心臓が鳴る、その音がいとしくて、
風がいつもより優しくなって、首元をすり抜ける。肩が触れるそのときに笑った顔が大切だった。
朝の4:00。
私はツエード素材の茶色いワンピースの上に黒のピーコートを羽織った。
左手には皮製のからし色の腕時計。
まだ、外は寒い。
朝の5:00。
街中の1Dkに住んでいる彼氏の家に遊びに来た。
ふと、宙を仰ぐ。
空はまだ明けていない、少しだけピンク色の空。排気ガスで空気はひどく汚くても、
空がきれいだから許そう。
エレベーターのない小さなマンションの錆びた階段をゆっくりとのぼる。
カンカンカン、、、
一昨日買った、朱色の長いブーツのかかとが鉄をやんわり蹴って、音を鳴らした。
6階まで続く階段の途中で、ふと足を止める。
だいぶ視界が高くなり、遠くにある小さな公園が見えたから、思わず足が止まってしまった。
ゾウの形をしたすべり台、キリンの形をした対のブランコ、ひときわ目立つ真っ白のジャングルジム。
忘れ物の小さなバケツが置いてある砂場、家のない人が新聞紙にくるまって寝ているベンチ。
白んだ空の下で、こんなにもかわいらしい世界が私の目の前にある。
いつもなら、ぬくぬくとした毛布と空気に包まれているこの時間に、大切なことを知った気がした。
寒い空気の中であたたかい空気を見つけ、不思議な気持ちになることができる。
偶然と冬のおかげで。
ふと、時計に目を落とす。
秋の私の誕生日にもらった皮でできた小さなからし色の腕時計を見てハッとした。
公園から目を離し、階段の残りの数段を一息で駈けのぼって403を目指す。
カンカン、、、
4階で足を止める。
表札のない403。
ドアの横にある、部屋のキッチンの小さな窓からコンクリートの廊下に注ぐ、
あたたかな部屋の光と空気が彼の所在を私に伝えてくれる。
心配はない。
少しだけ、体温と音楽が漏れてきている青いドアの前に立って、フゥと一息ついた。
ブー
深い緑色の呼び鈴を押して、青が開くのを待った。
平べったくて白い箱を両手で抱えながら。
近くの駅から走って来たために、息が整っていなかった。
白いフワフワとした気体が、真冬の冷たい空気を背景に私の視界に入っては、消えていく。
「はい」
中から、低めの優しい声がした。
「おはよう」
と、その声にいとしさを覚えながら私はゆっくりと深呼吸して返事をした。
キィ!!
青が勢いよく開いて、キィと大きな音をたてる。
あなたの匂いが私の前に広がったと思った瞬間に目の前が真っ白になった。
たばこの煙がたくさん染みこんだグレーのパーカーに顔を押しつけられているということに気づくまで、
私は自分の持っていた平べったい箱を背中に回して守るという動作しかできなかった。
「ハァ・・・」
私の耳元に溜息が降ってくる。たぶん、今の息も空の上の白い雲になるのだと、思った。
その人は数秒の沈黙のあと、私の存在を確認するように強く抱きしめ直して、呟いた。
あの優しくて低い声が冷たい空気に溶けていく。
その声が落ちてくるたび、耳に吐息がかかった。
「・・・なにやってんの」
呆れたような声だけど、やっぱりやさしかった。
それと、少しだけ嬉しそうな・・・声だと思ったのは、きっと私の気のせい。
「会いにきたんだ」
感情の波が喉に詰まって、それしか言葉を出すことを許してくれなかった。
言いたいことはたくさんあったのに。
言葉が出なかった。
溢れてしまう前に、すべて飲み込んでしまおうとした。
ゴクン
でも、無駄だった。
あまりに多すぎる感情は、はき出されてしまった。
ゲホッ・・・
私の体を包む大きな両腕に力が入るたび、それらは涙になって出てきてしまった。
ゴホッと咳き込むと、ダムが壊れたように涙が吹き出した。
頬には涙が通ったあとができて、川になる。
あなたの頬にもわたしの頬にも、ツーと流れる、流れる。
水色でない、色のついていない涙。
きれいな、なみだ。
色なんて、ついていなくてもきれいな人間の肌と同じ。
止まらない涙を認めながら泣き声だけは出すまいと、私は全身に力を入れる。
自分の後に回した白い箱を地面に落として、目の前にいる何よりもかけがえのない人の背中にゆっくりと手を回す。
カタン、、、
私が両腕に力をこめる。同時に、自分の体にも重みを感じるのは相手も力をこめたから。
そのまま、あたたかい部屋と冷たいコンクリートの間の鉄の上にズルズルと座り込んだ。
抱きあったままで。
キィ
私の背中に寄りかかっていた青のドアが少しだけ動いて、音が鳴った。コンクリートを伝って、冷えた空に響いたような。
お互いを離さぬように、離れぬことのないように、
相手がどこかに消えてしまうことを恐れながら、背中から腕を外して、
ゆっくり口唇を合わせる。
でも、すぐに不安になって、口唇をはなして、体を引き寄せ合った。
口唇を合わせていることよりも、抱きしめあうことの方が大事で、意味のあるもののような気がした。
トク、トク、トク、、、と心臓の音が重なる。
生きている証が、同じ速度で刻まれていくから、抱きあっていたいのかもしれない。
言葉でなんていくらだって、言えることがたくさんある。
「すきだよ」
「あいしてる」
そんな言葉を何回言ったのだろう。
呟こうとした言葉が君に届いたことはなくて、私のなかに吸い込まれて。
消えてしまう言葉たちが、愛しく思えたときもあったけれど、それは違うって気づいた。
不安だから言葉にしよう。
何らかの形で表現しなければならないと。
それはまるで、自分に言い聞かせているみたいだった。
「あなたがすき」
「きみをあいしてる」
声を出して、喉をふるわせなければ実感できない感情もひとつのものかもしれない。
でも、今は肌ですべてを感じていたいと思う。
あたたかいぬくもりを今、こうして感じられることを、大切に想った。
震える肩に震える肩を押しつける事でさえ、喜びが溢れてくるから、愛しい。
「そっか」
こんなにも冷たいコンクリートの上でもあなたはこんなにも温かく、私を包む。
「うん。」
おんなじような、かすんだ声で私たちは言葉を交わす。
もう、明ける冬の空の下。
ピンク色の空が少しずつ、青空に変わっていってしまう。
それもまた、ひとつの合図。
朝でもなく、夜中でもない。
世界が焦げているような、ピンクの空の時間。
こんな時間はもう二度と私の前には広がらない。
無意味にロマンチックで冷たく、美しい空。
でも、あなたと一緒にいるかぎり、この大きな空の下に包まれなくなることはないと思えた。
「あー。実は今、そっち行こうとしてたわ。俺。」
右手に握り締められたバイクのキーをポケットへ戻しながら、そんなふうに笑った。
チャリ、
揺れる鍵と一緒に、皮製のからし色のキーホルダーが音を鳴らす。
またピンク色の不思議な時間に、朝靄に包まれるときはあなたといたい。




