~ 六ノ刻 闇想 ~
天井から無数の鈴が吊るされた部屋の中で、鳴澤皐月は瞑想を続けていた。
狗蓼朱鷺子の死をきっかけに起き始めた、謎の中学生の連続不審死。その裏で蠢く闇の存在を捕えるために、皐月は犬崎邸の奥座敷そのものを道具として作り変えていた。
座敷の畳に、所狭しと置かれた半紙。その上には筆で様々な線や地名が書かれている。個々に見ても何を意味するのかは分からなかったが、繋げて見れば、すぐにそれが地図だということが分かった。
バラバラの半紙を繋ぎ合わせるようにして作られた、土師見村全体の地図。天井から吊るされた鈴と相俟って、その光景は見るからに異質だ。
皐月が座っている座布団の置かれた場所は、地図の上では犬崎邸のある場所である。即ち、彼女が今いるこの場所のことだ。
全身に流れる気を集中し、皐月はそれを部屋の各所にある鈴へと送り込む。一見して何の変哲もない鈴であったが、これは列記とした彼女の商売道具であった。
退魔具師という仕事柄故に、皐月は向こう側の世界の住人と直接戦うための力は弱い。しかし、現世か常世かを問わず、気を探って何かを見つけることに関しては、優秀な力を持っていた。
通常、皐月が探索に用いるのは小型の振り子である。鎖の先に円錐のような金属がついたもので、これに気を流し込んで対象の物を探したり鑑定したりする。霊能者としての潜在意識に強く働きかけることで、邪悪な気配をや穢れた物を感知することを得意としている。
今、この奥座敷に吊るされた鈴は、その一つ一つが皐月の用いる振り子と同じ役割を果たしていた。半紙に描かれた地図は、土師見村そのものを表したもの。もし、この村の中で極めて強い陰の気を持った者が動きまわれば、部屋に吊るされた鈴が反応して鳴り響く。鳴っている鈴の真下にある地図の場所が、陰の気を持った者が現れた場所ということになる。
正直なところ、これだけ大掛かりな道具を使うのは、さすがの皐月でもかなり骨が折れた。振り子を一つ使うだけでもかなりの集中力を要するが、今回は部屋全体に吊るされた鈴の全てに意識を集中せねばならない。おまけに、いつ相手が活動し始めるか分からないとなると、どうしても数時間は部屋にこもって瞑想を続けることになる。
先週の金曜から、皐月はこの部屋に籠りきりで探索を続けていた。だが、土日を挟み数日が経過しても、相手は一向に動く気配を見せていない。
気がつけば再び週末を迎え、その間には何の進展もなかった。今まで相次いで起こっていた不審死も、ぱったりと収まってしまっている。
敵はもう、この村を離れてしまったのだろうか。いや、それはありえない。少なくとも二名の中学生、それも同じ学校にいる不良が変死した時点で、敵はこの村に住まう何者かに憑いている可能性が高い。
では、仮に悪霊にとり憑かれているとして、それはいったい誰なのか。残念ながら、皐月にはそこまでのことは分かりそうになかった。今できることは、敵が次の獲物を見つけて行動を起こした際に、迅速に対応するための策を講じることだけだ。
一時間、二時間と座っている内に、皐月の顔にも疲れが見え始めた。もとより、彼女は道具作りが専門である。霊の探索にしても、決して本業というわけではない。
今日は、もうこの辺りで休みを取るか。そう、皐月が思った時だった。
「おや、まだ頑張っていたか」
部屋の襖がスッと開き、その向こう側から聞き覚えのある声がした。目を開けてみると、そこに立っていたのは紅の祖父である臙良だった。
「あら、臙良さん。もう、交代の時間かしら?」
「いや、まだ時間までは一時間程あるがね。しかし、さすがにお主も疲れたのではないか? 昼間からこんな部屋に何時間も閉じ籠っていては、身体に毒じゃぞ」
「それは、仕方ないわ。臙良さんも、紅ちゃんの学校で起きた事故のことはご存じでしょう? もし、あれもはぐれ神の仕業だとしたら……朝であろうと昼間であろうと、気を抜くことは許されないわよ」
「確かに、それはそうじゃがのう……。それでも、お主は元々退魔具師じゃ。この仕事は、本来であれば、わしが一人でこなさねばならんことよ」
そう言うと、臙良は皐月に部屋を出るよう促しつつ、自分が皐月の座っていた座布団の上に腰を下ろす。そして、先の皐月と同様に、大きく息を吸い込んで瞑想の準備を始めた。
「ところで……」
部屋を出る前に、皐月が思い出したように振り返って臙良に尋ねる。
「紅ちゃんは、今日はどこへ行ったのかしら?」
「紅のやつなら、朱音を連れて村の祭りに出かけておるよ。朱音も母親を亡くしたばかりじゃからの。少しでも、気が紛れれば良いという考えじゃ」
「お祭りか……。そういえば、今日は秋祭りの日だったわね。まさか、あんな騒ぎの後に祭りを開くなんて、ちょっと意外だったけど……」
「いや、そうとも言い切れんよ。祭りは神事故に、穢れを祓う作用もある。妙な事件が起きたからこそ、祭りでその穢れを祓いたいと思うのも人の心よ」
「なるほど、そういう考えもあるわね」
臙良の言葉に、皐月は妙に納得した顔をして頷いた。
土師見村では、毎年九月の半ば頃に、恒例の秋祭りが開かれる。村の祭りと言うと伝統的な秘祭のような物を思い浮かべがちだが、村の成立した経緯に反し、土師見の祭りは至極普通の祭りだった。
昼間、神輿を担いで村々を回り、夜は太鼓や笛の音が響く中に様々な屋台が顔を出す。麓の町で開かれる秋祭りと、何の違いがあるわけでもない。
「それはそうと、お主は祭りに行かんのか? ここ一週間ほど、この部屋に籠ってばかりじゃったろう。少しは気分を変えぬと、身体に良い気が流れぬぞ」
「残念だけど、今回は遠慮させていただくわ。仕事も溜まっちゃってるし……それに、紅ちゃんと違って、一緒に行くような相手もいないしね」
「まあ、そう言うでない。あまり肩肘を張り過ぎると、本当に身体に悪いぞ。ここはわしに任せ、お主も少しは気の流れを変えた方が良い」
口では軽く言っているだけだったが、臙良の言っていることは事実だった。それだけに、皐月もこれ以上の反論をすることはない。
振り子一つならばいざ知らず、部屋中に備え付けた鈴に意識を集中させるのは相当な精神力を要するものだ。それを、かれこれ一週間近くも続けていれば、体内の気が枯れるのも頷ける。
向こう側の世界と関わる者にとって、気の枯渇は深刻な問題だ。体内の気が枯れた状態で霊的な存在と戦えば、臙良とて無事では済まない。ましてや、皐月は本来であれば道具を作る職人の様な存在である。これ以上、気の枯れた状態で事件に巻き込んでしまうことは、さすがに臙良にも気が引けた。
「それじゃあ、ここはお言葉に甘えて、少し羽を伸ばさせてもらうことにするわ。臙良さんも、あまり無理したらだめよ。もう、いい歳なんだから」
「まったく、言ってくれるわい。こう見えても、若い頃と比べて力の減退は感じておらんつもりなんじゃがな」
「冗談よ。それじゃあ、後はよろしく頼んだわね」
臙良の意図を汲んでか、今度は皐月も彼の考えを承諾したようだった。
襖が閉じられ、奥座敷に再び静寂が訪れる。気を取り直し、臙良は座禅を組んで意識を鈴に集中した。
はぐれ神。下級の神が人の手を離れ、悪霊と化した存在。そんな物を、みすみす野放しにしておくわけにはいかない。今は大人しくしているかもしれないが、何時再び、人間に牙を向けるか分からないのだ。
この戦いは、下手をすれば思った以上の持久戦になるだろう。それだけに、焦りは禁物だ。
あまり長引かせたくないと思いつつも、臙良は大きく息を吸い込むと、部屋の天井から吊るされた鈴の一つ一つに意識を集中させ始めた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
祭りの空気というものは、時に人の心を無条件に高揚させるものだ。宵闇のなか、どこか懐かしい音楽と赤い提灯の光に囲まれていると、それだけで楽しい気分になってくるから不思議なものである。
様々な屋台の立ち並ぶ秋祭りの会場で、紅はふと、そんなことを考えた。朱音の母親が亡くなり、さらには田所を初めとした不良グループが次々に変死したものの、祭りだけは昨年と変わらずに行われている。まるで、そんな出来事は全て夢の中の話であるかと言わんばかりに、往来する人々は祭りを楽しんでいた。
最初、祭りの話を聞いた時は、はっきり言って乗り気ではなかった。人が亡くなった後ということもあり、また学校で妙な噂に振り回されていたことも相俟って、しばらく一人でいたいとも考えていた。
