0章2話 まだ見ぬ英雄
全界を隔てる竜神山脈の内側は、長らく人の子らの支配下にあった。
竜神山脈の麓は境界地域と呼ばれ、凶暴な魔獣が数多く棲まう地として恐れられている。
そして竜神山脈の向こう側には、人ではないモノどもが、国を作っていた。
人ならざるそれらを、人の子は魔族と呼んだ。
魔族の王は魔王を称し、歴史上幾度かは、配下の魔族を率いて竜神山脈を越えて、人の子の領域にも攻め入って来た。
それでも人の子らは、幾度も危機を乗り越えてきた。
魔族は概して強靱な種族であったが、人の子は数でそれらを圧倒していたからだ。
人々の記憶に新しいのは、『魔神戦争』と呼ばれる出来事だ。魔族どもの、前回の侵略である。
魔族の侵略が始まったは、ダンパール平原の恥辱から遡って、二十数年ほど前になる。
時の魔王、魔神族の王ガルデウスは、巧みに人間の世界に取り入った。
境界地域に面し、古くから魔族とも交流があった北の大国、オグルリヒテン帝国を乗っ取ったのだ。
魔王は皇帝を傀儡とし、オグルリヒテン帝国の支配者として君臨した。帝国を手中に収めると、今度は他の国々に腹心を送り込んで疑心暗鬼を広めた。国々は反目しあい、大陸は戦火に包まれた。
魔王は十年待ち、そして本格的な侵略を開始した。馬脚を現したのである。
だが、オグルリヒテン皇帝が魔王であるという噂が広まった途端に、戦局は大きく変わった。それまで争っていた人の子達は一致団結して『征帝』を叫び、大陸の半ばまでを版図に治めていたオグルリヒテン帝国を、押し返し始めたのである。
魔王ガルデウスは、全界最強の魔力を持つ個体であった。
しかし、そのガルデウスも、敢えなく討たれることになる。
人の世に生まれた二人の英雄、勇者ペルシウスと大賢者ユーセリウスの兄弟によって。
『魔神戦争』は人間の勝利で集結した。これが現在から僅か、十三年前。
オグルリヒテン帝国は滅亡し、人の手に戻った大陸は再び、空白地帯となったダンマー地方を巡って、群雄割拠の時代を迎える。
再び巻き起こった紛争を鎮めたのは、皮肉にも十年を経て再来した魔王であった。
前々回の『巨神の役』から前回の『魔神戦争』『征帝』までの期間が二百年間も空いていたことを考えると、今回の魔王襲来は、唐突だったと言って良い。
『深淵』の二つ名を称する今度の魔王は、ガルデウスとは違った。
自らが魔王であることを韜晦することなく、全界の空に自らの影を映し出してこう宣言したのだ。
「我こそは全界を統べる王なり。
本日この刻限より、全界は我が管理下に措かれたと断じる」と。
魔王は紛争に明け暮れる国々を最初の標的と伝え、実際に侵略に着手した。
その手際たるや凄まじく、数万もの尖兵を差し向けてダンマー地方各国の拠点を電撃的に陥落させ、要人を人質にした。それも、各地でほぼ同時に、である。紛争地域の小国は、その尋常ではない速さの用兵に対応できなかった。戦地の主力を移動させることもままならないままに、指揮系統を完膚無きまでに破壊され、二月も保たずに魔王軍の軍門に下った。
その様子を見ていた周辺国は、直ちに停戦と調停に駆け回った。十年前までの恐怖はまだ人々の記憶に新しく、直ちに連合軍が組織された。
これもまた、歴史的な出来事だったと言って良い。ほんの数ヶ月前まで敵対し合っていた各国の勢力が、一致団結し、轡を並べて魔王の軍勢に挑みかかったのだ。その数たるや、十万とも百万とも言われている。
大から小まで、ありとあらゆる国々が、停戦条約を結び、その主たる戦力を竜神山脈の魔王に差し向けたのである。
だが、十年前とは違うことが一つだけあった。人の子らは、英雄を擁してはいなかったのだ。
――それを戦いと定義するのであれば――その戦果たるや散々なものであった。人間の武力を結集した連合軍は、出立してから僅か半月後に崩壊した。竜神山脈に辿り着く、遥か手前。ダンパール平原でのことだ。
誰一人。誰一人として、死者はいなかった。誰も死なぬまま、軍勢が崩壊したのである。
何が起きたか、正確に理解している者はいなかった。だが、生き残った兵士達は、口々にこの世の終わりを見たと言った。彼らは、上級の将校に至るまで、皆心を折られていた。その結果、兵士達の大多数は、もう二度と、魔王に立ち向かうことはできなかった。行方不明になった兵士もいる。地の果てまで逃げたのだろうと、人々は噂した。
各国の軍勢には最早、戦う力は無い。上級将校までがその脳裏に真の恐怖を刻みつけられては、魔王軍に対して再び槍を向けることができる国など、どこにも存在しなかったのだ。
かつての英雄、勇者ペルシウスと大賢者ユーセリウスは、魔神王ガルデウスとの戦いで命を散らしたと伝えられている。征帝の後、彼らの姿を見た者はいない。
彼らに替わる、新しい世代の英雄は何処にや。
人々はただただ、英雄の再来を待ち望んだ。
重い足取りで帰国の徒に着く兵士たちに混ざって、十代と思しきノール人の若者がいた。
彼の名はフレデリク。食い扶持を稼ぐため、剣の腕を頼みに田舎から出てきた傭兵だった。
彼が属する傭兵部隊は、後陣に配置されていたこともあり、運良く被害を免れた。だが、連合軍の九割以上が壊滅した今、最早戦いの場は何処にも残ってはいなかった。
(結局、何もできなかったな)
戦う前に、勝敗は決した。戦場に立つことすら叶わなかった。
前線で何が起きたのかは判らない。だが、連合軍が崩壊したことだけは明らかだった。後方待機を命じられていたフレデリク達ノールの傭兵部隊は、言われるがままに後退するしかなかった。
戦功で以て金を稼ぐ傭兵としては、痛い話だ。お陰で隣を歩く傭兵仲間のニーナは、大層不機嫌だ。
(これから、どうする)
フレデリクは来し方を振り返った。
血のように赤い夕焼けの中、影のように聳える竜神山脈。
そこに君臨する魔王は、フレデリクの想像を遥かに超える化け物だったようだ。
(でも、俺はまだ負けてない。人間は、そんなに簡単には負けないぞ)
もう一度、ここに戻ってくる。今度は、魔神戦争の英雄たちにも負けない仲間を連れて。
後に人々の希望となる自由軍が彼らの故郷・アレス王国で旗揚げされたのは、それから半年ばかり後のことである。