~ 弐ノ刻 策略 ~
その日の学校は、特にこれといった騒ぎもなく平穏無事に終わりを告げた。授業も五限で終了し、今は自宅への帰り路を急いでいる。
給食時に田所から呼びだされた際には面倒事を覚悟した紅だったが、結局は、大きな騒ぎにならずに済んでほっとしている。静やかな暮らしを好む紅にとって、人前で無用な騒動に巻き込まれることは、極力避けたかったのだ。
「それで……結局、その肝試しに一緒に行くことにしたわけ?」
紅の隣を歩く萌葱が言った。
正直なところ、紅は朱音以外の人間と一緒に帰りたくはなかった。自分は構わないが、朱音は紅以外の他人と関わることが苦手な娘だ。それ故に、変な気を使わせたくないと思っていたが、三人とも帰る方向が一緒なのだから仕方がない。
「別に、俺だって好きで行くわけじゃないさ。ただ、二中の旧校舎には、妙な噂があるのも知っているからな」
「変な噂?」
「ああ。とは言っても、殆どは学校の七不思議の域を出ない、下らない噂話だ。ある、一つの話を除いては、なんだが……」
「へえ……。犬崎君って、そういうの信じてる人だったんだ……」
「まあな。婆さんが拝み屋なんてやってるもんだから、一応は……」
それ以上は何も語らず、紅はあえて最後に言葉を濁した。
自分の家が、赫の一族として退魔行を生業としている。そんな話をしたところで、萌葱に信じてもらえるとは思っていない。それに、赫の一族に関する話は、無闇に人前で話してはいけないともされていた。
「それじゃあ、俺はこの辺で帰るぞ。朱音も送って行かなきゃならないしな」
「うん。犬崎君も、また明日ね」
分かれ道に差し掛かり、萌葱は片手を振って紅と別れた。その後ろ姿を目で追いつつも、紅はふと、隣にいる朱音の方へと視線を移した。
学校からここに来るまで、朱音は先ほどから一言もしゃべっていない。やはり、緊張していたのだろうか。そう思って顔を覗き込むと、途端に屈託のない笑顔を向けて来る。例の、赤く清んだ瞳を大きく見開いて。
「どうした、朱音? やっぱり、気を使わせたか?」
「ううん、平気だよ。それよりも……野々村先輩と話していたこと、本当なの?」
「ああ、本当だ。今週末の金曜の夜、二中の旧校舎を探索するってことになってる」
「そうなんだ……。でも、大丈夫かな……」
「それは、あの不良どもに言ってやるんだな。二中の旧校舎に伝わる怪談なんて、ほとんどが小学生の作り話のようなもんだが……一つだけ、ヤバそうな話を聞いたことはある……」
「ヤバそうな話? それって、どんな話なの?」
言わなければよかったと思った時には、既に遅かった。
朱音は興味津々といった表情で、紅の顔を覗き込んで来る。紅の話す向こう側の世界の話を、どうも別世界のおとぎ話のように考えているらしい。もっとも、朱音の母は娘が赫の一族の力に触れることを嫌っていたため、怪談話の類を堂々と話すのは複雑な気持ちだったのだが。
「そうだな……。とりあえず、俺の聞いた話だと……」
仕方なしに、紅は言葉を選びながら話を始めた。こうなっては、自分の知る限りの話を一通り話さなければ、朱音を納得させられそうにない。朱音には、後で口止めをしておけば大丈夫なはずだ。
紅が聞いた旧校舎にまつわる怪談は、どれも子どもの創作の域を出ない話だった。
深夜、誰もいない音楽室から聞こえて来るピアノの音。三階の女子トイレの三番目を、夜中の三時に三回ノックすることで現れる少女の霊。美術室にある、モナリザの目が真夜中に光る話。そして、夜の校庭を走る二宮金次郎の像。
どれも、一度くらいは聞いたことのある怪談話である。信憑性の欠片もなく、小学生が読む『怖い話の本』などに収録されていそうな内容だ。中学生にもなって、まさか、こんな話を信じている者はいないだろう。
だが、そういった話に混ざり、土師見第二中学の旧校舎には、一つだけ恐ろしい話が伝わっていた。
