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~ 参ノ刻   逆恨 ~

 土曜日の午後というものは、紅にとっては得てして暇なものだった。


 県立の中学に通っている紅には、当然のことながら土日は休みである。朝、祖父から言いつけられている修業を一通り終えたところで、待っているのは至極退屈な日常だ。


 学校の宿題なども、紅にとって然したる問題ではなかった。もとより、文武両道で育てられてきた紅のこと。よほど大量の課題でも出されない限り、小一時間もあれば片づけられる。


 何をするにしても、中途半端な昼下がり。そんな時、紅は決まって、幼き日に秘密基地として使っていた防空壕の跡地に向かった。


 秋とはいえ、未だ残暑の厳しい日もある。そんな日は、壕の中は絶好の休息場所だった。周りには誰もおらず、紅の嫌う強い太陽の光もない。この村の中で、紅が本当の自分をさらけ出せる数少ない場所だ。


 土壁に寄りかかるような形で、紅は頭の後ろに腕を組んで腰を下ろした。壁と床を伝わって、ひんやりとした冷気が身体を冷ます。外から聞こえて来る、セミたちの最後の合唱が心地よい。


 ふと、壕の中にある柱に目をやると、そこには数本の小さな傷があった。自然に生まれたものではない。明らかに、誰かが意図してつけた印だ。


 柱の傷を見ながら、紅は独り幼き日のことを思い出す。まだ、紅が朱音と一緒に秘密基地で遊んでいた時のことだ。


 その日も、今日のように残暑の厳しい日だった。


 いつものように秘密基地へとやってきた紅は、朱音のために色々な生き物を捕まえては見せた。生き物だけでなく、時には花や木の実など、とにかく朱音が興味を示しそうな自然の物は何でも採って来た。


 祖父の教えによって鍛えられた自分とは違い、朱音は生まれつき身体が弱い。本来であれば、日中は家の中で静かに過ごしていなければならないはずだ。


 しかし、その反動からか、朱音の野山に対する好奇心は極めて強かった。遊び相手が紅しかいなかったということもあるが、それでも朱音の自然を愛でる気持ちは本物だったと思う。


 また、身体が弱いことを気にしてか、朱音はよく紅に自分の成長を自慢した。髪が少し伸びた、背が少し高くなった、などという些細なことを逐一紅に報告してきた。そして、そのことで紅に誉められると、満面の笑みを浮かべて喜ぶのだ。


 防空壕にある柱の傷は、そんな朱音のことを想って紅がつけたものである。朱音の成長に合わせ、その身長を柱に刻む。ただ、それだけのことだったが、朱音は記録が伸びる度に紅の腕を取って大喜びしていた。


「やっぱり、ここにいた!!」


 壕の中に、突然、耳慣れた声が響き渡る。その声のする方へと顔を向けると、紅にとってはお馴染となった赤い瞳の少女の姿があった。


「なんだ、朱音か。ここにはもう、来たら駄目だって言われていただろう?」


「そうなんだけど、今日は特別なの。そういう紅君こそ、何やってたの?」


「いや……。俺はただ、昔のことを思い出していただけさ。あの柱に傷をつけた時は、二人ともガキだったなぁ、なんて思ってな」


「へえ、そうなんだ。でも、ちょっと嬉しいな。紅君も、ちょうど私のことを考えていてくれたなんて……」


 そう言って、朱音も紅の隣に腰を下ろす。


 朱音が防空壕の秘密基地を離れなければならなくなったのは、彼女が小学校五年生の時だった。


 その年、朱音は酷い風邪をこじらせて、しばらく入院が必要になった。なんでも、肺炎まで併発してしまったらしく、本当に命の危険があったらしい。程なくして朱音は退院したが、彼女の入院は秘密基地での遊びが終わりを告げるきっかけとなった。


 もとより、身体の弱い朱音のこと。彼女の母は今まで以上に朱音を心配し、とうとう彼女が外で遊ぶことを禁じてしまった。朱音は反対したものの、それでも日中の強い紫外線が、彼女の身体に良いはずがない。幼少より鍛えられた身体を持つ紅とは違い、朱音は赫の一族の血を引く者の中でも、とりわけ病弱な身体の持ち主だった。


 もう、紅とは一緒に遊べない。そのことは、朱音の心に深い喪失感を抱かせた。


 朱音は自然が好きだった。森で生きる鳥や虫、木々や草花の姿を見ることで、その美しさや素晴らしさを人一倍感じる少女だった。朱音にとって、紅と一緒に野山へ出かけることを禁じられるのは、まさしく拷問に等しい。


 そんな朱音に対し、紅は彼女のために何かしてやりたいと考えた。悩んだ末、紅はなけなしの小遣いをはたき、青い小さなポラロイドカメラを買った。


 野山に暮らす生き物を、無闇に乱獲するような真似はできない。いくら朱音に見せたいからといっても、そんなことをすれば、なにより朱音自身が悲しむはずだ。


 だからこそ、紅はせめて写真として、野山の姿を朱音に見せてやりたいと考えた。四季折々の森と山、そしてそこに暮らす生き物達の変化を、写真を通じて彼女に伝えたいと考えたのだ。


 結果は、思いのほか好評だった。


 本物の生き物ではないとはいえ、朱音は紅の撮った写真を喜んで部屋に飾っていた。特にお気に入りの物は、自分でアルバムを用意して大切に保管するようにもなった。一緒に外で遊ぶことはできなくなったものの、二人の繋がりが完全に断たれたわけではなかった。


 今、そのカメラは、朱音の首から下がっている紐の先にある。


 紅が中学に上がる時、朱音は紅のカメラを欲しがった。どうやら紅が写真を撮って見せたことに影響を受け、自分でも写真を撮りたくなったらしい。


 自分の足で山に出かけることは出来なかったが、それでも朱音は、自宅の庭や近所の空き地に咲いた草花をフィルムに収めていった。また、庭に鳥のエサ台を作り、そこに集まる野鳥を撮影したりもした。以来、そのカメラは朱音の物として、今でも出かける際には肌身離さず持っている。