しかし、実際に祭りの場に来てみれば、そんな気分は消し飛んだ。村祭りの空気は紅も嫌いではなかったし、何よりも朱音の気分転換になっているのは幸いだった。
横を見ると、朱音が先ほど買った綿菓子を食べながら、紅の袖を引いていた。いつもは控えめで大人しい朱音だが、さすがに今日は気分が高揚しているようだ。
「ねえ、紅君。次は、どこに行こうか」
「俺は、別にどこでも構わない。朱音の好きなところに行くんでいいぞ」
「そうだなぁ……。それじゃあ、あれ、やってみたいかも」
そう言って、朱音が指差した屋台へと目を移す。そこで行われていたのは射的だった。
「あれは、ちょっと難しいんじゃないか? まあ、やりたいって言うんなら止めはしないが……」
「だったら、一緒にやろうよ。私、下手かもしれないけど……紅君、教えてくれる?」
「仕方ない……。ちょっとだけだぞ」
正直なところ、紅は射的には自身がなかった。運動神経や動体視力は人並み以上の物を持っているが、銃の類など玩具でも使ったことがない。剣の腕は優れていても、飛び道具に関してはさっぱりである。
素人同然の人間が、そう簡単に景品など手に入れられるはずがない。分かってはいたが、朱音の頼みを無下に断るわけにもいかなかった。
幸い、財布の中身にはまだ余裕がある。朱音と一緒に屋台の店主に金を払うと、紅は渡された銃を構えて狙いをつけた。
一発目。
弾は大きく的を外れ、明後日の方向に飛んでいった。やはり、自分は銃に関しては素人同然だと改めて思う。
二発目。
これも外れ。しかし、後少しのところで的を掠め、狙いとしては悪くなかった。自惚れるわけではないが、早くもコツがつかめてきた気がする。
三発目。
今度こそ、弾は見事な軌道を描き、狙っていた景品を叩き落とした。とはいえ、紅が落としたのは一番前の列にある小さな菓子の箱。最初から、後列に並んでいる大物は狙っていなかったのだ。堅実と言えば堅実だが、決して威張れるような記録ではない。
とりあえず、初めてにしては上出来か。その程度にしか考えていなかった紅だったが、朱音の目には違って見えたようだった。
「やったね、紅君。やっぱり紅君は、私と違ってなんでもできちゃうんだね」
「別に、そんなんじゃないさ。たまたま、運がよかっただけだろ?」
謙遜などではなく、これは事実である。しかし、朱音は納得しなかったようで、訝しげな顔をしたまま紅を見ていた。
「ねえ、紅君……」
突然、朱音が尋ねてきた。射的の銃を横に置き、下から見上げるような視線を紅に送る。
「私にも、コツを教えて欲しいんだけど……駄目、かな……?」
上目づかいに、せがむ様にして朱音が紅に縋る。思わず、いつぞやの晩に添い寝をして欲しいと言ってきた際のことを思い出してしまい、顔が赤くなる。いつもは真正面から見ても何とも思わない朱音の顔だが、この目つきだけは反則だろう。
「しょうがないな……。だったら、その銃をちょっと貸してみろ。俺が構え方を見せてやるから、それを見て真似したらどうだ?」
「そ、そう……。でも……できれば、私は紅君に、一緒に構えてもらいたいんだけど……」
「一緒にって……まさか……」
「うん。私が構えるから、紅君が後ろから支えて。そうすれば、上手く行きそうな気がするから」
朱音の言わんとしていることが分かり、紅は思わずその視線を朱音からそらした。
銃を構えた朱音を後ろで支える。それは文字通り、朱音に手取り足取り銃の構え方を教えるということに他ならない。
以前であれば何も思わずに、紅も朱音に触れることができただろう。しかし、ここ最近の朱音の行動を思い出すと、妙に変なことを意識してしまっていけない。どうも、あの防空壕での告白依頼、自分は朱音を昔のように扱えなくなってしまった気がする。
「なあ、朱音……。お前、本気で言ってるのか?」
「私は本気だよ、紅君。それとも……私と一緒じゃ、やっぱり迷惑かな?」
再び、朱音が上目づかいに紅を見た。何度も言うが、やはりこれは反則だ。こんな風にして頼まれたら、いかに紅とて断るに断れなくなってしまう。
結局、朱音に言われるままに、紅は彼女の後ろで両腕を支えてやることになってしまった。朱音の後ろに立ち、銃を構えた朱音の手に自分の手を重ねる。身体と身体が密着し、どうしても相手を意識せざるを得ない。
心臓の鼓動が早まっているのが、自分でもはっきりと分かった。朱音の手に添えている自分の手にも、妙な力が入っている。これでは、とても朱音の射的のサポートをするどころではない。
朱音が狙っていたのは、一番奥の列にある人形だった。距離も遠く、おまけに的の重さもある。的確に重心を崩すような場所に弾を当てなければ、倒すことは難しい。
「こんな感じでいいのかな、紅君?」
標的に狙いをつけながら、朱音が聞いてくる。そんなことを言われても、分かるはずもない。なにしろ、こちらも射的に関しては素人同然なのだから。
「たぶん、大丈夫じゃないか。とりあえず、今の狙いで撃ってみろよ」
的確なアドバイスなど、できるはずもなかった。本来は朱音の補助に回るべきなのに、自分の方が緊張してしまっている。こんなことでは、大物を撃ち取ることなど夢のまた夢だ。
果たして、そんな紅の予想は正しく、朱音の撃った弾は大きく的を外れてしまった。三発の弾を撃ち尽くし、朱音はしょんぼりした様子で項垂れている。店主から残念賞の飴をもらったが、まだ納得がいかないようだった。
「ごめんね、紅君。せっかく手伝ってもらったのに、無駄にしちゃった……」
「いや、そんなことはないぞ。それに、上手く手伝ってやれなかった俺にも責任はある」
謝らなければならないのは、むしろこちらの方だ。変に朱音のことを意識してしまい、朱音を支えてやるどころではなくなっていたのだから。
射的の屋台を離れ、紅は朱音と一緒に再び広場を歩いて回る。露店のほとんどは食べ物を売っていたが、今は何かを口にしたい気分ではなかった。
気分転換をさせるつもりで連れて来たのに、朱音をがっかりさせたまま帰ったのでは意味がない。ここは一つ、何か彼女を喜ばせるようなことをしてやらねば。
そう思い、紅は目の前にある露店の店先を見た。そこに売られていた物を見て、思わずこれだと確信する。
店の前には、幸いにして人は少なかった。紅は朱音を待たせると、自分は財布を握り締めて店の前へと向かった。
程なくして、紅は朱音のところへ戻って来た。その手に握られているのは、赤い花柄の髪飾り。不思議そうな目でこちらを見ている朱音を他所に、紅はそれを彼女の頭にそっとつけてやった。
「紅君……!? これ……」
「さっき、射的で満足に支えてやれなかったからな。代わりと言ったらあれだが……お前にやる」
「えっ……いいの?」
「俺がやりたいからやるんだ。それとも、気に入らなかったか?」
「ううん、そんなことないよ。ありがとう、紅君……」
咄嗟の思いつきで買ったものだったが、朱音は喜んでくれたようだった。嬉しそうに笑う彼女の顔を見ると、こちらも買った甲斐があるというものだ。
祭りの終わりまでは、まだ少しだけ時間がある。朱音も気を取り直してくれたようだし、もう一回りしてみるか。そう思い、紅が足を踏み出した時だった。
「あっ、犬崎君!!」
聞き覚えのある、妙にはつらつとした少女の声。声のする方に顔を向けると、そこには彼の良く知る人物が立っていた。
「なんだ、野々村か。お前も祭りに来ていたんだな」
「なんだとは、随分な御挨拶ね。相変わらず、無愛想なのは変わりないわね」
声の主は萌葱だった。浴衣に着替えた彼女の姿は、いつにも増して大人びて見える。それは、学級委員としての彼女が持つ、真面目な印象から来るだけのものではないだろう。萌葱は紅と同じく中二だったが、今の姿だけ見れば、高一くらいの年齢に見えなくもない。
「でも、元気そうで安心したわ。ここ最近、学校の人達が露骨に犬崎君のことを避けてたからね。登校拒否にでもなったら、どうしようかと思ったわよ」
「そんなことなら、無用な心配だ。生憎と、俺はそこまで柔な人間じゃない」
「それだけ憎まれ口が叩けるなら、まったく問題なさそうね。まあ、私の知ってる犬崎紅は、こんなことくらいじゃ折れないって思ってはいたけど」
「これはまた、俺も随分と過大評価されたもんだな。まあ、それでも、ある意味では当たっていると言えるか……」