――――化学準備室に現われる少女の怨霊。
紅が聞いた時には、確かそのような名で呼ばれていたような気がする。中学校なのだから、化学準備室ではなく理科準備室ではないかとも思うのだが、細かな突っ込みは、この際どうでもよい。
今から四十年ほど前、まだ土師見第二中学の旧校舎が使われていた時代のことである。
その日、一人の女子生徒が、教師に頼まれて理科室の奥にある準備室の棚へ薬品を取りに行った。中学の授業で用いる薬品で、その上、生徒に取りに行かせるような種類の薬である。当然、劇薬の類などではなく、女子生徒は何も考えずに薬品棚のガラス戸を開けた。
薬瓶の並ぶ棚の中から、教師に言われた薬だけを持ち出せばよい。お目当ての薬品は女子生徒の背丈よりも少し高い場所にあったが、手を伸ばして届かない距離ではない。
何のことはない、簡単なお使い。だが、そう思い油断していたことが、後に取り返しのつかないミスを犯すことに繋がった。
棚の奥にある薬瓶を取ろうと手を伸ばした際に、その女子生徒は自分の指を隣に合った薬瓶にひっかけてしまったのだ。倒れた薬瓶の中身は女子生徒の頭から降り注ぎ、次の瞬間、焼けつくような痛みが彼女の顔を襲った。
喉を引き裂かんばかりの悲鳴が響き、肉の焦げるような匂いが準備室に広がる。倒れた薬瓶の中身は、事もあろうか希釈する前の硫酸だったのである。
悲鳴を聞きつけ、教師がかけつけた時には既に遅かった。女子生徒の顔の半分は醜く焼け爛れ、見るも無残な姿になっていたという。
程なくして、病院に運ばれた女子生徒は一命を取り留めた。が、硫酸によって焼け爛れた皮膚は元には戻らず、それは彼女が退院した後も変わらなかった。
元々、その女子生徒は、校内でも一、二を争う程に美しい肌の持ち主だったと言われている。それこそ、白百合に例えられるほどの、典型的な大和撫子だった。
しかし、彼女の顔が崩れてからは、周りの態度もまた変わっていった。今までの出来事が嘘のように、周りは彼女に冷たくなったのだ。そればかりではなく、中には汚い物でも見るかのようにして、明らさまに侮蔑と嫌悪の視線をぶつけて来る者もいた。
なぜ自分だけが、これほどまでに酷い目に合わねばならないのか。思い悩んだ末、最後にその女子生徒は、呪いの言葉を残して命を絶ったという。しかも、その死に様が物凄い。
学校で生徒が自殺したと聞くと、大概の者は屋上からの飛び降り自殺などを連想するだろう。しかし、その少女が選んだ方法は、より残酷でグロテスクな、人の記憶にトラウマとなって焼きつくような死に方だった。
彼女が最後に選んだ死に場所は、事故のあった理科準備室。深夜の学校に忍び込み、彼女は自らの腹を包丁で裂いて割腹自殺したという。しかも、腹を裂いた直後は絶命に至らず、自らの身体から溢れ出る血で、準備室の床に呪いの言葉を書き残して。
それ以来、土師見第二中の理科準備室には、非業の死を遂げた女子生徒の霊が出るとの噂が立った。真夜中の女子生徒が自殺を遂げたとされる時間になると、顔の焼け爛れた少女の霊が、どこからともなく現れるというものだ。そして、裂けた腹から赤黒い内臓をはみ出させ、ずるずると床を這うような形で迫って来るという。
この話を聞いた時、紅は言いようのない不安感に襲われたことを覚えている。他の話があくまで小学生の作り話の域を出ないのに対し、なんというか、一つだけ異質なのだ。
硫酸を浴びて醜い姿へと変貌した女子生徒が、その事故現場で割腹自殺を遂げる。中学生が話す怪談話としては、あまりにも生々しく、またグロテスクでもあった。
できるだけ過激な言葉を使わないように注意しながら、紅は少女の霊が出る理科準備室の話を終えた。先ほどから、その話を聞いている朱音は何も言わずにこちらを見ているだけだ。
やはり、朱音には刺激が強すぎたか。予想以上に恐ろしい話を聞かされたことで、怯えてしまったのかもしれない。
そう思った紅だったが、彼の心配は杞憂だった。
