三日月の時計
一.ソラ
三日月が揺れている。
頭上の看板を眺めながら、ぽつりと思った。「アンチック三日月」と書かれた木片は、私に構うことなく、気取ったようにゆらゆら揺れた。入口の扉付近には金色のオルゴールが置かれ、小さく静かなメロディーが流れている。時間の流れ方を錯覚するような、魔力を持った空間のように思われた。
つと目を向けたショーウィンドウの中は、空っぽで何も飾られていなかった。奥に続く店の中も暗くてよく見えない。ひと気もなく、しかし閉店を示す張り紙や看板もなく、オルゴールだけ終わりなく回っていた。その音色に誘われて、試しに扉を押してみた。抵抗もなくするりと開いて、頭上でドアベルが生半可に鳴った。
中はやはり薄暗い。外から一見しただけではわからなかったが、夜をイメージした造りのようだ。天井や壁、床にまでも細かく光るものが見える。夜空に沈み込んだ室内は、プラネタリウムを連想させるものだった。
「いらっしゃい、中へどうぞ」
見とれていると、奥から男の人が出てきた。彼は暗がりの中で慎重になっているのか、抜き足差し足で現れて控えめに手招きをした。冴え渡る青のような、月白色のエプロンがぼんやり光っている。応じて慎重に中へ入り扉を閉めれば、店内は柔らかい暗がりで満たされた。
店内は部屋の中央に広く空間を持たせた作りで、そこに男の人が立っている。アンティークは壁際の机に陳列されていた。壁掛けの時計やランプを加えても、点数は明らかに少ないように思えた。定かではないが、奥にレジと、さらに奥へ続くらしい扉らしきものが見えた。振り返ってショーウィンドウの棚も見るが、やはりそこだけは何もなかった。
男の人――たぶん店員さんは、視線を巡らす私を何も言わずに待っていた。彼の視線は、ずっと私の足下あたりを彷徨っている。待っている間、催促はしていないというアピールかと思っていたが、私が視線を向けても反応が返って来なかった。何か声をかけた方がいいのだろうか、口を開きかけたそのとき、奥の扉が轟音を立てた。
「うっ……また力加減を間違えた……」
見ると、青いエプロンを掛けたショートカットの女性が、ひしゃげた扉を抱えて泣きそうな顔をしていた。
「えっ」
「……えっ」
目の前の事に思わず聞き返すと、女性は肩を揺らして私の言葉を繰り返した。店員さんは半身のままそのやり取りを眺め、不敵そうな微笑を浮かべていた。
「壊れた?」
「あっ、こっ、あの、壊れてないです!」
メシャ、という音と共に扉が穴に押し込まれた。唖然とする私をよそに、店員さんはひたすら可笑しそうだった。
「ハナ、電気つけて。お客様に御挨拶」
女性は焦ったような声で返事をすると、やはり慌てて扉横の壁を両手でまさぐった。陳腐な音がして店内が明るくなる。あっさり夜闇と星の瞬きが消え、なんてことはない木造の室内に三人立っていた。目覚しい変化だ。
改めて回りを見渡している間に、壁際から女性がおずおずと歩み寄ってきた。気弱そうに潤んだ目が、どことなく子犬を思わせる。髪が茶色で、毛先がくるりとしていて、たとえるならトイプードルだ。ただ、かなり高身長ではあるけれど。
「あの……すみません。花屋のハナ、といいます。気軽にハナとお呼びください」
ハナと名乗った彼女は、丁寧にお辞儀をしてはにかんだ。こんな友達が欲しかったと思いつつ、私も礼を返す。なぜ花屋の人が、アンティーク屋の人間のように登場してきたのだろう。ほんの些細な疑問なので、口には出さずに飲み込んでおいた。
「それから、こちらの人が……」
ハナが慣れないながらたどたどしく店員さんを示し、そして言葉を濁した。
彼は宙空に彷徨わせていた目を、一旦ハナへと向け、それからゆっくり私へと向けた。相変わらず焦点の定まらないような目に戸惑いつつ、継がれた言葉にさらに困惑することになった。
「僕の名前? 当ててごらん」
店内の空気が止まった。店員さんだけが、ただ微笑んでいる。私は辛うじて両手の指先を合わせると、反射的に浮かんだ単語のひとつを口にした。
「わかりました、『ソラ』で、ベットします」
「ハナは?」
「えっ、賭けですか!? わ、私はいいですよ、ほら、見知った仲じゃないですか?」
「えぇー」
「えぇ……じゃあ、ううん、私もソラで……」
店員さんに弱いハナだった。
予想が出揃ったところで、おもむろに店員さんが喉の奥で笑い始めた。具体的に表現すれば、クックックッというようなあれだ。丁寧に拳で口元を隠し、背を丸めるなどまでしている。二人できょとんとしていると、店員さんは不意に片手を振り上げ、こう大声を張り上げた。
「そう、僕はソラ、このアンティーク屋の店主・ソラだ!」
――――。
「さて、君の名前だけど」
そして、何事もなかったかのように話は進められた。困惑する私たちの無言の訴えは黙殺されるようだ。
名乗りを上げて途端に活き活きとし始めたソラさんは、そう言って一度手を打った後に店内を順繰り見渡していった。ひとつひとつに目を留めて吟味していく様子は、店員というより客のそれだ。やがてある一点で視線は留まり、彼は満足そうに頷いて、確かに私を見据えた。
「ツキ、それがいい」
ツキ、月。地球で唯一の衛星、小さいながら夜空を一人で占める大きな星、自力で輝くことはできない非力な星。
「――なんだか、おしゃれな名前ですね」
世辞でもなくそう思い、妙に照れ臭くなってしまった。あんなに綺麗なものの名前をそっくり貰ってしまうなんて、ますます名前負けしていると感じてしまう。名付けの由来は、小さな時計だった。背面に付けられた三日月の、ふくらんだ部分が何かに齧られたようにへこんでいる、不思議な形をしていた。
名前負け、という問題はさておき私はこの名前が割と気に入っていた。ツキ。運が向いてきそうな気さえする。もぐもぐと口の中で何度か咀嚼して、その場ですっかり飲み下すくらいには気に入っていた。一方で、ハナは不満そうに眉を顰めてソラさんを睨めつけていた。先とは違いその視線に気付いた彼は、片眉を上げて小首を傾げた。
「君が不満?」
「……きついです……」
「ええ、気持ち悪くないよ」
