~ 四ノ刻 影潜 ~
不幸な出来事というものは連鎖する。その当事者達の意思とは関係なく、時に人の運命を翻弄するかのように、重ねて降りかかるものである。
犬崎紅が狗蓼朱音の母親の訃報を知ったのは、彼が田所達に暴行を加えられた、その翌日のことだった。
その日の晩、紅の家に入った一本の電話。内容は、朱音の母が亡くなったというものだった。対応したのは祖母だったが、その話は直ぐに紅の耳にも入ることとなった。なんでも、階段から足を滑らせて転落し、そのまま帰らぬ人となってしまったとのことである。
紅の知る限り、朱音の家は母子家庭だ。親戚は犬崎の家以外になく、祖父母も既に他界していると聞いていた。
まったくもって、やるせない。そう思ったところで、紅にはどうしてやることもできなかった。
運命の女神という者がいるのであれば、紅は真っ先にその相手を呪っていただろう。彼女は自分の気まぐれから、時として不幸の渦中にいる人物を奈落の底まで叩き落とすような真似を平気でする。こんな時に、何故に朱音が家族を奪われなければならないのか。どれほど考えたところで、納得のいく理由など見つかりはしない。
ここで考えていても仕方ない。そう思った紅は、祖母の多恵の声に呼ばれるままに、席を立って外へ出た。玄関まで行くと、そこには多恵に連れられた朱音の姿があった。
身寄りのいない朱音にとって、母の死は即ち彼女の家庭が失われたことを意味している。他に行く宛てもない朱音にとって、紅の家は彼女を受け入れてくれる唯一の場所だった。
「朱音……」
名前を呼んだが、返事は返ってこなかった。やはり、母の死に動揺しているのだろうか。紅を前にしても、朱音はいつもの笑顔を見せようとはしない。
多恵に促され、朱音は軽く一礼して犬崎邸の扉をくぐる。そんな彼女の姿を、紅はただ見ていることしかできなかった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
その日は、秋にしては妙に蒸し暑い夜だった。
自室の布団で横になりながら、紅はふと、隣の部屋で寝ている朱音のことを考えた。
あの後、自分は朱音に満足な言葉さえかけてやることもできなかった。何を言っても気休めにしかならないということは分かっていたが、それでもあまりに冷た過ぎはしなかったか。
確かに、人を気づかったり慰めたりすることは、自分の苦手としていることだ。しかし、屋上で田所達に捕まった時、朱音は己の身を顧みずにこちらを助けてくれた。
そんな朱音に対し、いざという時に限って、自分は何もできていない。あの時、屋上で田所達に言った言葉さえも、今では単なる強がりのように思えて仕方がない。
暗がりの中、ぼんやりと考えながら天井を見つめる紅。明日、朱音に謝ろうとも思ったが、溜息と共にその考えは打ち消された。
(馬鹿だな、俺は……。朱音に謝るとして……その時は、どんな言葉をかけてやればいい……)
謝罪とは、相手がこちらの罪を認識しているからこそ意味がある。では、朱音は紅の取った行動を、果たして罪と思っているのだろうか。
自分は確かに、朱音に対して気の利いた言葉の一つもかけてやれなかった。だが、朱音がそんなことで腹を立てるような人間でないことは、紅がなによりも良く知っている。
こちらが謝ったところで、逆に妙な気づかいをさせるだけだ。そんな朱音の性格を知っているだけに、単に形だけの謝罪を述べて済ませるのも気が引けた。
どうにも、考えがまとまらない。それは、この蒸し暑さから来る寝苦しさが原因なのか、それとも他に何か理由があるのか。
先ほどから、同じような考えが頭の中を回っている。気持ちを静めるようにして、紅は意味もなく寝返りを打った。部屋の入口である襖に背を向けて、悶々とした気持ちのまま赤い目を開く。
こんなことは、考えるだけ馬鹿馬鹿しい。全ては明日、朱音の様子を見てから決めればいいことだ。
考えをまとめるというよりは、強引に悩みを断ち切ったと言った方が正しかった。果たして何が正解なのか、それは紅にも分からない。今はただ、早く寝てしまおうという気持ちだけが頭の中を占めていた。
再び、蒸し暑い部屋の空気が圧し掛かるようにして紅を包む。やはり、今日は寝苦しい。秋に鳴ったからといって、掛け布団まで押入れの中から引っ張り出したのは早かったか。そう、紅が思った時だった。
何かが擦れるような音がして、部屋の中に廊下の空気が流れ込んで来た。紅の家は古い作りだったが、隙間風が入るようなおんぼろではない。だとすれば、この背中に当たる冷気の正体は何だろうか。
答えなど、紅には当に分かっていた。誰かが部屋の襖を開け、中に入って来たのだ。それ以外に、思いつく理由などありはしない。
「誰だ……」