「その人、可哀想だね……」
赤い瞳が何かを憐れむ時のそれに変わり、朱音はぽつりと呟くようにして言った。
「可哀想、か……。まあ、確かにそうかもしれないな。自分の不注意で事故に遭ったとはいえ、その後に周りの人間が冷たくしたりしなければ、彼女も自殺なんかしなかったかもしれない」
「ねえ、紅君。もし、肝試しの時に、その女の子の幽霊が出てきたら……どうするの?」
「どうするって……。残念だが、今の俺には朱音が期待しているような答えは言えないな。成仏させてやりたい気持ちはあるが、それは俺の爺さんや婆さんの仕事だ」
「そっか……」
「まあ、そもそも噂が本当かどうか、その辺だって曖昧だしな。とりあえず、今日帰ったら爺さんに相談して……全てはそれからだな」
「うん。でも、紅君も、無理はしないでね。お化けに襲われそうになったら、すぐに逃げてね」
「ああ、分かったよ。もっとも、朱音が心配しているようなことは、たぶん起きないと思うけどな」
最後の言葉は、作り笑いと共に口にした。
理科準備室に現われる少女の霊。その真相は定かではないが、仮に本物の霊が現れた場合、今の紅にそれを祓うのは困難だ。剣術の腕は別としても、紅はまだ、退魔師としては半人前。その辺を漂っているような浮遊霊ならいざ知らず、強い怨念を抱いて悪霊と化した魂を浄化できるとは思えない。
ここは、やはり祖父や祖母に相談するしかないだろう。あの不良達が興味本位で肝試しを行った結果、取り返しのつかないことになってからでは遅い。向こう側の世界の住人というものは、素人が考えている以上に危険な存在なのだ。
棚田の近くにある分かれ道に差し掛かり、紅は朱音と別れて帰路を急いだ。別れ際に朱音の名残惜しそうな顔が気になったが、今はそんなことに気を取られている場合ではない。
はやる気持ちを抑えつつ、紅は棚田の脇にある坂道を早足で昇った。こういう時、つくづく山の上にある自分の家が恨めしくなる。先祖代々の土地らしいが、せめてもう少しだけ平らな土地に家を建ててもよいのではないかと思う。
「帰ったぜ、婆さん」
玄関に続く戸を開けると、紅は祖母の多恵に向かって叫んだ。この時間、大抵の場合、祖母は茶の間にいる。玄関先から呼んで、聞こえない距離ではない。
だが、そんな彼の予想に反し、今から返ってきたのは若い女性の声だった。ふと足元を見ると、いつもはそこにあるはずのない、妙に踵の高い靴が置いてある。
靴の持ち主に、紅は心当たりが無いわけではなかった。自分も靴を脱ぎ、客人が来ているであろう茶の間へと向かう。多少、建てつけの悪くなった襖を開けると、果たしてそこには彼の予想していたのと同じ人物が座っていた。
「あら、紅ちゃん。久しぶりね」
座布団の上に座ったまま、若い女性が首だけを紅の方に向けて言った。
「皐月さんか。いつ、こっちに来てたんだ」
「あら。折角久しぶりに会えたのに、第一声がそれ? お姉さん、悲しくなっちゃうな……」
「茶化すのは止めてくれ。それとも、まさか本気で言ってるんじゃないだろうな」
「やれやれ……。相変わらず、冗談の一つも通じないってわけね、紅ちゃんは」
座ったまま肩をすくめ、その女性、鳴澤皐月は少し残念そうな顔をした。彼女自身、男性をからかって反応を見るのは好きだったが、紅に限ってそれは通用しないらしい。
「それで。今日は、何の用でこっちまで?」
茶の間にあった座布団の一つを引っ張り出し、紅もその上に腰かけた。
「そうね……。とりあえず、仕事道具を作るための素材集めってところかしら。土師見の樅は、私から見ても一級品のものだしね」
「樅か……。それで、誰かの卒塔婆か棺桶でも作るつもりか?」
「まさか。縁起でもないことを言わないでちょうだい。樅は、木札の材料にもなるからね。こと、魔封じの札を作るには、素材になる木の質が関係してくるのよ」
