口を開いた。

「もうすぐ日が落ちます。修練は切り上げて、寮にお戻りなさい」

「は、はいっ! 失礼します!」

 ミランダの指示に、あわあわと魔導書を拾い上げると、オルフィーナは小走りに駆け出した。

「こら。あまり走ると」

 慌てて声を掛けるミランダ。

 しかし時既に遅く、オルフィーナは石に躓いてべちゃっと転んだ。

「……廊下は走るんじゃありませんよ」

 笑いを堪えながら平静を装って軽く叱ると、オルフィーナは涙を溜めた何とも情けない顔で、「ふわぃ……」と返事した。

 ――ああ。この子、天然(・・)なんだ。

 とぼとぼと立ち去るオルフィーナを見送ったミランダは、自分が口元を緩ませたままだったことに気づき、両手で自分の頬をぴしゃりと叩いた。そして、ふと先ほどのユウとオルフィーナのやり取りを反芻する。

 やがてミランダは、深く溜め息を吐いた。 

 あの邂逅が、オルフィーナにとって良かったのかどうかはまだ判らない。でも、何かの種が蒔かれたのは間違いない。それも、私の目の前で。

 歴史とは或いは、こんな何気ない一時から始まるものであることを、ミランダは知っている。


 そしてミランダの予感のとおり。オルフィーナが学院で頭角を表していくのは、そう先のことではなかった。

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