ソラさんがころころ笑う。ハナは彼を横目に、至極嫌そうな顔をしつつ「嫌だったら、あの、言っていいんですよ」と私に訴えた。月に何かあるのだろうか。嫌じゃないよ、そう答えるとハナは肩を落として明らかに落ち込んだ。
「まあ、自己紹介も済んだことだし、好きなだけ見て回るといいよ。値札はないけど、全部売り物だから取り扱いには気をつけてね」
まだ可笑しそうなソラさんが、辺りの品々を示しながら割って入った。自己紹介というかんじではなかったが、そういうことならと頷いた。
ご自由に、そう言い置いて振り返ったソラさんは、ひしゃげた扉を見て目を見張った。飲み込めないのか、目を細めたり大きく開いたりして、何度か繰り返した後にハナを肘で小突いた。
「こ、壊れてるよ」
「壊れてます……」
ますますしょげ返るハナは、さっき自分で埋め込んだ扉を引っこ抜いて奥へと消えていった。
二人がなんとか扉を修復しようと試みている間、勧められた通り、私はこの不思議な店の品物たちを見て回ることにした。宇宙とか空、夜といったモチーフのものが多い。そういえば、店名は「三日月」だ。星に惹かれたのか大好きなのか、どれも魅力的で綺麗で、買わない選択肢を選ぶのは惜しい気がした。
一通り軽く見て回った後、もう一度あの三日月の時計を見に、通り過ぎた机の前へ戻った。机にこぢんまり座る時計は、近くで見ると少し印象が変わった。遠目に見ていただけでは、どこにでもありそうな一風変わった時計程度のものなのだが、近くで見るとそれはそれは華やかな代物だった。第一に月へ施された凹凸を表現した彫刻、第二に時計盤の細やかな彩色、第三にそれら全ての均衡が取れた意匠。手元に置くことで判る、職人の妙技といった風情だ。
電池が抜かれているのか、時計の時刻は三時を指したまま止まっていた。三日月の時計に三時、そういう掛け合わせは好きだ。このお店が三の付く街の、三丁目三の三の三とかだと俄然面白いと思うが、
「いや、それは、流石にないかな」
笑いを堪えたソラさんが歩み寄ってくるところだった。片手に金槌を持っている。時計がよく見えるように、少し後退って空間を作った。
「ないですかね、三のフルコンボ」
「ンッフ、ないかな。あったとしたら、僕がもう宣伝してる」
確かに、目を輝かせながらみてみてと強い主張をしてきそうだ。本当にいい顔で笑うソラさんに、肯きながら時計を指差した。
「ところで、この時計っておいくらですか」
「……あぁ、うーん、それね。まだ売り物じゃないんだ」
「まだ?」
「そう、まだ売れない」
時計を見下ろした彼の表情から、少し色が落ちたように見えた。そして、綺麗に澄んだ青い目が波打つ、幻想的で奇妙な光景も。
青、青色。ソラさんの目の色は、こんなに綺麗な青だったんだ。
「他に、気になるものはない?」
顔を背けるように、ソラさんは天井と壁の間にある角を仰いだ。我に返った私も慌ててそちらへ目をやる。長いまっさらな、白い衣装が飾られていた。店内を見て回っていたときは、全く気付いていなかった。
形状としては着物に近い。胴の部分が長く、袖があって襟もある。裾から垂れた糸の先に筆が結び付けられている以外は、恐らく普通の白装束だ。純白と呼ぶに相応しいそれは、この店にはとてもそぐわないものとも思われた。
「ああいうのも置いてるんですね」
「ちょっとね、中々いいでしょ。友人が特別に仕立ててくれたもので、筆も世界に一本だけの特注品なんだよ。必要になったらあれを墨に浸して、ちょいちょいと経を書いてやる」
「へ、へえ。なるほど。……世界に一本だけ、というのは」
「筆の毛、友人の髪をまとめたものらしい」
ソラさんの境遇が心配になった。
「も~、サボらないでください。あの、扉、どうするんですか」
「買い換えるしかないんじゃないかな。適当に嵌めといていいよ、明日ガミに頼んでおくから」
「あ、明日!? 嫌だなぁ……」
悲鳴をあげるハナの元に、ソラさんがふらふらと戻っていく。ついていくと、波打ってはいるものの扉らしきものがそこにあった。ずっと金槌で叩いている音は聞こえなかったが、全部手作業 っていうのは、流石にないだろう。片手で扉を捻った映像は記憶の彼方に押しやって、四角い隙間に扉らしき板が嵌め込まれるのを感嘆と共に見ていた。
そのとき、背後でドアベルが鳴った。来客を知らせるあの中途半端な音色だ。ソラさんがはっとして振り返った。店の玄関口に立っていたのは、長身のローブだ。人ではなく、ほとんどローブが人の姿を取っているように見える。顔が見えそうな隙間からは何も見えず、虚空から視線が注がれている感覚を一瞬で感じ取った。
「客を探しているのだが」
もう何年も水を飲むことを忘れたような、ひどい嗄れた男声が店内に染み渡った。
「店主よ、客を探している」
「少し待ってくれ、今備品の補修に追われてるんだ。あぁ、そこらへんに松の椅子があるだろう、適当に腰掛けるといい」
入ってすぐ右手に、小さな椅子があったようだ。朽ちかけてとても人の体重に耐えられる代物とは思えなかったが、ローブは難なく腰を落ち着けた。くしゃりと弛んだ布の様子から、中は背の曲がった老人とも見えた。それを確認した途端、ソラさんは素早く私に耳打ちした。
「帰りなさい、今すぐ」
「……え」
表情は真剣そのもので、あの落ち着き払った笑顔はなかった。余裕がないというのは言いすぎかもしれないが、とにかく私とあのローブが居合わせたのが、イレギュラーな事態であるのは確からしかった。気付けば、ハナの姿も見当たらない。あれの相手をできるのは、ここの店主だけということなのか。
あのローブは、いったい何なのだろう。
「帰りなさい」
ソラさんは強く繰り返す。その好奇心は身を滅ぼすぞ、と言わんばかりに。
気にはなるが、ソラさんがそう言うのなら元より店を後にするつもりだった。戸惑いつつも頷いて従う意思を示すと、ソラさんもいくらか緊張を解いた面持ちで微かに笑った。
「どうも、大変なときにお邪魔しました」
「こちらこそお構いできませんで。またおいで、ここにあるものは全部逃げないから」
「はい、それじゃあ、また」
頭を下げると、苦笑が返ってきた。挨拶は大事だと、母から教わったんですよ。口には出さず、踵を返して一直線に扉を目指した。ローブの視線はどこを向いているのか定かではないが、一瞬遮ってしまうのは仕方がないことだ。思わず肩が強張るのを感じながら、伸ばした手で取手へ齧りついた。