「なるほどな。さすがは、俺の爺さんが認める退魔具師ってところか……」
先ほどまでの表情とは打って変わり、紅が感心した様子で皐月を見た。
退魔具師。魔除けの札を初めとした、向こう側の世界の住人達と戦うための道具を作ることを生業とする職業。その中でも皐月の守備範囲は極めて広く、魔除けの札作りから呪いの解除、果ては退魔師の用いる武器の作成まで一挙に手がけている。
そんな皐月の格好だが、どう見てもこんな山間の村に赴くには不釣り合いなものだった。黒いスーツに身を固め、紫色のアメジストをはめ込んだアクセサリーを首や耳、それに腕にもつけている。髪の毛からは、ほのかに鼻腔を刺激する甘い香りを漂わせてもいた。
だが、そのような外見に反し、皐月の腕は確かなものがあった。それこそ、紅の祖父である臙良も認める程に、優秀な退魔具師である。
退魔具師の皐月と拝み屋の多恵。この二人にならば、例の旧校舎に出る幽霊の話を相談してもよいだろう。そう考えた紅は、先ほどから皐月と向かい合う形でお茶を飲んでいた祖母へと顔を向け、徐に今日の出来事を語り出す。
「なあ……。ところで、話は変わるんだが……」
「なんだい、紅。何か、学校で良からぬことでもあったのかえ?」
「まあ、そんなところだな。今日の昼、学校の不良どもに呼び出されて、肝試しへの参加を強要された。なんでも、廃校になった土師見第二中の旧校舎へ、金曜の晩に探索に行くらしい」
「それはまあ、物好きな輩もおったものよのう。人の手の入らなくなった土地など、穢れ地になっておることも多い故に……。決して誉められたものではないな」
「俺も同感だ。だが、このまま放っておいて、妙なことになっても後味が悪いからな。それに、あの旧校舎には変な噂もある。万が一のことを考えると、爺さんや婆さんの力を借りた方がいいんじゃないかと思ったんだが……」
「なるほどのう。まあ、私もあの学校の横は何度か通ったことがあるが……恐らく、不浄の者の一つや二つは住みついていると言っても過言でないぞ……」
湯呑のお茶をすすりながら、祖母の多恵が紅を諭すように言った。いつもは細く真横に伸びた目が、どこか険しく見開かれて紅を見る。
「それは、こっちも分かっている。だからこそ、事態が大事になる前になんとかしたい。憑かれたり、祟られたりした者から闇を祓うのは、単に向こう側の世界の連中と対話するよりも大変なんだろう?」
紅も、負けじと多恵に食い下がる。
悪霊や祟り神は、それその物も危険な存在だ。しかし、それ以上に厄介なのが、彼らを怒らせ禁忌に触れてしまうことである。
悪霊に憑依される、もしくは祟り神に祟られる。そういった場合、退魔師の仕事は途端に難しいものとなる。憑依した霊を追い出すことは、下手をすれば憑かれている者の命に関わる事態に陥ることも多い。祟り神と対峙するに至っては、逆にこちらが命を奪われないとも限らない。
触らぬ神に祟りなし。昔から言われている諺であるが、これは確かに真実だろう。好奇心から下手に霊を刺激して、取り返しのつかないことになってからでは遅いのだ。
理科準備室に現われる少女の霊の話が、果たしてどこまで本当なのかは分からない。だが、祖母の話を聞く限りでは、噂に関係なく、不浄霊の一つや二つは旧校舎に巣食っている可能性がある。
どちらにせよ、あの旧校舎は足を踏み入れてはならない場所なのだ。だからこそ、紅はこれが恐ろしい事件の引き金になりそうで不安だった。深夜、その辺の神社の境内を回るような肝試しとは、根本的にわけが違うのだから。
「なあ、婆さん。できることなら、あの不良共が肝試しをやる前に、なんとかできないか? 妙なものが巣食っているんなら、それこそ、婆さんの力でさ……」
「いんや、無理だね。私はただの拝み屋だよ。この世に未練を残して亡くなった霊の、愚痴を聞いてやるのが仕事さね。臙良のように、なんでもかんでも祓えるってわけじゃあないんだよ」
「だったら、俺から爺さんに頼む」
