1章1話 野放しの家猫
ミルズフィア学院は、三百年の伝統を誇る魔法学校である。
賢者の学院、オルタナス魔道院と並び、三大学閥と呼ばれる魔法学校の名門であり、何人もの優秀な賢者を排出してきた由緒正しき学校だ。尤も、北のオルタナス魔道院は近年、度重なる魔王軍の襲来に呑み込まれ、今では魔王の支配下にあると聞く。遠くない将来、三大学閥は二大学閥と呼ばれるようになるのかも知れない。
翻って、商国ホルス・ロウに位置する南のミルズフィア学院は、至って平和であった。今年も世界各地から集められた才能豊かな子ども達が、一人前の魔道士となるべく、日夜勉学に勤しんでいる。
物語は、この学院に籍を置く、一人の少女から始まる。
「ではお手本を。シフォンさん」
本棚と、ガラクタのような壷や瓶に囲まれた広い講義室に、キビキビとした女性の声が響いた。髪に少し白いものが混じった、初老の女性だ。ゆったりとした黒い絹のローブを纏い、肩にはショールを羽織っている。ピンと伸びた背筋が、彼女の性格をよく表しているようだ。彼女は学院の授業を受け持つ導師の一人で、ベラルカと呼ばれていた。
「はい、ベラルカ導師」
彼女の足下にしゃがんでいた金髪の少女が、名を呼ばれて立ち上がった。十二、三歳だろうか。目許にそばかすが残る、まだあどけない顔立ちだ。黒い綿のローブは、ミルズフィア学院の制服だ。手には、紫色の石が先端に付いた、練習用の短い杖。少し緊張した面もちで二歩、前に出ると、少女――シフォンは杖を頭上に掲げ持ち、左から右へと揺さぶった。
「ルー、ルシルト、ランフ、ラプニ、リヒ、リヒ、イピセーヤ」
拙い呪文がシフォンの唇から紡がれると、埃っぽい講義室の薄闇に抗うように、杖の先端にはめ込まれた石から、淡い光が零れ出た。光は呼吸をするようにゆっくりと明滅しながら暫く石の上に留まっていたが、少女が慎重に杖を突き出すと、ふんわりと杖を離れ、歩くほどの早さで空中を漂い始めた。
「はい、お上手ですシフォンさん。みなさん、拍手」
満足そうな導師の声に応じて、シフォンを見守っていた十五人ほどの生徒たちが、一斉に拍手する。男女比は半々くらい。年齢はバラバラで、十歳を過ぎたくらいの少年もいれば、この春に成人の儀を迎えた若者もいる。シフォンは、自分が生み出した光が本棚にぶつかって固着したのを確認すると、気恥ずかしそうに一礼し、小走りに仲間たちの輪に戻った。
「よろしいですね。これが、『光球』の術です。夜の読書にとても重宝する術ですね。ではもうお一人。セルビオさん」
二人目の少年の呪文は、シフォンよりもずっと辿々しく、二回唱えても何も起きなかった。少年たちの間から、クスクスと失笑が漏れる。が、三回目で何とか杖に光を灯すと、慌てて杖を振り回した。でも、杖から放たれた光は、一メートルもしない内に、薄闇に溶かされるように、消えてしまった。
三人目の少年は杖に光は灯るが、その光が一向に杖から離れない。四人目も、五人目も同じだ。次第に、失敗しても誰も笑わなくなった。この術が、思ったよりも難しいことに気づいたのだ。本棚に明かりを灯せたのは一人目のシフォンだけだ。
「光の素を取り扱うのは二回目ですね。『灯火』の術の時にも説明しましたが、光の素は癖がないので、風の素や雷の素よりも、取り扱いは簡単です。でも、光の素は散乱しやすく他の素から影響を受けやすいので、体から離して使うのは、単に光を灯すよりも、ずっと技量を要するものなのです。では次。オルフィーナさん」
ベラルカ導師が、次なる生徒の名を呼ぶ。が、返事はない。
「オルフィーナさん?」