深夜の来訪者に、紅は警戒した様子で尋ねた。まさかとは思うが、泥棒ということはないだろう。犬崎の家は確かに広かったが、ここには盗むような価値のあるものなど何もない。それどころか、下手に手を出せば盗んだ者が呪われるような、曰くつきの品々まである。
暗闇の中、紅の赤い瞳が大きく広がった。日中は力を発揮できない彼の目は、暗闇の中でこそ真の力を発揮する。光など一切なくとも、辺りの様子が手に取るように分かるのである。それこそ、まるで猫の目のように、闇の中を見通すことが可能だった。
襖を開け、自分の部屋に入って来た者は誰なのか。つい、よくない想像をしてしまい、紅の拳には無意識の内に力が入っていた。が、自分の前にいる人物が誰なのかが分かると、その瞳は途端に緊張の色を失ってゆく。
「なんだ、朱音か……。どうした、こんな夜に?」
紅の部屋を訪れて来たのは朱音だった。今は、寝衣の代わりに青い浴衣をまとっている。荷物の殆どは家に置いてきたようだったので、恐らくは多恵が貸したのだろう。
「ごめんね、紅君。起こしちゃったかな?」
朱音が紅の隣に腰を下ろして言った。
上から顔を覗き込むようにされると、どうにも居心地が悪い。たまらず紅も、布団を剥いで身体を起こす。
「いや、大丈夫だ。今日は、ちょっと寝苦しかったからな。正直、今も目が冴えてしょうがない」
「そうなんだ。実は、私もなんだよね。私、枕が変わると、あまりよく眠れなくて……」
「なるほどな。まあ、慣れるまで少しの辛抱だ。それまでは、ちょっと辛いかもしれないが」
「うん。でも、別にそれは構わないんだけどね。ただ……」
突然、朱音が口籠った。視線を下に落とし、浴衣の裾をぎゅっと握って俯いている。
「さっき……ちょっと、怖い夢を見たの……。だから、紅君が一緒に寝てくれたらって……そう思って……」
「なっ……!?」
暗闇の中、朱音の口から唐突に発せられた言葉。その、あまりに突然な申し出に、さすがの紅もしばし言葉を失ってしまった。
朱音とは、確かに一緒に寝たことがないわけではない。しかし、それとて小学校に上がったばかりの頃の話である。
「お前……本気で言ってるのか?」
「うん。駄目……かな?」
朱音が上目づかいに紅を見て言った。その赤い瞳で縋るようにして見つめられると、それだけで断れなくなってしまう自分がいる。いつもであれば、何の意識もせずに言葉を返せるはずなのに、今日に限って頭が回らない。
このまま待っていても、朱音は自分の部屋に戻ることはないだろう。かといって、追い返すというのも気が引けた。
仕方なく、紅は布団の上に立ち上がって部屋の灯りをつける。押入れの襖を開け、中から予備の布団を引っ張り出した。自分の布団の横に、並べるようにしてそれを敷く。
「ほら、お前の分の布団だ。今日は隣で寝てやるが……明日からは、一人で寝ろよ」
考えられる限りでの、精一杯の対応だった。
朱音が布団に入ったことを確認し、紅は再び部屋の灯りを消した。自分も布団に戻ったが、やはりどうにも落ち着かない。隣で寝ている朱音からできるだけ距離を取るようにして、紅は布団の隅で毛布を被って丸くなっていた。
幼い頃から、朱音は常に自分の近くにいる存在だった。だからこそ、特にこれといって、特別な感情を抱いてきたわけではなかった。
自分と同じ血の定めを持ち、その容姿故に外の世界から好奇の目に晒される。家族は母親のみで、身体も弱く、頼れる者もほとんどいない。そんな朱音を守ってやるのが、自分の役割だと考えていた。
朱音とは、あくまで親戚であり幼馴染である関係。それ以上でも、それ以下でもない。今まではそう考えていたが、果たして自分は今この時も、そのように言いきることができるだろうか。
中学に上がり、こと最近になってからは、朱音は大きく成長した。一年前は小学生だったことが嘘のように、背も伸び、体つきも少しだけだが女らしくなった。
数日前、秘密基地に使っていた防空壕の中で、朱音が告げた言葉が蘇る。それを思い出した瞬間に、自分の顔が赤くなっているのが嫌でも分かった。
あの日、彼女は自分に向かって、本当の意味で女の子になったと伝えた。あれはいったい、どういう意図があったのだろうか。確かに自分は幼い頃から朱音の兄的存在として振舞ってきたが、さすがにあれは理解の範疇を越えていた。
(何を考えているんだ、俺は……。朱音は……妹みたいなもんだろ……。昔も、今も、そうだったはずだ……)
そう、紅が考えた時だった。
布団の捲れる音がして、部屋の空気が背中に一瞬だけ触れた。同時に、自分の布団の中に、何かがそっと入り込んで来るのが分かった。
「あ、朱音……!?」
後ろを振り返ることなど、できはしなかった。自分の背中の向こうには、間違いなく朱音がいる。身体を少し動かしただけで触れてしまえるほど近く、紙一枚ほどの隔たりしかない距離に、朱音の身体があるのだ。