一瞬、甘い臭いに襲われた。嗅ぎ慣れていないが、小説で見かける表現の通りで、こういうときばかり察しがいいのは、
「客かね」
背筋が凍りつくのを感じ、扉の隙間から見えた外の宵闇に目が眩んだ。私は確かにここの客だ。だが、この人が聞いているのは、明暗とかひ彼が我とかそういう二元的な世界での話だ。私には関係ない。私は客ではない。――そのはずだ。
「おじいちゃーん! はい、ミカン! 頑張って育てたんですよ~」
軽快なハナの声が、ローブと私の間に割り込んだ。ひどい耳障りの声が、それに応じて嬉しそうに飛び跳ねた。
外は夜になりかけていた。そんなに長い間いたつもりはなかったが、体感というのはそんなものだ。後ろを振り返るのも忘れて外へ飛び出すと、ひとりでに扉は閉まっていった。和やかなオルゴールの音色だけが聞こえる。外には、看板を見上げる人影があった。ふくよかなその人に、入口前を譲って帰路についた。
二.ハナ
不可思議な店に通うようになり、一週間ほど経ったと思う。客は少なく、店員は自由で、しかし私以外にも通っている昔馴染みはいるらしい、それくらいしかわからない不思議な店だった。ソラさんとハナの他にもう一人いるスタッフとは、未だに会えていないままだった。
店の内装は、よく変わる。毎日ソラさんの気分でテーマが決められ、開店前に商品を入れ替えるのだそうだ。私が始めて訪れたときは空、翌日は赤色、その次は月といった具合だ。その過程で、いつの間にか店の隅に小さな椅子と机が設置されていた。最近はもっぱら、そこでお茶を頂きながら雑談に興じている。ハナの淹れるアイスシェルパティーがとてもおいしい。
そういう訳で今日も店の前まで来たのだが、今日は店外まで中の雰囲気が出ているようだった。甘い花の香りがする。オルゴールも、有名なヴィヴァルディの「春」だ。今日のテーマは言わずもがな。
「ツキさん! い、いらっしゃいませ、すみません、あの、まだ少しバタバタしてて!」
花だ。抱えた花束に顔を埋もれさせたハナが、若干息を切らせて私を出迎えた。外とは比較にならない甘い香りもまた、遅れて私を迎える。もちろん、以前のローブのような不快感のある匂いではない。
「ごめん、ちょっと早すぎたね。何か手伝うけど」
「いえいえそんな! 本当に! 今、お茶を持ってきますから、本当に、座ってください!」
花をいくつか、むしゃむしゃしながら話しているような気がする。顔のあたりの花が蠢くのを見ながらごめんねと手を合わせると、彼女は私の謝罪を元気いっぱいに笑い飛ばした。
すっかり元通りとなった奥の扉の先にハナは消え、私はいつもの団欒席へ向かいながら陳列棚を覗いた。相も変わらずショーウィンドウは空っぽだったが、店内の棚はとても華やかだった。シェードランプにブローチ、花瓶や文箱まである。どれも花をモチーフにしたデザインで、所々に活けられた生花がその美しさをさらに上へ引き上げていた。一回だけ、テーマがモノクロだったときがあったが、そのときとは店内の空気がまるで対照的だ。
感心しつつ、つい反対側の机にも足を伸ばすと、ぽつんと置かれた空の小瓶がちょうど目に留まった。細い四角柱に丸い蓋がされた、恐らく香水瓶だ。透き通ったピンク色で、様々な花柄が細かく彫り込まれている。市販なら、フローラルだとかバラだとか、そういった香りが詰め込まれるのだろう。私も昔、似たようなものを持っていた。
からんからん、と。私の提案で取り替えられたドアベルが、小気味良い音を鳴らした。それと同じくして盆を持ったハナが戻り、来客の顔に凄まじく嫌そうな表情を浮かべた。
「うわっ」
「ゴアイサツだなぁ、おい……」
綺麗な青筋が額に十字を作った。
赤い制服に肩提げバッグ、制服と揃えられた帽子に白い手袋。想像の中の郵便配達員そのままの格好をした、かなり恰幅のいい男だ。来客というより、仕事で訪ねたと表現した方が合っているに違いない。店内に入るなり帽子を脱いで、落ちてきた髪で青筋はすぐに隠れてしまった。髪色と目の色も、まるで服装と色を合わせたように、白く赤い。彼が歩み寄ってきたことで気付いたが、その白髪は腰まで届くほどに長かった。ソラさんもそうだが、この人もまた別の意味で浮世離れしている風貌だった。
配達員の男は、慣れた足取りで私とハナの間を通り過ぎた。億劫そうに歩く様が、旧い友人にそっくりだった。彼は奥の扉の前で立ち止まると、強めにノックをしながら、柄の悪そうな口調で延々人を呼び始めた。曰く、フゲツドウと。
「ツキさん、こ、こっち、こっちです。あれに構っちゃダメですよ」
ハナが団欒スペースの傍らから小声で私を呼んだ。身のこなしが早いことで、さっさと退避していたらしい。応じてなるべく足音を立てぬように移動し、席に落ち着いたところで、示し合わせたようにハナと額を突きあわせた。
「どちら様?」
「見たままの通り、ですよ。たまに、集荷と配達と、もっとたまーに、お店の手伝いに来る人です。あの、ええと……ソラさんと仲が良くて」
「仲良くねえよ!」
「ひえっ。ど、怒鳴らないでくださいよ!」
話ついでに次がれていた紅茶が、ハナが飛び上がると同時に飛び散ってしまった。もったいない。
来たときよりも苛々が増した様子の配達員は、ハナの言葉に忌々しそうに舌打ちで返した。あらゆることが気に食わない元凶は、恐らく中々出てこないソラさんの所為だとは思うが、触らぬ神に祟りなし。静かにしておこうと身を縮めた矢先に、配達員の目がこちらへ向いた。
「なんだ、見ねえ顔がいるな。さっさと帰れよ」
「ちょ、お客様です!」
「骨董屋の客と店員は、普通茶を一緒に飲んだりしねえよ」
確かに。はっとした私に、ハナが「ツキさん~!」と情けない声を出した。思わず口元が綻ぶ一方で、配達員は怪訝そうに眉を顰めた。
「ツキ? ……おい、ソラってのは」
「僕だよ。あんまり女の子をいじめちゃだめだよ、ガミは顔面がやばいんだから」
「どういう意味だよ、おい」
さらに一トーン声が低くなったのも歯牙にかけず、ソラさんはあっけらかんと笑っていた。手には分厚い手紙の束があり、それをそっくりそのまま配達員へと押し付け、彼もまた団欒席のひとつへと腰を落ち着けた。