「ねえ、紅君……」


 青い、玩具のようなカメラに手をかけて、紅の隣に座る朱音が口を開いた。


「今日は久しぶりに、紅君に写真を撮ってもらいたいな」


「写真? また、野鳥かなにかでも撮るのか?」


「そうじゃなくて……。あっ、そうだ!!」


 何かを思い出したように、朱音はスッとその場で立ち上がった。そして、壕の奥にあるガラクタ置場の中から、何やら薄汚れた二つの茶碗を取り出した。


「ちょっと、そこで待っててね。すぐ戻るから」


 そう言って、朱音は壕の外へと出て行った。いったい、彼女は何を考えているのだろうか。いまひとつ状況が飲み込めず、紅は首を傾げながらも外の様子に目をやった。


 壕の外では、朱音が何かを摘み取っているようだった。入口の近くに生えている、草の実でも集めているのだろうか。


 程なくして、朱音が両手に茶碗を持って帰って来た。その茶碗の中には、なにやら赤い小さな実が盛られている。量はそこまで多くはないが、これはいったい何のつもりなのだろう。


「お待たせ、紅君」


「ああ。しかし……いったい、何だそれは?」


「紅君、忘れちゃったの? 小さい頃、よくこうやって、一緒に御飯事したじゃない」


「そういえば、そんなこともあったな。確か、赤飯の代わりに使ってなかったか?」


 まだ、二人が小学校に上がったばかりの頃の話だ。


 壕の入口の周りに生えている草は、夏の終わりから秋の中頃にかけて、小さな赤い実をつけた。その赤い実を、朱音はよく赤飯の粒に見立てて茶碗に盛っていたのだ。


「ねえ、紅君……」


 久方ぶりに盛られた飯事の赤飯。それを紅の前に置くと、朱音はその場に脚を折って正座した。


「あの、ね……。えっと……」


 両足を閉じたまま、朱音はなにやら口ごもりながら言った。その様子は、いつもと違ってどこか落ち着きがない。体をそわそわと動かして、視線も紅と合わせようとしない。心なしか、その顔にも赤味がさしている気がする。


「どうした、朱音。言いたいことがあるなら、はっきり言えよ」


「うん……。その……今朝、お母さんから言われたんだけど……」


 相変わらず、朱音は紅と視線を合わせようとしない。どうにも次の言葉を口にしづらいようだったが、紅はあえて、朱音が自分の口から何かを言うのを待った。


「あのね、紅君……。私、今朝……本当の意味で、女の子になったんだ……」


「えっ……!?」


「だから……初めて、女の子の日が来たんだよ!! お母さんに教えてもらって、分かったの!!」


 既に、朱音の顔は真っ赤に染まっていた。いつもは雪のように白い肌が、紅の目から見てもはっきりと分かるくらい紅潮している。


 朱音が言わんとしていることが何なのかは、さすがに紅も気づいていた。だが、分かったところで、次にかける言葉が見つからない。こういった時、男である自分は相手にどんな言葉をかけてやるべきなのか。残念ながら、彼の今までの生活において、その答えになりそうなものを知る機会はなかった。


「なあ、朱音……。もしかして、この茶碗の実は……」


「うん。あの時と同じ、お赤飯の代わりだよ。食べられない偽物で悪いけど……紅君には、私が女の子になったこと、ちゃんとお祝いしてもらいたかったから……」


 未だ、照れ臭そうにしながらも、朱音は自分の想いを紅に告げた。そして、呆気に取られている紅を他所に立ち上がると、再びその横に寄り添うようにして腰を下ろす。


「あ、朱音……!?」


 朱音の手が、紅の手の上にそっと置かれた。肩をつけるようにして、朱音は紅に体重を預けてくる。


「ねえ、紅君。さっきのお願いだけど……やっぱり、なかったことにしてもいいかな?」


「さっきのお願い?」


「紅君に、写真を撮って欲しいって言ったやつ。あれ、私の写真を撮って欲しいって意味だったんだけど……」


「朱音の写真を?」


「そうだよ。でも、やっぱり、紅君と一緒に写りたいから。ほら、こうすれば……」


 朱音の頬が、紅の頬につかんばかりに近寄った。そして、首から下げていたカメラを片手で持つと、二人の顔がぎりぎり入るくらいの距離に掲げ、躊躇うことなくシャッターを切った。


 フラッシュの眩い光が、一瞬だけ紅の視界を奪う。数秒の間、紅には世界が真っ白に見えた。


 二、三回ほど瞬きをし、紅は自分の視力が戻るのを待つ。日中の日差しもそうだったが、どうにも強い光というものは苦手だ。


 気がつくと、隣では朱音がカメラから出てきた写真を手にしていた。朱音はしばらくの間、その写真を大事そうに胸元に抱えていたが、やがて写真が出来上がったことを知り、それを紅に手渡した。


「はい、これ。この写真、紅君が持っていてくれないかな。その……今日の、記念ってことで」


「記念って……。お前なぁ……」


「あっ……。もしかして……やっぱり、迷惑だった?」


「いや……。別に、そんなことはないが……」


 それ以上は、上手い言葉が見当たらなかった。何やら気まずい雰囲気になり、紅も思わず朱音から顔を逸らしてしまう。


 いったい、自分は何を照れているのだろうか。朱音とは幼い頃からの付き合いだったが、どちらかと言えば、妹のような存在として見ていた。


 そんな朱音が、今日はなぜか違って見える。なんというか、近くにいると、妙にこちらの方が彼女のことを意識してしまうのだ。


(馬鹿だな、俺は……。相手は朱音なんだぞ!?)


 自分と朱音の間には、なんとも言えない気まずい雰囲気が漂っている。今まで朱音を女として意識したことなどなかったのに、この気持ちはなんだろうか。


 頭の中に広がる雑念を振り切るようにして、紅は大きく息を吸い込んだ。それをゆっくりと吐き出して、なんとか気持ちを落ちつけようと試みる。


 これはきっと、何かの間違いだ。朱音がいきなり変な話を振って来たから、自分もおかしくなったのだ。きっと、そうに違いない。


 このままでは、こちらの方が先に息が詰まってしまう。そう思った紅は、朱音に向かって唐突に話を切り出した。特に何か話したいわけでもなかったが、とにかく今は、話の流れを変えたい一心でいっぱいだった。


「なあ、朱音。昨日のことなんだが……」


「昨日?」


「ああ、そうだ。昨日、学校の不良共と一緒に行った、土師見第二中の旧校舎。そこの理科室なんだが……本当に、幽霊の類が出やがった」


「えっ、嘘!? それじゃあ、噂は本当だったの……」


「いいや、そういうわけじゃない。確かに噂通りの姿をした霊は現れたが……あれは、狢の類が化けた物だった」


 自分から、向こう側の世界・・・・・・・についての話を朱音にする。はっきり言って、あまり好ましくないことだとは分かっていた。朱音の母親が赫の一族の力を嫌っている以上、朱音が向こう側の世界・・・・・・・について興味を持つことは、決して良くは思われないはずだからだ。