自嘲気味な笑みと共に、紅は萌葱に返した。しかし、本心からそう思っていたかと言えば、決してそんなことはない。
月曜から週末までの一週間ほど、紅が学校で執拗に避けられるという状況は続いていた。存在そのものを否定される程に露骨な無視をされ、教師もそれに対して全く注意をしない。全ては兼元一也の流した噂が原因だったが、それにしても今回の件は紅も辟易するものがあった。
今までも人から避けられることはあったが、それでも最低限のコミュニケーションは取れていた。こちらの内面に触れることはなくとも、学校生活を送る上で支障がない程度の関わりは保てていた。
ところが、今回に限っては、クラスメイトの無視は徹底し過ぎていた。それこそ、萌葱のフォローがなければ、満足に学校生活を送ることさえもできない程に無視をされ続けたのだから。
正直、最初は鬱陶しいと思っていたが、今では萌葱に感謝していた。彼女が自分の何に興味を持ったかは知らないが、四面楚歌な状況での助け船は素直に嬉しかった。
「ねえ、犬崎君。お取り込み中のところ悪いけど、ちょっと私につき合ってくれるかしら? 別に、大したことじゃないんだけど……」
時折、紅の横にいる朱音の方を見ながら、萌葱が遠慮がちに聞いてきた。これが他の人間の頼みであれば、すっぱりと断ってしまうところだろう。だが、萌葱に多少なりとも恩義を感じていた紅としては、断る理由はない。
「俺の方は問題ない。ただ、あまり長い時間ならば、遠慮させてもらうがな」
「たぶん、犬崎君が考えているほど、長くはかからないと思うわ。本当に、ほんの少しだけつき合って欲しいだけだから」
「そうか。なら、仕方ない。そっちには、最近世話にもなったからな」
「ありがとう、犬崎君。それじゃあ、狗蓼さん。ちょっとだけ犬崎君のことを借りるけど、いいかな?」
萌葱が少しだけ腰を落とし、朱音に言った。だが、朱音は何も言わず、じっと唇を噛んで萌葱の方を見つめているだけだ。
「悪いな、朱音。ちょっと野暮用が出来たが、すぐに戻る。それまで、この辺りで待っていてくれ」
何も言わない朱音に代わり、紅が答えた。朱音の頭に手を乗せて、諭すような口調で言う。
萌葱に同行する形で、紅は祭りが行われている神社の裏手へと回る。その後ろから見つめる強い嫉視に、この時の紅はまだ気づいてはいなかった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
祭りの最中とはいえ、神社の裏手はさすがに静かだった。紅と萌葱の他に人はおらず、時折、遠くからの祭り囃子に混じって虫の声も聞こえて来る。
「それで……お前の言う要件ってやつはなんだ?」
白金色の髪が生えた頭をかきながら、紅は例のぶっきらぼうな口調で言った。つき合えと言われて着いて来てみれば、連れてこられたのは神社の裏。大方、買い物かなにかにつき合わされると思っていただけに、萌葱の真意が分からない。
「ごめんね、犬崎君。ただ、ちょっと二人だけで話をしたかっただけだから」
「俺と話を……?」
「そうよ。まだ、ちょっと先のことになるかもしれないけど……今後の進路のこととかね」
そう言って、先ほどまで背を向けていた萌葱が紅の方へと振り向いた。
「ねえ、犬崎君。犬崎君は、中学を卒業したら、どうするつもり?」
「卒業したら? まあ、普通に爺さんの仕事を継ぐために、色々と修業することになると思うぞ。少なくとも、それ以外には思いつかない」
「ふうん、そうなんだ……」
納得したような、それでいてどこか寂しそうな表情で、萌葱は紅を見た。その瞳は、まるで何かを思いつめているかのようにも見て取れる。いったい、萌葱は何を考えて、こんな場所で進路の話などする気になったのだろう。
「私ね……高校生になったら、この村を出ようと思ってるんだ。それこそ、麓の町の高校に村から通うことなんかしないで、もっと遠い場所で、一人暮らしするの」
「そいつは立派なことだな。だが、それが俺と何の関係がある?」
「まあ、ちょっとは最後まで聞きなさいよ。私、前に犬崎君に、自分が他所者だって言ったことあるでしょ。覚えてる?」
「ああ。そう言えば、そんなこともあったな」
そのことだったら忘れてはいない。確か、今週に入って紅が周囲から急に冷たくされた時、声をかけてきた萌葱自身が最後に言った言葉だ。
「あれね、実は本当の話なの。私、家の都合で仕方なくこの村に引っ越して来たから、どうしても村の慣習みたいなのに慣れなくってね。未だに祟りとか呪いとか信じている、村の人の考えが分からないの。犬崎君のことを、変な目で見るのも含めてね」
「だが、それはこの村の昔からの慣習だ。今さらお前一人が騒いだところで、何も変わらないぞ」
「そうね。だから、私は村を出たいの。こんな古臭い慣習に縛られているような土地にいつまでもいないで、もっと現実的な考えができる人達が集まっている場所にね」
その場で空を仰ぎ、時折くるくる回るようにしながら、萌葱は紅に話す。そして、最後に紅の方を向いて動きを止めると、その赤い瞳をしっかりと見据えて言った。
「ねえ、犬崎君が、よければでいいんだけど……」
「なんだ?」
「私が村を離れる時、犬崎君も一緒に行かない? 一緒に、K市の県立高校を受験して村を出ましょうよ。そうすれば、こんな変な村で差別に苦しむこともないわ。今週、学校であったような噂だって、たぶんされないと思うし……」
「それはどうかな? 例え慣習などなくたって、俺は見ての通りの容姿だ。町に行ったところで、好奇の目に晒されることは目に見えている。それに、俺は生まれ育った土地を離れるつもりはない。少なくとも、家業を一人前に継げるようになるまではな」
「そっかぁ……。まあ、まだ一年以上先の話だしね。すぐじゃなくていいから、気が変わったら返事頂戴」
物事を割り切るのが上手いのか、それとも強がっているだけなのか、その口調からは分からなかった。
萌葱は浴衣の裾をひらひらと風に揺らしながら、紅よりも一足先にその場を離れた。後に残された紅は、静寂に包まれた社の裏で、しばし萌葱の言っていた言葉の意味を考える。
確かに萌葱の言う通り、土師見村は昔ながらの慣習に縛られた山村だ。紅自身、自分の一族に向けられる畏怖の眼差しも含め、それは痛いほど良く感じている。その上、村の伝統的な産業が葬式道具作りというのも、町の人間には受け入れ難いことなのだろう。
だが、だからと言って、自分が村を離れるのは間違いだと思った。少なくとも、退魔師として祖父の後を継げるようになるまでは、村を離れることは許されない。
(何考えてるんだ、あいつは……。俺が村を離れるなんて、そんなことあるはずないのにな……)
生まれながらにして、向こう側の世界に住まう者達と対峙することを宿命づけられた赫の一族。その末裔である以上、自分も血の宿命からは逃れることはできない。
考えるだけ馬鹿らしいことだ。自分の進むべき道は、既に決まっている。
踵を返し、紅も社の裏から祭りの場へと戻った。朱音も待たせていることだし、いつまでも独りであれこれと考えているわけにもいかない。
萌葱と会った場所に戻ると、そこに朱音の姿は見当たらなかった。どこか、別の場所に行ってしまったのか、それとも単に見落としているだけなのか。
不安に思い辺りを探すと、後ろから誰かが自分を見ていることに気がついた。振り返ると、そこには朱音が立っている。祭りの最中、一緒に射的をしたり髪飾りを買ってやったりした時とは違い、少し俯いたまま黙ってこちらを見つめていた。
「紅君。お話、終わったの?」
「ああ。すまなかったな、待たせたみたいで」
「別に、私は平気だよ。それよりも……野々村先輩と、何を話していたの?」
「そんな、大した話じゃない。お前が気にするようなことは、何もないよ」
相手を心配させまいとして言った紅だったが、朱音は「そう……」とだけ呟いて口をつぐんでしまった。
それから朱音は、始終無言のまま紅の後をついてくるだけだった。こちらから何か話しかけても、特に笑ったり喜んだりする素振りも見せない。やはり、萌葱が間に入ったことで、朱音に妙な気を使わせてしまったのかと紅は思った。
祭りから帰る時になっても、相変わらず朱音は無言のままだった。紅もかけてやる言葉が見当たらず、夜道に二人の足音だけが響いている。
互いに言葉を交わさないまま、時間だけが過ぎていった。気がつくと、辺りに他の人間の姿はない。祭りの喧騒が嘘のように、今はひっそりと辺りが静まり返っている。
