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第6話

 雲の切れ間で見え隠れする月。新月から数えて何日目だろうか。浮かんでいるのは、黄金色に輝く繊月だった。

 昼夜の寒暖差はいまだ激しく、冴え返った夜空からは、透き通った閑寂ささえ感じられる。

 窓からかすかに覗く月を横目に、イザベラは病院の廊下を歩いていた。

 予定よりも少し時間を食ってしまったが、本日も無事に仕事を終え、入院している父のもとへと向かう。喜ばしいこととはいえないが、もうすっかりこの病院にも通い慣れてしまった。

 だが、職務のほとんどが内勤という今の状況は、とてもありがたいことだと思う。おかげで最近では、ほぼ毎日、こうして父を見舞うことができているのだ。

 周囲には、父親が入院していることを伏せている。父自身、病気や入院のことを世間には公表していないし、社内でも知っているのはごく一部の重役だけだ。

 それに、イザベラ自身も、同僚や部下に余計な心配をかけたくないというのが本音であった。さすがに上司は、部下である彼女の現状を把握しているけれど。

 今日も、彼女は父との時間を過ごす。大切な時間を。

 限られた、時間を。

 ふう——と、仕事の疲労からではないため息を漏らす。

 つい先日。イザベラの一方的な誤解が招いたプチ悶着を経て以来、彼女はひどく気がそぞろになっていた。

 例のごとく、あれからイーサンとは会っていないが、残念というよりはむしろ安堵していたり。

 彼への気持ちに気づいてしまった。その程度を聞かれると、いささか返答に困ってしまうが、柄にもなく取り乱してしまうほどには彼のことが気になっているらしい。しかも、職場であんなこと……自分で自分が信じられない。

 あの日、公言していたとおりにここを訪れたのだが、そのときの弟の怪訝そうな表情は今でも覚えている。追及されたらどうしようかと内心ひやひやした。……が、恋人がいることを母親にバラされた恨み節に火がつき、そちらに意識が集中してくれたので、それは杞憂に終わった(もちろん弟の吠え声などすべて聞き流した)。

 次に彼と対面したとき、自分はいったいどんな反応をするのだろう。これまでどおりに接するだなんて、そんなことは不可能だ。だって今、彼と対面したそのシチュエーションを思い浮かべるだけで、血圧が上昇していくのがわかる。

 胸がそわそわする。

 ベクトルの大きさは異なれど、いわゆる『両想い』というやつなのだろう。感情の正体は判明した。しかしながら、自身の行動に正答を見出そうとする彼女は、いまだその感情を持て余しているのである。

 冷たい廊下に、今度は無音のため息が落とされた。

 いよいよ父の病室へと差しかかったとき。少し離れた先から、二人の竜人男性が歩いてくるのが見えた。

 背格好のよく似たその二人は、片方が銀色の短髪で、もう片方がプラチナブロンドの長髪だった。ともにゆっくりと歩む様は、実に荘厳である。

「!」

 瞬間的に、イザベラは彼らが誰であるかを認識した。はっと息を呑み、その場に立ち止まる。

「わざわざご足労くださり、ありがとうございます」

 それから少しだけ脇へ寄り、背筋を伸ばすと、深々と最敬礼した。

「堅苦しい挨拶は不要だ。頭を上げなさい」

「ああ。我々が今日ここに来ているのは、あくまでプライベートだからな」

 イザベラの謝辞に対し、先に口を開いたのは短髪の男性。それに応じたのが長髪の男性だった。各々醸し出すオーラが、声の重厚さをさらに増幅させている。

 後者は、軍随一の知性派として知られる、大将セオドア・シュトラス。

 そして前者は、国内だけではなく国外にも『生ける軍神』としてその名を轟かせている、帝国軍最高司令官——元帥ゼクス・フレイムだった。

 クイン社の取引相手には、軍の病院も含まれている。よって、当然というべきか。二人は公人として、これまでに幾度となくフォースと語を交えたことがある。

 また、彼らはそれぞれ友人として私的な付き合いも有していた。とくにゼクスは、貴族という立場ゆえ、社交界においてもフォースとは旧知の仲である。

 フォースの娘が軍医として入隊したことには正直驚いたが、諸所で医療従事者が不足している昨今、組織で要職に身を置く彼らにとっては至極幸甚なことであった。それが優秀な人材であるならなおさら。

「最近よく見舞いに来ているそうだな。とても喜んでいたぞ」

 病室でのやり取りを想起しながらセオドアが言った。彼の脳裏には、やつれた顔に喜色を浮かべたフォースの姿が蘇っていた。

「できるかぎり御父上に付き添ってあげなさい。なるべく時間がとれるように、所属師団の人員調整も図ってみよう」

 セオドアの言葉にゼクスが続ける。イザベラの肩を軽くポンと叩いた彼の穏やかな表情は、上官のものというよりも『父親』のそれであった。隣に立っているセオドアも、同じように頬を緩めている。