闇の中、自分の心臓の音だけが妙にはっきりと聞こえた。自分の耳にしか響いていないとは知りつつも、朱音にも聞こえているのではないかと思うと気が気でない。
やはり、布団と布団の間を離しておくべきだったか。そう思っても、最早後の祭りだった。少しでも身体を動かすと朱音にぶつかりそうになるため、寝返りはおろか、腕も足も満足に動かせない。指一本でも動かした途端、それが朱音の肌に触れてしまいそうで怖かった。
十分、二十分、そして三十分。どれほどの時間が経過しただろうか。
しばらくすると、自分のすぐ隣から、軽い寝息が聞こえてきた。ようやく眠ってくれたのか。そう思い、紅もほっと胸を撫で下ろして仰向けになった。ずっと同じ姿勢で固まっていたためか、首の筋が妙に張っている気がしてならない。
何気なく横に目をやると、そこでは朱音があどけない表情で眠っていた。その顔だけ見れば、いつも学校で見ている朱音の顔と大差はない。
さすがに、妙な心配をし過ぎたか。母親が急に亡くなり、朱音は不安だったのだろう。だからこそ、こうして自分に甘えて来た。それ以上でも、それ以下でもない。
今まで妙に朱音を意識していたことが、急に馬鹿馬鹿しくなってきた。同時に、あれこれと疾しいことまで想像してしまった自分が情けなくなってくる。
だが、そんな考えは、朱音の胸元に目を下ろした瞬間、即座に吹き飛んだ。
部屋の蒸し暑さに耐えかねてか、朱音は胸から上の部分を布団からさらけ出していた。浴衣の胸元が少しだけ乱れ、そこから白い肌が覗いて見える。決して大きくはない胸が、朱音の呼吸に合わせて小さく上下しているのも見て取れた。
最早、眠気は完全に消え去っていた。これ以上一緒にいては、妙な間違いが起きないとも限らない。そんなことになったら、それこそ取り返しのつかない一大事だ。
朱音を起こさないように気をつけながら、紅はそっと布団から抜け出した。そのまま音を立てないように注意しつつ、襖を開けて部屋を出る。一度、外の空気を吸って頭を冷やさねば、おかしくなってしまいそうだった。
部屋と違い、夜の廊下はいくらか涼しかった。板張りの床が、歩くたびに指先に張り付いて来るような感覚を覚える。田所達に焼かれた足の傷が、少しだけすれて軽い痛みを覚えた。
旧校舎の肝試しから始まった、幽霊退治の騒動。そして、最近になって妙にこちらに意識させるような態度を取る朱音と、田所達の理不尽な暴行。更に、このタイミングで訪れた、朱音の母親の死。
ほんの数日の間に、あまりに多くのことが起き過ぎた。一度、本格的に頭の中身を整理しないといけないだろう。
そう思って顔を上げると、何やら廊下の向こうに一筋の明かりが見えた。それは茶の間から出ているようで、紅は思わず足音を忍ばせ、その明かりに近づいて行った。
こんな時間に茶の間にいるとは、いったい誰だろう。まだ、祖父や祖母が起きているとでも言うのだろうか。朱音の母の通夜は明日のはずだというのに、どうにも様子が変だ。
隙間から明かりの漏れている襖に近づくと、紅は物音を立てないように注意しながら、そっと聞き耳を立ててみた。果たして、彼の予想は正しく、中から聞こえてきたのは臙良と多恵の声だ。ただし、いつもの二人の声とは少し違い、何やら深刻な雰囲気ではあるが。
「のう、臙良。あの娘の……朱音のことだがね」
「分かっておる。既に、わしの方で霊視はしておいた」
「それは手が早いのう。で、結果はどうじゃった?」
「残念ながら、白じゃったな。あの娘に絶影が憑いている様子はない」
話の内容は分からなかったが、何やら朱音についてのことを話しているということだけは紅にも分かった。どうにも続きが気になって、紅は更に襖に耳を近づける。
「わしの見立てでは、あれははぐれ神になったと思うておる。朱鷺子の身体はもちろん、朱音の身体にも憑いている気配がないのだからのう」
「お主の黒影のように、影に潜っているということは考えられんのか?」
「それはない。影潜りの術は、訓練なしに使えるものではないからな。それに、仮に憑かれていた場合、もっと表面的な部分に影響が現れる。今の朱音の様子を見る限り、心配はなかろうて」
「まあ、お主がそう言うのであれば、大丈夫じゃろう。もっとも、はぐれ神になった絶影が、あの娘を狙わんとも限らんぞ」
「それも分かっておるよ。当分は、わしと黒影で村の見回りをせねばならんな……」
襖の向こうで、臙良が立ち上がる音が聞こえた。こちらに向かって来ることが分かり、紅は慌ててその場を去る。足音を立てないように注意しつつ、廊下を曲がったところにある物陰に身を隠した。
茶の間の方から、二つの足音が徐々に遠ざかって行くのが聞こえて来る。臙良と多恵は、どうやら紅のことに気づいていないようだった。
はぐれ神、影潜り、そして黒影。どれも、紅が一度は聞いたことのある言葉である。
