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岩岡家の一番強い人間(6)

 退院した俺が始めたのはランニングと筋力トレーニングだった。今以上に強くなるためにはなんにせよまず基礎体力だ。


「どんな理由で入院したにせよ、入院中に激しい運動をするなんて馬鹿だわ。お前大馬鹿だわ」


 いつか俺が入院中にトレーニングをして手首の腱を痛めた時、親父はこれ以上にないほど呆れた顔で言った。それ以来、俺は入院中は安静にして過ごし、退院して真っ先にランニングと筋力トレーニングをするのが習慣になった。

 親父は俺の尊敬の対象であり、憎悪の対象であり、ヒーローだ。簡単に言うと俺にとって親父の言葉は悪魔の言葉で神の言葉ってことだ。

 退院初日ということで、今日はランニングにリリィを連れていくことにした。リリィは最近少しデブってきているし、俺の体ならしにちょうどいいだろう。


「ちょっとそこまでランニングに行こうぜ」


 俺が声をかけるとすぐに意味が通じたようで、リリィは「オーケー!」とウインクしてきやがった。あまりにキモかったんで体ならしはやめにして、リリィを地獄のランニング&筋トレフルコースに連れていくことが俺の中で決定する。


「シット……オーシィッツ!」


 河原を走り出して十分もするとリリィは脇腹の辺りをさすりながらそんな言葉を吐き捨ててるようになった。

 相変わらず口の悪い奴だ。どうもリリィはこの短時間で本当にへばってしまったようで、額からは気味が悪いくらいの量の汗が流れ落ちていた。


「まだまだ、これからだぞ。ファイトファイト」

「シィィィィィィット!」


 さらに一時間近く激しく体を動かして、先に意識がトんだのはリリィだった。

 ランニングを切り上げて、たどり着いた総合運動場の芝生で筋力トレーニングを始めた俺たちだったが、リリィは倒れ込んで言葉を発しなくなってしまった。

 先にトぶのが俺じゃなくて良かった。リリィがしていた倍近いスピードで腕立て伏せを続けながら俺は思う。そこでふっと、俺の意識が宙に浮きかけるので、とっさに腕の力を抜いて盛大に酸素を吸い込んだ。

 危ない危ない、俺まで倒れちまったら誰がリリィを家まで運ぶんだよ。

 俺は全身の少し厚みの減った筋肉に鋭い痛みが走るのを感じながらゆっくりと立ち上がり、芝生に倒れ込んだリリィの様子を見やる。

 呼吸も多少早いとはいえ正常だし、普段使っていない筋肉を酷使したせいで脳がブレーカーを落としただけのようだ。

 初めてであれだけやれたら大したもんだろう、と俺は兄貴のことを見直しながらその巨体を背中に背負って帰り道を歩き始める。

 リリィはぐっちょぐちょの汗まみれだったが、俺もぐっちょぐちょの汗まみれなので大して気にならない。ただこいつはダイエットをするべきだ、百二十キロを超える肉を背負いながら歩く俺は思う。


「オニイチャン……」


 帰り道、リリィはいつものオカマ声じゃなくて地声でそんな寝言を言った。背筋の辺りが微かに冷たくなるが、案外悪い気持ちもしなかった。ただ、この間も俺のことをお兄ちゃんと呼んでいたが、本当はこいつが俺のお兄ちゃんのはずなのだが――。

 そもそも俺はリリィのことをどう思っているのだろうか。不思議な関係性の俺たちだが、この関係性に名前を付けるとすればしっくりくるのはなんだ?

 やっぱり兄貴?それとも弟?友達?ライバル?子分?どれもイマイチしっくりこないが、あえて選ぶならやっぱりこいつは家族なんだろう。当たり前のようにそこにいて、いたらウザいけどいないと少し寂しいと感じる。それはやっぱり家族と呼ぶべき存在なのだろう。

 家に帰り着いた俺たちを見た母さんは微笑んだ。いい兄弟ね、その笑顔はそう言っていた。ひょっとすると母さんの言う通りなのかもしれない。

 次の日、リリィは丸一日起き上がれなかった。

『HUNTER×HUNTER』の連載が再開したジャンプが出ていたので買って帰ってやると、リリィはデカい声で「アイラブユー!」なんて叫びやがった。

 もちろん俺は顔を踏みつけてやる。


「ノォ!ノォ!ノォ!ノォ!ノォ!」


 そして翌日の放課後に、俺はもう二度と会いたくもなかった兵藤と再び出会う。


「すいません兵藤さん、だろ?」


 俺は兵藤を見下ろすように睨み付けるが、兵藤のアゴをカチ割ることも襟を締めてオトすことも、さらには何かを言い返すことすらできなかった。喧嘩屋にボコられたときのことが心的外傷になっていて、情けないことに兵藤ごときを相手に強気に出ることができないのだ。

