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1章13話 孤軍奮闘

「……って大見得を切ってはみたものの、どうしたものでしょうね」

 波止場を離れ、早歩きに北に向かいながら、ミランダは従士のアサムに声を掛けた。今度はいつ戦闘が始まるか分からない。体力の温存を考えて、気は逸るが移動するペースは落としている。

 未だに街は混乱を極めているが、少しずつ人が町の外に逃げ出しているのか、通りは先程よりも空いていた。

「とりあえず、守備隊と合流するしかあるまい。幾ら何でも多勢に無勢だ。街の人間が避難を終えるまで、時間を稼ぐしかなかろう」

「それって、最終的に街を捨てるって言ってるじゃない。聞いてたでしょう? 防衛しないと意味がないのよ」

「多勢に無勢だ」

 同じ言葉を繰り返すアサム。

 いくらタルダットの守備隊が充実していると言っても、いち領主の私兵でしかない。その数は多く見積もっても精々三百というところだろう――それでも街の規模を考えれば驚異的な数だが――。そして何より。

「奴らには、武器が効かん」

「何ですって?」

 聞き捨てのならないアサムの言葉に、ミランダは顔色を変えた。

「どういうこと? 武器が効かないって聞こえたけど」

「ああ、そう言った。あの白い魔物は、剣で斬っても死なんのだ。身体を両断すれば動きは止められるが、死なない。それどころか、時間が経つと再生する。それがあの数だ。全くもって、面倒としか言いようがない」

 事実を淡々と告げるアサムの声にミランダは苛立ち、「そんな大事なことは先に言いなさいよ!」と金切り声を上げた。 

「済まぬ。だが、(あるじ)もオルフィーナに言っていたではないか。私の力では街を救えない、と。まさか、奴らと事を構えるつもりとは思わなんだ」

 アサムの反論に、ミランダはぐっと声を詰まらせる。

「そ、それは……その場のノリって言うか、チャンスに気づいちゃったと言うか……。過去のことはいいの! 大事なのは、これからどうするかよ。

 アサム。貴方、追ってきた魔物を倒したと言ってなかった? どうやって倒したの?」

「気合だ」

「……殴っていい?」

「冗談を言っているのではない。闘気を乗せた剣戟で屠ったのだ」

 大真面目なアサムの返事に、ミランダは思わず天を仰いだ。剣の達人たるアサムは、己の闘気を剣に纏わせることで、岩をも切り裂くことができる。魔術とは違う、戦士としての超常能力。しかし、厳しい修行の果てにその境地に達することができる戦士など、ほんの一握りに過ぎない。今集結しようとしているであろう守備隊の面々に、アサムと同じことをしろと要求するなど、土台無理な話だ。

「魔術ならば話は別だ。奴らは魔術には滅法弱い。征帝の際には、あの白い魔物の相手は専ら魔道士がしていた。主ならば、苦もなく屠れよう」

「なるほど……つまり、実質戦力として数えられるのは私達二人だけってことじゃないの、それは?」

「まあ、そうとも言うな。だから何度も言っている。多勢に無勢だと」

「……勘弁してよ、もう……」

 ミランダは、少し泣き声になって弱音を吐いた。

 仮に敵が千体として。これも仮に、中級レベルの攻性魔術の一撃で一体を倒せるものとして。それを千回、繰り返せるか。否だ。ミランダの魔力容量(キャパシティ)では、中級の攻性魔術を数十発も放てば、魔力が尽きる。必要な量の十分の一にも満たないだろう。疲れ知らずのアサムにしても、闘気を乗せた一撃を何百と振るうのは難しいだろう。況してや、今は負傷の身だ。圧倒的に、戦力が足りない。

「ええい、やれるだけやってやるわよ! (せんせい)は、すごい魔道士なんですからね!」

 絶望的だが、何とかするしかない。気持ちを奮い立たせるために大声で吼えると、ミランダは駆け足になった。

 やがて、街の北側、丘陵と街を隔てる外壁の前に、百名ばかりの兵士が集合している現場が見えてきた。恐らく守備隊だろうが、期待していたよりも数が少ない。初めて見る魔物の群れに恐怖を隠しきれないのか、揃いも揃って緊張の面持ちだ。