黒影というのは、犬崎家に古来より伝わる犬神の名前だ。今は臙良が使役しているが、いずれは紅もそれを引き継ぐことになると言われていた。絶影という名は聞いたことがなかったが、恐らくはそれも、黒影のような犬神に違いない。
犬神は、使役する者の影に潜む。影潜りというのは、犬神が術者の影と一つになるための術を指す。術者の影と一体化することにより、その術者は犬神に憑かれることなく彼らを己の側に置き、更には自由に使役することができるのである。
もっとも、それを行うには、術者が犬神を完全に己の支配下に置かねばならない。外法使いとして、そして退魔師として長年仕事をしてきた臙良であればともかく、朱音はもとより、今の紅にさえ使えない高度な技だ。
そして、臙良が繰り返し口にしていたはぐれ神という言葉。これに関しては、まだ退魔師として半人前の紅でさえ、その危険性について十分に教わっていた。
はぐれ神。それは、祀られる社や使役する術者を失って、完全に己の意思だけで行動するようになった神である。
通常、そのような神は下級の神であることが多く、その殆どが己の本能によってのみ行動する。中には完全に祟り神と化してしまうものもあり、そういった類の神性は、もはや悪霊と大差はない。存在するだけで周囲に祟りを撒き散らす、極めて危険な存在なのだ。
臙良と多恵が何を話していたのかは、紅にも完全に分からなかった。しかし、自分達の身の回りで、何やら良くないことが起きているということだけは、辛うじて理解することができた。
多恵の言葉に合った、はぐれ神が朱音を狙うかもしれないという話。そして、いつもであれば仕事の依頼を受けない限り動かない臙良が、自ら夜の見回りを申し出たという事実。これらのことから考えて、朱音の身に危険が迫っている可能性は否定できない。
朱音に危険が迫っているのであれば、自分はその危険から朱音を守らねばならない。否、守らねばならないのではなく、守ってやりたいと言った方が正しいか。残念ながら、臙良のような力は今の自分にはないが、それでも何かできることがあるはずだ。
「今の俺に、できることか……」
はぐれ神のような、強大な霊と戦うための力は自分にはない。ならば、朱音のために出来ることは何なのか。その答えは、当に出ているはずだった。
母を亡くし、頼りになる者は紅だけとなってしまった朱音。そんな彼女のために、自分は少しでも心の拠り所となってやればよいのではないか。
何の解決にもならない、偽善的な自己満足だとは分かっていた。しかし、今の自分に出来ることを考えた時、紅には他に何か良い手が思いつきそうにもなかった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
翌日、朱音の母である狗蓼朱鷺子の通夜は、しめやかに行われた。
通夜といっても、犬崎や狗蓼の家は仏門に入っているわけではない。彼ら、赫の一族は、どちらかと言えば神道の系列に近い存在である。そのため、朱鷺子の通夜には僧侶さえも呼ばれず、身内だけで取り行われた。
それは、まるで密葬のような通夜だった。参列者は、赫の一族に関わる極僅かな人間のみ。犬崎家の人間と朱音、それに、仕事で土師見村を訪れていた皐月だけだ。儀式は臙良が中心となって取り行い、極めて短い時間で済まされた。
最後に、棺に入れられた朱鷺子の遺体は、赫の一族ゆかりの地へと運ばれた。山の中にある小さな石造りの建物に、遺体の入った棺桶を安置したところで通夜は終わりだった。
本葬が終わってもいないのに、遺体の入った棺を特殊な建物の中に安置する。傍から見れば奇妙なことではあったが、これは赫の一族に代々伝わる葬儀の儀式であった。
殯。古来、日本で行われていた、最も古い形の葬儀儀礼の一つである。
死者の遺体を殯宮と呼ばれる特殊な場所に、本葬までのかなり長い期間に渡り安置する。そして、死者との別れを惜しみ、同時にその魂を慰めつつも、最後には時間と共に代わり果ててゆく死者の姿を見て、死という事実を受け入れる。
遺体を安置する期間は一年とも三年とも言われているが、さすがに現代において、そこまで長期に渡り遺体を埋葬せずに安置することは不可能だった。赫の一族の殯に関しても、それは同様である。
数日の間、一族の者が交代で殯宮を訪れ、その後は棺を土葬に処す。期間こそ短縮されているものの、最低限の埋葬方法は昔から変わらぬままだった。
通夜を終え、紅と朱音は再び犬崎邸へと戻って来た。臙良は、今日は儀式の関係で、殯宮に残っている。死者の魂を慰めるためには、殯宮で夜通し死者に付き添わねばならないからだ。
家に帰るまでの間、朱音は始終無言だった。それは帰宅してからも変わりなく、紅だけでなく多恵でさえも、声をかけるのが憚られるほどだった。
「なあ、朱音……。その……大丈夫か?」