「ねえ、紅君……」
突然、後ろにいる朱音が紅の名を呼んだ。振り返ろうとしたものの、何やら背中に鋭い視線を感じ、紅はその場で足を止めた。どうしてか、ここで振り向いてはいけないような気がしたからだ。
「紅君は、この村を出て行くつもりなの?」
「えっ……!?」
「答えて、紅君。高校生になったら……野々村先輩と一緒に、村を出て行くの?」
「朱音……。お前、さっきの話……」
なんということだろう。朱音は先ほどの紅と萌葱の会話を、始終盗み聞きしていたのだ。大人しく待っている素振りを見せながら、あの後、こっそり自分達の後をつけてきたのだろう。
これが普段のことであれば、他愛ない妬きもちとして片づけられたところだ。しかし、今日の朱音は何かが違う。先ほどから感じている視線も相俟って、妙に朱音の存在が大きく、恐ろしい物に思えて仕方がない。
「俺は……」
迷う必要などない。自分の答えは既に決まっており、それは逃れられない運命だ。そう分かっていても、何故か声が震えていた。
「俺は、この村を出て行くつもりはない。爺さんの修業だって終わっちゃいないし、俺が後を継いだら、今度は俺が犬崎の家を守らないといけない。村から出て行くつもりなんて、毛頭ないよ」
「そう……。よかった……」
ほっという安堵のため息と共に、紅の首筋に温かい息がかかった。それが朱音のものだと分かり、思わず背筋がぞくりとする。近づく足音さえも聞こえなかったのに、いつの間にここまで距離を詰められたのだろうか。
「紅君……」
朱音が再び紅の名前を呼び、その腕を後ろから腰に回してきた。そっと触れるのではなく、まるで縛りつけるように、紅のことを強く抱き締める。背中に朱音の胸が当たり、その吐息がかかるのが分かった。
「あ、朱音……!?」
一瞬、何をされているのか分からなかった。今までも朱音が自分に甘えたような仕草を見せることはあったが、抱きついてくるようなことは一度もなかったからだ。
「私は……紅君とずっと一緒にいるよ……。他の、誰がいなくてもいい……。紅君だけがいてくれればいい……」
言葉と共に、朱音の腕の力が強まってゆく。これが本当に、自分の知る非力で病弱な朱音のものなのだろうか。
「だから、紅君も私と一緒にいて……。ずっと……ずっと私と一緒にいて……」
背中にかかる息と共に、なにやらどす黒い物が自分の身体の中に入ってくるのが分かった。朱音の身体を通し、べったりとした油のような何かが、直接自分の心の中に流れ込んでくる。
「あ……あぁ……」
何とか振り払おうとしたが、掠れた声が喉の奥から漏れるだけだった。気がつけば、腕も足も力が入らない。まるで、粘性の高い液体に絡め取られたように、指の先までしっかりと抑え込まれている。
身体が痺れ、息をすることさえも辛くなってきた。だんだんと、目の前の視界がぼやけてくる。後ろで朱音が何やら言い続けているが、それさえも上手く聞き取れない。
「好きだよ、紅君……。小さい頃から、ずっと……ずっと好きだったよ……」
そう、朱音が言った時、紅の足が完全に力を失った。拘束を解かれると同時に、その身体は糸の切れた人形のように大地へ倒れ込む。
朱音の身体から送り込まれた闇は、既に紅の身体と心を完全に侵食していた。もはや、自分の意思で身体を動かすことはできず、何をされているのかも分からない。
「私には、紅君しかいないの……。昔から……ずっと、ずっと昔から、紅君しかいなかったの……」
既に紅は返事をすることさえできなかったが、それでも朱音は倒れた紅に語り続ける。そのまま腰を落とし、倒れたままの紅の身体を仰向けにした。瞳孔が開かれた紅の顔を、そっと慈しむように指で撫でる。
「だから……紅君は、誰にも渡さないよ。この世界でたった一人の……私だけの紅君でいて……」
薄れゆく意識の中、紅の耳に朱音の囁くような声が響く。甘い、誘うような声に包まれながら、紅の意識は深い闇の中へと堕ちて行った。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
祭りというのは、その最中だけを楽しむものではない。いつ、誰が言っていた言葉かは忘れたが、それは決して間違いではないと思う。
神社からの帰り道、野々村萌葱は祭りの余韻に浸りつつも、今日の紅との会話を思い出していた。
自分が考えていることは、果たして紅に伝わっただろうか。あの、鈍感で朴念仁の紅のことだ。きっと、こちらの真意など気づいていないに違いない。
高校になったら村を出るか否か。そんなことは、はっきり言って二の次だった。紅が自分の話に乗って来ないのであれば、今度は自分が譲歩すればよいだけのことだ。村から麓の町の高校に通うのは本意ではないが、紅と一緒にいられるのであれば、それで良い。
この村に越して、中学に入ってから、萌葱が初めて惹かれたのが紅だった。その幻想的な容姿に加え、他の人間とは明らかに異なる強い意志のようなものを秘めた空気。同じ、田舎の村に暮らしている人間でありながら、どこか異質で、それでいてこちらを魅了する何かを持っていた。
二年に上がり、同じクラスになったことで、自分は紅と近づく機会を得た。学級委員という立場も生かし、クラスの中で浮いている紅のフォローに回ることも多かった。もっとも、紅自身は、そんな萌葱のことを口煩いだけの存在だと思っていたのかもしれないが。
「あいつ……こっちが決心して話をしたってのに、動揺の一つもしないんだから……。やっぱり、直接気持ちを伝えないと駄目なのかしら?」
つい、そんな愚痴が零れてしまう。好きだからこそ、直接言わずともこちらの意図に気づいて欲しい。そんなことを考えてしまうのは、果たして我侭なのだろうか。そう、萌葱が思った時だった。
――――ヒタ……。
自分の物とは違う、明らかに別の足音が聞こえた。後ろを振り向いて見るものの、音の主と思しき者の姿はない。
――――ヒタ……。
また、音が聞こえた。今度はさっきよりも近い。間違いなく、自分との距離を詰めてきている。
生温かい風が吹き、萌葱の髪を舐め回すようにして揺らした。今まで顔を見せていた月が、一瞬にして雲の中に隠れる。側に立っている街灯の薄明かりだけが、足元を静かに照らしている。
――――ヒタ……。
今度は自分のすぐ後ろで足音が聞こえた。相変わらず、何の姿も見えないが、距離だけは確実に縮められている。
たまらず、音のした方へと顔を向ける萌葱。そこにあったのは、何の変哲もない自分の影。街灯に照らされたことによって大地に伸びた、いつも見慣れている自分自身の分身だ。ある、一点の部分を除いては。
「ひっ……」
自分の足元にいる者の姿を見て、萌葱は短い悲鳴を上げた。
つま先から伸びている黒い物は、間違いなく自分の影だ。それは、決して疑いようのない事実。では、その影についている赤銅色の瞳はなんだろうか。調度、自分の瞳がある位置に、くすんだ金属のような色の目が、しっかりとついている。
笑うこともせず、怒ることもせず、その瞳はただ萌葱を見つめていた。まさに、凝視という表現が相応しいほどに、こちらの心の奥底まで見透かすような視線を送ってくる。
(な、なに……これ……)
今、自分の目の前で何が起きているのか。それを判断するだけの余裕は、今の萌葱にはなかった。それどころか、身体全体が金縛りにあったように、まったく動かない。蛇に睨まれた蛙のように、影の瞳から目を離すことができなくなっている。
次の瞬間、後頭部に鈍い衝撃を受け、萌葱はその場に倒れ込んだ。頭の奥が熱く、身体が言うことを聞いてくれない。
「あなたは、今すぐには殺さないよ……。もう、絶対に紅君に近づいたりできないように、しっかりと打ちつけておかなくちゃ……。心も……身体もね……」
自分の後ろで、誰かが何かを言っている。聞き覚えのあるこの声は、いったい誰のものだっただろうか。
そう考えた矢先、再び衝撃が頭を襲った。さすがに、二発目は耐えられない。目の前の景色が一瞬にして暗くなり、萌葱の意識もそこで途切れた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
犬崎邸。
天井から無数の鈴が吊るされた部屋で、臙良は瞑想を続けていた。元村が教えてくれた中学生の変死事件から、既に一週間と少しが経過している。その間に、事故死とされたものも含めて新たに三人の中学生が亡くなったが、依然として相手は尻尾をつかませないままだった。
