岩岡家の一番強い人間(12)
そして俺は唐突に橘との対決のときを迎える。
俺の物語もいつの間にかクライマックスを迎えようとしているようだ。
橘はテレビで観るよりもだいぶブサイクだった。そして蛇が絡み付いてくるような独特の話し方をした。喧嘩で歯を折られたか、シンナーで溶けているんだろう。
「お前のこと、聞いたことあるなぁ。父親が政治屋で喧嘩が強い高校生がいるってぇ」
そいつはもう俺が心の底で密かに憧れを抱いていた、テレビの向こう側で奇跡的なほどに強かった橘薫じゃなかった。
そいつは自分の強さを過信した挙句、ジャンキーに成り下がった、俺が少しも気にする必要のないクズだった。
前は坊主だったはずなのに、いつから伸ばし始めたのか肩まで届く手入れのされていないロン毛は全く似合っていなかったし、襟の伸びたシャツをだらしなく着た橘はもう末期の覚醒剤中毒者以外の何者にも見えなかった。
それでも、不思議と体に染み付いた強さや威圧感は完全に剥がれ落ちたりはしないようだ。
俺の足元ではリリィが「うぅ~、うぅ~」と呻き声をあげている。
顔は鼻を中心に軽くへこんでおり、潰れた鼻からは鼻血がポタポタと滴っている。どんな威力のパンチで打ち抜かれたらこうなるのか――。そんなことを考えると、俺は今すぐにでも逃げ出して警察に駆け込みたい気分になった。
『ヘルプ!ヘルプ!いつものコンビニ!』
学校が終わって、家で『7SEEDS』を読みながらのんびりと過ごしているときだった。そういえばリリィの姿が見えないなと思っていると、ちょうどリリィからメールが届き、メールを見た俺はすぐにいつものコンビニ裏の駐車場に駆けつけた。
橘にやられたリリィはすでに倒れて呻き声を上げていた。ぶち切れてすぐに橘に殴りかかろうとした俺を、リリィがズボンのすそを握って止めてくれなかったらと思うとゾッとする。いくら落ちぶれたとはいえ、冷静さを失って勝てる相手ではないことくらい俺にも分かっていた。
「お前、その外人のなんなのぉ?」橘は言う。
「俺はこいつのブラザーだ。だから俺はこいつを助ける。俺はリリィを失いたくない」
俺の言葉を聞いた橘は狂人のように笑うけど、俺は全く気にしない。どっちが兄でどっちが弟だとか関係ない。俺たちはブラザーで、俺とリリィは対等に助け合うことができる。それは俺の誇りだ。母さんが目を覚ましたら教えてやろう。俺は思う。
橘がボクサー特有のステップを踏んで俺に近づいてくるので、俺も軽く握った拳を顔を守るように上げて構える。
パシン!パシン!とジャブを二発受け止め、すぐにストレートに対して身構える。
首を左に振って橘の拳を紙一重で避けて、その拳が巻き起こす風の勢いにビビりながら、やっぱり『刃牙』に出てきたヘクター・ドイルは間違っていると俺は思う。
ヘクター・ドイルは強かったが、彼は独りだった。俺は橘が拳を引くのに合わせてローキックを打ち込む。だから強かったにも関わらずドイルは負けた、圧倒的に。橘の拳がまた宙を切る、と思ったら耳に当たっていて俺の右耳の端っこが千切れ飛んでいた。痛ぇ。そして敗北したドイルが最後に求めたのは絆だった。その時点で彼は正しい。なぜなら人を強くするのは絆であり、繋がりであり、愛であるからだ。橘は巧みなサイドステップで俺に近づくと、ストレートを打つ――とそれはフェイクで、ローブローを俺の腹に打ち込み、俺の体は「く」の字に折れ曲がる。俺はへどを吐きながらも負けじと膝を橘のボディーのめり込ませる。橘が「ぐぅ」と唾を吐き出す。『刃牙』の主人公である刃牙が恋人の梢のおかげでギャグみたいな強さに到達したように、人間が一人で強くなるには限界がある。橘がまた動きだす。誰かを大切に思えない奴は強くなることができない。自分の為だけに強くなろうとしても、必ず天井にぶち当たるのだ。強くなりたいならビビるべきだ。やっぱり親父の言うことは正しい、と俺は確信する。俺は橘の動きを注意深く観察する。ヒーローは一人じゃヒーローになれねぇんだ。
俺は少しだけ愉快な気分になってウププッと笑いながら橘にわざと空けておいたボディを打たせて拳がボディを捉えた瞬間に、激痛に耐えながらその手首を掴む。
どこに拳が飛んでくれば分かっていれば、俺の動体視力と親父に鍛えられた打たれ強さなら可能だ。痛ぇけど。ハッとした表情を見せる橘の鼻っ柱に向けて額を思い切り振り下ろす。べしゃりと鼻が潰れる音がする。リリィの敵だ。
さすがに効いたのか、橘はよろよろと俺から距離を取ると、笑った。それは俺がよくテレビで観ていた笑みに近いもので俺は嬉しくなるが、橘はやはり変わってしまっていた。
「ふはは、やるじゃねぇかぁ。こんなに強い奴は防衛戦以来かなぁ。思う存分やりたいところだけどぉ……俺らの仕事はナメられないことだからなぁ」
そう言うとポケットから携帯電話を取り出し誰かを呼び出すと、言った。
「俺だぁ。全員集めろ。駅前のコンビニの裏だぁ」
自分とリリィの身の危険を感じた俺はリリィを抱えて逃げようとするが、攻撃の手を緩めない橘を相手にしながらリリィを連れて背を向けるのははっきり言って不可能だった。十分後に、俺たちは屈強でバカ面の喧嘩屋たち七人に囲まれた。
「はははぁ。お前、死んだなぁ。失神するまで殴って、拷問かけて、俺が直々に殺してやるよぉ」
それでも俺はたぶん勝てるんだろうということは直感で分かったし、現実的な死の恐怖に晒されることでいい感じにビビってもいた。
リリィも俺の足元でなんとか立ち上がろうともがいている。岩岡家の俺たち二人が揃えば、負けることなんてありえない。これが強くなるということだったのだと、ようやく理解した俺は笑う。
「さてと」
俺は首をゴリゴリと回すとリリィが自分で立ち上がるまではブラザーとしていっちょ守ってやるかと軽く握った手を上げてステップを踏む。
トンタタントン!