6.6
翌朝、客船は予定通りの出航だった。海は荒れていなかったが、小雨が降っていて視界は悪そうな様子だった。船は二万トンクラス、全長は二百メートル近くになる大型客船だった。ここノートラールで建造され、パ連邦との定期客船として就航していた。
午前、二人は船内のサロンで紅茶を飲みながら一息ついていた。
「ご一緒してもかまいませんかな?」
見知らぬ男性が一人声をかけてきた。
「ええ、まあ構いませんが」マルティグラはそれとなくあたりに目をやった。サロンは比較的混雑していた。「どちらでお会いしたことでもありましたか?」マルティグラは聞き返した。
「いいえ、初対面だと思います」男は落ち着き払った態度だった。男は空いた席に座りながら続けた。「ですが、聞くところによるとそちらのご婦人はトレス・レペンスという方だとか」
その一言に、表情には出さなかったがファリードは緊張した。しかし、レペンスは小馬鹿にしたような笑みを見せながら「君も私達に銃を突きつけるのか?」と冗談まじりに言った。
それを聞いて、男は静かに笑った。
「あなた方が、他からどのような接触を受けたか知りませんが、私は脅しなどという野蛮な方法は好きませんね。まあ、上司の指示によるところもありますけど」それから紳士然とした態度で何かを取出した。
小さな金貨が一枚、テーブルの上にさし出された。
「こういった品が嫌いだという人は少ないでしょう?貴金属、宝石類、もちろん嵩張る金だけではありません。小切手でも紙幣でも。あるいは国債でも。もちろん指定された国のものならできる限り手配いたしましょう。お求めの額だけ」商社の敏腕営業マンとでもいった趣があった。「どうです?他の方々がどのような手段を使ているかは知りませんが、私は違います。もちろん私の信頼する上司もです。それに私の住む国はあなた方パラムレブとは同盟関係とはいかなくても友好国です。表向き中立国ではありますが。我々はあなたの能力について、協力を求めています。そのために十分な見返りも用意はしているつもりです」
「なるほど、」レペンスは金貨を手に取ると光にかざしたり、重さの手ごたえを確かめたりした。「ビジネス風に行こうという考えか」
「そういったところです」
「ただ、君は私の持っている能力が本当だと信じているのかね」レペンスは聞き返した。
「そこは要点ではありません。ただし、私の所属しているしかるべき機関は信じるに足ると判断しているようです」
「そうか、」レペンスは静かに金貨を戻した。「せっかくな提案だとは思うが、君やノートラール国にたいした義理があるわけでないな」
「そんなことをおっしゃらないでください。あなたにだって欲しいものはありますでしょう?」
トレスはしばらく黙りこんでいた。
「ああ、一つあったな」
「なんですか?」
「私の人生……そのものだ」トレスはきっぱりと言い放った。「君のような人達に邪魔をされないようなね」
男は少し面食らった様子だったが、続けた。「突然ことですし、少し失礼が過ぎました。ですが、少しお考えになってみてください。それでは」それだけ言うとサロンを後にしていった。
「時間があっても考えは変わらない」レペンスは男の後ろ姿に向かってつぶやく様に言った。
「しかしですね。ああいう手合いが一番厄介なのですよ」ずっと静かに二人のやり取りを見ていたマルティグラはやっと口を開いた。
「そうか。それにしても、あいつはどうして私のことを知っていたのだろうか」
「監視のエージェントが定期的に船に乗っているのか、もしかすると尾行されていたのかもしれません。迂闊でした」
「あるいは、眼帯の大尉のように、まぐれあたりかもわからん」
「それにしても、なかなか強く反論しましたね」
レペンスは鼻で笑った様子だった。「いずれにしても、私は組織と言うものをあまり信用していない」
「それは……」
「まあ、君も組織側の人間ではあるが、少なくとも後ろから不意を突くような真似をする人ではないと思っている」
「それ以前に、貴女を護衛するのが今指示されている任務ですから……」
「ではそれなら……私を殺せと命令されたら、それに従うかね?」
「えっ、それは……」
レペンスはとっさに笑いそうになるのをこらえた様子だった。
「詭弁だったな、この質問は」口元にはまたしてもいたずらっぽい笑みを浮かべていた。「君が迷っているうちは、背中を向けていても大丈夫そうだね」