変死が向こう側の世界の住人の仕業だとして、これは本当にはぐれ神が引き起こしている事件なのだろうか。
相手が血に飢えた祟り神だとすれば、もっと多くの犠牲者が出ているはずだ。しかし、実際に犠牲になったのは中学生が四人だけ。それも、どの生徒も校内では悪い噂の絶えない札つきの不良だったと聞く。
やはり、相手は何者かの身体にとり憑いていると考えた方が正しいだろう。そうでなければ、こちらの包囲網をかいくぐり、ここまで見つからずに潜伏できている理由が説明できない。
この村の中の誰かが、はぐれ神と化した犬神にとり憑かれている。惨劇はまだ終わったわけではない。相手が何を企んでいるかは分からないが、とにかく今は、向こうの出方を待つ他にない。
――――チリン……。
部屋の鈴が、微かな音を立てて揺れた。聞き間違いなどではない。ましてや、風で揺れたわけでもない。明らかに、鈴が向こう側の世界の者を捉えた瞬間だった。
「いよいよ、尻尾を出しおったか。今宵こそは、逃すわけにはいかん……」
両目が大きく見開かれ、赤い瞳が露になる。側に置いてある、梵字の書かれた布を鞘と柄に巻き付けた刀を握り、臙良は音も立てずに立ち上がった。
皐月はまだ、家には戻って来ていない。恐らく入れ違いになってしまうだろうが、彼女を待っている余裕などない。うかうかしていれば、数日ぶりに現われたはぐれ神を見逃すことになってしまう。
草履を履き、傘を頭にかぶり、臙良は屋敷を飛び出した。鈴が示していた場所は、ここから決して遠くはない。今から行けば、惨劇がなされる前に間に合うかもしれない。
棚田の横道を下り、臙良は鈴が反応していた場所へと足を急がせた。齢六十を越えた老人とは、とても思えない走りようだ。これも、若い頃から退魔師として鍛え続けてきた成果である。
「ここか……」
現場は、人気のない村道の一角だった。街灯の下、微かに血のようなものが飛び散っているのが見て取れる。恐らくは、ここではぐれ神に憑かれた何者かが、新たなる犠牲者に襲いかかったのだろう。
このまま眺めているわけにはいかない。臙良は胸の前で印を組むと、自分の影に精神を集中した。
街灯と月の明かりに照らされてできた、臙良の足元から伸びる細長い影。それは、徐々に臙良の身体を離れ、やがて黒い流動的な塊となって起き上がる。
両手、両脚、そして首が生え、塊は犬のような姿を形作った。宵の闇より暗い漆黒の身体に反し、その瞳は眩いまでの金色に輝いている。
「黒影よ。この血の主の匂いを……気を追うのじゃ」
臙良に命じられ、黒影と呼ばれた巨大な犬は、地面に付着した血の匂いを嗅いだ。とはいえ、霊的な存在であるが故に、鼻をひくひくと動かすような真似はしない。ただ、鼻面を地面に近づけて、その場に制止しているだけだ。
黒影の身体を形作る物体が、頭から尾の先に抜けるようにして流れた。すると、黒影は頭を上げ、再び地面に溶けるようにして影となる。
臙良の身体を離れたまま、黒影は地面を這うようにして移動し始めた。その後を、刀を手にした臙良も追う。行く先は、この血の持ち主が連れ去られた場所だ。
現場に遺体がなかった以上、身体ごとどこかに持ち去られた可能性が高い。そして、その場所ことが、はぐれ神に憑かれた人間のいる場所であるとも言えるはずだ。
黒影に導かれるようにして、臙良は夜の土師見村を走った。気のせいか、やけに見覚えのある道を走っているような気がしてならない。村のことは知りつくしていたが、この道はとくに、ごく最近になって通ったような気がする。
疑問は、すぐに解消された。
黒影が臙良を連れて来た場所。それは、あろうことか狗蓼朱音の家だった。先週、彼女の母親の葬儀があったばかりなことを考えると、ここまでの道を通った気がするのも頷ける。もっとも、母親である朱鷺子が亡くなってからは、無人のまま放置されていたはずであったが。
油断することなく、家の門をくぐり中へと入る臙良。幸いにも、家の鍵は開け放たれているようだった。
刀の柄に手を添えて、草履のまま家の中へと上がる。相手は悪鬼と化したはぐれ神か、それとも憑依された人間か。どちらにせよ、手強い相手であることに違いはない。
一通り一階を見て回ったが、とくに何かが潜んでいる気配はなかった。ならば、本命は二階か。木製の階段に足をかけ、一歩一歩、踏みしめるようにして昇って行く。
ぎし、ぎし、という木の軋む音がして、臙良の顔にも緊張の色が走った。人の手を離れてから一週間ほどしか経っていないにも関わらず、まるで長年に渡り放置されてきたかのような錯覚を覚える。
一階に比べると、二階の間取りは至極単純だった。あるのは朱鷺子の寝室と、朱音の使っている私室のみ。そっと襖を開けて見ると、見覚えのある少女が倒れているのが目に入った。
「あ、朱音……」
倒れていたのは朱音だった。その額には赤い血がべったりとこびりつき、服のあちこちにも赤い飛沫が散っているのが分かった。
あの血液は、朱音のものだったというのだろうか。だとすれば、やはりはぐれ神は、朱音を狙っていたということか。
判断するには時期尚早であったものの、臙良は躊躇うことなく朱音を抱き起こした。まずは、朱音の身柄を安全な場所に移さねばならない。はぐれ神の追撃も気になるが、今はそんなことは二の次だ。
「お、おじい……ちゃん……」
臙良の腕の中で、朱音がゆっくりと目を開いた。掠れるような声で呟きながらも、こちらに縋るような視線を送ってくる。
一見すれば、はぐれ神に襲われた少女が助けを求めているように見えなくもない。だが、それにしては、何かがおかしい。まるで、こちらが助け起こすことを予測していたかのように、抱き上げた瞬間、朱音は目を覚ましたのだから。
そう、臙良が気づいた時には遅かった。
朱音の右手が、突如として臙良の首につかみかかって来た。指先が肉に食い込み、容赦なく頸動脈を締めつける。その華奢な身体からは想像もできないほどに強い力だ。
「死んで……」
朱音の顔が、冷たい笑みの形に歪む。次の瞬間、腹部に激しい痛みを覚え、臙良は思わず朱音の身体を畳みの上に落としてしまった。
「ぬ……うぅ……」
右のわき腹に手をやると、ぬるっとした感触と共に、生温かい物が両手を伝わった。見ると、目の前に立つ朱音の手には、血の付いた果物ナイフが握られている。
なんということだ。はぐれ神は、最初から朱音の中にいたのだ。それを知らず、思い込みから迂闊な行動に出て、敵の術中にはまることとなってしまった。我ながら、自分の軽率な行動が悔やまれて仕方がない。
だが、だとすれば、なぜ今まで自分は気づかなかったのだろうか。朱鷺子の葬儀の後も、朱音は自分や紅と共に一緒の家で暮らしていた。その時は、何かに憑かれていた様子など、まったくなかったというのに。
「ごめんなさい、おじいちゃん……。でも、私は渡したくないの……。私の中の犬神様も……紅君も……。だから、私の邪魔をしないでくれるかな……」
膝を突き、痛みに耐える臙良を見下ろすようにして、朱音が感情のこもらない口調で言った。その言葉を聞き、臙良は改めて自分の考えが誤っていたということを思い知らされる。
額の血を腕で拭くと、そこには傷一つ見当たらない。部屋の中で倒れていたのは、全て朱音の仕組んだ罠だった。
朱音は、はぐれ神に憑かれていたのではなかった。最初から、彼女の魂は犬神と共にあったのだ。例え犬神を使役する法がなくとも、魂を一つにしてしまえばその力を行使できる。犬神を己の中に取り込むことにより、一見しただけでは気づかれないまま、圧倒的な力を得ることができるのだ。
だが、そんなことをすれば、彼女の魂とて無事では済まない。主導は朱音の魂であったとしても、それは多かれ少なかれ、融合した犬神の影響を受ける。
己の感情のままに、人を殺すことも厭わない。自分の望みを叶えるためであれば、手段を選ぶこともない。善悪の判断基準が崩壊している今の朱音は、間違いなく犬神の影響を受けている。それも、既に取り返しのつかないくらい、深い部分まで繋がって。
今、目の前にいるのは、朱音であって朱音ではない。存在の根本的な部分は朱音のままなのだろうが、犬神の力に毒され、完全に自分を見失ってしまっている
果物ナイフを手にした朱音が、徐々に臙良との距離を詰めてきた。血の付いたナイフを握った手が、高々と掲げられて首筋を狙う。
「さよなら、おじいちゃん……」