 しかし、今の状況を考えると、紅には他に選択肢が見当たらなかった。まあ、昨日の旧校舎であった除霊話をするくらいならば、それほど罪はないだろう。呪術や退魔術の内容を、具体的に教えるのはさすがにまずいが。


「狢かぁ……。それって、タヌキさんのことだよね」


「そうだな。タヌキとか、アナグマとか……とにかく、そういった種類の動物が霊になったもんだ。悪戯が好きで、相手の最も怖がりそうな物に化けて、人間を驚かすような低級霊さ」


「へえ、そうなんだ。でも、相手がタヌキなら、私も見てみたかったかも」


「いや、止めておけ。確かに正体はタヌキの霊かもしれないが、あいつが化けた怨霊の姿は、御世辞にも可愛いなんて言えるもんじゃない」


 昨日の霊は、自殺した少女の怨霊などではない。狢が人を化かすという話は、昔からよくある話でもある。が、狢の化けたその姿だけは、噂にある少女の霊の姿と寸分狂わぬものだった。内臓丸出し、顔も焼け爛れた姿でこちらに這って来る様は、悪趣味などという言葉で片付けるには、あまりにもグロテスクだ。


「まあ、なんにしても、ちょっとお灸を据えてやったら逃げて行ったからな。これで、当分は妙な悪戯もできないはずだ」


「ふうん……。やっぱり、紅君って凄いんだね。私の知らないこともいっぱい知ってるし、私のできないことも、なんでも簡単にやっちゃうし……」


「別に、それほど誉められるようなことをしているわけでもないさ。向こう側の世界・・・・・・・の連中となんて、できれば関わり合いにならない方がいい」


 それだけ言うと、紅は両手を頭の後ろに組んで、そのまま静かに目を瞑った。朱音には悪いと思ったが、やはり日中は体に力が入らない。それに、これ以上は、話の種も持ちそうになかった。


 しばらくすると、壕の中に、紅の軽い寝息が聞こえてきた。その横では、朱音が紅に寄り添うような姿勢のまま、彼の体に自分の体重を預けている。


 既に熟睡してしまっているのか、紅は朱音が体を預けてきていることに気づいていない。朱音はそんな紅の寝顔を、そっと見つめながら呟いた。


「紅君……。私はずっと、紅君の側にいるよ……」



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 週明けというものを楽しみにしている人間は、いったいこの世界に何人程いるのだろうか。学校にしろ、仕事にしろ、休みが終わって再び忙しい一週間が始まることを考えると、憂鬱にならない方がおかしいというものだ。


 土師見第三中学の屋上で、田所隆二はいつもの如く、仲間たちと煙草をふかしながら屯していた。

権田、澤井、そして柏木。彼の周りにいるのは、代わり映えのないお馴染の不良仲間達だ。


「ったく……。この前の金曜は、とんだ失敗だったな」


 煙草の火を屋上の床に押し付けて、田所はじろりと仲間達の顔を見回しなが言った。


 先週の金曜日、田所は犬崎紅を陥れるために、旧校舎の肝試しを計画した。先に校舎へ忍び込ませておいた兼元一也を使い、幽霊の格好をさせて紅を脅かす。紅が除霊の真似ごとを始めれば、そのことが紅の正体を暴く恰好の材料になると考えてのことだ。


 しかし、実際には、田所の計画はいとも容易く崩れ去ってしまった。


 兼元を待機させていた理科準備室。そこで、何が起きたのか、田所には分からない。だが、本来であれば幽霊など信じていないはずの兼元が、異様なまでに怯えて逃げ出して来たのだけは確かだ。そして、噂通りの姿をした少女が目の前に現われ、それを紅が追い払ったという現実も。


「おい、お前ら。この間の金曜のことだが……お前らは、あれをどう思う?」


 田所が、横にいる澤井の方を見て尋ねた。唐突に話を振られ、澤井は慌てた様子で田所に口を合わせる。


「えっ、俺っすか……!? いや、まあ……その……なんていうか……」


「はっきりしないやつだな。何が言いたいんだ、澤井?」


「う……。別に、何でもないっすよ……。ただ、あの理科室で見たもんが何なのか、俺にはちょっと分からないってだけで……」


「なんだ、てめえ。まさか、お前まで、幽霊がどうしたなんていう話を信じるようになったんじゃないだろうな」


「い、いや……。それは……」


「ふん、まあいいさ。どっちにしろ、犬崎の野郎には借りを返さなけりゃならないからな。俺達の計画を台無しにしてくれた落とし前、しっかりとつけさせてやる」


 そう言うと、田所は歯噛みするような表情で立ち上がり、無言のまま後ろにあった屋上のフェンスを殴りつけた。


 ガシャン、という音がして、フェンスの役割を果たしている鉄柵が揺れる。仲間の手前、いつもは苛立ちを表に出すことの少ない田所だったが、今日は自分の感情を抑えることができそうになかった。


 旧校舎の肝試しで現れた、女の幽霊と思しき者。確かに見た目は噂にあった少女の霊に似ていたが、それでも田所は、未だ霊魂というものの存在を信じようとはしなかった。


 幽霊など、所詮は村の年寄りの妄想が生み出した戯言だ。呪いだの、祟りだのと言った話は、最初から信用していない。


 金曜の件にしても、犬崎紅が何か仕組んでいた可能性もある。いや、きっとそうに違いない。そうでなければ、あそこまで都合よく噂通りの幽霊が現れるはずがない。その結果、こちらの計画は総崩れになり、犬崎紅を余計に調子に乗らせることになってしまった。


 それだけでなく、先に送りこんでおいた兼元。旧校舎での出来事がよほどショックだったのか、今ではすっかり腑抜けになってしまった。当然、チームの参謀としての姿は面影もなく、今日も屋上の集まりには参加していない。