家に帰っても沈んだ表情のままの朱音に、紅がその顔色を窺うようにして尋ねた。もう少し、何か気の利いた言葉でもかけられればと思ったが、それ以外には何も言葉が浮かばなかった。
「私なら平気だよ、紅君。ただ、今日はちょっと、疲れただけだから……」
「無理はするな。辛い時や苦しい時は、思い切り泣いた方がいいこともある。もっとも、それで俺が、お前に何かしてやれるわけじゃないがな……」
「そ、そんなことないよ! 私、紅君にいっつも心配かけてばかりだし……。こうして一緒にいてくれるだけでも、私は十分だよ!!」
泣かれると思った紅だったが、朱音は泣かなかった。その代わり、今まで項垂れていた首を上げて、紅に懇願するような瞳を向けて来た。
それは、朱音の本心なのか、それとも単に強がっているだけなのか。その真意は、紅には分からない。
だが、普通に考えた場合、母親の死という現実は極めて重たいものである。その現実に押しつぶされないようにするために、朱音はあえて弱い部分を見せないようにしている。少なくとも、紅の目にはそう映った。
どちらにせよ、今の朱音が頼りにしているのは自分だけだ。そう思った紅は、何も言わずに朱音の横へ移動して腰を下ろした。壁によりかかるようにして座ると、肩に軽い重みがかかってくる。どうやら、朱音がこちらに体重を預けてきたらしい。
しばらくすると、朱音は軽い寝息を立てながら、紅の横で眠り始めた。疲れているというのは本当のようで、紅が肩を少し揺すったくらいでは、まったく目を覚まそうとしない。
しばらく寝顔を覗きこんでいた紅だったが、昨晩のように朱音を意識してしまうようなことはなかった。今の紅にはそれ以上に、臙良と多恵の話していたことが気がかりだった。
臙良の話にあった、はぐれ神。それが朱音を狙っていたとしても、自分には彼女を守る術など無い。
退魔師としての修業を受けながらも、肝心な時に力不足な自分の現状。そんな自分に、紅は苛立ちともどかしさを抱かずにはいられなかった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
夜の帳が降りた土師見村は、昼の喧騒が嘘のように静まり返っていた。昼間は人で賑わっている駅の周りも、今は人の影さえない。その日の電車はとっくに運行を終えており、駅前の商店も軒並み暖簾を下ろしていた。
宵闇に包まれた、人気のない夜の大通り。こんな夜更けに出歩く者は、普通に考えれば誰もいないはずだ。
ところが、その日に限り、大通りには人目を憚って動くような一つの影があった。
柏木辰巳。あの、田所隆二の仲間の一人で、執拗なまでに残酷な遊びを好む少年だ。その態度はどこか人を食ったようなところがあり、時に先輩である権田や澤井でさえも顔をしかめるような行動を平気でする。
柏木が夜に出歩くのは、何も今に始まったことではなかった。昼間と違い、夜は柏木にとっていろいろと動きやすい時間帯である。別に、人の目など気にして生きてはいなかったが、誰かに自分の行動を邪魔されるのは気に入らなかった。
例えば、煙草を一つ買うにしても、中学生である自分に昼日中から煙草を売るような者はいないだろう。自動販売機も同様で、下手に買っているところを見つかって、大人達にあれこれと言われるのは鬱陶しい。
その点、夜というのはとても便利な時間帯だ。こんな田舎の自動販売機には、当然のことながら年齢認証を要する仕組みも導入されていない。周りに大人もおらず、買ったその場で堂々と煙草を吸うことができる。
また、その一方で、夜は柏木の趣味を満喫するのにも都合が良い時間帯だった。
幼い頃から柏木は、自分より小さな生き物を虐めて殺すのが好きだった。昆虫を捕え、意味もなく羽や足をもぎ取るようなことは普通にやってきたし、その辺の池や田んぼにいるカエルやフナに石をぶつけて殺すこともあった。
最近になってから、そんな柏木の遊びは更にエスカレートの一途をたどっていた。あぜ道で見つけた蛇の腹をナイフで裂く。道端で見かけた野良猫を捕まえ、動かなくなるまで殴る蹴るの暴行を加える。そうして小さな命を奪っている時が、柏木にとって何よりも楽しい時間だった。
目の前にいる生き物の生殺与奪権は、全て自分に握られている。どれほど相手が生きたいと望んだところで、それを決めるのは相手ではなく自分自身。こちらの気まぐれで、生きるも死ぬも簡単に操ることができてしまうという征服感。小動物を虐めている時だけが、柏木にとって、その快感を存分に堪能することのできる時間である。
その日も柏木は、自分の欲求を満たすための獲物を探して彷徨っていた。この時間、村の目ぼしい通りを歩いていれば、野良猫の一匹や二匹を見つけることは造作もない。片手には得物である金属バットを持ち、先ほど買った煙草をくわえながら道を歩く。
(さて……。今日の獲物は、どの辺りにいるのかな?)