「残念だね、紅。臙良なら、仕事で今日の夜から出かけるよ。しばらくは戻らないと言っていたし、帰って来るのは次の日曜くらいではないかのう」
「なんだって!? ったく……。どうしてこう、肝心な時に出かけちまうんだよ……」
頼みの綱が次々と音を立てて切れてゆく音が、紅には頭の中に直接響いてくるような気がした。
祖母の多恵は、自分の力では悪霊を退治することができないと言う。最後の砦であった祖父の臙良も、帰って来るのは日曜日。今度の金曜がに肝試しが実施されることを考えると、それでは遅すぎる。
家に帰れば、なんとか打開策があると思っていた。その考えが脆くも崩れさり、紅は表情を曇らせる。
だが、そんな彼の気持ちなどお構いなしに、多恵はさらにとんでもないことを言ってきた。
「のう、紅。なんだったら……旧校舎に出る亡霊とやらを、お前が祓ってみてはどうじゃ?」
「なっ……!? 冗談じゃないぞ、婆さん。俺はまだ、修業中の身だ。爺さんみたいに、悪霊と正面切って戦うなんてことは……」
「おや、自信がないのかえ? あれだけの剣の腕を持っているのなら、お前にもやって出来ぬことはないじゃろうに……」
「それとこれとは、話が別だ。いくら剣を上手く使えたところで、向こう側の世界の住人相手には通用しない。それは、婆さんだって分かっているだろう?」
「まあ、確かにそうじゃな。ただ……連中と対等に渡り合うための道具があれば、そうも言えまい」
多恵が、皐月の方をじっと見る。一瞬、何事かと思った皐月だったが、すぐにその意味を理解した。
「なるほどね。確かに、武器さえあれば、なんとかなるかもしれないわね」
そう言いながら、皐月がなにやら意地の悪そうな笑みを浮かべる。いつもは冷静にふるまっている紅を、ほんの少しだけ困らせてみたい。そんな気持ちが見え隠れしているような笑い方だった。
「道具だったら、私の方でなんとか用意しておくわ。今の紅ちゃんでも使えるような物くらい、金曜までには用意できるしね」
「今の俺にって……随分と、過大評価されたもんだな。何度も言っているが、俺は修業中の身で……」
「そうは言っても、私よりは強い力を持っているんでしょう? だったら、私の作った道具を使うことだって簡単よ。なんだったら、お姉さんが手取り足取り、使い方を教えてあげようかしら?」
「勘弁してくれ……。言っておくが、俺は皐月さんの玩具にされるような趣味はない」
左手で目元を押さえながら、紅は思わずため息をついて口にした。
どうやら多恵は、本気で紅に退魔師として第一歩を踏み出させようとしているらしい。その上、皐月も皐月で、この状況を喜んでいるようだ。
確かに、退魔師としての仕事をするのは、紅も納得していないわけではなかった。それこそ、ゆくゆくは赫の一族の末裔として、祖父の仕事を継がねばならないのだから。
しかし、今の紅は、祖父とは異なり未だ修業中の身だ。いかに皐月の作る退魔具が優秀でも、それを使って悪霊を祓えるとは限らない。向こう側の世界の住人と戦うための術はいくつか習っていたものの、それはあくまで練習の上での話だ。実際に、本番でその力を使った経験は、当然の事ながらない。
「はぁ……。まあ、仕方ないな。婆さんに無理させるわけにもいかないし、かと言って、あの馬鹿どもを放っておくわけにもいかないからな。ここは一つ、出来るだけのことをやってみるか……」
表向きには納得したような台詞を言って、紅は再び多恵と皐月の方を見た。二人とも、何やら妙に期待に満ちた目でこちらを見ている。
どうやらここは、本気で覚悟を決める他になさそうだ。不良連中の安否などはどうでもよかったが、やはり、穢れ地に巣食う闇を外に解き放つようなことになっては一大事である。
その上、下手に弱気になれば、皐月が妙な退魔具レクチャーを始めかねない。それこそ、向こう側の世界の住人と戦う前に、色々な意味で皐月に食べられてしまうかもしれないのだ。