「じゃあ、紹介しようか。この強面の赤い人が、ベコベコの扉を直した功労者です。皆ガミって呼んでるから、ツキもそう呼ぶといいよ」
「ガミ、ですか」
「手紙屋さんだからガミ。命名したのも僕なんだよ」
「お前が勝手に呼び始めてそれが浸透しちまったんだろうが。手紙屋ってなんだよ、んなもん存在しねえわ」
机を挟んで、内容の割に険悪な空気を醸し始めた二人を見やって、ハナが目配せをしてきた。仲がいいというのは、つまりこういうことなのだそうだ。収まるまで数分程度らしいので、しばらく静観しておきながら折角の紅茶を楽しむことにした。今日は二番摘みのダージリンだそうだ。マスカットの香りがほのかにしている、とんでもない上物をご馳走になってしまった。
ハナが忘れ去っていたお茶請けを用意しに立ち上がったところで、二人の意識もこちらへ帰ってきた。ガミさんも勝手知ったる様子で椅子を持ち寄り、人数分のカップやお茶請けのケーキも揃ったところで、四人の本格的なお茶会が始まった。ソラさん曰く、ようやく店のきちんとした紹介ができるとのことだった。察するに、会えていなかった最後のスタッフが、この威嚇を振り撒いているガミさんなのだった。
「議題はともかくとしてよ、ソラって、お前また名前当てゲームしたのか」
「そうだよ? すごいよね、ソラってきたらもうこれは二文字統一を成し遂げなきゃって思って、僕がツキって名付けました」
「きっつ……」
「総じてその反応になるのに納得がいかない」
「あの、『また』ってことは、人によって違う名前で対応してるんですか」
私が口を挟むと、ソラさんは紅茶にミルクをどばどば突っ込みながら「そうだよう」と返した。客の顔を覚えるだけでも大変だろうに、そこに名前も対応させていかなければならないのだから、常連を作る努力というのは凄まじい。その割には、客足は遠いように感じるのだが。
「前回はフユミっていう若い子でね、流石の僕でもギャルのノリにはついていけなくて苦労したんだよ、本当に」
「あぁ……」
ハナが遠い目をし始めた。掘ったら面白そうだ。
「どういう名前を付けられたんです?」
「笑っちゃうよ。さいつよイケメン丸」
私とガミさんが同時にむせた。その単語が名前として発表されたときの二人の困惑具合を想像するのは、目の前の哀愁漂う表情から容易いものだった。
「名前ついでにもうひとついいですか。さっきガミさんが言ってた……」
「フゲツドウか」
胸元をさすって呼吸を整えながら、ガミさんが引き継いだ。驚きつつ頷くと、ソラさんが渋い顔で唸って、カップの縁から半眼で私を見た。近くの机に置かれていた商品の丸眼鏡をそっと掛けてやるとレンズが綺麗に曇った。
「やっぱり砂糖も欲しい。ミルクだけじゃ甘くならないよ」
「誤魔化してんなよ、お前もこいつで遊ぶんじゃねえ。いいか、フゲツドウってのは『浮月堂』って書いて、あっ、てめえ! 俺のイチゴ! ショートケーキのイチゴは許されねえだろ! さいつよ丸!」
「僕はソラです。イケメンなのは認める」
素知らぬ顔で、曇った眼鏡を掛けたままソラさんがもぐもぐ答える。ガミさんが机に指で文字を書いていた隙に、最後に食べようとよけられていたイチゴを、素早く口に放り込んだようだ。絶対に食べさせるかと膨らんだ頬を潰す指、対、絶対に食べてやると頑なに閉じられた唇。本人たちは至って真剣な攻防が始まっていた。
しかし、なるほど。
「月ね」
ハナがげんなりした顔で、重苦しく頷いた。彼女の苦労は察するに余りある。
本題は、ソラさんの「この店はね」という言葉から始まった。頬張ったイチゴを死守することに成功して両の頬が赤いまま、唐突に話は始まった。私はケーキの上に乗っかったイチゴを潰しながら、上目に彼を窺って続く言葉を待った。
「この店はね、忘れ物を思い出す場所なんだよ」
「……忘れ物?」
「うん、それが欲しいものかは判らないし、忘れ物が何個あるのかも判らないけど、とにかく、君はここでその何かを見つけなきゃならない。僕らも君の忘れ物が何かまったく判らないから、可能性しか提示できない。そういうお店だ」
ソラさんはよく、私には理解できない話をする。その話の内容がおかしければ、横で聞いていたハナが訂正してさらにわかりやすく説明してくれるのだが、間違っていなければ彼女は口を閉ざしたままだ。そして今回も、ハナは心配そうに私を見つめるばかりだった。
忘れ物とは何だろう。何かの暗喩に違いない。いつだったか、ローブの人が探していた「客」は、この忘れ物に分類されているのだろうか。
「たとえば、そうだな……」
「まどろっこしいなあ、おい。お前、自分の名前言ってみろ」
椅子にふんぞり返るガミさんが、私を睨みつけて半ば命じるように言った。
「なまえって、ツキじゃ……」
「それは違えだろ、お前のじゃない」
――あれ? 当惑すると同時に、寒々しい感覚が全身を走り抜けた。私のこと、当たり前に認識しているようで顧みることもしていなかった過去。そう、たとえば朝食べたもの、起きた時間、この店までの道のりさえも私には覚えがなかった。昨日私はどこに帰り、どこから来たのだろう。
一切合財が消えているのではない。ガミさんを見たときに旧友を思い出したように、拾える記憶はおぼろげながら残っている。記憶が掠れていることにも、たった今気付かされたのだが、よくも私はこんな状態で平然と笑っていられたものだ。
「あまり不安にならないでほしいんだけど、『そういう仕様』で途切れてる部分もあるから。全部戻ってもそこだけは絶対に消えたままだし、ていうか本当に、ガミは荒療治しようとするのやめて」
ガミさんが隣で盛大に舌打ちをして、私の潰しかけのイチゴをさらっていった。赤いシミの残るクリームの穴を眺めていると、ソラさんが一本締めの如く手を叩いた。顔を上げれば、いつもどおりの強かな笑顔が私を見ていた。
「大丈夫だから。ただ、こんなに長い時間どの商品にも欲しいと言ってくれなかったのは久しぶりで、まあだから、気になるものがあったら言ってね。たくさんの品揃えが自慢なのが、この『アンチック三日月』なもので」