 何を仕込んだのかは知らないが、犬崎紅は妙なトリックで幽霊騒ぎを演出したに違いない。幽霊の存在を信じていない田所には、それ以外の考えが思いつかなかった。


 このままでは、自分は犬崎紅に頭が上がらないままだ。そればかりか、こんな田舎の村の中学一つ締められず、いずれは周りの人間からも舐められてしまうだろう。


 最早、手段を選んでいる場合ではない。そう思った田所は、隣で寝転んだまま空を見上げている柏木を呼んだ。


「はぁ……。なんすか、先輩……」


「相変わらず、マイペースな奴だな、お前は。まあ、そんなことは、どうでもいい」


 柏木は、田所のチームの中でも極めて残酷な性格の持ち主である。まだ一年だったが、そんな柏木ならば、今の自分の考えを理解できるに違いない。つかみどころのない性格をしていたが、少なくとも田所は、他の仲間よりは役に立つと考えていた。


「お前の性格を見込んでの話だ。あの、犬崎紅に落とし前をつけるため、少し力を貸せ」


「俺がっすか? まあ、別にいいっすけど……。いったい、何をすればいいんすか?」


「なあに、簡単なことだ。お前は犬崎の餌になるものを、この屋上まで運んで来ればいい。方法は、お前の好きにしろ」


「了解っす。で、その間、先輩は?」


「俺は、犬崎のやつを呼び出す。あんなやつだが、餌さえあれば、簡単におびき寄せることもできるはずだからな」


 田所の口が、にやりと笑みの形に歪んだ。それを見た柏木も、同様に薄笑いを浮かべる。


 いつもは周りを威嚇するような顔をしている田所が、こんな笑い方をする時。それは、彼が何かとてつもなく残酷な遊びを始める前触れだ。そのことを知っているだけに、柏木は早くも自分が昂奮してきているのを隠しきれなくなっていた。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 犬崎紅が田所隆二からの呼び出しを受けたのは、その日の昼休みのことだった。


 昼休み、いつもであれば、紅は独り教室で昼寝をして過ごしている。昼間、それも人の多い場所では、どうにも気力が湧いてこない。そのため、例え上級生からの呼び出しであっても、適当に流して無視を決め込んでしまうことが多かった。


 だが、その日に限って、紅は田所の呼び出しに応じざるを得なかった。田所が、紅を呼び出す際に言った一言。「来なければ、お前の大切な者を傷つける」という言葉が、どうにも引っかかったのだ。


 上級生とはいえ、所詮は不良の戯言。無視してしまえばそれまでだが、万が一ということもある。それに、田所の言っていた言葉に心当たりがないわけではなかった。


 いつもは立入禁止とされている、学校の屋上。不良グループの溜まり場にもなっているその場所へ、紅は田所に案内される形でついていった。


 鍵の壊れた、外へと続く扉が開けられる。残暑の厳しい日差しが、一瞬だけ紅の目を刺した。


「わざわざ御苦労だったな、犬崎。まあ、とりあえず表に出ろよ」


「こんなところに呼びつけて、いったい何の用だ。まさか、俺と殴り合いの喧嘩でもするつもりか?」


「いや、そんなつもりはねえよ。ただ……あれを見て、お前がどんな顔するのか知りたかっただけさ」


 田所の指差すその先に、紅は自分の良く知る少女の姿を見た。白金色の髪と、白い肌。血のように赤い瞳が、なにかを訴えるようにしてこちらを見ている。


「朱音……」


 屋上にいたのは、朱音だった。給水タンクの影になっている場所で、権田と澤井の二人に、両手を後ろ手にされて押さえつけられている。


「あれ、お前の親戚なんだってなぁ。なるほど……確かに良く似てやがる」


「貴様……。朱音に何をした!!」


「まだ、なんにもしちゃいねえよ。柏木のやつが、『犬崎に手を出されたくなかったら、屋上まで来い』って言ったら、何も考えずにのこのこ出てきやがった。まったく、おめでたい頭をしている女だぜ」


 田所が、紅と朱音を交互に見比べながら笑った。


 朱音を柏木に連れ出させたのは、田所の指示だ。もしも朱音がこちらの指示に従わない場合は、強制的に拉致することも考えていた。それだけに、こうも事が上手く運ぶとは、まったくもって愉快極まりない。


「貴様ら……。用があるのは、俺だけのはずだろう。朱音は関係ない!!」


「確かにな。だが、お前をおびき寄せるための餌にはなる。それに……なまじお前だけ呼び出しても、妙な警戒をされたら困るんでね」


 田所の顔に、見るからに邪なことを考えていると分かる薄笑いが浮かんだ。相手の意図が分からず、思わず拳を握って構える紅。


 次の瞬間、鈍い音と共に、紅の頭を激しい衝撃が襲った。視界が揺らぎ、紅は思わず頭を抑えて膝をつく。


「へえ……。まだ、倒れないんだ。意外と丈夫なんっすね、犬崎先輩って……」


 後ろから、何やらこちらを嘲るような声が聞こえてきた。辛うじて首だけを後ろに向けて振り向くと、そこには金属バットを手にした柏木が立っている。顔にはにやけた笑みを浮かべ、紅のことを見下ろしていた。


「不意討ちか……。喧嘩をしたければ、正面から向かってきたら……」


 柏木を睨みつけ、紅がそう言おうとした時だった。


 金属バットが、今度は横薙ぎに飛んできた。側頭部を強打され、紅の身体が屋上の床に転がる。後ろでは朱音が何やら叫んでいるようだったが、耳の奥が痺れて聞き取れなかった。


「あっはははは!! 今度のは、さすがに効いたみたいっすね。でも、この程度じゃ終わんないっすよね、先輩?」


 柏木は笑いながら言っていたが、紅は答えなかった。いや、正しくは、答えられなかったと言った方がよい。


 金属バットで耳の横を殴られて、三半規管が完全にやられていた。立ち上がろうにも、手足に力が入らない。その上、焦点も定まらず、左耳も完全に聞こえなくなっている。


 相手が動けないのをいいことに、柏木は手にしたバットを持って、紅の頭にその先を押しつけた。そして、例のにやけた笑みを浮かべたまま、紅の腹を力任せに蹴り飛ばした。


「がはっ……」


 内臓にめり込むような鋭い一撃が、紅の腹に直撃した。つい先ほど、給食を食べたばかりだというのに、早くもそれが喉の奥から逆流してきた。


「どうしたんすか、先輩? 少しは抵抗してくれないと、面白くないっすよ? こんな年下相手にいいようにされて……もしかして、先輩ってMなんすか?」


 腹と、胸と、そして最後には顔まで蹴り飛ばし、柏木は小馬鹿にしたような口調で言い続けた。しかし、その一方で、決して急所を蹴ることはない。金属バットを手にした腕も、今はだらしなく垂れ下がっているだけだ。