バットで犬や猫を殴った時の、あの柔らかいものが潰れるような感触。それを想像するだけで、たまらず片手が震えてきてしまう。カエルやヘビのような小物ではなく、今日の狩りは久々に大物を仕留めたい気分だ。
しかし、そんな柏木の気持ちとは裏腹に、その日は猫の子一匹にさえ出会うことがなかった。こんな日に限って、連中は物陰でじっと身を潜めているのだろうか。
秋にしては、やけにじっとりと湿った空気が辺りを覆っていた。
腹の奥からこみ上げて来る苛立ちを抑えきれず、柏木はバットの先で地面をゴツゴツと叩きながら歩いてゆく。金属がコンクリートにぶつかる音だけが、自分の耳を刺激する。
駅前から離れ、田んぼのあぜ道を横目に、柏木はバス停へと続く細い県道へとやって来た。左右を森と林に囲まれた、昼間でも静かな場所である。この辺りまで来れば、猫だけだなく、なにかしらの生き物に出会える可能性はあった。
それにしても、今日はやたらと蒸し暑い。空気さえもが蒸されて淀んでいるような気がしてしまい、それが柏木の苛立ちを更に助長させた。
なんでもいい。とりあえず、獲物を狩ってすっきりしたい。そんなことを考えながら、柏木は県道を歩いてゆく。服と服の間に溜まっている空気が暑苦しく、時折、胸元を引っ張っては、空いている方の手で中を仰ぐ。
あれから、どれくらい歩いたのだろうか。
結局、今日は手ごろな獲物に一匹も出会うことはなかった。県道はまだ伸びていたが、これ以上進んでは本格的に山の中に入ってしまう。いくら狩りをしたくとも、わざわざ夜の山の中にまで足を踏み入れて行こうとは思わない。
「ちっ……。今日はついてないな……」
バットを肩に担ぎ、柏木は悪態をこぼした。これ以上は、獲物を探しまわっても無駄だろう。不本意ではあるが、今日はこの辺りで引き上げるしかなさそうだ。
――――ヒタ……。
突然、柏木の後ろから、何かが近づいて来るような足音がした。思わず振り返って後ろを見るが、そこには何の姿もない。
「なんだ、気のせいか……」
別段、恐怖というものは感じていなかった。こんな夜に、田舎の県道を歩いているのは獣くらいのものだ。もしも目の前に現われたならば、狩りの獲物として扱うくらいの考えしかない。
何もいないことを確認し、夜道を歩き出す柏木。だが、彼が歩き出した途端、先ほどの足音が再び聞こえてきた。
――――ヒタ……ヒタ……ヒタ……。
こちらの歩調に合わせるようにして、足音は徐々に柏木との距離を詰めて来る。足を止めて後ろを見るが、やはり何もいない。あるのはただ、左右に広がる林と闇の中に伸びる道だけだ。
突然、木々の梢を圧し折るような音がして、生温かい風が吹き抜けた。雲に覆われていた月が顔を出し、青白い光が夜道を照らす。
――――ヒタ……ヒタ……ヒタ……ヒタ……
今度は、足音が止まることはなかった。いつしか柏木は、バットを持っている自分の手が汗で濡れているのに気がついた。
自分は何も恐れてはいない。例え何かが現れたとて、それは狩りの獲物に過ぎないはずだ。
ならば、この全身を覆う不安と不快感はなんだろうか。まるで、闇の中から何者かが、こちらの様子を窺っているかのようだ。全身を舐めるようにして見つめられているのが、今の柏木にもはっきりと分かった。
「ったく……。なんだってんだよ、いったい……」
恐怖と苛立ちが入り混じり、柏木の頭は既に冷静な判断力を失っていた。手にしたバットを強く握ると、そのまま後ろを振り返って頭の上で構える。次に現れるものがなんであれ、そのままバットを叩きつけて壊してしまおうと考えた。
ところが、そんな柏木をあざ笑うかのようにして、彼の目の前には何の姿もなかった。一瞬、拍子抜けしてしまう柏木だったが、すぐに妙な違和感を覚えてバットを構え直す。
月明かりに照らされた、林に囲まれた一本の県道。そこにあるのは、自分の影と木々の影。それだけならば、何の変哲もない夜道の風景だ。
そんな影の間を縫うようにして、柏木はこちらに迫って来る異質なものの存在を目の当たりにした。
「な、なんだよ、あれ……」