要領の悪い子供に優しく言い聞かせるような、そんなふうにソラさんは言った。
後味の悪いまま、お茶会は解散になった。ガミさんを見送りに出たソラさんは、また店前でやんややんやとやっているらしい。ちらほら聞こえる単語から、どうしようもなくくだらないことで揉めていることだけはわかった。私とハナは、微妙にぎこちないまま食器を取りまとめていた。いや、ぎこちないのは私だけで、ハナがそれに引きずられていた。
私は、この幾日かで見て回った品々を思い返していた。アンティークと「忘れ物」と私の記憶。それらがどう結びつくのか、私にはまったく見当もつかない。きっと、結ぶのは私の役目じゃなく、そのための糸を探し出すのがやらなければならないことなんだろう。
「ツキさん……?」
控えめに名を呼ばれて、慌ててハナへ向き直った。ハナは、盆を持ったまま困ったように眉を下げていた。私が持ったままのポットを下げてしまいたかったようだ。あたふたと盆に乗せてもらうと、すみませんと逆に謝られてしまった。
そのとき、不意に初めて店を訪れた日の記憶が蘇った。
「三日月の時計……」
「あー、そういえばそれがあったね」
快活な声と共にソラさんが戻ってきた。ガミさんとの論争の影響か、普段よりも声高だ。その声にいい笑顔をつけて、ついでに親指も立てながら彼は言い放った。
「まあまだ売れないんだけどね!」
知ってた。それでも、と恨めしげな視線を送ると、親指は引っ込められて代わりに丁寧な合掌をされた。今そのポーズをされると、まったく別の意味にも取れるのでやめてほしい。
「しかし、君は一から十まで時計だなあ。むつかしい」
言いながらたまたま目についたのか、ソラさんはあの香水瓶を手に取った。掌で何度か転がし、それをじっと眺めながら何か考えているようだった。その思考を遮るように、食器の割れる音とハナの慌てた声が聞こえた。ソラさんは香水瓶を元あった場所へ置き直しながら、急ぎ足に机の前を立ち去った。
香水瓶。私にはあまり馴染みのないものだが、そうだ、一度だけ手元に置いて使っていた時期があった。中身はこの店内のような甘い花の香りで、私はあまり好きではなかったが、彼が、好きだと言っていた。少しだけ手首につけて、自分から匂うのは変だと言って、一生懸命につけた香水をこすり落としていた。
「焦った焦った、あのティーセットを割られたら僕めちゃくちゃ困っちゃ、えっ!? ツキ! どうした、何かあった?」
動転したソラさんに呼ばれて、ようやく自分が泣いていることに気付いた。頬をとめどなく流れていく涙を手の甲で拭い、確かに濡れているのを見ると、へえと気の抜けた声が出た。
「泣いてる……」
「えっ、うん、それ、僕のセリフかな」
目をこすってもこすっても止まらない私の涙に、一旦ソラさんは奥へと消え、タオルを手にして戻ってきた。柔らかいタオルには、ブサイクなヤギのパッチワークがされていた。思わず笑ってしまいながら有り難く借り受けて、目を閉じて、そのモフモフに顔を預けた。
――なんだよ、おしゃれだろ? この眼鏡の良さは、わかる奴にはわかるんだよな。
彼とは、レイジとは、たまたま同じ学部の人間で同じ授業を取っていた。ディベート形式の授業だったそこでは、必然的に言葉を交わすことも多く、なんとなく彼の存在を認知していた。派手な装いの男を避けていて、無意識的にまともに目を向けることをしなかったのだろう。この頃の彼の姿は、ぼんやりとしか思い出せない。いないと気付くことはできる程度の授業メンバーの一人、それだけだった。
転換点は、私の誕生日だ。いつだったか今は思い出せないその日に、いたずらっ子のような笑顔で、無造作に包み紙を渡された。線を飛び越えてきたのは、彼が先だ。
――香水使うの初めてって、それは流石に……冗談だろ?
茶色の紙袋にきらきら光る花のシールを貼って、箱に入った小さな小瓶がひとつだけ、彼からの初めての誕生日プレゼント。手のひらに少し重いそれに、私が呆気に取られて動きを止めていると、前の空席に我が物顔で腰掛けて彼が感想を待っていた。箱の中身も、それから小瓶が出てきても、プレゼントの正体が掴めないでいる私に、不思議そうな表情だった。香水、使ったことない。私が言うと、今度は彼が動きを止めた。紙袋からは、甘い石鹸のような香りがした。
――親父も料理下手なんだよなあ、この前カレー温めようとして焦がしてさ。
横からさらわれた卵焼きが口の中に消え、彼が「おっ」と表情を明るくしたのを見た。しかし、すぐに眉をひそめた。それはそうだ、この卵焼きは中にバナナが入っている。お母さんの謎めいた創作料理シリーズのひとつだ。彼は渋い表情で何回か咀嚼して飲み下し、見つめる私の目を見返して一度ゆっくり頷いた。言葉はないらしい。
――海。潮騒が聞きたい。
長く続くアスファルトと代わり映えのしない森林風景、行き先の知らない私はとっくに飽きていた。彼は申し訳なさそうに眉根を下げながら、もう少しと笑った。いつものおしゃれ眼鏡をシャツの襟元に引っ掛けていて、雰囲気が少し違う彼の横顔を、長い道中ずっと眺めていた。授業をサボった後ろめたさは、私の髪を引くには足りなかった。
――俺は! お前のそういう、自分を蔑ろにするところが大ッ嫌いだよ!
彼は見た目とは裏腹に思慮深い男性だった。いつも受け入れて、自分の中で噛み締めて昇華させ、丁寧に言葉を選んでいた。それでいて常に上手く立ち回れるわけでもなく、失敗しては眉根を下げるしかない彼の不器用さが愛おしく。私は早くに父を亡くし、そういった存在をほとんど知らなかったが、彼を「父親」のように感じてもいた。一方で怒ると突っ走りがちなところや、思い出したようにやんちゃをする一面なんかもあり、そういったとき彼は決まって母親に甘える子供のような目をしていた。彼の家は、父子家庭だった。
「補完し合えてたんだ、上手い具合に」
「そうですね、きっと。そうなんだと思います」
カップから立ち上る湯気を眺めながら、曖昧に頷いた。打算的に聞こえてしまった言葉が少し嫌だったが、直接表してしまえばそんなものかもしれない。よくわからなくて、私はそれ以上続けずに苦いコーヒーに口をつけた。