 まるで、初めて与えられた玩具を扱うようにして、柏木はへらへらと笑いながら紅を蹴る。最後には、顔や手足の区別なしに、その身体を何度も踏みつけた。


 子猫がネズミをいたぶり、幼児が昆虫を殺して遊ぶように、柏木は紅をいたぶった。彼にとって、暴力とは遊びの延長に過ぎない行為だ。一撃で相手を倒すことなどはせず、可能な限り、相手を痛めつける。そうすることで相手が苦痛に呻く表情を眺めている時、柏木は他の何をしている時よりも満ち足りた感覚に支配された。


「もう……やめてよ! 紅君が、あなた達に何をしたって言うの!!」


 とうとう、見ているのが耐えきれなくなったのだろう。権田と澤井に押さえつけられたまま、朱音が柏木に向かって叫んだ。だが、柏木はそんな朱音に、さも鬱陶しいと言わんばかりの顔を向けて睨みつける。まるで、遊びを邪魔された子どもが、母親に反抗するかのような目つきをして。


「君、ちょっとうるさいよ。こっちはお楽しみの最中なんだから、邪魔しないでくれないかなぁ……」


「お楽しみって……。紅君に暴力を振るうのが、あなたの遊びなの!?」


「だから、そういうのがウザいって言ってんだよ」


 再び、柏木が朱音を睨む。その足を紅の頭に乗せたまま、どんよりと濁った目で権田と澤井に視線を送った。


「権田先輩、澤井先輩……。そいつ、黙らせてくれませんか? なんだったら、ここで犯っちゃってもいいかもしれませんよ?」


 およそ、中学生の言う言葉ではない、あまりに過激な発言。さすがの権田と澤井も、柏木の言葉をどう受け取って良いのか迷っているようだった。


「もう、その辺にしておけ、柏木。俺は別に、犬崎をお前の玩具にするために呼んだわけじゃない」


 最後に口を開いたのは、田所だった。今までは傍観しているだけだったが、ここにきて、彼は何故か柏木の暴走を制止するような真似に出た。


「まあ、田所先輩が、そう言うんならね……」


 柏木も、紅の顔から足をどけて引き下がる。もっとも、あくまで飄々とした態度は崩さずに、遊びに飽きた子どものような顔をして歩いている。反省や後悔などという言葉は、彼の辞書には無いようだった。


「さあて……。お楽しみはこれからだぜ、犬崎……」


 既に、満身創痍となった紅の胸倉をつかみ上げ、田所は紅の身体を引きずるようにしてフェンスの側まで持っていった。そして、そのまま紅の身体をフェンスの支柱に叩きつけると、後ろにいる柏木に目で合図をする。


 田所の指示で柏木が持って来たのは、一本のロープだった。田所はそれを柏木から受け取ると、紅の両手を後ろ手にしてフェンスの支柱に縛り付けた。


「き、貴様……。なんの……つもりだ……」


 既に、紅に抵抗するだけの力は残っていなかった。なんとかそれだけ口にしたものの、口の中が切れていて、上手く喋ることもできなかった。


「なあ、犬崎。この前の肝試しでは、随分と世話になったなぁ。だから、今日はこの俺が直々に、お礼をしてやろうっていうんだよ」


「お礼……だと……」


「そうさ。お前、男にしては、少し身体が生っ白いからな。屋上で身体を焼けば、ちっとは男前が上がるんじゃねえか?」


 田所の顔が、再び笑みの形に歪んだ。その笑顔の裏にある企みを知り、紅の背筋を始めて冷たいものが走った。


 アルビノである紅は、先天的にメラニン色素を持っていない体質だ。そのため、日中の直射日光は、彼の肌にとって天敵となる。特に、紫外線は身体に悪い。


 普通であれば、太陽光に含まれる紫外線を受けたところで、せいぜい軽く日焼けする程度である。しかし、紅のようにメラニン色素を持っていない人間は、単に皮膚が赤く腫れ上がるだけだ。熱中症にも陥りやすく、場合によっては死に至る。


 田所は、当然ながら紅の身体のことについても知っていた。否、知っていたというよりは、あの肝試しの後で調べたといった方が正しいだろう。


 犬崎紅にお礼まいりをするために、柄にもなく村の図書館でアルビノについて調べた。そこで分かったのは直射日光に弱いという程度の情報だったが、田所にしてみれば十分だった。


