岩岡家の一番強い人間(7)
週刊少年チャンピオンで連載されている『グラップラー刃牙』って漫画がある。
地下闘技場の最年少チャンピオンである範馬刃牙と、刃牙の父親で地上最強の生物である範馬勇次郎を中心とし、様々な種類の格闘家との闘いが織り成す格闘ドラマだ。
俺は刃牙シリーズが大好きで、漫画が好きだっていう奴とはよく刃牙の話をするのだが、「刃牙シリーズの登場人物で一番好きなのはヘクター・ドイルだ」と言ったらよく誰だそれ?って顔をされる。そのたびに「なに忘れてんだよ!」って俺はマジで驚いてしまう。
「アイライク、ヘクター・ドイル、インジャパニーズコミック、グラップラーバキ」
リヴィングのソファに寝転がって『らき☆すた』を読んでいるリリィに、同じように床に寝転がって『グラップラー刃牙』の続編に当たる『バキ』を読んでいた俺が言うと、「ユークレイジー」と言われた。「アイラブ、ドッポ・オロチ」とも。
ヘクター・ドイルは格闘漫画の登場人物にもかかわらず、自分の肉体に爆薬や刃物やスプリングを埋め込みまくっているイカれた男だ。
負けなければいいという思想の元、爆薬で相手の顔を吹っ飛ばしたり、勝つために拳銃が必要なら迷わず使うべきだと断言したりする。
ドイルなら反則ばかりやって試合を組んでもらえなくなった元プロボクサーや、試合と試合の合間にやくざの仕事を手伝ってるレスラーや相撲取りといったアウトローの集まりの喧嘩屋にだって負けることはないし、ちっともビビったりはしないだろう。
俺がドイルのことを好きになった一番の要因は彼が放った一言にあった。
「わたしだけが知っていればよいことだ、わたしの最強をね」
ドイルは強く、どこまでも孤独だった。自分の強さを人に認めさせたり、押し付けたりする必要がなかった。
彼が孤独であったからこそ、俺にはどこまでも彼のことが強く、輝いて見えた。空手道場を爆破して空手家をことごとくぶっ飛ばしたドイルを俺は尊敬した。
彼が負けるなんて俺には信じられなかった。彼の強さはどこまでも突き抜けているように思えた。彼もまた、俺のヒーローだったんだ。
ちなみにリリィが好きな愚地独歩は虎を殺した伝説の空手家親父だが、どうせゴツい見た目が好みなだけだろう。
「ん?」と俺は声を出して周りを見渡す。
親父はテレビを観ながらビールを飲んで、母さんはイギリスの民謡を鼻歌で歌いながら俺たちが食い散らかしたカスがこびりついた皿を洗っている。リリィは相変わらず萌え漫画を読みながら、内容を理解しているのかどうなのか、さっきからくすくす笑っている。
こんなのほほんとした環境で、俺って強くなれねーじゃねーの?と、今さらのように、ふとそんなことに気がついた。
「俺、明日から一人暮らしするわ」
俺が言うと母さんは猛烈に反対したけど、親父はテレビから目を離さず「勝手にしろ」とだけ言った。
俺はいつものように意識がトびそうになるほど筋トレをした後に、荷物をダンボールに詰め始めた。
俺はただ喧嘩屋も親父も誰もかもぶっちぎって、どこまでも強くなりたかった。それはもう大気圏を突き抜けるほどに。
だが俺はいつまで経っても強くなっている実感を得ることはできなかった。イラついた。その日から毎日のように、俺の拳には血がこびりついていた。
運が良いのか悪いのか、俺がイラつけばイラつくほど町のチンピラ共は俺に絡んできた。
「死ねおらぁ!」
俺の後ろに回りこんでいた男Aは、俺に抱きつくようにして俺の両腕を押さえつけ、男Bが動けなくなった俺の腹にパンチを打ち込もうとするので俺は膝でそれを防ぎ、その足を下ろすと同時に逆の足を蹴り上げて男Bの金玉を潰す、がそれは失敗。それでも男にはかなりのダメージを与えたようで、男は股間を押さえてもんどりうっている。
うろたえている男Cと男Dが殴りかかってくる前に、俺は背後の男Aの顔面に自分の後頭部を打ちつけ、顔を押さえてうずくまる男の後頭部に踵を落として気絶させる
。
「わぁぁぁぁあぁぁぁ」と似たような叫び声をあげて男CとDが殴りかかってくるので、俺はひらりひらりと二つの拳をかわしてバスン!バスン!とワンツーの要領で二人の頬とあごの辺りを殴りつけた。