団欒席に戻ってから、つい昨日のことのように思い出した彼のことを、私は全てソラさんに打ち明けていた。ずっとこれを待っていたであろうソラさんは、急かすことなく、相槌を差し挟んで耳を傾けていた。コーヒーはもう二杯目だ。
「あの人とは、あっちこっちでよく聞くような、恋人同士のイベントを体験してないんです。告白したり、されたり、好きだとか、そういったことは何も。恋人だと考えたことも、もしかしたらなかったかもしれません。でも、この人とずっと一緒にいるんだろうって、たぶん互いに思ってました」
「うん」
「結局そうならなかったのは、ご存知だと思いますが……きっかけは本当にどうしようもないことで、喧嘩別れしたことなんです」
「うん」
「家を飛び出していってそのまま、夜のうちに死んじゃったんですよねぇ。ガードレール突き破って崖下に落ちて。ブレーキ痕はなかったそうです」
思っていたより呆気なく言葉にできて、ソラさんもまたわかっていたように受け止めていた。返答は先通りの「うん」というあっさりしたものだが、それがいくらか私をほっとさせた。
彼が死んだ夜、向かっていたのは海だったそうだ。県境をまたいだその先までの長い道のりをどういう心境でいたのか、知る由はない。警察から遺品として渡されたのは、唯一ピンク色の小さい香水瓶ひとつだった。同じ頃、顔も知らない彼と仲のよかった女の子が姿を消した。
ソーサーにカップが置かれ、かちゃりと控えめな音を立てた。苦いものは得意でないのか、半分以上残っている黒い液体が奥で波打って消えた。机の中央には、話題に上った香水瓶がある。渡された瞬間に叩き割った際の音が、今も耳に蘇った。
「すみません、こんな話」
「いいんだよ、この話が」
大事なことだ、彼は言った。
「それで、どうする? 思い出が詰められたこの小瓶、買うかい」
問われている意味が一瞬理解できず、ソラさんの顔を目を丸くして見た。ソラさんはドヤ顔で言う。
「アンティーク屋だからね」
「そうですね」
可愛らしいデザインの小瓶を見つめた。これが欲しいか、必要か。視界の端で肩をすくめるソラさんが見えた。そうして入口へ目を向けた彼は、おや、と意外そうな声を出した。
「珍しいお客さんだ。どうぞ、探し物はきっとここにあるよ」
出迎えるためかソラさんが席を立ち、私もそれにつられて入口を振り返った。ドアベルを鳴らし足を踏み入れたのは、豪奢な衣装に身を包んで頭に冠を戴く男――有り体に言えば、王子様だった。
「邪魔をするよ! やあ、相変わらず美味そうな匂いをさせる店だ」
浅黒い肌に白い歯を浮かばせて笑い、王子様は指でミスマッチな丸眼鏡を押し上げた。彼は店主の出迎えを片手であしらうと、深みのある目で真っ先に私を見据えた。距離があるのに、一口で飲み下されてしまいそうな引力を感じる目。私は思わず椅子を蹴って立ち上がった。
「迎えに来たぞ、こんなに早く出会えるとは思っていなかったからな! 迷子になっていなくて本当によかった。さあ、早く帰ろう、さあ!」
王子様はつかつかと歩み寄ったかと思えば、私の手を迷うことなく掴み取った。白手袋に包まれた手は、わかりやすく冷たかった。対照的に急いている表情は熱っぽく、どうしようもなく輝いていて、そんなだから私は彼の手を振り払って、思いっきり頬を引っぱたいてやったのだ。
「……ヒュウ」
口笛を吹いたソラさんは、王子様のひと睨みで黙らされた。そして赤く染まりつつある頬を押さえて、彼は憤然と私をも見るが、私はその鼻っ面に机の香水瓶を思い切り投げつけた。直撃。悶絶。驚くべきことに数歩後ずさる程度で済んだものだから、さらに蹴りで追い打ちをかけていった。
横の視聴者ことソラさんは、腹を抱えて声も出せないほどに笑い転げていた。奥で控えていたらしいハナも駆けつけたが、臆病な彼女が割り込めるはずもなく、後ろで青ざめて焦っているに違いない。とにかく邪魔の入ることのなかった私は、王子様を店から蹴り出すことに成功し、床の上の忘れ物を取りに彼へ背を向けた。
「ッ……うわ、血……お前、自分が何してんのか、」
「うるさい」
もう一度、ダメ押しが如く香水瓶を投げつける。照準がずれたか、王子様の顔の横を通り過ぎていった小瓶は、店の看板を見上げる人影の足下で砕け散った。人影も驚いたように騒ぎに目を向けた。以前会ったあの人だ。王子様の顔色は、すっかり赤みが抜けていた。
「ひどい香水の匂いです、あなた、まだ女を抱いたままなんでしょう。不快です」
「そんなことは、」
「ええ、どうでもいいです。どうでもいいんですけど、私は怒ってるんです。どうぞお帰りください、さっさと、ほら早く」
扉は王子様の体に引っかかって止まっている。どいてくれれば自然と閉じて、私もすっかり忘れ去ってしまうことができる。そんな私を知ってか知らずか、狼狽するばかりの男に、かっと頭に血が上った。
「かえれ!」
王子様は一度肩を揺らすと、手足をもつれさせながら慌てて店先から走り去っていった。扉が閉まり、店内が静寂に満ちる。私が横目にソラさんを窺ったところ、彼はまだ笑顔のまま大きく溜息をついて力強く頷いた。
「おつかれさま」
「笑いどころじゃないですから。もしかして、こんなのが何回もあるんですか」
「そんなに殴りたい人がいるの!?」
またもソラさんが吹き出した。しばらくは今日の話で、一人でけたけた笑っているのだろう。諌めるハナの声を聞きながら、私はまだ少し痛む手の平をさすった。吹き込んだ風に煽られて花弁が舞う中、壁に掛けられた白装束も揺れていた。
三.ガミ
珍事件からまた一週間ほどが経つ。投げて叩き割った商品の代金として、早朝の棚の入れ替えや掃除を任されていたのだが、それがようやく終わってゆっくりと来店できた今日。客という本来の立場で訪れて店の前に立つと、中身を知らない箱を開けるような緊張感を思い出した。
今日の店はどことなく陰気だ。ショーウィンドウが空っぽで、覗く店内も暗いのは最早いいとして、オルゴールの音がギクシャクしているように感じられた。それだけで雰囲気がかなり変わっている。屈んで金色の小さな箱を覗くも、何かが詰まったり引っかかったりというより、自立的にそう動いているようだ。このひとつひとつの音が、どうにも不快感を催していた。さっさと中で紅茶を貰って記憶探しをしよう、もう慣れた取っ手に手をかけて押し開けると、頭上で小気味良いドアベルが鳴った。
