0章1話 ダンパール平原の恥辱
曇天の下。
「どうした! 何が起きた!」
地平を埋め尽くさんばかりに集結した、各国の精兵達。
「分からんでは分からん! 何故行軍を止めるのだ!」
大国から小国まで、幾十にも及ぶ幟が勇壮に並び。
「我らが敵は目の前ぞ!」
大陸史上、恐らく初めて現出せしめた、十万の大軍勢。
「前線に伝令を出せ! 連合各国の指令官にもだ!」
如何に彼の者共と言えども、竦み上がるに違いない、人間の底力。
「急げ! 夜が来る前に事を為さねばならん!」
この圧倒的な武力の前に、砕けぬ壁などない。そのはずなのに。
何故だ。先刻から、震えが止まらぬ。
何故、私は恐怖しているのだ!
「お、恐れながら申し上げます!」
幕僚達の間を縫って、上級兵装の兵士が一人、私の前に転がり出てくる。伝令隊の隊長だ。まるで這いずるように、四つん這いで白い袖を土に汚して。
「将軍様、撤退を!」
嗄れた声を精一杯振り絞り、伝令隊長は私の馬に縋り付いた。その勢いに圧されてか、我が愛馬が、不快そうに腰を揺する。
「撤退……だと?」
「左様です! 何卒、撤退のご命令を!」
「戯け! 一兵卒が出過ぎた真似をするな!」
目を血走らせた伝令隊長を、轡を並べる初老の参謀が叱り飛ばす。だが、まだ若さの残る伝令隊長は、倍も年齢の違う参謀に食い下がった。
「無礼は承知で申しております! 時間がありませぬ!
前線では馬が! 恐慌しています! 暴れて手が着けられません!」
「たわけ! 馬が使えねばその足を使えい! 左様な瑣事に将軍の手を煩わせるとは何事か!」
「足も動きませぬ! 往かぬのではありません、往けぬのです!」
「お、お、臆したか貴様! 恥を知れい!」
しかし伝令隊長は、必死に首を左右に振った。
「私ではありません! 前線の兵がです!
走れば! 馬の足の方が速いのです! しかし、奴は追ってくる! ああ、何て事だ! 私は――おお神よ、お救いを!――部下を捨てて、伝令に参ったのです! 今すぐお逃げ下さい、将軍様!」
「落ち着け、ホルバール」
私は、伝令隊長の名を呼んだ。まさか、将軍に自分の名を知られているとは思わなかったのだろう。伝令隊長は目を丸くし、姿勢を正して畏まった。誰しも、自らの名を聞けば冷静になるものだ。だからこそ私は、数知れない部下の名を、可能な限り記憶に留めるよう心がけている。
「決定するのは私だ。だが、お前は必要な情報を持っている。解るように申せ。奴とは、何者だ」
できる限り、落ち着いた声を出したつもりだ。だが、私の声も、引き攣っている。
本能で解る。今、この瞬間に限り、正しいのはこの男だ。こうして話をしている時間も惜しい。今すぐに、ここを離れるべきなのだ。
「恐怖です!」
「な……?」
「恐怖は! 伝染するのです! 前線から、歩み寄って来ている! 私は、その触手に触れる直前に引き返したから、何とかここまで辿り着いたのです!」
私は、憤怒の表情を浮かべた参謀を手で押し止めた。今止めなければ、この伝令隊長は頭を叩き割られていたことだろう。
「その恐怖とやらは……どこまで来ている?」
「第二陣まではもう……取り込まれていることでしょう。私は見ました。戻ってきた斥候が、馬から振り落とされるのを。私の部下が一人、その男を救おうとしたところで座り込んだまま、動かなくなった。次の一人も、もう一人も。どんどん、どんどん、こちらの方に躙り寄ってくるのです! 何も見えない、でも、確かに奴はそこにいるのです! 私が馬の尻を叩いた時には、先発隊の数人が、悲鳴を上げながら馬を御しておりました!」
悲鳴が上がった。すぐ近くだ。
馬が嘶いている。男達が絶叫している。
伝令隊長の顔面が、蒼白になった。
「馬鹿な、早すぎる!」
私は悟った。もう手遅れだ。遅かったのだ。やはり、この男が正しかった。
「ホルバール。命令だ」
「は、はい! 何なりと!」
「王都に馬を走らせよ。この馬を使え。後ろは振り向くな。そして、我らが君に伝えよ――」
私からの伝言を受け取ると、伝令隊長は歯軋りをした。
「必ずや!」
伝令隊長は、馬に飛び乗った。
頼む、若者よ。全軍撤退は間に合わなくとも、一騎駆けであれば逃げ切れるかも知れない。
こいつの触手が届く、その前に!
私の目の前が、真っ赤に染まった。
気づけば辺り一面が、炎に包まれていた。
消し炭のように戦友達が崩れ去り。
最早動かぬ私の身体を、深紅の舌が包み込む。
こんなにも、人間は非力なのか?
厭だ。厭だ、死にたくない!
おお、愛するエリザよ。息子アドニスよ。小さなカインとヘラよ。せめて、せめてもう一度――。
かくして、人の子らは為す術無く敗北した。
後の世に『ダンパール平原の恥辱』として語り継がれることになるこの戦いを機に、大陸を割拠していた国々は、その軍事力を急速に縮小することになる。
そしてこの日を境に全界は、魔王の統治下に措かれることが確定した。