岩岡家の一番強い人間(10)
親父の趣味は釣りだった。
それもただ釣りに行くんじゃなく、自分が大物を釣り上げる姿を誰かに見せるのが趣味だと、俺は密かに疑っていた。
俺が小さい頃は休日になるといつも俺を釣りに連れて行き、俺が他の友達と遊ぶのが楽しくなってくると、今度は死んだ日本人の母さんを釣りに連れていくようになった。母さんが体調を壊すと今度は秘書や議員仲間まで釣りに連れて行くようになり、今では母さんがその役を買っている。ちなみに最初から釣りの誘いを断ったのは俺が知っている限りリリィだけだ。
「おいリリィ、今度の休みだけどな、釣りに連れて行ってやるよ」
「……アイムリザーヴヅ(遠慮しときます)」
リリィはこんなにも体格がいいくせに圧倒的なまでにインドア派で、休日はだいたい家の中で過ごしている。
今日も朝から俺のアパートにやってきて『バイオハザード2』をやる俺の足元で『今日から俺は!』を読んでいるし。お前は俺の友達かよ。
「親父と母さんは何時頃帰ってくるって?」
朝から釣りに行っている二人が何時頃帰ってくるか、俺はリリィに尋ねてみる。
「ナインオクロック」
「ナイン?ってことは九時か。そんなに遅いのかよ。そういえばお前、あれから喧嘩屋の橘からなんか言われてないよな?」
「ぺらぺーら、ぺらぺーら。ヒャクマンエン、ぺらぺーら」
「ったく難しい会話になると伝わらねーんだよな。まぁここでのんびり漫画読んでられるなら大丈夫なんだろうけど。親父が帰ってくるまでにはお前も家に帰れよ」
「オーケー」ってほんとに分かってるのかよ?
日曜日の昼間。親父と母さんが不在のせいか、退屈を持て余したリリィは朝方から俺の部屋に遊びにきていた。
こいつはこのアパートをたまり場としか認識していないようだ。そして俺は情けないことにそれを否定することができなかった。
俺は今ではこのアパートで一人暮らしを続ける理由をバッチリ見失ってしまっていた。
飯は作らないといけないし(ほとんど母さんが作ってくれるけど)、掃除や洗濯もしないといけない。そういった代償を払っているのに俺は一人になんかなれないし、一人になったからといって俺がクールに、ストイックにどこまでも強くなっていくイメージがどうもわいてこないのだ。だから俺はもう前のように怒れないし、以前のように怒る必要もないのだが。
『どうすれば強くなれるんだろう?』
俺はテレビ画面に映るゾンビを撃ち殺しながらそんなことを考える。
もう何度も何度も自問した問いだ。その度に俺は答えを見つけ、試み、失敗している。俺はある段階を超えた時点から、ほとんど強くなっていないのだ。
同じ高校で俺に勝てる奴はいないだろう。そこらの素人に毛が生えた程度の空手家やボクサーにも負ける気はしない。だが喧嘩屋に自信を持って勝てるとは言い切れない。親父にはまだ勝てない。リリィには――?
夜になった。俺とリリィはコンビニに行って弁当を買って食べ、俺はまたバイオを、リリィはまた漫画の続きを読み始める。
テレビの中でパリーン!と窓ガラスを割ってリッカーが飛び出してくるので、俺もリリィもビビって「うおっ」と声を出してしまう。と同時に電話が鳴って、また俺とリリィは「うっ」と声を上げる。
電話に出ると親父だった。
「母さんが海に落ちて重体だ。すぐに病院に来い」
は?ふざけてんじゃねーぞ!
俺とリリィは立ち上がり、病院へ向けて走る、走る、走る。
「すまん、俺が悪い」
待合室にうなだれる親父を見て、俺は母さんが海に落ちたという電話がかかってきたときと同じくらいのショックを受ける。
少なくとも俺はこんな親父の姿を見たことはなかったし、絶対に見たくもなかった。
「テメーがついていながら何やってんだよ!」
だからこそ俺は頭に血が上り、親父の胸倉を掴まえて無理やり立ち上がらせる。リリィが俺を抑えようとするが、俺は空いた方の手でリリィの体を払いのける。
じっとりと、胸倉を掴む俺の手のひらに水分がたまっていった。親父の胸倉は湿っていた。よく見ると、親父の髪や服も濡れていて、一度全身がびしょ濡れになっていることが分かる。
「お前も、海に落ちたのかよ」
「あぁ。船を借りて沖に出ていたら、高波が来て俺が先に落ちたんだ。俺はなんとか自力で船に戻ることができたが、戻ってみると母さんがいない」
「まさか……」
「俺を助けるために飛び込んだんだ。俺は浮き輪をひったくってまた海に飛び込んで、母さんを見つけてから船に引っ張り上げたんだが、そのときにはもう母さんは意識がなかった」
「マジかよ――」
俺は体中の力が抜けていくのを感じ、親父の胸倉から手を離すと崩れ落ちるように硬いイスにへたり込んだ。
「つまり母さん、ヤバいんじゃねーか」
リリィにもそれが分かったようで、さっきからイスに座り込んで両手で顔を覆っている。そのすき間から、今まで見たこともないような悲痛な表情が浮かんでいるのが見て取れた。
「明日も学校があるだろう。お前らは先に帰ってろ、何か変化があったらすぐ連絡するから」
「変化ってあんだよ!俺らが帰ってる間に母さん死にましたなんて言ったら――」
「悠介!」と俺の言葉は親父にさえぎられた。
夜の待合室に人はいないが、ここで騒ぐべきじゃないということも、そんなこと口に出すべきじゃないということも俺にはちゃんと分かる。
ごめん、と言う俺は目と目の間の辺りが熱くなるのを感じて、手のひらで顔を隠すと同時にもう泣き出していた。
結局、次の日の朝まで俺たち三人はその薄暗い待合室で過ごした。誰も何も喋らなかった。ただ時計の刻む音だけが待合室に響いて、俺たちは永遠みたいに長い時間の中で当たり前のように母さんが笑っている朝が来るのを待ち続けた。
朝になると三人とも病室に入ることが許されて、その後に医者の説明を受けた。
意識が戻らない、重度の昏睡、遷延性意識障害、植物状態の可能性……。
そんな言葉の羅列を聞く親父の背中は今まで見たことがないくらい小さく見えた。そんなことを思いながら、俺はみっともなく声を上げて泣いていた。