 ミランダは兵士たちの百メートルほど手前で立ち止まり、呼吸を整えた。今度こそ、誇りあるミラルディアの導師として、威厳ある態度で兵士たちに向かわねばならない。気持ちを整え足を踏み出そとした、その時だった。

「く、来るぞーっ!」

 見張り台の上に立っていた兵士が、裏返った声で叫んだ。呼子が幾重にも響き、けたたましく半鐘が打ち鳴らされる。兵士たちの間に動揺が走ったのがはっきりと見て取れた。

「や、山が……動いてる……」

 そう呟いたのは、誰であったのか。眼前に広がる丘陵に蠢く、無数の白い影。それらがゆっくりと、坂を下り、タルダットの街を目指し始めたのだ。




「門を閉じろ! 総員、守備配置につけ!」

 隊長格と思しき兵士の号令に、しかし兵士たちの動きは鈍い。何人かがバラバラと散らばっては、外壁を登る階段に向かっていくが、悲鳴を上げて逃げ出す兵士も、一人や二人ではない。周囲の兵士がそれを止めようとするが、逃げた兵士も必死の形相で泣きわめき、二人、三人と引きずりながら、何とか門から離れようとする。最初から、士気はどん底に等しかった。

「落ち着きなさい!」

 混乱する守備隊を、凛とした女声が一喝した。海が凪いだように、場が静まっていく。声の主を認め、皆が一様に驚きを顕わにした。そこに立っていたのは一組の男女。棒杖を手にしたスラリとした体型の旅装の女性と、見るからに歴戦の戦士と言った風貌の男性。どうやら北西のサンドラ地方出身の砂漠の民と思しき出で立ちだが、それよりも目を引いたのは、女性の豊かな胸元に輝く銀色の徽章だ。あの徽章は、賢者の証。ミルズフィア学院で優秀な成績を収めた魔道士だけが身に着けることを許される、上級魔道士の印だ。見る者が見れば、徽章の下辺に煌めく虹色の一つ星が、彼女が導師であることを示していると気づいただろう。だが、そこまで知らずとも、賢者の証を持つ魔道士が従士を引き連れて、この場に姿を見せたのだ。誰もが彼女を救いの神だと感じた。

「あなた達の背後には、何千何万の人々がいるのです! 己の本分を全うなさい! さあ、ぐずぐずしている時間はありません! 今すぐ何をすべきか考えて、動きなさい!」

 導師の叱咤に、弾かれたかのように全員が動き出す。思わぬ援軍の到来に希望を見出したのか、逃げようとしていた兵士たちも、全速力で持ち場に向かっていく。一転して、統率の取れた動きになってきた。

「か、感謝いたします、えー……導師様」

「ミランダです。こちらは従士のアサム。魔物の撃退を手伝わせて頂きます」

 しどろもどろに謝辞を述べる隊長格の兵士に名を告げると、ミランダはざっと周囲に視線を巡らせた。

「外壁の上に弓兵が四十。地上の門の前に槍兵が四十と、弓兵が二十。予備隊が二十と言ったところか。ちと、心許ないな」

 アサムの戦力分析に、ミランダは小さく肯く。千の魔物を相手取るには、些か不安な数だ。

「ここにいるのが守備隊の全戦力ですか?」

 ミランダの問いに、隊長は首を横に振る。

「町の入口はここだけではありません。五十は東門と街道の防衛に出ています。門以外にも何箇所か、壁が低いところがありますので、そちらに十ずつ。他に三十人ほどおりますが、これらは街の避難誘導に出ております。避難が終われば合流できるかと」

「……どう見ますか、アサム」

「この外壁で魔物を足止めできるかどうか、だな。門以外からの侵入が阻止できるのであれば、数の利は消える。某が前線に立てば、何とかなろう」

 自信満々に言い放つアサム。確かに門で食い止めることができれば、一人が何匹もの魔物に囲まれるという最悪の状況には陥らないだろう。だが、いくらアサムでも一対一を千回も繰り返していては、いつか限界が来てしまう。