 九月に入っているとはいえ、その日は残暑も厳しかった。真昼の太陽は容赦なく屋上を照らし、紅の身体を徐々にだが確実に侵食して行く。


 支柱に縛り付けられてから数分も経たない内に、紅の顔は早くも赤くなってきた。体温が凄まじい速度で上昇しているのが、紅自身にも分かる。


 呼吸が荒くなり、額から流れる汗が頬を伝って下に落ちた。目の前の空間が歪んで見え、少しでも気を抜けば、そのまま意識を失ってしまいそうだった。


「へえ……。なかなか頑張るじゃねえか。まあ、辛くなったら、いつでも助けを呼んでくれて構わねえぜ。田所様、助けて下さいってな。そうしたら、すぐに縄を解いてやるよ」


 田所が、紅の前で煙草をふかしながら言った。口に含んだ灰色の煙を露骨に紅の方に向けて吐き出して、にやにやと下品な笑みを浮かべている。


「おい……」


 煙が切れたところで、今度は紅が口を開いた。その声は掠れる程に小さかったが、それでもはっきりと田所に耳に聞こえた。


「貴様ら……」


「なんだぁ、犬崎? さっそく、許してくれって言う気になったか?」


「朱音には……絶対に手を出すな……」


 紅の赤い瞳が、大きく見開かれる。既に意識は朦朧としていたが、その瞳はまだ死んではいなかった。


「もし、手を出したら……貴様らを……殺す……」


 今度の言葉は、田所以外の者にもはっきりと聞き取れた。


 そこにあるのは、何者にも屈することのない強い意志。田所達になく、紅にはある、絶対的に越えられない壁だ。


 あれだけ徹底して痛めつけられ、更には真昼の炎天下に晒されてもなお、紅の心は折れてはいなかった。だが、その事実は、同時に田所の精神を更に逆撫ですることとなる。


「この期に及んで、女の心配か。なるほど……さすがに俺も、ちょっとは感動したぞ、犬崎」


 口ではそう言っていたが、田所は明らかに怒りを隠しきれない表情で紅に迫った。権田も澤井も、それに柏木でさえも、その様子をただ後ろで見守っている。


 田所があんな顔をする時は、既に冷静な思考ができなくなった証拠だ。それを知っているだけに、下手に口を出してとばっちりを食らうのはごめんだと思っている。


「なあ、犬崎。俺を感動させてくれた御褒美だ。さすがに、この太陽の下じゃあ暑いだろうからな……。ちょっと、涼しくしてやるよ」


 田所の手が、紅の足元に伸びた。その手には、いつの間に取り出したのか、先ほど紅の手を縛ったのとは別のロープが握られている。


 上履きと、それから靴下も脱がせ、田所は紅の脚も支柱に縛り付けた。


 支柱の根元は、金属で覆われるような造りになっていた。真昼の日差しを受けて十分に熱くなった金属板が、紅の足の裏を容赦なく焼く。さすがに、これには耐えられず、紅は苦悶の表情を浮かべて呻くしかなかった。


「おやおや……。涼しくしてやるつもりが、逆にもっと暑くなっちまったみたいだな。天然のホットプレートで焼かれる気分はどうだ、犬崎よぉ」


 白々しくも、そんな言葉を紅にぶつける田所。紅の苦しむ姿を見て、柏木と共に下品な笑い声を上げている。


 その間にも、温められた金属板は紅の足を焼き続けた。じわじわと、徐々に痛めつけるようにして、熱が肌を侵食してゆく。


 刺すような痛みと痺れるような痛み。それらが交互に襲い、気が狂いそうだった。真昼の日差しに照らされ、意識は当に彼岸の淵に旅立ちそうになっている。が、しかし、足の裏に走る痛みは、否応なしに紅の精神を現実に引き戻す。


 いっそのこと、このまま気絶してしまえたら、どれほど楽だろうか。ふと、そんな考えが頭をよぎった時だった。


「やめて! お願いだから、もうやめて!!」


 朱音が泣きながら叫んだ。


 先ほどから、彼女は自分の目の前で、紅が一方的に痛めつけられる様を見せつけられていた。


 自分が柏木の言葉を真に受けて屋上まで来なければ、紅はこんな目に合わずに済んだはずだ。自分の姿を見て頭に血を昇らせなければ、田所達など瞬く間に叩き伏せてしまったはずだ。


 全ては自分の迂闊な行動が原因。そのせいで、紅は抵抗することさえも許されず、今も執拗に田所達による責め苦に苛まされている。


 恨んでくれた方が、どれだけマシだっただろう。憎んでくれれば、どれだけ気が楽になっただろう。自分は、そうされても仕方ないだけのことをしてしまった。紅に拒絶されても、誰も文句が言えないほどに迷惑をかけてしまった。


 だが、それにも関わらず、紅はこの期に及んでも、まだ自分のことを心配してくれている。田所達の脅しにも屈せずに、自分に手を出したら殺すとまで言った。


「酷い……酷いよ……。どうして、こんな酷いことが平気で出来るの……?」


 朱音の瞳から零れ落ちた大粒の雫が、屋上の床に落ちて濡らした。そんな朱音の顔を見て、さも鬱陶しそうな顔をしているのは柏木だ。


 彼としては、この残酷なショーを楽しむことにしか興味がない。女の涙など、ショーを興醒めさせる以外の何物でもなかった。


 柏木が、不快感を露わにしたまま朱音に迫る。手加減という言葉を知らない柏木にとって、女だからといって容赦するという考えはない。右の拳を握りしめ、それを朱音の顔に叩き込もうと振り上げた。



――――殴られる!!



 直感的にそう思い、思わず目を伏せる朱音。しかし、振り上げられた柏木の拳を止めたのは、以外にも彼の後ろにいた田所だった。


「止めておけ、柏木。そんな女を殴ったところで、なんの得もねえぞ」


 手首をつかまれる形で拳を止められ、柏木が不服そうに田所を見た。上げた手のやり場をなくしたことで、不満が更に高まったようだ。


「でも……こいつ、さっきからウザいっすよ、先輩。そろそろ本気で黙らせた方がいいんじゃないっすか?」


「まあ、待てよ。それよりも、もっと面白いことがある」


 田所が、柏木の肩に手を置いて言った。朱音を押さえつけている澤井にも目配せすると、三人で再び紅の前に立つ。朱音の腕を押さえるのは権田に任せ、澤井も田所と柏木の列に加わった。


「辛そうだな、犬崎。なんだったら、今度は俺達が冷やしてやろうか?」


 紅の頬に指を食い込ませ、田所はその顔を強引に自分の方へと向けた。そして、空いている方の手でズボンのファスナーを降ろすと、隣にいる柏木と澤井の方を見ながら更に続ける。


「おい、お前達も少し手を貸せ。今から、犬崎の野郎の足を冷やしてやろうぜ」


 紅の顔から手をどけて、田所がその場から一歩だけ下がる。そして、既に言葉さえ発せなくなった紅の足元に、豪快に小便をかけ始めた。


「あっはははははっ!! どうだ、犬崎? これで、少しは足元が涼しくなったんじゃねえか?」


 聞いているだけで胸が悪くなりそうな声で、田所はひたすらに笑い続けた。見ると、柏木と澤井も、田所に追従する形で紅に小便をひっかけている。


 それは、まさしく人の尊厳を完膚なきまでに奪い去る拷問だった。三人の不良達の小便が、紅の足元だけでなく、はいているズボンまでも濡らしてゆく。生温かく、不快な感触が紅の足全体に広がっていたが、彼には抵抗することは許されなかった。


 両手、両足を縛りつけられ、炎天下の日差しと熱い金属板によって身も心も焼き尽くされた。最早、風前の灯火となった意識の中で、辛うじて分かるのは朱音が無事ということだけだ。