 父親である彼らはともに、フォースの気持ちが痛いくらいにわかっていた。子を想う親の気持ちは、わかり過ぎるほどにわかる。

 セオドアは二人の子の、そしてゼクスはジークという一人息子の——父親なのだ。

 上官の優渥な言葉に、イザベラはただただ低く長く頭を下げた。

「……と、私たちと話をしている場合ではないな。せっかくの面会時間が短くなってしまう」

 申し訳なさそうに笑みを零すと、ゼクスはイザベラの肩からそっと手を離した。慌てて釈明しようとたじろぐイザベラに、フォースのもとへ向かうよう促す。

 もちろんイザベラは、二人を見送る心積もりだ。

 別れの挨拶を交わし、通り過ぎる二人は、相変わらず荘厳な雰囲気を纏っている。けれども、不意に耳に入ってきた二人の会話に、イザベラはおのずと破顔した。

「お前、このまま帰れるのか?」

「ああ、だいたいの仕事は片づけてきた。それに、今夜は一緒に夕飯を食べると、娘と約束したからな」

「そうか。それは早く帰ってやらんとな」

「お前は?」

「今のお前の話を聞いて、私も帰ることに決めた」

「なんだそれは」

「たまには息子ジークと酒を酌み交わすのもいいだろう?」

「そうだな。……あいつ酒強いのか?」

「まだ数回しか一緒に飲んだことはないが、たぶん私より強いぞ」

「ほう。それは楽しみだな」

 互いにそれぞれの家庭環境をしっかりと把握しているかのような口ぶり。ときおり笑い声を滲ませながら、ゼクスとセオドアはこの場をあとにした。

 人物相関図上は、ゼクスが上官でセオドアが部下にあたる。職場ではもちろん相応に振る舞っている彼らだが、プライベートではいつもあんな感じなのだ。

 二人は三十年来の友人。イザベラは父からそう聞いていた。いくつになっても公私ともに支え合える関係は少し羨ましく思える。特別望んだりはしないけれど。

 遠ざかる二つの大きな背中を見送り、イザベラは父の病室へと爪先を向けた。


 病室に入ると、上体を起こしたフォースが笑顔で迎えてくれた。ベッドに背中を預けていないなんて珍しい。いつもより調子がいいのだろうか。

「起きても平気なの?」

「ああ。いつも寝てばかりではいけないからな」

 たしかに身体のことを考慮すれば、一日中寝ているよりはほんの少しの時間でも座しているほうが好ましいだろう。けれど、負担がかかってしまうのも事実だ。

 せっかくの意欲をそぐことに多少抵抗のあったイザベラは、『無理しないようにね』とだけ柔らかく忠告した。

 ベッド脇に置かれた椅子に腰を下ろす。父との目線が近くなり、目尻の皺がよりいっそう深くなっていることに気づいた。顔は、一週間前に比し、一回り小さくなっている。見える範囲では、肩幅も。手首など、イザベラとさほど変わらない細さである。

 胸が押し潰されそうだ。

「綺麗な花をありがとう。毎日癒されているよ」

 そんな娘の胸中を知ってか知らずか、父が優しくこう言った。イザベラとは反対側のベッド脇へと視線を移し、例の鈴蘭に翡翠色の目を細める。

 両親の結婚記念のために用意したこの花は、家族四人で集まったあの日以来、ここに飾られることとなった。母の希望だった。『お父さんと一緒に毎日観るわ』と微笑む母に、子どもたちは胸をつまらせた。

 父はもう長くない。

 そのことは、家族全員が理解していることだ。もちろん、納得はできていない。

 腎臓病が増悪し、早半年。移植手術を行わなければ助かる見込みがないと、入院して間もなく主治医から告げられた。

 家族も病院も必死にドナーを探したが、ついには見つからなかった。仮に今見つかったとしても、体力の衰えたこの状態で手術を行うのは、もはや不可能だ。

「……」

 もしも自分が竜人だったら。もしも自分が本当の娘だったら。

 父を、助けられたかもしれないのに——。

 彼女を蝕む、彼女自身が生み出した想い。父は自分を救ってくれたのに、自分は父を救うことができない——そんなふうに自責した。

 イザベラは、生まれつき心臓を患っていた。彼女の心臓には小さな小さな穴が開いており、施設にいる際に手術が必要だと診断された。

 けれど、手術費用を支払う余裕などなかった施設は、彼女の病気を看過した。そうせざるをえなかった。

 生みの親に捨てられ、生きることをも諦めていた幼いイザベラ。そんな彼女を救ってくれたのが、クイン夫妻だったのだ。

 わずか五歳にして、彼女は命の尊さとその重みを知った。

 精一杯生きようと誓った。そして、一人でも多く救おうと誓った。

 誓った、のに……。

「ついさっき、元帥と大将がわざわざお越しくださってな」

「……ええ。ここに来る前、廊下ですれ違ったわ」

「そうか。……お前のことをとても優秀な軍医だと褒めてくださっていた。けっして身贔屓などではなく、本心からそう評価していると」

「……」

「お前のことを、私は心の底から誇らしく思っているよ」

「……っ——」


 一番救いたい人を、救うことができないなんて——。


 愛する父からの温かいこの言葉に、イザベラは言葉を詰まらせた。

 おそらくフォースは、自身の病状を誰よりもよく理解している。彼自身、医療に携わる身だ。服用しているのは、自社で開発した薬。

 効果が見られないということは、つまりは、そういうこと(・・・・・・)なのである。

 白く無機質な空間に流れるこまやかな時間。かけがえのない、父娘おやこの時間だ。一分一秒でも無駄にすることはできない。したくない。

 カーテンの隙間から繊月が覗く。黒い空にぶら下がり、切ない光を放ちながら、二人を見下ろしている。

 それはまるで。

 黄金色の、涙のように。

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