戸惑いながら足下の生徒たちを眺めるベラルカ。生徒たちも一斉に、オルフィーナの方を振り向いた。黒い三つ編みの小柄な少女が、膝を抱えてコックリコックリ、首を前後に揺らしている。
「ちょっと、オリィ!」
シフォンが、慌ててオルフィーナの脇を肘で小突く。
「ふえ」
可愛らしく呻いて目を開けるオルフィーナ。その瞬間、ベラルカと目が合った。
「オルフィーナさん。そんなに私の講義は退屈ですか?」
頬をひきつらせるベラルカ導師を見て、オルフィーナは竦み上がった。
「あわわ、ごめんなさい寝てません! いえ、寝てました!」
支離滅裂なオルフィーナの悲鳴に、周りの生徒から笑いが起きる。我が事のように、顔を赤らめて俯くシフォン。
「『光球』の実技です。やって見せなさい」
「はっ、はいぃ!」
厳しいベラルカの指示に慌てて立ち上がると、オルフィーナは杖を掲げた。
「えっと……ル、ルールー、ルシリト、ランプル、えっとえっと……」
杖を頭上に掲げたまま、固まるオルフィーナ。
「オルフィーナさん?」
「はい……」
「全然呪文が違います」
「ですよねー……」
「所作も無茶苦茶です。そんなでは正しい術式は織れません。次の講義までに練習してきなさい」
「はぁい……。……だって呪文、無駄に長いんだもん……」
不満げな少女の呟きに、ベラルカは再び頬をひきつらせる。
「何か言いましたか?」
「いえ! 練習しまーす!」
「……よろしい」
ベラルカはオルフィーナに背を向けると、生徒たちに向き直った。
「さて。講義時間が終わりますね。オルフィーナさんは論外として、皆さんもまだまだ、『光球』の術を使いこなすには未熟のようです。次回もう一度、光にまつわるイストゥール古代語と、術式の所作をお浚いしましょう。良いですね。一流の魔道士になるには、完璧に呪文と所作を覚え、息をするように自然にそれらを紡ぎ出せるようにならなければなりません。練習あるのみですよ」
ベラルカの言葉を聞きながら、オルフィーナは萎れたように溜め息をついた。
一流の魔道士への道は、果てしなく遠そうだった。
「ねぇシフォン。何で魔法を使うのに、呪文を唱えないといけないのかなぁ」
昼休み。春の陽気の下。芝生の上に寝ころびながら、オルフィーナは隣でランチを食べるシフォンに問いかけた。シフォンは、目をぱちくりさせると小首を傾げた。
「そう言うものなんじゃないの?」
「だって、イストゥール古語とか、難しすぎだよぉ。シフォン、何であんなの覚えられるの?」
起き上がって泣き言を言うオルフィーナに、シフォンは苦笑を禁じ得なかった。この年の近い友人は、魔術のみならず、歴史学や言語学など、暗記を求められるような科目が大の苦手だ。単に勉強嫌いなこともあるが、興味の対象の移り変わりが激しく、何か一つのことを集中して考えるのに向いていないのだろう。
「私は……他に取り柄がないからね」
シフォンは、同期の生徒の中では優等生と見なされていた。物覚えは良い方で、入学当初から成績が良く、オルフィーナとは対照的だ。
「でも、オリィだって実技は成績良いじゃない。魔法石から素を引き出す訓練でも、オリィが一番最初に出来たでしょ?」
パンを頬張りながら、シフォンはオルフィーナの顔を見た。トレードマークの黒い三つ編みをいじりながら、大きく可愛らしい目玉をキョロつかせている。頭がゆらゆら揺れているのは、彼女が何か考え事をしている時の癖だ。オルフィーナは、物覚えこそ良くないが、非常に直感が鋭く、時としてシフォンが目を見張るような本質を穿った発言をする。天才肌と言うのだろうか。入学から二年と少し。三年生になり魔術の修練が入って来て、シフォンはオルフィーナが魔法使いとして非常に恵まれた才能を持っていることに気がついた。