「おら、どうしたよ、犬崎。悔しかったら、村のジジイやババアが言ってるみたいに、今すぐ俺達を呪ってみたらどうだ。できるもんならな!!」


 田所は紅を挑発するようにして言ったが、紅はそれに対して何も答えなかった。


 既に、逆らうだけの気力はない。呻く事も、叫ぶ事もできず、成されるがままに身を任せるしかない。今、自分が何をされているのか。それさえも分からなくなりそうだった。


 目の前が、だんだんと白くなってきた。既に、体温は四十度近くまで上がっているだろうか。意識が徐々に朦朧とし、何も考えることができなくなってくる。


 このまま自分は、成す術もなくなぶり殺しにされてしまうのだろうか。ふと、そんな諦めにも近い考えが紅の頭をよぎった時だった。


「ぎゃっ!!」


 突然、屋上に悲鳴が響いた。その声に、紅の意識が一瞬だけ戻る。田所と澤井、それに柏木も、声のする方を振り向いた。


「あっ! あの女……!!」


 柏木が、慌てた様子で言った。その先では、権田が自分の脛を押さえ、痛みに耐えている姿があった。


 権田の脛を蹴ったのは、どうやら朱音のようだった。さしもの権田も、脛だけは鍛えることができなかったらしい。なんとか片手で朱音の腕をつかんではいたが、それでも、一瞬だけ手を離してしまったのは失敗だった。


 片腕が自由になったところで、朱音は身体を捻らせて権田の方を振り向いた。そして、自分の腕をつかんでいる権田の手に、渾身の力を込めて噛みついたのだ。


 再び、権田の悲鳴が屋上に響く。予想になかった朱音の反撃に、田所達もしばし状況を飲み込むのが遅れてしまった。そんな彼らの隙を突き、朱音は一目散に屋上の出口へと駆けだして行く。


「くそっ! 逃がすな!!」


 田所が、そう叫んだ時には遅かった。


 その華奢な身体からは想像できないほど素早く、朱音は彼らの前から姿を消した。澤井と柏木が慌てて追ったものの、階段の踊り場まで出たところで悔しそうに歯噛みする。


 朱音の身体は、既に階下の廊下へと抜けてゆくところだった。こうなっては、下手に追っても後の祭りだ。教員に見つかれば、それこそ厄介なことになる。


「くそっ! 逃げられたか……」


 澤井の拳が階段の手すりを叩いた。後から出てきた田所と権田も、そんな彼の姿を見て、今の状況を察したようだった。


「田所さん、どうしますか?」


「どうするも何もねえよ。あの女に先公を呼ばれたら、それで全部お終いだ。残念だが、ここはさっさとバックレた方が身のためみたいだな」


「犬崎のやつは?」


「放っておけ。あのまま干からびたところで、俺の知ったことじゃない。それに、先公が来れば、後は勝手にやってくれんだろ」


 先ほどまで紅を痛めつけていた時の高揚感は、既に無くなっていた。朱音に逃げられたことで、一気に興醒めしてしまたのかもしれない。


 どちらにせよ、こうなってはどうしようもない。いつ教員がやって来るかも分からない場所に、長居は禁物だ。


 屋上に紅を縛りつけたまま、田所達は、その場から逃げるようにして階段を駆け下りて行った。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 人のいない学校の廊下を、自分の駆ける足音だけが響いている。


 田所達から逃げ出した朱音は、そのまま全力で紅の教室を目指して駆けた。既に授業の始まっている時間だったが、そんなことは関係ない。今は一刻も早く、紅を助けるために誰かを呼ばねばならない。


 いつもであれば、貧血の一つでも起こしていそうな程の全力疾走。鼓動が早まり、肩で息をしているにも関わらず、自分でも何故走り続けられるのかが不思議だった。


 程なくして、紅のクラスの教室が見えてきた。扉に手をかけると同時に、それを乱暴に開け放つ。一瞬、教室の中にあった全ての視線が自分に向けられたが、そんなことに構っている暇はない。


「なんだね、君は? 今は、授業中で……」


 教師の言葉など、朱音には耳に入らなかった。呼吸を整えることさえも忘れ、ひたすらに助けを求めた。


「紅君が……紅君が……!!」


 言いたいことは他にもたくさんあったが、それ以上は言葉が出なかった。頭に血が昇り、自分でも混乱して何を言っているのか分からない。ただ、他の生徒達の冷たい視線だけが、自分に向けて送られてくるだけだ。


「先生……。紅く……いえ、犬崎君が、大変なんです……」


「犬崎が? 大変って、何かあったのかね?」


「はい……。屋上で、不良に呼び出されて……とにかく、大変なんです!!」


「屋上? そう言えば、今日は姿が見えないが……。まさか、犬崎はサボりかね?」


 慌てている朱音を他所に、授業をしていた教師はさも面倒臭そうな口調で返した。厄介事には関わりたくない。そんな日和見な考えが、露骨に顔に現われていた。


「なんだか知らないが、これ以上は授業の邪魔だよ。問題があるなら、後で職員室に来て話しなさい」


 犬崎家の人間とは、深い関わりを持ちたくない。教師の言葉は、そう朱音に告げているようにも思われた。そして、それは教室にいる他の生徒達も同様である。先ほどは全員の目が朱音に向けられていたが、それが犬崎紅と関係があると分かった途端、急に全員が無口になって視線をそらしていた。


 犬神筋。古来より、四国地方を中心に、人々より畏怖されてきた呪術師の家系。この土師見村においても、その扱いは変わらない。


 魔を祓う力を持つと同時に、自ら魔を操り、人を呪うことさえも可能とされる赫の一族。そんな彼らに対し、昔も今も、人々の持つ印象は同じままだ。


 人が赫の一族を頼るのは、自らに憑いた魔を祓う時だけである。それ以外は、極力関わりを持たないように、彼らとの間に見えない壁を作って過ごす。困った時だけ神頼みし、それ以外の時は、薄汚い穢れ物を見るかのような扱いで。


 自分勝手で、自己中心的な考えだと朱音は思った。そんな忌まわしき因習に、この村は今でも縛られている。それは、学校においても同じことだ。今も、これほどまでに自分が助けを求めているのに、生徒も教師も一向に救いの手を伸ばそうとさえしない。 