それは、紛れもない影だった。大柄な、犬とも狼とも取れる四足の獣。ヒタヒタという足音と共に、それは少しずつ自分の方へと近づいて来る。そして、そんな影の本体となる物は、柏木の目には映っていなかった。
月夜の晩、獣の姿をした影だけが、足音を立ててこちらに迫る。その、あまりに奇妙な光景に、柏木は次に自分が何をすれば良いのかさえも分からなかった。
影が、柏木との距離を更に詰める。足音が徐々に大きくなり、最後は柏木自身の影と重なる程にまで近づいた。
次の瞬間、柏木の首に鋭い痛みが走った。思わずバットを取り落とし、両手で首を押さえる。
下に目をやると、獣の影が自分の影に咬みついていた。相変わらず、獣の本体は見えないものの、影だけはしっかりと柏木の影に食らいついている。
喉の奥に牙が突き刺さり、そのまま肉を千切られているような痛みを感じた。呼吸することさえも苦しくなり、柏木は喉をかきむしるようにして地面を転げまわる。両手をバタつかせ、落としたバットを拾おうと懸命にもがいた。
あの影は、いったい何なのだろうか。そんなことは、今の柏木にとってはどうでもよかった。ただ、この状況から逃げ出さねばならない。一心にそれだけを考えて、なんとか落としたバットを拾い上げる。
「くそっ……! こ、こいつ……!!」
武器を取り戻したことで、柏木の中の恐怖心が僅かだが薄れた。獣の影は相変わらずこちらの影に食らいついていたが、いつまでも好きにさせるつもりはない。
相手の正体など、もはや二の次だった。獣の影に向け、柏木は手にしたバットを勢いよく投げつける。ガラン、という金属が地面にぶつかる音がして、バットは影に命中した。
「はぁ……はぁ……」
首筋を庇うようにして押さえ、柏木は肩で息をしながら立ち上がった。首筋には、まだ何かに噛みつかれたような痛みが残っている。そればかりでなく、首から肩にかけての部分は、その一部が既に感覚を失っていた。
あの影は、いったい何だったのか。なぜ、自分が襲われなければならないのか。その答えを柏木が出す前に、影は次の動きに出た。
獣の影が、まるで道から這い上がるかのようにして起き上がった。一瞬、大地が盛り上がったかのように見えたが、それは影が膨らんで黒い塊となったものだった。
どろどろした流動的な塊となって、影は徐々にその形をはっきりとさせてきた。四肢が伸び、赤銅色の目を輝かせ、大きく開いた口から白銀の牙をむき出しにする。その身体は液体とも気体ともつかない物だったが、それは四本の脚を持ち、しっかりと大地に立っていた。
黒い、虎ほどの大きさもある巨大な獣。犬とも狼とも取れるその顔には、激しい敵意が見て取れる。
既に、影の正体などは問題ではなかった。放り投げたバットを拾うことさえもせずに、柏木は一目散にその場から逃げ出した。
自分は、見てはならないものを見てしまった。あれは、生きている人間の世界に住むものではない。もっと邪悪で恐ろしく、それでいて得体の知れない存在。自分の常識を越えた、決して出会ってはいけないものだ。
相手の正体は分からなかったが、本能が危険を告げていた。今は、とにかくあの影から逃げねばならない。人間の敵う相手ではないということは、あの燃えるような瞳を見ただけでも分かるだろう。
左右に広がる林には目もくれず、柏木はひたすらに県道を走った。後ろを振り返る余裕などはない。振り向けば、その瞬間に鋭利なナイフのような牙が自分の首に突き立てられる。そう考えてしまうと、もう駄目だった。
「ひぃ……ひぃ……」
息を切らし、脚を絡めそうになりながらも、柏木は走った。バス停は当に通り過ぎ、自分でもどこを走っているのか分からない。
気がつくと、柏木は県道を抜けた先の分かれ道に出ていた。頭の上では街灯が、夜の闇の中で薄ぼんやりと輝いている。光に連れられて来た虫たちが、本能に導かれるままに街灯へ体当たりを繰り返していた。
ここまでくれば、大丈夫だろう。幸いにして、あのヒタヒタという足音も聞こえてこない。
ほっと安堵のため息をつき、柏木は街灯に寄り掛かるようにして下を見た。薄明かりの中、あるのは自分と街灯の支柱の影だけだ。辺りを見回してみても、あの奇妙な獣の影は見当たらない。そう、柏木が思った時だった。
