岩岡家の一番強い人間(11)
母さんがいつ目を覚ましてもいいように、俺とリリィと親父の三人で交代しながら病院に通い、母さんの様子を見ることにした。
俺たちの生活は母さんを中心としたものに変わった。俺たちはいつ来るか分からない母さんが目を覚ますまでの長い時間を待ち続ける覚悟を決めた。
そのせいで俺たちの学校や親父の仕事にも多くの不都合が出たが、俺たちにとってはそんなことは些細なことだった。
「母さんは強いな」
明らかに顔色の悪い親父と看病を交代するために病室に入った俺は、本当に真っ白で穏やかな表情をしした母さんの顔を眺めながら呟いた。
「俺は目の前で親父が海に落ちたとしても、真っ暗なおぞましい夜の海に迷わず飛び込む自信はねーよ。いや、そんなこと普通は誰もできないと思う……」
半ば独り言のつもりで言ったのだが、親父はやつれた顔を俺に向けると、
「いつか岩岡家で一番強い人間の話をしたの、覚えてるか?」
「確か母さんが一番強いって話だったな。あれは正しかったって、今になってようやく分かったよ」
「いいや、お前は分かってない」
「あ?」
「どうして母さんはあんなにも強いのか、それが理解できない限りお前には分かるはずがないし、お前も強くはなれない」
「……なんでだよ?」
「母さんは岩岡家の中で誰よりも家族を愛していたし、誰よりも家族を失うことに対してビビっていた。だからこそ母さんは誰よりも強かった。何者にも負けることがなかった。恐ろしい夜の海にもだ。
もしお前が強くなりたいのならビビるしかない。家族を愛し、失うことを恐れ、ビビってビビってビビりまくったお前に勝てる奴はこの世界にそういないだろう。強くなりたかったらビビるしかないんだ」
俺は何か反論したくなるが、そうすることができない。俺の頭の中ではリリィが俺を守るために親父をぶっ飛ばす瞬間がリピートされていたからだ。
親父が言うことが正しいとすれば、リリィは俺という家族を失うことを恐れたからこそ、最強の親父を倒すことができたのだろう。
でも同時に、親父の言うことに納得できない部分があるのも事実だった。現実問題、それだけで親父に勝てるようになると、どうしても信じることができなかったのだ。
俺はゆっくりと何度か頷いてみせて、親父に「もう帰って寝ろよ」とだけ言う。親父は「そうだな」と素直に帰っていった。
俺が病室にいる間、母さんが目を覚ましますようにとずっと祈っていたけど、母さんは目を覚まさなかった。それでも母さんは本当に気持ちよさそうに眠っているので、俺は少し安心する。
まだこの人はウチにやってきて一年も経っていない。それも海外からやってきたのだ。
それなのに母さんは立派に俺たちの母さんになっていたし、俺とリリィを平等に愛してくれた。日本語もすごく上手くなった。俺は今さらになって母さんの偉大さに驚き、今までありえないくらい心配を掛けまくっていたことに対して申し訳ないような、恥ずかしいような気持ちになった。
「オ母サンハ……」
病室に入るなりリリィが心配そうな表情を顔に貼り付けて聞いてくるので、俺はゆっくりと首を振る。
うなだれたリリィにイスを用意してやり、俺とリリィは並んで座る。なんとなく帰るタイミングを失って、俺はリリィに声をかける。
「こんなときじゃないと言えないけどさ、不思議だよな。俺たちつい一年前まではお互い顔も知らなかったのに、今じゃ兄弟になって同じ母さんのことを本気で心配してる」
「イエス」リリィに意味は通じていないけど、きっとニュアンスは伝わっているはずだ。
「そういえば、親父に殺されかけたときは助けてくれてありがとな」
「イエス」
「……じゃあ、もう俺は帰るよ」
「イエス」
俺が病室を出る瞬間、リリィは寂しそうな表情で俺の方を見つめていた。
帰りに俺は本屋に寄る。手に取った本をしばらく立ち読みして、結局買って帰る。
『0から始める英会話入門 ――バカな君も一ヶ月で英語が話せる!――』
「こんなもんでほんとに英語が喋れるようになるのかよ」
そんなことを一人ごちながら、アパートに戻った俺はページを開いた。
レッスン1、音読をしてみよう。とある。
「よし」俺は俺の前に立ちふさがるあらゆる物事をより良い方向へと導くための第一歩として、とりあえず音読を始めることにする。
スピークアフターミー!イエー!