「だけど……。呪文を覚えないと魔法が使えないんじゃ、わたしいつまで経っても魔道士になれないもん……」
尤も本人は、自分に才能があるとは露ほども思っていないようだ。
「だから、呪文を唱えないで魔法を使えないかって話になるわけ?」
「うん。さっきの『光球』の術だって、正しい呪文さえ気にしなかったら、同じようなのはできるんだけどなー」
「……へ?」
オルフィーナが何を言っているか解らず、シフォンは間抜けな声を出してしまった。
「できるの? そんなこと」
「できるよ。ほら」
そう言うとオルフィーナは、指先に光を灯した。太陽の光の下でもはっきりと判る、強い光だ。オルフィーナは呪文どころか、杖さえ掲げていない。シフォンが口をあんぐり開けて呆けていると、オルフィーナは指を倒して十メートルほど離れた木を指さした。途端に光はその方向に走るほどの速さで飛んでいき、木の幹に張り付いて固着する。
「ね?」
「す……凄い、凄いよオリィ。無詠唱魔術じゃない! しかも、媒体無しなんて! 高位の導師でも、出来る人は少ないって聞くよ?」
興奮した様子の友人に苦い顔で首を振ると、オルフィーナは溜め息をついた。
「違うんだよ。これは、『光球』の術じゃないの」
「……違うの?」
「よく見れば判るよ。導師が教えてくれたのとは全然、織り方が違うの。だからね。これは魔術じゃなくて、ただのまねっこ」
「まねっこって……。そっか、オリィはセスト・ミウだったのね」
ごく希にだが、生まれつき、特殊な訓練を受けずに魔力で素を引き出すことができる子どもが生まれることがある。魔道士としての教育を受け始める前に魔力を操り始めた者を、学院では野放しの家猫と呼んでいた。
「そのなんとかミウって、入学したときに先生たちにも言われたことがあるんだけど。何のこと?」
イストゥール古代語なのだが、言語学が苦手なオルフィーナには理解ができないか。シフォンは、悪い意味じゃないよ、と笑うと、でもね、と続けた。
「セスト・ミウは、とっても強い魔力を持っていて、魔道士として大成する人が多いって聞くよ。オリィもきっと、わたしなんかよりも凄い魔道士になれるよ」
天才、と言うと何か違う気がするけれど。やっぱり、オリィには才能があるんだ。シフォンは納得したように頷くと、立ち上がった。
「さ、そろそろ戻ろ?」
「……なれるかなぁ」
「ん?」
「すごい魔道士」
「なりたいんだ」
「うん。だって、すごい魔道士にならないと、魔王は倒せないでしょ?」
……魔王? って、あの魔王?
最近世の中を騒がせている、深淵の二つ名を持つ魔王のことに違いない。
あの日のことは、シフォンもよく覚えている。一年と少し前のことだ。昼間、急に雲が立ちこめたかと思うと、空に巨人が現れたのだ。
恐ろしげな姿をした巨大な悪魔によって、学院もまた、不安に包まれた。あの日の夜は、ルームメイトのオルフィーナと身を寄せ合って、震えながら眠りに就いたのは忘れられない記憶だ。
数ヶ月前、北のダンパール平原で、各国の精鋭を集めた連合軍が、こてんぱんにやられてしまったと聞いた。
その報は、生徒たちをまた不安に陥れている。
その魔王を。
「そんな事……考えてたの、オリィ」
大それた決意なのは間違いない。オルフィーナは、かつての英雄のように魔王に挑むことを望んでいたのか。
だが。
「だって、必要でしょ。世界平和には」
そう言って微笑むオルフィーナの顔は、まるでアップルパイにはリンゴがなけりゃ始まらないでしょとでも言いそうで。
(あ、なるほど……)
その陽気が漂って来そうな笑顔を見て、シフォンは一つ、納得した。
とどのつまりオルフィーナは、天然なのだ。