「う、うわぁぁぁっ!!」
街灯の明かりに照らされてできた、自分自身の影。その影に目をやった瞬間、柏木は恐怖のあまり、とうとうその場にへたり込んでしまった。
自分の影と目が合った。おかしな言い方かもしれないが、この場合はそれ以外に表現する方法が見当たらなかった。
柏木の足元から伸びた自分自身の影が、まっすぐにこちらを見つめていた。本来であれば目のある部分には、赤銅色の鋭い瞳が輝いている。
柏木の影が、音もなくぬうっと伸びた。そして、そのままゆっくりと起き上がり、影は再び先の獣の姿を形作ってゆく。
なんということだ。自分は逃げられたと思っていたが、そもそも最初から逃げ道などなかったのだ。あの獣は、柏木自身の影に潜み、ずっと機会を窺っていた。こちらがどれほど走ったところで、逃げきれるようなものではない。
獣の姿となった影が、低い唸り声を上げながら柏木をにらんだ。黒一色の身体の中で、瞳と牙の色だけが妙に冴えて見える。
「ぎゃぁっ!!」
獣の牙が柏木の首に食い込み、悲鳴が夜道に響き渡った。黒い身体の獣は、そのまま柏木の身体をずるずると引きずって行く。
腕を咬まれ、脚を咬まれ、最後には両耳をかじられるような形で頭を咬まれた。しかし、その一撃が致命傷になることは決してない。
獣は、柏木の身体を使って遊んでいた。子猫が虫にじゃれつき、子犬が玩具を振り回すように、ただ柏木の身体を蹂躙し続けた。
獣に咬みつかれる度に、身体の感覚が少しずつ失われてゆく。激しい痛みを伴ってはいたが、不思議と血は流れていない。肉を抉られ、皮を引き裂かれる感じがしたが、ある一点を通り越すと、痛みは無感覚へと変わっていった。
いつの間にか、柏木は狩る側から狩られる側へと変わっていた。絶対的な力の差を見せつけられて、玩具のように肉体を弄ばれる。自ら経験することで、柏木は初めて己のしてきた行いに恐怖した。もっとも、今になって悔いたところで、全ては後の祭りであったが。
もう、両手と両脚の感覚は完全に失われていた。大地に大の字になって転がったまま、成されるがままに空を仰いでいる。
黒い影の獣が、自分の上にのしかかって来た。このまま、最後は首を咬み千切られて死ぬのだろうか。思わず身体を強張らせようとしたが、手足に力が入らず、それさえも叶わない。
獣の鼻面が、徐々に自分の顔に近づいて来る。その口から吐き出される息が、柏木の鼻腔を刺激した。あまりの生臭さに、息がつまり吐き気を催してしまう。
獣の身体がぐにゃりと揺れた。その身体は徐々に黒い塊となり、柏木の頭の上をふわふわと浮いている。
それは、あまりに奇妙な光景だった。
夜空に輝く黄色い月の横に、黒い月が浮いている。黒い球状の塊となった獣は、その中心に赤銅色の瞳だけを残している。
次の瞬間、黒い塊が溶けるようにして霧と化し、柏木の鼻と口の中に滑り込んできた。べっとりとした、粘性の高い液体のようなものが、物凄い勢いで体内に入り込んで来る。こちらの呼吸さえも無視して口と鼻を犯され、思わず目に涙が浮かんできた。
既に、手足を動かすことは叶わない。抗うことさえも許されず、柏木は流れるままに黒い煙を体内へと受け入れる他になかった。
身体の中で、なにやら熱い物が暴れまわっているのが分かる。腹や胸に激しい痛みが走ったが、もはや叫び声を出すことさえもできない。
気がつくと、自分の瞳からは赤い涙が流れていた。眼球を、誰かの手で直接握られているような痛みが走る。そして、喉の奥から生臭い液体が這い上がって来るのを感じた途端、唐突に視界が遮られた。
ごぼっ、という嫌な音がして、柏木の口から赤黒い液体が吐き出される。その瞳は既に真っ赤に染まり、眼球であったはずの物は既に無い。瞳があった場所には抉られたような大きな穴が二つ開き、やはり赤黒い液体を噴水のように垂れ流していた。
四肢の感覚を奪われ、身体の奥に焼けつくような痛みを感じる。光さえも奪われ、声を出すことも息をすることも叶わない。
生温かく、それでいて鉄のような味が口内に広がって行く。それが自分の血の味だと分かった時、柏木の意識はそこで途切れた。