「な、何だあいつら! 矢が当たってるのに死なないぞ!」

 壁の上から、そんな悲嘆の声が次々に上がる。どうやら、交戦がはじまったようだ。壁上の弓兵が斉射し、魔物を捉え――通じなかったのだろう。アサムの話から、容易に想像できたことだ。

「いかんな。ここで弓兵が折れると、全軍の士気に関わるぞ」

「……っ! 我々も行きますよ、アサム!」

 言うが早いかミランダは、外壁へと続く木組みの階段を駆け上った。外壁の上では数十人の兵士たちが、痛々しい叫び声を上げながら、てんでバラバラに弓矢を壁の外に射掛けている。早くも、統率などどこかに吹っ飛んでしまったようだ。

 ミランダは外壁から町の外を覗き込み。そして思わず、絶句する。

 間近で見る白い魔物には、目が無かった。ぬるっとした白い肉を、人の形にこね回したような。そんな、歪な存在。貌なき顔には、不相応な大きさの口が開き、血の色の舌をのぞかせている。形は様々で、子どものような背丈の個体から、アサムより頭一つ大きな巨体まで様々だ。だらりと腕をぶら下げ、足を引きずるように歩く。そんな悍ましい人形たちに埋め尽くされた眼下の光景は、導師たるミランダをして、身の毛のよだつ有り様であった。

 ミランダは、胸の奥からこみ上げてくる吐き気を飲み込むと、杖を掲げた。

「lu-lu vily wasch(おお水よ), eve yol' ethagh(大地よ) vaw nedle, eve caute yol' lit falte(微風を巻き付け針と化せ).」

 朗々と響く古代語の詠唱に、絶望を抱いていた兵士たちの目が釘付けになる。

「nauen volga, ivi cicera, cicera, eve cicera(そして火よ、渦巻け、渦巻け、更に渦巻け). falte(風よ), wasch(水よ), eve caute yol' elgh(雷を巻け). vie mofe volga-arrer(今ここに、炎の矢となりて顕現せよ)!」

 ミランダが杖を掲げると、杖の先を中心に、五つの火球が浮かび上がった。現界に顕現した魔術に、思わずどよめく兵士たち。

 ――お願い、効いて!

 祈りを込めて、ミランダは杖を忌まわしい魔物に向けて突き出した。一つの火球が、流線型に形を変え、紅い軌跡を描いて一直線に飛び出した。炎の矢は狙い違わず魔物の一体を捉え、胸のど真ん中に命中した。その途端、まるで藁に火を放ったかのように、凄まじい勢いで燃え上がる白い魔物。十数える間もなく、魔物は蝋が溶けるように崩れ落ち、黒い煤のようなものを残して消えてしまった。あまりに呆気ない魔物の最後に、ミランダの方が面食らってしまう。

「導師様が魔物を倒したぞーっ!」

 間近にいた兵士の一人が、快哉を叫ぶ。たちまち、外壁の上は歓声に包まれた。

 ――喜びすぎよ!

 ミランダは、杖を別の一体に向け、再び炎の矢を解き放った。命中。炎上。そして、溶解。再び上がる歓声。

 それをあと三回繰り返し、ミランダは一つ、息を吐いた。

 魔法は効く。それは証明された。だが、倒せたのはたったの五体だ。まだまだ余力はあるとは言え、眼下を埋め尽くさんとする魔物の群れを見ていると、気が遠くなってくる。いや、眼下だけではない。一キロメートル先の丘陵まで、白い魔物の群れは延々と続いているのだ。

