岩岡家の一番強い人間(8)
リリィは自分のことを『アイ』や『ミー』などではなく『アタシ』と呼ぶようになった。
そのせいかは知らないが、とにかく俺のイライラは頂点に達そうとしていた。
外は激しい雨が降っていて、俺はそんななんでもないことにキレそうになるほどだった。箸が転がってもムカついたし、ガキが笑っていても腹が立った。
夕食を囲む三人の家族たちも、そんなどこか張り詰めた雰囲気を察したのか、あまり口を開こうとはしなかった。いや、夕食を囲む二人――か。
「アタシってぺらぺーら言ッタラぺらぺーらぺーら思ウケドぺらぺーら……」
会話の少ない食事風景の中で、さっきからリリィだけが一人でぺちゃくちゃと訳の分からない言葉をくっちゃべっていた。
英語と片言の日本語を混ぜて喋るもんだから、リリィが話していることを正確に理解できている人間はこの場に一人もいないだろう。日本語が上達するにはしているのだが、今度は日本語と英語の使い分けというものができなくなったらしい。
「悠介ノコトモぺらぺーらぺーらアタシト違ッテぺらぺーら……アッ!」
リリィが醤油差しを取り落として、ちゃぶ台の四分の一が流れ落ちた醤油のこげ茶色に染まった。
「オゥ、シット!シィィィツット!!」
五月蝿かった。我慢の限界だった。一人になりたい俺は、真剣にリリィのことをウザいと感じ始めていた。
ばちーん!と、両手で醤油まみれのちゃぶ台を叩いて俺は叫んだ。
「アタシアタシってうるせぇんだよ!マトモな日本語喋れねーんならお前もう喋んなウゼーから」
「ソ、ソーリィ」リリィはほとんど反射的に小声で呟いた。顔はビビッて引きつっているが、俺が何を言っているか理解すらしていないだろう。
「お前さ、ここんとこなんでそんなに怒ってんの?」母さんはリリィの横で思い切り引いてたけど、さすがに親父は冷静だった。そしてやっぱり残酷だった。「テメーが弱いからって人に当たってんじゃねーよ」
それは完全に的を射た指摘で、俺にとっては一番言われたくない言葉だった。それを一番言ってほしくない相手こそが親父だった。だが俺は、なんとかして強い俺を守るために反抗するしかなかった。俺は俺のチンケなプライドを守らざるを得なかった。
「シャッ・タ・ファック・アップ・ファッカー(黙りやがれクソジジイ)!!!いい機会だから表出ろよ親父。いつまでも自分の方が強いと思ってんじゃねーぞ」
慣れたもので、そう言い残して立ち上がる俺の後について、親父も無言でアパートの部屋を出る。その後ろからぞろぞろと母さんとリリィもついてくる。
今から始まるのは俺と親父の殺し合いで、遠足にでも行くわけじゃねーんだぜ、なんてかっこつけて言いたいのを俺は我慢。男は背中で語るものだ。
さてどう料理してやろうか、なんてステップを踏みながら調子こいてる俺に、まず親父のバカみたいに鋭い前蹴りが飛んでくるので、俺は反射的に重心を左にかけて身をかわす。風圧を感じただけで、当たる寸前に避けたと思ったが、右頬に熱を感じたので手で抑えてみると手のひらが真っ赤になっていた。親父のスニーカーが掠めていった皮膚が破けたのだ。
ハハハッ。
久しぶりに熱くなれそうで俺は笑う。血が沸騰するような、全身の細胞が煮えたぎっていくようなこの感覚。これが笑わずにいられるだろうか?
俺は雄叫びのようなものを上げながら親父に殴りかかっていく。そして俺と親父は久しぶりにダンスを踊る。
今まで経験したことのないスピードで、俺たちは拳を交わしステップを踏む。トンタタントン、トンタタントン、トタントタタントタン!
俺が足をもつれさせて躓くまで、俺と親父はたっぷり五分間もの間、殺し合いという名のダンスを踊り続けた。
だが俺の突き出した甘い拳が親父の右腕に跳ね上げられ、空いたボディに強烈なフックが入って俺が食べたばかりのシチューを全部吐き出してからは、一方的なリンチへと変わってしまった。
親父の拳が体のどこかに当たるたび、喧嘩屋の拳なんてメじゃない、まるでガスバーナで直に炙られるみたいな痛みが俺の体を襲った。それでも脳内麻薬が放出されまくってる俺は立ち上がらずにいられなかった。激しく落ちてくる雨が、痛みきった体に気持ちよかった。
「来いよ、らぁ!親父ぃ!殺してやるよぉ!」俺は叫んだ。
トターン!と俺のアゴを親父の拳が貫き、ぼうわっと親父の拳が抜けていった箇所から火が上る。
ずてーんと俺はアパートの駐車場にダイブし、脳の中で小さな雷がチカチカと光るのを感じながらよろよろと立ち上がる。そして一瞬後には親父の足や拳が飛んできて俺はまた駐車場にずてーんを繰り返すうちに俺の視界はほとんど真っ赤に埋めつくされ、その向こうでは母さんが両手で口元を押さえて放心していた。目からは大粒の涙が溢れている。
母さんの隣に立っているリリィは――リリィの表情を見て取った俺は、生きるか死ぬかの瀬戸際にも関わらず、その不自然さにふと眉を寄せる。
両手を握り締めたリリィの顔は怒りに満ちていた。なぜお前が怒っているんだ?俺が理解できずにいると、再び親父の拳に打たれて俺の視界がスローモーションでぶれていく。その間延びした映像の中を、ファイティングポーズを取ったリリィは走り抜けていった。
「オニイチャン!」
そんな声が俺の耳に届くと同時に、俺は「止めろバカ!死ぬぞ!」と声を上げようとするけど、焦った俺はざっくりと唇を噛んでしまう。
ぼやけた視界が再び焦点を結び始める中で、俺はその光景を目にしていた。
拳を振り上げて、低い態勢を取って親父の方へ向かっていくリリィ。一瞬驚いた表情を見せたが、親父もさすがのもので、次の瞬間にはリリィの方へ向き直って、軽く握った両手を顔のそばまで上げて臨戦態勢を取っている。
自身の射程に親父を捉えたリリィの馬鹿でかい拳が親父を狙うが、親父は俺にやったことをトレースするかのように、丸太のように太い右腕でリリィの拳を跳ね上げ、空いたリリィの左の腹をフックで狙う。が、そこからリリィは俺や親父の想像を遥かに超える加速を見せて肩から親父の胸に突っ込んでいき、俺の耳にミシミシッと太い幹が折れる瞬間のような音が届くと同時に親父はリリィの巨体によって一瞬で五メートルくらい吹っ飛ばされていった。
俺は爆笑しようとして唇をさらに裂き、ちょうどそこで気を失った。
気を失っている間、意識がないにも関わらず――ちょっと説明しにくい感覚ではあるのだが――俺はとにかく愉快で愉快でたまらなかった。