もう、臙良には抵抗する力さえ残っていない。そう判断したのか、朱音は躊躇うことなく手にしたナイフを振り下ろした。血濡れた切っ先が、寸分の狂いもなく臙良の急所に迫る。
もはや、逃れる術はない。邪魔者は片付き、自分を止める者は誰もいなくなる。そう朱音は確信していたが、臙良の目は未だ死んではいなかった。
「喝っ!!」
瞬間、臙良の声が部屋の空気を震わせた。わき腹の痛みを堪え、折れた膝をゆっくりと元に戻す。既に満足に戦うことさえできない身体ではあったが、その心は未だに折れてはいない。
臙良の後ろで、影がずるりと伸びた。そのまま盛り上がるようにして黒い塊が飛び出すと、それは瞬く間に黄金の目を持った犬神の姿となる。
身体が完全に犬の姿になるのを待つような暇などない。不定形な塊から首だけを実体化させた黒影は、手足が生えるのも待たずに青白い炎を吐いた。これには、さすがに朱音も驚いたらしい。ナイフを持った手で額を覆うようにすると、空いていた窓から夜の闇の中へと身を躍らせて消えて行った。
「ふぅ……。とりあえずは、なんとか凌いだか……」
腹の傷を押さえ、臙良はその場に蹲るようにして腰を落とした。思ったより、傷が深い。そのまま這うようにして壁際まで行くと、壁を背につけてその場に座り込んだ。
このまま、あの朱音を野放しにしておくわけにはいかない。赫の一族の一人として、一族の不始末は自分でつけねばならない。
そう思ってはみたが、やはり身体が言うことをききそうになかった。仕方なく、臙良は自分の下に黒影を呼ぶ。そして、何やら黒影に支持を出すと、その姿が窓の外に向かって消えて行くのを見つめていた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
そこは、暗く冷たい場所だった。
自分の頬を撫でる風の冷たさに、犬崎紅は静かに目を覚ました。ここは、いったいどこなのか。それ以前、自分はなぜこんな場所にいるのだろうか。
暗闇に目が慣れてくる内に、だんだんと意識が戻って来た。同時に、この場所がどこなのかもはっきりと分かった。
ここは、自分が秘密基地として使っていた防空壕の跡だ。柱の傷も、家から苦労して運んだ古いちゃぶ台も、全て見覚えがある。
いったい、自分はどうなってしまったのか。あの時、朱音に抱きつかれてから、まるで魂を吸い取られてしまったかのように気を失ってしまった。恐らくは、朱音がここへ運んだのだろうが、非力な彼女に果たしてそんな芸当ができるものだろうか。
ふと、そんなことを考えた時、紅は自分の方へ誰かが近づいて来るのに気がついた。顔を上げて見ると、そこにいたのは朱音だった。
「起きたんだね、紅君。本当だったら二、三日は気絶したままかと思ったけど……やっぱり紅君はすごいな」
いつもの朱音とは、どこか様子が違っていた。声に抑揚がなく、その瞳は薄暗く淀んでいる。
「ねえ、紅君。これからは、ここが私と紅君のお家だよ。私達二人だけで……これから、ずっと一緒に暮らそうね……」
「な、何を言っているんだ、朱音……。家って……それに、一緒に暮らすって……」
朱音の言っている意味が分からない。そう思って身体を起こそうとした時、紅は初めて自分の両手が後ろ手に縛られていることに気がついた。それだけでなく、両脚の自由も奪われている。改めて自分の姿を見ると、どうやら椅子に両手と両足を縛りつけられているようだった。
「お、おい、朱音……。これは、いったいどういうつもりだ!?」
「どういうつもりって……紅君が、私の側からいなくならないようにするためだよ。こうしておけば、誰か他の人が紅君を連れて行こうとしても、紅君は絶対に私の側から離れられないもんね」
朱音の口元がにやりと歪む。これが冗談などではなく本気であることを、紅も薄々ながら理解した。
「それにしても……紅君、本当に鈍いよね。私が紅君のために一生懸命復讐してあげたのに、全然気がつかないし……」
「復讐、だと?」
「そうだよ。紅君に乱暴した、あの不良共がいたでしょ。あれ、全部殺したの私だから。あんなやつら、死んでも誰も何とも思わないって、犬神様も言ってたしね」
口にするのも恐ろしいような事実を、朱音はさらりと言ってのけた。それを聞いた紅の目が、思わず大きく見開かれる。
あの朱音が、人を殺した。それも、田所とその仲間を合わせ、四人もの人間を。にわかには信じられないことだったが、朱音の顔は、決して嘘をついているようには見えなかった。
「それと、紅君につきまとってた、野々村先輩いたでしょ。あの人も、もう二度と紅君に近寄れないようにしておいたから。これで、紅君を迷わして村から連れ出そうとする人も、もういないよ。だから……これからは、ずっと、ずっと一緒にいられるよね、紅君!!」
朱音が紅の頭を抱えるようにして抱きついてくる。こんな状況でなければ、素直にそれも受け入れられただろう。だが、あまりに常軌を逸した朱音の言葉が、紅にそれを許さなかった。
「お、おい……。朱音……お前、いったいどうしたんだ……」
目の前に起きていることが現実なのだと、未だ受け入れられない自分がいた。朱音はいったいどうしてしまったのか。こうまでして壊れてしまったのは、紅自身にも責任があるのか。そして、朱音の言っていた犬神様とはいったいなにか。
分からない。日常が一度に破壊され、まともに考えを整理することさえもできなかった。今、目の前にいるのは、本当に自分の知っている朱音なのだろうか。
「ねえ、紅君……」
頭を抱きかかえていた腕を離し、朱音が紅に尋ねた。相変わらず、その口調からは生気のようなものが感じられない。
「そう言えば、お祭りの屋台で、あんまり食べ物を買って無かったよね。もしかして、お腹すいてない?」
「腹って……。こんな状況で、飯のことなんて考えられるか!!」
「大丈夫だよ、心配しなくても。紅君には、私がちゃんと食べさせてあげるから」
そう言いながら、朱音は何やら足元に転がっている塊を拾い上げた。羽毛に包まれ、首を失った一羽の鳥。どうやら、村で飼われている鶏のようだった。
「これ、近所の農家さんから失敬してきたんだ。お肉は苦手だったけど……犬神様が一緒にいる今だったら、私も食べられるようになったんだよ」
首の落とされた鶏をつかみ、朱音が大きく口を開く。羽毛さえも取らず、そのまま胸にかじりついた。
肉が千切れ、引き剥がされる音がした。鮮血が飛び散り、紅の顔にも赤い飛沫が付着する。口元を赤い血で染めながら、朱音は美味そうに口の中にある肉を飲み込んだ。
「うふふ……おいしいな。今、紅君にも食べさせてあげるから……ちょっとだけ待っててね」
朱音の口が、再び鶏の肉を貪った。しかし、今度は口に入れた肉を飲み込むようなことはせず、ゆっくりと、筋のなくなるまで咀嚼してゆく。そして、口の中にあるものが十分に柔らかくなったところで、朱音は自分の唇を紅の唇に押し付けた。
次の瞬間、朱音の舌が紅の口をこじ開けると共に、生臭く粘性の高い液体が流れ込んできた。それが、咀嚼された生肉であると分かり、紅は思わず胃の中身を吐き戻しそうになる。
生温かく、それでいて鉄のような味を含んだ液体が、紅の口の中を犯してゆく。吐き出そうにも、口で口を塞がれているために、それすら敵わなかった。
自分の意思とは反対に、咀嚼された生肉は紅の喉を通り、胃の中へと入っていった。全てを飲み込んだ後でも、口の中には未だ生臭い匂いが充満している。
はっきり言って、もう終わりにして欲しかった。しかし、紅が全ての肉を飲み込んでもなお、朱音は彼と口をつけることを止めようとしない。今度は口内に自分の舌を滑り込ませ、未だ口の中に残る肉片を舐め取るようにして、激しく紅の口を蹂躙した。
「んっ……ふぅ……」
やがて、十分に満足したのか、朱音は紅の口からようやく自分の舌を離した。血の混ざった唾液が赤い糸を引いて、紅と朱音の口を繋いでいる。
あまりに現実離れした出来事に、さすがの紅も心が折れそうだった。否、それ以前に、先ほど飲み込んだものの味を思い出しただけで、胃の中の物が全て逆流してきそうになる。
いったい、自分はどうなってしまうのか。このまま成す術もなく、狂った朱音に犯され続けるしかないのか。そんな絶望が紅の頭をよぎった時、今まで変化のなかった朱音の顔が急に険しくなった。
「これは……。また、邪魔者が来たわね……」
普段の朱音からは、想像もできない程に冷たい口調。冷徹に、邪魔者を排除することしか考えていない、およそ人の物とは思えない目つき。