 ――本当に千体? もっといるんじゃ……。

 弱気なことを考えかけたミランダの耳に、一際活気づいた兵士たちの怒声が響いてくる。

「火だ! 火が効くぞ! 予備隊! 油と布だ! 火種も持ってこい!」

「ちんたら走ってんな! 早くしろ!」

 どうやら、ミランダの炎の矢が魔物を燃やしたのを見て、火が有効だと勘違いしたようだ。火矢を射ろうと、壁の上の弓兵達が地上の予備隊に向けて叫んでいる。

 ミランダは兵士たちの誤りを糺そうとしたが、アサムに止められた。

「あながち、間違いではないかも知れん。あの白い魔物は確かに魔術には弱かったが、それにしてもあの燃え方は尋常ではない」

「……つまり、火が弱点だと?」

「確証はないが、試す価値はある」

 力強く肯くアサムを見て、ミランダも胸に希望が湧いてくるのを感じた。もし、魔術ではない、ただの火矢で魔物に傷が付けられるのであれば、守備隊も立派な戦力になる。

「じゃあ、時間を稼がないとね」

 ミランダは大きく息を吸うと、再び同じ呪文を詠唱し、炎の矢を生み出した。確実に一体ずつ、その息の根を止めていく。

 既に消し飛ばした魔物の数は、三十を超えた。もっと大規模な術もその気になれば使えるが、如何せん式の織り方が複雑な分、魔力の消費が大きい。これが獣や人間が相手であれば、虚仮威しに一発大きな術を見せてやれば気勢を削ぐこともできるのだが。眼の前の白い怪物達は、眼の前で同胞が燃え尽きても、何ら気にする様子もない。振り向くことも足を止めることなく、同じペースで歩み寄って来る。ただ例外は、下生えに僅かに残る火だ。魔物たちは、火が残っているところには足を踏み入れようとしない。小さな火種でも、わざわざ迂回しているように見える。これは確かに、火が弱点なのかも知れない。

「あの辺り一帯を燃やせば、あいつらを足止めできるんじゃない?」

「火を迂回する頭はあるようだ。やるならば群れ全体を包み込むように炎上させる必要があるだろう。ここを迂回して別の方角に回り込まれると、東側から逃げ出した住民と鉢合わせるかも知れぬ」

「……そうね。それにあまり大規模な火を使うと、街にも飛び火する可能性もある、か……」

 街の防衛が目的である以上、大きな火計は使えないと見るべきだろう。しかし、火を恐れながらも向かってくるのを止めないこの白い魔物に対して、果たしてどうすれば勝利することができるのだろうか。もし唯一の勝利条件が、魔物の全滅なのであれば、厳しい戦いになると言わざるを得ない。嫌な予感が消せないままに、守備隊は着々と火矢の投射準備を整えていく。

 そんな中、遂に白い魔物どもの先頭の一陣が、街の外壁に到達した。外壁に阻まれ、前進できなくなったと悟ったか、魔物は徐に足を止め。そして、上方。守備兵が(たむろ)する外壁の上を、目のない貌で明らかに見上げた。大きな紅い口が一斉に牙を剥き、そこから猫のような、シャーっという威嚇音が放たれる。

 その光景を目の当たりにした兵士たちの多くが、思わず口許を抑えて後退った。ミランダも、その姿のあまりの(おぞ)ましさに顔を歪める。

 外壁の高さは、五メートルばかり。垂直にそそり立つ、大きな石材で組まれた分厚い壁だ。流石に、壊すことも飛び越えることもできないはずだ。だが、頭上の人間を敵と認め、攻撃性を表に出した魔物たちは、明らかに獲物を狙う狩人の姿勢になっていた。 

「おいおい……止めてくれよ……」

 守備隊の呻き声が虚しく響く。

 白い魔物が、一斉に石壁に取り付き始めたのだ。石の隙間に爪を突き立て、まるで手に吸盤でも付いているかのように。ゆっくりと、しかし易々と、四肢を器用に使って垂直の壁を登ってくる。

「総員、槍を持て! 予備隊は壁の上に槍を投げろ!」

 即座に指示を出したのは、従士アサムであった。腹の底に響くような号令を聞いて、兵士達は即座に反応した。元々練度は高い部隊だ。指揮がしっかりしていれば、統率の取れた動きができる。

 とは言え、壁の上に陣取っていたのは弓兵だ。備えられていた槍は、人数分には到底満たなかった。槍を携えた予備隊が壁に駆け寄り、上にいる兵士達に槍を投げ上げるが、焦りもあってなかなか上手く受け取れない。何本かの槍は、勢い余って壁の向こう、魔物の群の中にまで飛んでいってしまった。

