スノーマン.
雪が降った。街外れの広い草原は、辺り一面、真っ白な雪で覆われた。
中心に、2メートルほどのとても大きな雪だるまが、静かに佇んでいる。真っ赤な小さいバケツを被り、腕はとても太い、木の枝だ。お世辞にも綺麗な雪だるまとは言えず、むしろとても不格好な出来だが、本人は草原に広がる雪に負けないほど眩しい笑顔をたたえている。
「僕の名前はスノーマン。君の願いを叶えるよ」
幼い男の子が、スノーマンの元を訪れた。
「ぼくを、ヒーローにして」
男の子は体中に擦り傷を作り、涙を堪えているためか声が震えている。
「あいつをたおしたい。あいつ、あのこをなかしたんだ」
スノーマンは街に目を向けた。遠くの方にジャングルジムの頂上が見えた。あそこは確か公園だったはずだ。
「ぼくがヒーローになって、あのこをまもるんだ」
男の子は強く強く拳を握りしめた。スノーマンは枝を伸ばし、固く握られた拳を優しく開かせると、一枚の絆創膏を手渡した。
「これをつけてすぐ公園に戻るといい」
「これでヒーローになれるの?」男の子は訝しげにスノーマンを見て首を傾げた。
スノーマンは優しく微笑んだ。
「大丈夫さ。君はこんなにも大きな勇気をもった男の子なんだから」
「ぼくが?」
「僕にはわかるよ。君の勇気は宇宙よりも大きくて、この雪よりも優しいんだ」
男の子は絆創膏を頬についた擦り傷の上に貼り、スノーマンを見た。
「さあ、行っておいで。君があの子を守りたいって、そう思った時から、君はもうあの子のヒーローなんだから」
涙を流した女の子が、スノーマンに会いにきた。
「ママがどこにいるかおしえて?」
女の子は黒いワンピースを着て、黒い革の靴を履いていた。スノーマンは、遠くの方で煙が空に向かっていくのを見た。それが、とても悲しい煙であることを知っていた。
「ママはね、君の心の中にいるよ」そう言ってスノーマンは、枝で女の子の胸を指し示した。
「君が笑った時に心がポカポカ暖かくなるのは、ママも一緒に喜んでるからなんだ。君が泣いた時に心がチクチク痛くなるのは、ママも一緒に悲しんでるからなんだ」
「いっしょに?」
「そう。君とママは、ずっと一緒だ」
しかし女の子は、俯きながらかぶりを振る。
「でもね、ママはしあわせじゃなかったっていうの。パパがね、いうの」
スノーマンは悲しげに眉根を寄せた。
ひどく重い悲しみをその身に受けたとき、それをうまくコントロールする術を知らない人がいる。打開策を探すこともせず不幸だと嘆き、なぜ自分だけがと喚き散らす人がいる。そして、年を重ねるごとに、人は悲しみと付き合うのが下手になっていく。
「さあ、涙を拭いて」スノーマンはハンカチを取り出し、女の子の涙を拭う。
「大丈夫。幸せは君のなかにちゃんとあるよ。今は暗い物陰に隠れて見えないけど、きっといつかひょっこり顔を出して、君を笑顔にしてくれる」
「わたしがえがおになったら、ママもしあわせ?」
「もちろんさ。きっと君の何倍も何十倍も幸せになるよ。だけど、それだけじゃないんだ。君がこれからたくさんのことを知って、たくさんの人に出会って、そうして大きくなってくれることが、ママにとっての幸せになるんだ」
スノーマンは微笑んだ。
「君が君でいることが、きっとみんなの幸せにつながるから」
美しい女の人が、スノーマンの元にたどり着いた。
「時間を戻して」
満点の星が、暗い闇の向こうで美しく輝く夜だった。
「時間?」
「そう。時間」
満月が照らす彼女の笑顔は、絵画に描かれる女性のように美しく扇情的だったが、少し不気味でもあった。冷たい夜風が彼女の黒く長い髪をなびかせる。
「素敵だった。何もかもが輝いていた。幸せだった」
「今は?」
「ダメなの。今は。何をしても満たされない。こんなんじゃ、生きていけない」
妖艶な笑顔を僅かに歪ませ、彼女は両手で耳を塞ぐ。