そしてその晩俺は夢を見る。
薄暗い夕暮れ時、俺は何かを必死になって探している。だがどうも俺は森の中で迷子になっているらしく、俺自身どこに行けばいいか分からないし、誰も俺にそれを教えてくれる人がいなくて困っている。やがて俺は一頭の大きな熊に出会う。夢の中なのでニメートル以上もある熊にもビビることなく、俺は道を聞いてみることにする。「道を聞きたいんだけど……」「どこに行きたいんだ?」「それが俺にも分からなくて。何かとても大事な、かけがえのないものを探していたような気がするけど」「それはきっとこの先のトンネルを抜けたところにあるぞ。たぶんな」「ありがとう」と言って歩き出そうとする俺の肩に、熊が手を置いて引き止める。毛深くて、リリィほどじゃないにしろかなりデカい手だった。こんな手をどこかで見たことがある気がするけど、どこだっけ?「ちょっと待った。ひとつだけ聞きたいんだけど、その探し物は君にとってそんなに大切なものなのか?」どうだっただろうか。俺はあいまいに返事を濁しておく。「トンネルを抜けるなら、それなりの覚悟が必要だ。トンネルの中は暗くて、寒くて、とても心細いから。多くのものを取りこぼすだろうし、その多くはもう二度と手に入らないだろう」「マジかよ……」熊の言う通りに森を歩いていると、すぐにトンネルが現れた。もう使われていないのか、ところどころが苔に覆われたずいぶんと古いトンネルだ。入り口から中を覗いてみるが、切れかけた蛍光灯が続いているものの、奥の方に出口らしき光はまったく見えない。ずいぶんと長いトンネルのようだ。外は薄暗くなってきているし、きっとトンネルを出る頃には夜になっていることだろう。俺はトンネルの入り口の辺りで三秒だけ躊躇するが、結局トンネルに入ることを決意する。俺は俺が探しているものを手に入れたいし、それがなんなのか確かめてみたいのだ。カツーン(カツーン)、カツーン(カツーン)と俺の足音が薄暗い空間に響いて、それが今の俺の足音と重なってなんだか他の誰かと一緒に歩いているみたいな気分になって気味が悪い。どれが今立てている自分の足音かすらよく分からない。俺は左手を湿った壁に付けたまま歩くペースを上げ、ふと振り返るともう入り口が見えなくなっていて、俺はもの寂しいような家に帰りたいようなそんな気持ちになる。それにTシャツ一枚の俺は少し寒いと感じ始めている。だけど俺の探し物に対する欲求も相当に強いようで、元の道を戻るようなことはせずにまた歩き始める。「この蛍光灯が無かったら大変だな」久しぶりに声が出したくなってそう言った瞬間、蛍光灯の明かりが全部消える。「おわわわっ!」と俺は悲鳴を上げる。暗闇の中で俺は辺りを見回すが、見えるのは闇だけだった。俺の信じれるものは、俺の左手と繋がっている壁の存在だけになっていた。俺はまた歩き出した。暗闇の中を一分か一時間かくらい歩くと、俺の左手になにやら触れるものがある。どうやら壁から突き出しているらしい『それ』を俺は両手でべたべたと触って何なのかを調べ始める。全体的に直線的な造りかと思えば曲線的な造りの部分もあり、表面には小さな丸っぽい突起物が十個ほど並んでいる。これが俺の探していたものか?と思っていると『それ』がリリリリリリ!とけたたましい音で鳴り始めるので俺は真剣にビビって飛び跳ねてそこから逃げだす。俺が逃げ出してもリリリリリリ!は鳴り止まず、そこで初めて俺は『それ』が公衆電話であることを直感し、手探りで受話器を取った。「もしもし?」「悠介?あなた今どこにいるの?」母さんだった。俺はなんで母さんが?とは思わずに、思えば母さんもずいぶん日本語が上手くなったなとだけ思う。「んーなんかね、トンネルの中。すっげぇ暗くて寒いから引き返そうか迷ってたとこなんだ。でもここが一番の近道っぽいし」「駄目よそんな危なくて寂しいところ。あなたが知らないだけで、どんな場所に行くのだって安全な道はあるのよ。そしてそれが多くの場合、一番の近道になるの」いつだって母さんは強く、正しかった。俺はまるでそうすることが当然であるように、母さんの温かい言葉を信じることにする。「じゃあ今から引き返すよ。母さんは?もう家にいるの?」「――私はまだ帰れそうにないの。もうちょっとゆっくりしてから帰ることにするわ。それじゃあ気を付けて」「うん、母さんも」電話を切って、俺は壁に右手を付けて来た道を引き返し始める。しばらくしてトンネルを抜けた瞬間、俺は夢から覚めた。
朝の光の中で目を覚ました俺はなんだか泣きそうになったけど、必死でこらえた。
その日のうちに俺はアパートを解約して家に戻ることにした。
そうした方がいいような、母さんがそう願っているような気がしたんだ。それに、ひょっとするとこれが俺の目指す目的地にたどり着くための近道かもしれないとも思った。
リリィはなぜか泣いて喜んでいて、親父は「勝手にしろ」とだけ言った。俺は照れ笑いを浮かべて頭をかきながら、「ただいま」と懐かしい我が家へと帰ってきた。