 それでも、三十人近い弓兵を、槍に持ち替えさせることには成功した。

「登り切らせるな! 石突で突き落とせ! 刺そうとするな! 下手に刺されば槍を奪われるぞ! 石突を使え!」

 アサムが声を張り上げる。不慣れな槍を手にした兵士達は、指示通り穂を天に向け、壁に張り付いた白い魔物を石突で突いて壁から引き剥がした。両手足を張り付けた状態では流石に抵抗できないと見えて、魔物は真っ逆さまに落ちていく。だが、落下したくらいでは魔物は死なない。のそりと起き上がると、後からやって来た個体とひしめき合いながら、再び壁に取り付くのだ。

 壁の天辺まであと一メートルの水際で、次々に魔物が叩き落とされていく。だがそんな(せめ)ぎ合いも、そう長くは続かなかった。守備の隙間を突いて、魔物が壁の上に身を乗り出し始める。壁を登り切った魔物に対しては、魔道士の主従しか対抗の術を持たない。ミランダが炎の矢を放ち、反対側の魔物はアサムが首を刎ねていく。次から次へと現れる魔物に、二人は息をつく暇もない。

 少しずつ、外壁に殺到する魔物の数は増していく。いつしか壁は、ぎっしりと白で埋め尽くされていた。魔物同士が押し合い、踏み合い、押し潰されていく。その背を踏みしめて、後続の魔物が向かってくる。その数は、時と共に増える一方であった。

 ――今なら、まとめて焼き払えるのに……!

 これだけ魔物が密集していれば、上級魔術の一撃で、数十匹の魔物を焼き払うこともできるはずだ。だが、今のミランダに、上級魔術の式を織り上げるだけの余裕はどこにも無い。次から次へと溢れてくる魔物を、一匹ずつ確実に仕留めていくことしかできなかった。

 ――せめて、あと二人……いいえ、一人でも戦力になる人がいれば……!

 眼の前の敵を焼き払うのに必死で、他に何もできない。後手に回りすぎた。

 時間が欲しい。たった一分でいい。術に集中できる時間があれば、この状況を打開できるのに。

 しかしそれは、虚しい願いであった。

 主従の奮戦は、所詮は悪足掻きに過ぎず。

 そして遂に、守備隊から最初の犠牲者が出た。

 彼は、今にも壁を乗り越えそうな魔物に噛みつかれた槍の柄を、両手で必死に押し返していた。力負けし、膝をついてしまったところで、魔物がいきなり燃え上がった。危ういところで、ミランダが救いの手を差し伸べたのだ。彼が生命があることに感謝した、ただの一瞬。膝を上げ、槍を構え直した時、そいつは彼の真後ろに、何気なく降り立った。

 彼が不幸だったのは、魔物とミランダを結ぶ射線上に、彼自身が立っていたことだ。ミランダは、炎の矢の投射を躊躇した。その一瞬の間隙が、悲劇を生んだ。

 ミランダが警告の声を上げたときにはもう、魔物は彼の首筋に、その鋭い牙を突き立てていた。

 信じるれないと言う顔のまま、膝から崩れ落ちる犠牲者。牙を突き立てたまま馬乗りになった魔物に、ミランダが怒りの声を上げながら炎の矢を放った。魔物はあっという間に溶け崩れ、煤になって風に散る。だが、倒れた兵士はもう、ぴくりとも動かなかった。

「怯むな! 戦え!」

 アサムの叱咤が飛ぶ。兵士たちは悲壮な声を上げて、挫けそうな心を奮い立たせた。

 しかし、現実は非情だった。積み重なった魔物はもう、壁を壁として用を為さなくしていた。五メートルの高さにまでうず高く積もった魔物は、まるでスロープのようになって、後方の同胞を招き入れていたのである。

 数十の魔物が、同胞の背中に二本の足で立ち上がり。牙を剥いて向かってくる。もう、たったの二人で迎撃できる数ではない。兵士達も魔物を押し返すのに必死で、予備隊が折角用意していた火矢を(つが)える余裕がない。

 もう駄目だ。退却するしか無い。でも、全員が逃げるには階段は狭すぎる。ミランダとアサムが殿に立ったとしても、きっと犠牲は避けられない。

 そんな考えが、脳裏によぎり始めた頃だった。

 ミランダは、予想だにせぬ光景に、我が目を疑った。

 虚空に。

 壁の向こうに。

 魔物たちの頭上高くに。

 樽が(・・)

 何個もの大きな樽が、冗談のような顔をして浮かんでいた。


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