二人は動かなくなったが、俺はつま先や踵でそいつらの腹を、顔を、尻を、足を、繰り返し蹴りつけた。
そいつらの蹴る場所がなくなれば、残った二人の男たちのことも同じように蹴りつけた。何度も何度も、無感情に、何度も何度も
。
「おらぁ、おら、らぁぁ、くたばれっ、らぁぁ……チクショウ……」
ふと気がつけば四人はひょっとして死んでいるんじゃないかと思ってしまうほどボロボロになっていた。
何本か骨もイッてるだろう。男CかDか忘れたけど、一番ひどいのは歯がほとんど残っていないような有様だったので、何ヶ月か入院するかもしれない。
もちろんそんなことで俺の気分が晴れることなかった。イライラは募っていくばかりだった。
毎日のようにそんなことを繰り返し、気がつけば誰も俺に近寄らなくなっていた。
学校で俺に話しかけるやつは段々と少なくなっていき、帰りに俺のことを待ち伏せするような命知らずはほとんどいなくなった。兵藤だけは相変わらず俺に突っかかってきたが、俺にちょっかいをかける表情は明らかにビビっていた。
だが俺には自分が強くなっているという実感が微塵もなかった。だからこそ俺はイラつくのだが、もう俺の相手をしてくれる人間は俺の周りにはいなくなっていた。
俺をイラつかせる理由はまだあった。
学校が終わり、最近はいつもそうであるように何のトラブルもなく一人暮らしをしているアパートに帰り着きドアを開けると、いつものように部屋の中から声が聞こえてきた。
「タダイマントヒヒ」リリィのオカマ声だ。
俺はため息を吐きながら皮靴を脱いで部屋に上がると、リリィが寝転がったまま読んでいた漫画本『ARMS』をわざとぐしゃりと踏みつけて部屋の奥まで歩き、ハンガーに学ランを掛けた。
リリィは俺を睨むと、「サノバビッチ!」と体格に似合ったドスの効いた声で叫んだ。
「悪かったよ。ってか、なんでお前は毎日毎日、俺のアパートに来てるんだよ」
俺が言うと、リリィは座りなおして大げさに肩をすくめてみせるので、俺はリリィを立ち上がらせて頭突きを食らわせる。
リリィは鼻を押さえながらしばらくぺらぺーらと英語で文句を言っていたが、すぐにまた漫画を読み始めた。
五時を過ぎると母さんがやって来た。いつものようにスーパーの袋を引っさげてだ。
いつからだろうか、俺はアパートの狭い台所で勝手に料理を始める母さんの背中に文句を言わなくなっていた。
文句を言っても、もう来ないで欲しいと説得しても、母さんは寂しそうな表情を見せるだけで次の日には同じようにスーパーの袋を引っさげてやってきた。
母さんに何を言っても無駄なことは俺にも分かった。だが、それを受け入れてしまっている自分に対して、俺はどうしようもなくイラつくのだった。
そして俺を一番イラつかせる時間はここから始まる。
「邪魔するぞー」
六時半になると親父がやって来た。母さんがいつも俺のアパートで夕食を作るもんだから、家族の夕食は俺のアパートで食べることがいつの間にか家族での取り決めになってしまっていたのだ。
これじゃあ、自分の部屋がちょっと離れた場所に移動しただけで、根本的には何も変わってねーじゃねーか!
「いただきます」
「いたダきマす」
「イタダキマス」
「……」
1Kの狭いアパートでちゃぶ台を囲んで、家族そろって夕食を食べる。俺はこんな光景から遠く離れて強さだけを追い求めるために一人暮らしを始めたんじゃなかったか?俺はひどくイラついているのだが、どうしてもこいつらを家に追い返すというただそれだけのことができなかった。
食事を終えるとリリィが帰り、洗い物を終えた母さんが帰り、親父だけはなぜか風呂を浴びてから帰り支度を始めた。
「どうして一人にしてくれないんだよ?」
親父の帰り際に聞くと、親父はどうしてそんなことを聞くのか不思議だ、とでも言わんばかりの表情でこう言った。
「母さんに聞け。俺は母さんの飯を食いに来てるだけだ」
あの寂しそうな表情はできることなら見たくはなかったので、母さんにはどうにもそんな言葉を言えそうにはなかった。