「こんにちはー、お客様ですよ」
久しぶりに見た夜景の内装に迎えられ、軽口を叩きながら後ろ手に扉を閉めた。光が遮られ、夜に沈み込んだ店内はやはり綺麗だ。いつもより暗い設定にされているのか、ほとんど光点しか見えない。ソラさんが気付いて出てくるまでの間、星座でも探せないかと天井を見上げていると、珍しい香りが鼻腔をくすぐった。これはよく知っている。インクだ、本屋に入ると感じるようなあれだ。
今日の商品は万年筆か、古今東西新旧の書物をかき集めたか。推測しながら暗闇に目を慣らそうと瞬かせていると、奥でのっそりと黒い塊が動いたのを認めることができた。闇が広がっているものとばかり思っていたが、人がいるらしい。私の存在を完全に無視して。中央部分に商品を広げないのはわかっている。私はその黒い人影目掛けて、まっすぐ歩を進めた。人が来たら、とりあえず挨拶をしましょう。
「……あァ?」
「あっ、ガミさん……お久しぶりです」
大分近づいてから気付いて足を止めかけたが、それより先に存在に気付かれてしまった。細められた赤い目が光って――なぜ光るのですか――元々人間離れした相貌が吸血鬼を思わせて身が竦む。常日頃から機嫌が悪いのがこの人なのだが、どうも私はソラさんに次いで嫌われているらしく、それを察知してから逃げ回っていたというのに自ら突っ込んでいってしまった。
ガミさんは、いつもの郵便配達員の服装と大きなバッグを携えた装いだ。片手には三つ折りの便箋と思しきものを持ち、もう片方は考え事をするときの癖か、指にいくらか髪が巻きつけられていた。私の視線に気付くとすぐに解いてしまったが。
「えっと、お一人ですか?」
「あぁ」
「そうですか、ソラさんが店を空けるって珍しいですね」
黙殺。とっくに意識も便箋へと向いてしまっていた。ソラさんが不在ということを教えてもらえただけでも御の字といったところか、きっと。仕方なく、暗いまま机の上に並べられた商品を見て回ることにした。ガミさんが電気を点けなかったということは、暗い室内をご所望ということだ。間違いなく燃える燃料に、わざわざ火種を放り投げるほどバカな真似をする人はいないだろう。
商品は明らかに点数が少なかった。少ないときの半分ほどくらいしか並んでいない。内容は大体推測通り、万年筆本体を筆頭にインクの詰められた壺やインクを補充するときに用いる吸入器も置いてあった。そして、それらの間を縫うように白い便箋が置かれていた。どれもシワが入り、達筆すぎて解読できない文字列が並んでいる。これが今回の商品……。
いや、ソラさんもハナもいないのに、商品を並べたのは誰なのだろう。
「おい、マッチあるか」
赤い目がこちらを見ていた。二つ返事で急いで奥の部屋へ向かい、ごちゃごちゃと物が詰まっている引き出しから二箱ほど確保してそれをガミさんへと手渡した。大儀である、と言いそうな風格で受け取った彼は、今度は持っていた便箋を私へと押し付けた。訳もわからずに受け取る。書かれているものは、やはり机の上にある商品と同じ筆跡の文字列だ。
混乱しつつガミさんを見上げると、彼は迷わずマッチを点火していた。あっ、これ手紙を燃やすやつだ。
「ま、ま、ガミさん! 灰皿! せめて灰皿!」
「誰かタバコ吸う奴いたか?」
「……」
引火された。
「ちょおおおお!」
「招待状だ、しっかり持ってろ。落とすと店が燃えるぞ」
焦る私を横目に、ガミさんは団欒席へどっかりと座ってしまった。長い足を組んで頬杖をつくと絵になるのだが、目の保養よりも今は迫る火の手から救って欲しい。招待状は瞬く間に燃えていく。頑張って端をつまんでなるべく火から逃げていたが、気付いてしまった、最後まで燃やす場合逃げ場などないことに。気付いてしまったそのとき、ついうっかり反射的に手を離してしまった。
火種が床に落ちる――はずなのだが、あっと思う間もなく招待状は空中で一際大きく燃え盛り、細かな灰だけを残して消え去った。
「お出でだぞ、しゃんと客を迎えろよ」
呆気に取られる私へ、無造作な注意が投げられた。お出でって誰が、そう問うよりも先に、突風で扉がけたたましい音を立てて開いた。思わず腕で目を庇い、やや収まったところで顔を上げると光の中にローブをなびかせた人が立っていた。
「ご招待をどうも。中々来れない位置にあるものだからありがたいわ」
女性の声だ。ゆったりとした黒のローブと三角帽子、そして身の丈ほどもある木の杖。この三つが表わすものは言わずもがな、あの人は魔法使いだ。
風で巻き上がった便箋が、紙吹雪となって三人に降り注いだ。やがて扉も閉まって元通りの夜闇の中、一拍の沈黙を置いて魔法使いは言った。
「電気、点けてくださらない?」
団欒席に腰掛けるのは異色のメンバーだ。店主代行のガミさんと、お客さんの魔法使いに、なぜかハナのポジションに立ってしまった私だ。もちろんお茶と茶請けは私が出した。ガミさんには一口で「マズイ」と断じられた。
魔法使いは茶請けのクッキーを口いっぱいに頬張って、私が拾い集めた商品の便箋を一枚ずつ読んでいた。笑ったり渋面となったり、眺めていると飽きない百面相を見せてくれた。彼女の目的を少なくともガミさんは知っているようなので、私は大人しく彼女のやるべきことが終わるのを待った。待つことには慣れた。それに、ソラさんの待っている時間と比べれば、私のなんて微々たるものだ。
「いやあ~面白かった! やっぱり貴方が持ってくる物語は最高ね、ミヤさん。次も期待していいのかしら」
手紙の束を机の中央に放って、魔法使いが両手を伸ばして体を解した。ミヤさんというのは、もちろんガミさんのことだろう。彼もまた色々と名前があるらしい。イチゴの葉を取ることに集中しているガミさんは、魔法使いの褒め言葉に鼻を鳴らしただけだった。魔法使いは不躾な態度は慣れているようで、無言の肯定と前向きに捉えて嬉しそうに笑った。
「さて、お待たせしたわね。貴女でしょう? ツキさんって」
「は、はい。確かにツキです、はじめまして」
「はじめまして。わたしのことはマホガニーと呼べばいいわ」
マホガニー?