 喧嘩屋に毛を抜かれて出来た禿げをごまかすために坊主頭にしたばかりの俺は、額に血管を浮き上がらせたまま、とりあえず強がるためにわざとふざけた口調で言う。


「兵藤さんさーせーん」

「お前ナメてんのか?」

「ナメてないッスよ。だって兵藤さんナメたら高い金払って喧嘩屋雇っちゃうし。喧嘩屋が来たらまた金玉潰されちゃうし」

「よく分かってんじゃねーか」


 兵藤は吐き捨てると、十年は履き続いてそうなボロボロの革靴の裏で俺の腹を蹴りつける。

 兵藤の蹴りは相変わらず大した威力はないが、執拗にみぞおちを狙うのだけはやっぱり勘弁してほしい。俺はみっともなく口から反吐を垂れ落とした。


「調子こいてっとまた潰しちあうからな」

「あーい」


 潰すならわざわざ喧嘩屋なんか雇わないで自分で掛かってきやがれ!なんてことは言わずに、無理して背伸びをしたまま返事をすると、兵藤は俺の足元に唾を吐いて去っていった。

 兵藤をぶっ殺してしまえなかった情けなさで自己嫌悪に陥りながら駅裏のローソンに入ると、リリィはヤンマガの『みなみけ』を立ち読みしていた。ちなみに『みなみけ』とは南家三姉妹の平凡な日常を淡々と描いた漫画なのだが、あの巨体でいわゆる日常系萌え漫画を読んでにやにやされたらさすがに俺も引いてしまう。

 リリィの後ろでは違う高校の生徒がくすくすと笑い声を上げていた。


「リリィ、もういいだろ。そろそろ帰るぞ」

「オーケィ。ワカッタヨ」


 さすがに高校で毎日簡単な日本語の授業を受けているだけあって、リリィは少しずつ日本語を理解できるようになっていた。意外と適応能力は高いのかもしれない。

 雨が降り始めそうだった。まだ兵藤に蹴られたみぞおちの辺りが痛くて顔の筋肉がひくつく。

 退院してまだ一週間しか経っていないのにもう暴力の真っ只中にいるなんて、毎度のことながら俺にはどうにも信じられなかった。戦士には休息の時間すらないのか。戦士でもないし、負けたばっかだけど。

 リリィと二人、家に帰り着く。シャワーを浴びる。夕食の時間になる。夕食は四人で食べる。この部分に関して、ほとんど例外はない。

 イギリス人の母さんの作る料理は食べ慣れないものも多かったが、大概うまかった。偏見かもしれないが、さすが欧米の人間だけあって母さんはいつもすごい量の料理を出したが、三人の男がそれを残したことは一度もなかった。


「お前、いじめられてるんだってな。情けないな」


 骨がついたままのデカい肉をほおばりながら言う親父の言葉には棘があった。俺の息子のくせに、その言葉にはそんな意味が含まれているように俺には思えた。


「別にいじめられてねーよ。ってかどうして知ってんだよ?」

「やっぱりいじめられてるんじゃねーか」

「……うるせーよ」

「いつかうちの家族で一番強い人間の話をしたの、覚えてるか?」

「ああ」俺は吐き捨てるようにつぶやく。


 リリィは俺たちの会話はまだほとんど理解できないのか、さっきから俺たちの会話に興味を示さずひたすら肉にばくつき、母さんはかろうじて理解できるのか心配そうに俺たちの顔を交互に見つめている。


「うちの家族で一番強いのはな、母さんだよ」

「あ?」


 親父が真剣な表情のまま母さんに視線をやるところを見ると、冗談でもなければ、死んでしまった前の母さんのことを言っているわけでもないらしい。

 俺は無意識のうちに母さんを睨みつけてしまい、母さんは怯えた様子で肩をびくりと震わせた。俺は母さんをビビらせたことを反省してさっと視線を逸らす。


「分からないか?お前は、あれだ、これ以上強くなれない。もう死んだほうがいい」

「急になに言ってんだよ」


 俺は飯を口から吹き出しながら言うが、それから親父が何も言わずに飯に戻るところを見るとどうやらマジで言っているらしいから俺はまったく笑えない。親父の言葉を信じるとすれば、俺は本当に大事な何かが分かっていないのだ。だからこれ以上強くなれないのだ。


「優シクサエアレバ、ベツニ強クナクテモイイジャナイ」


 母さんが片言の日本語とぎこちない笑顔でそうやって励ましてくれるから、俺はマジに笑うことができない!俺は強くなりたいの!

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