「ちょっと、ここで待っててね、紅君。すぐに、邪魔者を片付けて戻るから……」
「邪魔者だと!? それは、どういう意味だ……」
「心配しなくても大丈夫だよ、紅君。これからは、私が犬神様の力を使って、紅君を守るから。紅君が私にしてくれたみたいに、紅君と私の仲を邪魔する者を、全部始末してあげるからね」
朱音の顔に、再び先ほどの淀んだ笑みが浮かんだ。だが、紅はそこに、優しさなどという感情は感じられなかった。
あるのは、ただ恐怖のみ。狂気に彩られた朱音の視線に見つめられ、紅はただ、何もできない自分の無力さを悔やむ他になかった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
祭りの終わった夜の土師見村を、鳴澤皐月は犬崎多恵と共に駆けていた。彼女達を先導するのは、道を這うようにして動く一体の影。犬のような姿をしたそれは、一目見て臙良の使役する犬神、黒影であると分かる。
皐月が家に戻った際、臙良は既に屋敷を出た後だった。多恵の話によれば、皐月が留守の間に臙良がはぐれ神を見つけたとのことらしい。
やはり、自分も臙良の言葉に甘えず、家に残っていればよかったか。そう思ったところで、時間は元には戻せない。今は一刻も早く、臙良の後を追って現場に向かう方が先だろう。
そう思った矢先、皐月と多恵の目の前に現われたのが黒影だった。
通常、犬神は使役する者の影に潜んでいる。他人の影に潜ることも可能だが、犬神そのものが単独で、影にも潜らず行動することは珍しい。そして、それは臙良の身に、何かよくないことがあったという印にも等しいのだ。
考えている暇などなかった。
皐月と多恵は黒影の導くままに、犬崎の屋敷を飛び出した。道を這うようにして動く影を追い、こうして今に至るというわけである。
黒影が案内した場所は、村の中でもごく普通に見られる住宅街の一角だった。しかし、黒影の入って行った家の前に立った瞬間、皐月と多恵の足がそこで止まる。
「こ、これ……」
「うむ。朱鷺子の家じゃ」
そこは、今は亡き朱音の母、狗蓼朱鷺子の家だった。
今回のはぐれ神騒動は、元はと言えば、朱鷺子の死から始まっている。それを知る二人が黒影の案内した場所を見て、驚かないのも無理はなかった
「行くわよ、多恵さん……」
「うむ。そちらも気を抜くでないぞ……」
共に拳を握りしめ、皐月と多恵が狗蓼家の門をくぐる。次に何が飛び出してくるか分からないだけに、緊張の色を隠しきることはできない。
扉を開け、玄関に入ったところで、再び黒影が二人を導いた。滑るようにして階段を昇る黒影を追うと、およそ民家の中には場違いな異臭が鼻をついた。
「これは……血の匂いじゃな……」
油断なく、黒影の導く場所へと足を踏み入れる皐月と多恵。そして、二人が朱音の部屋に入った時、その目には信じられないものが飛び込んできた。
「え、臙良さん!!」
そこにいたのは、他でもない臙良だった。側には血の付いた果物ナイフが転がり、腹には服を破いて作ったと思しき止血帯で、間に合わせの応急処置が施してある。
「おお、皐月……。それに、多恵も来てくれたか……」
「これは、いったいどういうことじゃ、臙良。お主程の者が、こうも簡単にやられるとは……」
「なに、少々油断をしただけのことよ。もっとも、授業料は決して安い物ではなかったがな……」
口では強がっていたが、臙良の傷が深いことは、皐月と多恵から見てもはっきりと分かった。このまま放置しておけば、それこそ取り返しのつかないことになりかねない。状況を知りたい気持ちはあったが、今は一刻も早く救急車を呼ぶ方が先だ。
「多恵さん。悪いけど、救急車を呼んでくれるかしら。その間、臙良さんは私が……」
「うむ。すまぬが、頼む」
多恵が小走りに階段をかけてゆく音が聞こえてくる。皐月は自分の鞄から使えそうな布を取り出すと、それを臙良のわき腹に宛がった。本来であれば商売道具を作るための材料だが、この際、細かいことは言っていられない。
「のう、皐月よ……」
傷の手当てをされているのも構わずに、臙良が皐月に向かって口を開く。正直なところ、今は安静にしていて欲しかったが、それでも臙良は痛みをこらえながら話を続けた。
「今回の件……どうやらわしは、とんでもない思い違いをしていたらしい。はぐれ神など、最初からこの村におらんかったのじゃよ……」
「いなかった!? でも、紅ちゃんの学校の不良達を殺したのは……」
「それは朱音じゃよ……。いや、正しくは、朱音と犬神の混ざったものじゃ……」
「犬神と朱音ちゃんが……混ざる?」
臙良の口から出た、思いもよらぬ衝撃的な台詞。その言葉を耳にして、応急処置をする皐月の手が一瞬だけ止まった。
「わしら、赫の一族には、代々伝わる犬神がおるのは知っておろう……。それは犬崎の家だけでなく、狗蓼の家も同じことじゃ……」
「それは知っているわ。でも、朱鷺子さんが亡くなった時、その身体に犬神はいなかったんでしょ?」
「その通りじゃ。だからこそ、わしらは朱鷺子の犬神……絶影が、はぐれ神になったと思ったんじゃがな……」
赫の一族に伝わる犬神は、一子相伝のものである。その話は、以前に皐月も臙良の口から聞いたことがあった。
犬神は、犬神筋の家に憑く。本来であれば、その家の当主に使役されるのが普通だが、契約の儀を交わせば当主でなくとも使役できる。また、当主が何らかの事情で亡くなった場合は、その家の次の当主に自然と受け継がれるのである。
しかし、仮に次の継承者が何の修業も受けていなかった場合、その者が犬神を使役することは不可能に近い。犬神の強大な力に翻弄され、最後は狐憑きのようになり発狂してしまう。
だからこそ、生前に朱音の母親である朱鷺子は、朱音のことを臙良と多恵に頼んでいた。もし、自分が亡くなって朱音に絶影が憑くようなことがあれば、それを臙良の方で祓って欲しいと依頼していたのだ。
果たして、朱鷺子が危惧した通り、彼女は娘よりも先に亡くなった。朱鷺子の身体から解き放たれた犬神は、普通であれば朱音の身体に憑いたはずである。しかし、臙良が霊視をした結果、朱音が絶影に憑かれていた様子はまったくなかったのだ。
「あの子は……朱音は、恐ろしい子じゃ……。並み居る赫の一族の中でも、あの子の潜在能力は最高級じゃよ……。それこそ、わしや紅など足元に及ばんくらいにな……」
「そんな……。それじゃあ、朱音ちゃんは……」
「あの子は犬神に憑かれるよりも前に、その力を自分の中に取り込んだのじゃ。己の御霊と犬神を融合させることで……その魂の中に、絶影を隠したんじゃよ……」
自分の魂に他者の魂を融合させる。荒唐無稽な話ではあったが、皐月にも心当たりがないわけではない。
通常、霊魂が肉体に憑依する際の方法は、乗っ取り型と同化型に分けられる。乗っ取り型の場合は死者の魂が生者の肉体を強引に乗っ取るだけのため、相手を祓うことは難しくない。しかし、同化型の場合は、魂のレベルで完全に一つに融合する。
こうなると、もうそこにいるのは生者と死者の境界を乗り越えた存在でしかない。それこそ、人間でも幽霊なく、妖怪と呼んだ方が正しい存在である。
朱音が行ったのは、この同化型憑依の逆だろう。つまり、自分の魂の方を主体とし、相手の魂を己の中に飲み込んだのだ。そして、自らの魂に犬神の力を付与し、生霊となって殺戮を繰り返していたのだろう。
あの朱音が自らを妖怪と化し、四人もの人間を殺して回った。未だ信じられないことだが、そう考えると全ての辻褄が合う。臙良の霊視に引っかからなかったのも、犬神の存在を魂の奥深くに仕舞いこんでいたのであれば、説明はつく。
「とにかく……今は、朱音ちゃんを探しだすことが先決ね。それで、本人はどこへ行ったの?」
「分からぬ。不意をつかれて不覚をとった故、黒影を使って身を守るのが精一杯じゃった」
「だったら、私の方で見つけるわ」
臙良の傷の処置を終えて、皐月は自分の鞄から一つの振り子を取り出した。銀色の鎖の先端に、円錐の形をした錘がついたものだ。
ここは、朱音の部屋である。朱音の持ち物であれば、手に入れるのには苦労しない。当然、それを使って朱音の気を追うことも簡単だ。
ところが、そう思って皐月が振り子を手にした矢先、彼女の手の中で振り子が揺れた。まだ、朱音の気に意識を同調させたわけではない。振り子は、この部屋の中にある何かに反応して回っている。
(これは……死の匂い……?)