「柔軟、しなやかさ、そして高級品。まさにわたし」
「曲げやすい、扱いやすいとも言う」
「失礼ね! 手紙を食べるヤギよりよっぽどマシよ。貴方、いいかげんその毛を刈り取ったらどうかしら」
「悪いがこれは馬の毛だ」
「へえ~……へ、へえ?」
マホガニーがわかりやすく騙されていて、名前の別の意味に納得した。「もちろん知っていてよ?」などと言われると色々と辛いので、話題はぶった切っておくに限る。
「それで、私にどういう御用だったんでしょう。ガミさんが一枚噛んでいることにも驚いているんですが」
「仕事よ、彼もわたしも。待って、話してないの?」
「イチゴの種を取るのに忙しかったんだよ、それくらいわかんだろ」
「奥歯に詰め物レベルで種押し込むわよ」
ちっ、とガミさんが舌打ちした。どこまで馬鹿、もとい騙されるかを試している最中なんだろうか。
マホガニーはガミさんへ小言を重ねつつ、困ったように眉を八の字にしていた。しかし逡巡する性格ではないのか、すぐに目をキリリと引き絞って一枚の封筒を胸元から引っ張り出した。ややひしゃげている、宛名も差出人もない白い封筒だ。それは迷わず私に差し出され、私宛の手紙だということが示された。
「私に? 誰から……」
「いいえ、貴女宛ではないわ」
勘違いだったようだ、マホガニーにすぐに否定されてしまった。彼女はようやく大きな帽子を取って、それをひざの上に預けて続けた。
「貴女からよ」
――物を大事にするのはいいこと、でも使わないのは悪いことよ。
私はよくペン先を割ってしまう生徒だった。力が入りすぎだと指摘されるが、幼少の頃から育った高筆圧は中々抜けてくれず、結局三本ほど駄目にしてしまった。四本目の万年筆を渡されたとき、私はもうほとんど字を書くのも嫌になっていて一度受け取るのを拒んだ。微笑んだ先生はそれでも私の目の前に万年筆を置いた。黒色の綺麗な胴の部分に、私の名前が彫り込まれていた。
――貴女はきっと、とても素敵な文字を書くのでしょうね。私にも見せてね。
ペン字を始めたのは卒業を間近に控えた頃だ。ササラ先生とはその教室で会い、未だに精神が不安定だった私はずいぶんと助けられた。「書く」――その一点に集中する作業はもとより、先生の生き遅れるかの如きスローペースさは心の波を落ち着けるのに役立ったのだ。落ち込んでいたり荒れていたりすると、目の前が見えなくなる。いくらか余裕を取り戻して見上げた夕焼けの美しさといったら、私が前向きに立ち直るきっかけといっても過言ではない。
――わかってくれると思って。ええ、どうか忘れないで。
私を人の道に引っ張り戻してくれたその先生が、旦那さんを亡くして一月ほど教室が閉まった。心配ではあったが、所在も電話番号も何も知らない私にできることはなかった。一ヶ月後、教室が終了することが、再開した初回の授業で生徒に知らされた。先生は、息子を頼って居を移すことにしたのだという。やせ細り笑顔に影を落とした先生は、甘い香りを身にまとって別れ際に呟いた。
「さようなら皆さん、良いお年を。あなた方の幸せを神々と共に祈りましょう」
まもなく先生の訃報が届いたとき、これは呪いだと思った。
「死神か何かか?」
「ヨミ!」
「ミヤだろ、しっかりしろよな、おい」
茶番を繰り広げる二人は放っておき、震える手で手紙の封を切った。今の記憶と繋がるのなら、この封筒の中身は訃報なはずだ。だが、マホガニーは先ほど「私から」出された手紙だと言った。ならば、これはなんだ。寒気の走る感覚に恐れていると、新たな客人が扉を開いた。
「おはよう、お待たせ~ガミ色々悪いね」
「あっ、ツキさん! おはようございます。あの、顔色悪いですけど、大丈夫ですか……?」
ソラさんとハナだった。二人して巨大な紙袋にあれこれ詰め込んだのを、両手いっぱいに抱えて帰ってきたようだ。今にも落ちそうなリンゴのバランスを上手く取りながら、ソラさんは楽しげにマホガニーとの再会を喜んでいた。
その笑顔を見た瞬間、最後のピースがはまったような気がした。
「そうだ、これ……」
私が呟いて手元に視線を落とすと、騒いでいた面々の視線もまた集まった。ソラさんが短く息を呑む音が聞こえた。やはりこの人は全部知っている。
「これ、私の遺書だ」
私も全部、思い出した。
四.ツキ
お気に入りの時計が三時を指していた。綺麗な三日月も出ている。いい日和だ。
効き目が思ったよりも早い。喉が渇いたのでコップに残っていた水を飲んでしまいたいが、腕を上げるのが億劫で諦めた。まどろみがだんだん深くなる。
色々遣り残したことが浮かんだ。いけ好かない女を殴っておけばよかった。ちょっと値の張る服を着て美味しいものを食べればよかった。万年筆を洗浄するのをすっかり忘れていた。母を力いっぱい抱きしめたかった。もう全部遅い。
食べることが好きですぐに太ってしまう母、写真の中でしか知らない父。顔がぐるぐると回る。愛おしい、私にもこんな感情があった。誰も教えてくれなかった。一人で気付かなくてはならなかった。人が人であるために背伸びをして、私はずっとさびしかった。先生が、死は救いだと囁いていた。
静まり返った店内で、マホガニーが気まずそうに目を泳がせていた。彼女が持ってきた遺書、実は商品でもレプリカでもなく紛うことなき本物だという。つまり、私の母からマホガニーがくすねてきたのだ。列記とした不正行為だとかで、ソラさんはかなり怒っていた。
とはいえ、それのおかげで早々にケリがついたのは喜ばしいことではないか。胃の中のものをトイレに吐き出してから戻った私が進言するも、「関係ない」とばっさり切り捨てられて会話が終了した。南無三。
「んなことより、早くしてやれよ。魔女はクビでいいんだよ」
「反省はしてますから……」
「そういう単純な話じゃないんだけどね!」
ソラさんが私をちらりと窺い見た。元気をアピールするためにピースを二つ作ると、呆れたように笑って付き合ってくれた。最後くらい楽しくいきたい、そんな私の我侭をとことん聞いてくれるようだった。
私は順番に全員の顔を見ていった。覚えていられないとかいうものの記憶になるのだろうが、それでいい。私一人のために誂えられた役者たちの顔を、今一度しっかり見ておきたかっただけだ。ハナはやっぱり少し泣きそうな表情で、ガミさんは苛々し始めの仏頂面、マホガニーは戸惑い気味で、ソラさんは得意の営業スマイルだ。
「あーあ、もう少し楽しみたかったんだけど」
「だ、だめですよ、これはおめでたいことなんですから」
「この店主に任せといたら、いつになっても終わらないわよ」
苦笑するソラさんから、売れないと言い張られ続けていた時計を手渡された。背面に付けられた三日月の、ふくらんだ部分が何かに齧られたようにへこんでいる、不思議な形をしていた。この時計が売られていなかった理由が、やっとわかった。これはヒントでも忘れ物でもなく、彼からのエールだった。個人的に贔屓していた客への、たった一つの贈り物だ。
人は完成でも未完成でもない、ただの経過途中、あせらなくていい。たったそれだけのことを伝える不器用で不恰好な時計。あー人間って面倒くさいね。
突風にも耐えた留め具がとうとう外れたか、ほとんど忘れていた白い衣装が頭上に降ってきた。人の形を取るようになびいて回りながら正面に降り立つと、白装束は先生の声で一言叫んだ。
「忘れないで」
いつかの夕焼けが瞼に浮かんだ。口達者だと思ってばかりいた先生の不器用さを知ったあのときの、もう見れない鮮やかな燃える空の色。
ドアベルが鳴った。迷子だった人影が、ようやく迎えに来たぞと私を呼んでいる。私は白装束に手を伸ばした。力を失って崩れた布と手紙を抱きしめ、ひと思いにソラさんへと押し付けた。
「お父さん! 手紙もそれも、燃やしちゃってよ! また新しいのを持ってくからさ!」
目を丸くしたソラさんが全員に小突かれるのを見て、私は店を後にした。
正面には、少し痩せたらしい人影が一人。小首を傾げて私を見ている。懐かしい旋律を、オルゴールが繰り返している。
鼻をくすぐる消毒液のにおいに、ああ――いまさら後ろ髪が引かれる思いがした。
「お母さん」
白い背景の眩しさに目を細めつつ小さく呼ぶと、口ずさまれていた懐かしい歌が途切れた。編み棒を取り落とした母の姿は、記憶の中よりずっと痩せていた。私が元気になったら一緒に美味しいものを食べに行こう。へへ、と力なく笑うと、双眸に涙を溜めた母も笑った。