 もう、この学校に自分達を助けてくれる者はいないのか。そう、朱音が諦めかけた時だった。


 ガタッ、という椅子の動く音がして、教室の真ん中に座っていた生徒が立ち上がった。その音に、教室にいた人間の視線が一瞬だけ集まる。


「あなた……。犬崎君の親戚の子だったわよね?」


 席を立ったのは、野々村萌葱だった。紅のいるクラスで学級委員を務め、何かと彼の世話を焼いていた少女だ。共に下校したこともあり、朱音も彼女とは面識があった。


 生徒と教師が唖然とした表情で見つめる中、萌葱は机の間を抜け、朱音の前まで歩み寄った。そのまま朱音の顔を真っ直ぐに見据え、何やら張りつめた口調で尋ねてくる。


「狗蓼さん、だったかしら。犬崎君に、何があったの?」


「あの……。それが、不良に屋上まで呼び出されて、そこで……」


「ここで説明してもらうより、歩きながら話してくれた方が早そうね。悪いけど、それで構わないかしら?」


 疑いの心を一切持たない、真剣な眼差しだった。朱音は萌葱に無言で頷くと、二人して教室の外に出た。


 後ろから、何やら教師が叫んでいる声が聞こえて来る。しかし、そんな言葉は今の朱音と萌葱の耳には届かない。


 犬崎紅を助けたい。その一心で、朱音の足は再び廊下を蹴った。萌葱もそれに続く。


 本当は今すぐにでも屋上に向かいたかったが、そんな朱音を萌葱は制した。何はともあれ、まずは大人を呼ばねばならない。


 教室にいた教師は頼りにならなそうだったが、職員室に残っている者の中には、話の分かる人間もいるかもしれない。それに、学級委員も務めている萌葱は、教師達からの信頼もそれなりに厚い。


 自分と紅の味方は、この学校には誰もいない。そう思っていた朱音だったが、今ではそんな考えも、少しだけ違って思えるような気がしていた。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 犬崎紅が目を覚ました時、そこには真っ白な天井が広がっていた。


(ここは……)


 蛍光灯の眩い光に、思わず目を細めてしまう紅。どうやら自分は、保健室のベッドに寝かされているようだった。


「よかった……。紅君、気がついたんだ……」


 耳元で、誰かが自分の名を呼ぶ声がした。その声のする方へ顔を向けると、そこにいたのは朱音だった。後ろには、なぜか萌葱の姿もある。


「お前達……」


 二人の顔を見て、今までの記憶が唐突に蘇ってきた。早回しの映像を見ているかのように、頭の中に屋上での出来事が映し出される。


 田所達の策にはまり、自分は屋上でリンチを受けた。朱音が隙を見て逃げ出した後、田所とその仲間たちもまた、自分を支柱に縛り付けたまま屋上を去った。


 今、自分が保健室にいるということは、どうやら誰かの手によって屋上から助け出されたということなのだろう。助けてくれたのは、恐らく朱音と萌葱の二人だ。まあ、実際には他に、誰か手の空いている教員を呼んでいたのかもしれないが。


「お前達が……俺を助けてくれたのか?」


 記憶が戻るにつれ、身体の節々に痛みも戻って来た。なんとか身体を起こしたものの、その瞬間に鋭い痛みが足の裏に走り、紅は軽く顔をしかめて唸った。


「駄目だよ、紅君。まだ、起きたりしたら……」


「いや、心配はない。こう見えても、爺さんに日頃から鍛えられているからな」


「心配はないって……。それは、自分の足を見てから言ったらどう?」


 朱音だけでなく、今度は萌葱も呆れた顔をして紅を見てきた。言われたとおりに足を布団から抜いて見ると、白い包帯が幾重にも巻かれていた。自分では大したことないと思っていたが、どうやら軽い火傷を負ってしまったらしい。


 それだけでなく、気づけば服も体操着に着替えさせられている。田所達に汚されたズボンで保健室のベッドに寝るわけにいかないというのは分かるが、まさか朱音や萌葱が服を取り替えてくれたのだろうか。だとすれば、さすがに紅も少し恥ずかしかった。


「なあ……。ところで、俺の服なんだが……もしかして、お前達が着替えさせたのか?」


「なっ……! 馬鹿なこと言わないでよね!!」


 萌葱の顔が、とたんに赤くなった。普段から生真面目な学級委員で通っているだけに、こういった話にはからきし免疫がない。


「犬崎君の服を着替えさせたのは、保険の先生よ。ちなみに、その体操着は学校の貸出品だからね。後で、ちゃんと洗って返しなさいよ」


「ああ、大丈夫だ。とりあえず、お前達に脱がされたんじゃないと分かって安心した」


「うん。でも……本当は、紅君を着替えさせるのも、私が手伝いたかったんだけどな……」


 どさくさに紛れて、朱音がとんでもないことを言ってきた。正直、それだけは勘弁して欲しいと紅は思う。いくら幼馴染だからといって、中学生にもなって知り合いの少女にズボンを着替えさせてもらうというのは恥ずかしい。昔は一緒に風呂まで入った仲だったが、それも小学校に上がる前の話だ。


「それにしても……」


 包帯の巻かれた紅の足に目を落としながら、萌葱が呟いた。


「今回は、さすがに私も頭にきたわ。田所先輩の噂は前々から聞いていたけど……まさか、ここまで酷いことをするなんてね」


「本当だよ。紅君は、何も悪いことなんかしてないのに……。あいつら……勝手に紅君のことを恨んだりして……」


「まったくだわ。犬崎君がなにをしたのか知らないけど、一方的に暴力を振るうなんて最低よ。ああいう連中は、一度自分達も同じような目に合わないと分からないのかしら?」


 朱音と萌葱の声が、徐々に熱を帯びてきた。彼女達の怒りは、紅も分からないではない。しかし、ここで怒ったところで、女二人の力で不良グループをどうにかできるものでもない。


「お前達の言いたいことは、俺にも分かる」


 身体を痛みに耐えつつも、紅はベッドから降りて立ち上がった。足の裏に一瞬だけ痺れるような痛みが走ったが、あえて顔には出さずに我慢する。


「だが、怒りに任せて軽率な行動だけは取るんじゃないぞ。連中は、話して分かるような輩じゃないからな」


「うん、それは私も分かってる。でも……ごめんね、紅君。私のせいで、紅君を酷い目に合わせちゃって……」


「気にするな、朱音。お前が無事だっただけでも、俺としては幸いだ」


 そう言って、紅は朱音の頭に手を乗せてくしゃくしゃと撫でた。白金色の髪が、指と指の間に絡みついてくる。


 田所隆二とその仲間による非道な仕打ち。彼らがこのまま紅のことを見逃すとは思えない。


 今後のことを考えると気が重かったが、それでも学校から逃げ出すわけにはいかなかった。不良相手に本気で戦うのは馬鹿らしいと思ったものの、連中が再び朱音に手を出さないという保証はない。


 次に田所が何かを仕掛けてくるようならば、今度はこちらも本気で立ち向かわせてもらおう。そう思った紅だったが、今日のことがこれから始まる惨劇の序章になろうとは、この時点では気づいてもいなかった。

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