直感的に、皐月はそう判断した。この部屋にある死者の無念の思いが、皐月の振り子に過敏に反応している。では、いったいそれは、どこにあるのか。
一通り部屋を見回してみたが、当然のことながら死体など見当たらない。押入れも開けてみたが、中には布団が一式といくつかの衣装ケースがあっただけだ。
ふと、上を見上げると、押入れの戸袋が少しだけ開いているのを見つけた。まさかとは思うが、一応は念のためである。皐月は戸袋を開け、その中に頭を入れてみた。
カビと埃の匂いが鼻をつく以外、戸袋の中にこれといったものはない。しかし、その更に上に目をやった時、皐月は天井板の一部が外れているのに気がついた。
躊躇うことなく、皐月はその穴の中へと身を滑り込ませる。振り子の反応した死の匂いは、間違いなくこの天井裏から発せられていたものだ。
狭く、薄暗い空間を、皐月は這うようにして進んで行った。少し進むと、何やら手に固い物が当たる。拾い上げて見ると、それは使いこまれた懐中電灯だった。
やはり、朱音はここで何かをしていたのだ。拾った懐中電灯をつけてみると、オレンジ色の光が天井裏全体を明るく照らした。
「ちょっと……。なによ、これ……」
そこにあったのは、写真だった。天井裏の一角は、一面がびっしりと写真で覆われている。その写真に写っている者の姿を見て、皐月は再び絶句することになる。
「これ、全部、紅ちゃんじゃない!!」
そこに写っていたのは、全て犬崎紅だった。ほとんどが隠し撮りしたような写真ばかりであり、紅自身は撮られたことにさえ気づいていないはずだろう。その上、写真に他の人間が写っている場合、その顔は無残にもマジックで塗りつぶされていた。相手が女の場合は、顔をライターで焼かれたと思しきものもある。
朱音は紅に好意を抱いていた。傍から見ている皐月にも、そのくらいは分かっていた。が、まさかここまで異常な執着を抱いていたとは、さすがに気づくはずもない。
写真に覆われた一角から、皐月はさらに横へと目を移す。そこには、先の写真の山など問題でないくらいに、目を覆いたくなるようなものがあった。
両手と両足、そして両目と胸にまで五寸釘を打ち込まれた無残な死体。殺されてから時間は経っていないようで、まだ血の色が綺麗だった。手足に打ち込まれた釘により、その身体は天井裏の梁にしっかりと固定されている。
その死体は、野々村萌葱のものだった。両目を潰され、苦痛に歪んだ表情が、その最後が決して楽なものではなかったことを容易に想像させる。
あまりに無残な少女の姿に、皐月は思わず視線を下に落とした。すると、今度はそこに転がっていた、一冊のノートが目に飛び込んで来る。すかさず手を伸ばして中を開くと、それは朱音の日記帳だった。
暗闇の中、懐中電灯の光だけを頼りに、皐月は日記帳のページをめくっていった。日記そのものは随分と前から書かれていたらしく、一番古い日付は今年の四月になっていた。
【四月七日(木)】
今日から私も中学生。
小学校の卒業式で離れ離れになった時は寂しかったけど、これでまた、紅君と一緒の学校に通えるんだ。
今日は、嬉しくてよく眠れないかも。明日から授業も始まるのに、遅刻しちゃったらどうしよう……。
【五月十日(火)】
今日も、こっそり紅君の写真を撮っちゃった。
紅君にもらったカメラ、今は紅君の写真を撮るのに使わせてもらっている。家にいる時は一緒にいられないけど、紅君の写真を眺めて我慢しよう。
【五月二十日(金)】
最近、紅君の周りにつきまとっている人がいる。学級委員の野々村先輩だ。
紅君は何とも思っていないみたいだけど、私は少し不安。紅君が、私から離れていったらどうしよう……。
【八月十五日(月)】
今日は、久しぶりにお母さんと喧嘩をした。私も紅君みたいな力が欲しいって言ったら、物凄く怒られた。
お母さんも紅君のことは嫌いじゃないみたいだけど、お化けとか幽霊の話は苦手みたい。でも、私はもっと紅君の役に立ちたい。私に力があれば、大きくなったら紅君と一緒にお仕事することもできるのに……。
【九月四日(土)】
今日、私にも初めて女の子の日が来た。防空壕で紅君にそれを言ったら、物凄く照れていた。
一緒に写真を撮るときも、紅君、少し固まっていた。でも、私だって、こんなことを言うのは恥ずかしかったんだよ。紅君だから言えたのに……あまり気づいてくれなかったみたい。
【九月六日(月)】
学校の不良が、紅君を呼び出して痛めつけた。紅君は何もしていないのに、本当に酷い。肝試しであいつらを助けたのは紅君なのに、どうしてこんなことができるの!?
私にも、紅君のおじいちゃんみたいな力が欲しい。犬神様がいれば、あいつらに復讐してやることもできるのに……。
【九月七日(火)】
私にも、紅君を助ける力が欲しい。お母さんにそのことを言ったら、やっぱり怒られた。
でも、私は知っているんだ。お母さんが、自分の影に犬神様を隠していることを。だから、階段の踊り場で喧嘩になった時、お母さんを突き飛ばした。
階段から落ちたお母さんは動かなくなっちゃったけど、これも仕方がないよね。だって、いつまでも私に犬神様の力をくれない、お母さんが悪いんだよ。私は紅君を助ける力が欲しい。それだけだったのに……。
お母さんが死んだあと、犬神様が私のところにやってきた。私は犬神様にお願いした。私と一つになって、一緒に悪いやつらをやっつけて下さいって。犬神様は、私のお願いを聞き入れてくれた……。
【九月八日(水)】
今日は、お母さんのお葬式。紅君のおじいちゃんは、私の中に犬神様がいることに気づいていないみたい。たぶん、私と一つになっちゃったから、おじいちゃんにも分からないんだろう。
昨日の夜、紅君の部屋で紅君と一緒に寝た。折角同じ部屋で寝られるのに、別々の布団で寝るなんてつまらない。そう思って紅君の布団にもぐりこんだのに、何もしてくれなかった。ちょっと寂しかったな……。
【九月九日(木)】
昨日の夜、犬神様と一緒に初めて狩りをした。紅君に暴力をふるった不良の一人を、徹底的に脅かして殺してやった。あんなやつ、生きている価値もないって犬神様も言っていた。だから、これは天罰だ。
そして今日、残る不良の内の二人を始末した。屋上のフェンスのネジを外して、そのまま校庭に落としてやった。ざまあみろだ。
残る不良は後一人。今晩、そいつを殺しに行く。紅君に火傷をさせたみたいに、あいつのことも焼いてやる。それこそ、魂の欠片も残さないくらいに……。
【九月十三日(月)】
久しぶりに学校に行ったら、なんだか変な噂が流れていた。どうも、私が殺した不良達を、紅君が呪い殺したってことになっているらしい。
紅君には辛いことだと思うけど、私にとっては都合がいい。これで、紅君に近づく人間は誰もいなくなる。そうすれば、紅君は私だけのものになる……。
【九月十五日(金)】
犬神様が、私の中でどんどん大きくなってゆく。犬神様と一つになって、私が私じゃなくなってゆく。でも、不思議と怖くない。このまま紅君の力になれるなら、それでもいいと思う。
そういえば、あの噂があるにも関わらず、野々村先輩は紅君にべったりだ。紅君を不良から助けるのに力を貸してくれたことには感謝するけど……紅君をあげるなんてことは、誰も言ってないよ。
【九月十六日(土)】
紅君が、遠くに行ってしまう。野々村先輩が、紅君を連れて行ってしまう。
許せない、許せない、許せない、許せない、許せない……。
紅君を迷わせるやつは、みんな殺してやる。私の中の犬神様も、それでいいって言っている。自分の欲しい物は、自分の力で手に入れなくちゃ……。
だから私は、紅君とずっと一緒に暮らすことに決めた。二人だけで、二人の思い出の場所で暮らすんだ。
ずっと、ずっと、ずっと、ずっと、二人だけで……。
日記はそこで終わっていた。最後の日付は今日のこの日である。かなり慌てて、そして昂奮して書いたらしく、終わりの方の字は判読するのも難しいくらい雑に書き殴られていた。おまけにいくつかの血痕も見られ、どうやら目の前の少女を梁に打ちつけながら書いたものだと思われた。
「朱音ちゃん……」
日記帳を握りしめる皐月の手が震えていた。
臙良の言った通り、朱音は犬神と融合していた。特別な修業などせずとも、魂を融合させてしまえば力を行使することも可能だ。
だが、それはあまりに危険な行為。本当の自分を見失い、自分が自分で無くなってしまうことに他ならない。
同化した二つの魂は、相互に影響を与え合う。例え主体が朱音であったとしても、同化が進行するにつれ、その魂は犬神の影響も色濃く受けることになる。
犬神は、元々は呪詛に使われることもある下級の神である。つまりは、悪霊と紙一重の様な存在だ。そんなものと同化すれば、最終的にどうなるか。それは、言うまでもないだろう。
己の欲望を満たすため、手段を選ばぬ行動に出る。朱音の日記を見る限り、それは顕著に現れていた。紅に対する過剰な執着と依存心は最初からあったのだろうが、それがここにきて、犬神の力により加速度的に肥大化したのだ。
「こうしちゃいられないわ……。このままじゃ、紅ちゃんが……」
日記帳を放り捨て、皐月は天井裏を後にする。梁に打ちつけられた少女には申し訳なかったが、今は供養をしている暇はない。
果たして、朱音はどこに消えたのか。その心当たりに関しては、皐月も全くないわけではなかった。
日記帳にあった、二人の思い出の場所。幼き日に、紅と朱音がよく出かけていた場所が一つだけある。
「臙良さん。闇薙を……お借りしますね」
朱音の部屋に戻り、皐月は臙良の側に転がっていた刀を拾い上げた。そして、後のことを多恵に任せると、風のように狗蓼の家を飛び出した。