「私は一生あの時に立ち止まって座り込んでいたい」
スノーマンは彼女にかける言葉が見つからなかった。どうしていいのかわからず、ただ黙って彼女の話を聞いていた。
「こんな世界は、嫌」絶望的な声に一瞬怯んだものの、スノーマンは彼女の肩に枝を伸ばした。
「でも、時間は戻らないんだ。流れ続けていく時間を逆走することは僕にはできない。貴女にもできない。きっと、誰にもできない。だから…」
彼女はその言葉を聞くと目を大きく見開き、伸ばされたスノーマンの枝を強く払いのけた。
「どうしてできないの?私の願いは叶えてくれないの?私はこのまま一人でいろって言うの?」
「貴女は一人なんかじゃないよ」
「嫌、嫌、独りは嫌」
彼女はスノーマンの足元に崩れ落ち泣きじゃくった。駄々をこねる子供のような彼女を、月と星たちとスノーマンが見ていた。
スノーマンは、叶わない願いがあることを知った。
幾日もの時が流れた。スノーマンはもう、数え切れないほどの願いを聞いてきた。そして、自分が小さくなっていることにも気がついていた。
雪は既に止み、雲は流れ、太陽が眩しいほどに輝いている。
一人の男の人がスノーマンの隣りにいた。
「ずいぶん小さくなってしまったんだね」
「うん。きっと、君が最後の人なんだ」
最後の人、最後の願い、最後の、出会い。
「じゃあ、最後のお願いを聞いてくれる?」
「もちろんさ」
スノーマンは微笑んだ。彼は悪戯を思いついた少年のように笑った。
「君のお願いを聞かせてよ、スノーマン」
「僕の?」
思いもよらない願いに、スノーマンは目を白黒させて驚いた。
「君は今までみんなのお願いを聞いてきたんだ。今度は君の番だろう?」
スノーマンは黙りこくった。思えば今までたくさんの人の願いを聞いた。だけど、自分の願いなんて考えたこともなかった。
スノーマンは考え込んでいたが、やがていつもの笑顔で彼にお願いをした。
「それじゃあ、僕と一緒にいて。お話をしよう。僕が消えてしまうまで」
「それでいいの?」
「いいんだ」確かめるように、スノーマンはその言葉をなぞる。「いいんだ」
どれほどの時間、二人、そこにいただろうか。スノーマンの身体はほとんど溶けてしまい、残っているのは、頭だけとなってしまった。
「ねえ、スノーマン」
「何?」
「君は、幸せだったかい?」
スノーマンは目を閉じ、これまで出会った人たちのことを考えた。
笑顔で自分の元を去っていった人を思い、心が温まった。自分の傍らで涙を流していた人を思い、心が痛んだ。
叶えられた願いを思い、誇らしくなった。叶えられなかった願いを思い、悲しくなった。
「僕は、そう感じることができるんだ」
彼はスノーマンを両手で掬った。それほどまでにスノーマンは小さくなってしまった。
「それは、それはね、本当に、素敵なことなんだ」
笑えること、喜べること、泣けること、悲しめること、生きているということ、全て。
「ねえ、僕は幸せだよ」
スノーマンは、頭に水滴が落ちてくるのを感じた。スノーマンが顔を上げると、男の人がポロポロと涙を流していた。
「よかった。よかった。君を生み出すことができて、よかった」
スノーマンは目を閉じた。彼の手のひらの中はとても居心地がよかった。父親と手を繋いでいるように、ひどく安心した。そして、全てを悟った。
そうか、この人が僕を作ってくれたんだね。
「ありがとう、スノーマン」彼は涙を流しながら微笑んだ。
「ありがとう、スノーマン」声が聞こえた。
「ありがとう、スノーマン」それは、今まで出会った人たちの声だった。
怖くはなかった。悲しくもなかった。
スノーマンは、とても、とても幸せだった。
「ありがとう」
スノーマンは一粒の涙を流し、微笑みを浮かべながら消えていった。
その日、草原を覆っていた雪は全て溶けてしまった。
泣いている人はいなかった。
すべての人が笑っていた。
みんなみんな、幸せだった。