赫の一族として、初めて闇と対峙する。金曜までには日があったものの、その現実は、否応なしに紅を緊張させていた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
九月に入ったばかりだというのに、その日の晩は特に蒸し暑い夜だった。
宵の闇に染められた山々を背景に建つ校舎を前に、田所隆二は仲間と共にそれを眺めていた。昼間は深い緑色をしているであろう山々の樅は、今は薄暗く不気味な色に変わっている。
梢と梢の間を風が通り抜ける度に、樅の葉がザワザワと揺れて音を立てた。老朽化の進む旧校舎の姿と相俟って、その光景は否応なしに人の不安を煽るものだ。
「田所さん。犬崎のやつ、本当に来ますかね?」
待ち合わせの時間には早かったが、それでも仲間の一人が早くも痺れを切らしているようだった。
「奴は来るさ。腐っても、オカルト一家の息子なんだからな。こういった話は、あいつにとっても絶好の餌だろうよ」
「でも、びびって来ないってこともあるんじゃないっすか?」
「その時はその時だ。これであいつが来なければ、犬崎の家の人間なんぞ、何の力もないハッタリ野郎だということを証明できるんだからな。そうなれば、この土師見の中学は、俺達が締めたも同然だ」
「なるほど。さっすが田所さんですね」
「だろ? 今日の肝試しは、あの犬崎の野郎の化けの皮を剥ぐための、絶好の舞台ってわけさ。そのために、お前にも力を貸してもらうぜ、澤井」
田所が、何やら含みのある笑みを浮かべて言った。澤井と呼ばれた彼の仲間も、無言のまま頷いてそれに答える。
旧校舎に出る幽霊の話など、田所は端から信じていなかった。そればかりか、今日の肝試しの計画自体、犬崎紅を嵌めるための罠なのだ。
現在、田所の周りにいる仲間は三人。先の澤井明俊に加え、二年の権田健史と一年の柏木辰巳がいる。
澤井は田所と同じ三年であり、同時に彼の昔からの仲間である。いや、むしろ仲間というよりは、部下と言った方が正しいだろう。
強者に弱く、弱者に強い。格下相手には高圧的に出る癖に、田所に対しては必要以上に持ち上げる、典型的なごますり男。サラリーマンにでもなれば出世しそうなタイプだが、田所自身、澤井のことをそこまで気に入ってはいなかった。こういう人間は、いざとなれば我先に裏切って、今までの恩をあだで返すという相場が決まっているからだ。
二年の権田に関しては、ある意味で澤井よりも酷い。
柔道の経験もある権田は、体格だけならば田所よりも良い。だが、そういった人間にありがちな、頭の悪さが欠点だった。なにしろ、ちょっとしたことで直ぐに頭に血を昇らせて、殴り合いの喧嘩を起こしかねないのだから。
力は他者を服従させるために必要だが、それ故に、無闇に振るっては価値が下がる。単細胞なゴリラでは、所詮、喧嘩の一番槍として格上の人間に利用されるだけの存在だ。
そして、最後の柏木辰巳。こいつに関しては、田所も少しだけ期待しているところがあった。
柏木はまだ一年だったが、その残虐性は、仲間の内でも最も高いものがあった。小学校の頃から小動物を虐め殺すような人間だったらしいが、そういったタイプにある根暗な印象はまったくない。どちらかと言えば、遊びの延長で犬や猫を殺す事に、何の罪悪感も覚えないような人間だ。
ウザいから殺す。それが柏木の口癖だった。この田舎の村において、ある意味では最も今風の若者に近い考えを持つ彼は、確かに先の二人よりも不良として期待するものがある。だが、それもあくまで、他の二人と比較しての話である。
村の田んぼにいる蛇や蛙を残虐にナイフで痛めつけたところで、そんなものは、所詮は餓鬼のお遊びと変わらない。小さな暴力で自己満足しているようでは、まだまだ幼いと言わざるを得ない。
結局、頼りになるのは自分自身しかいない。仲間は皆、存在そのものが格下の連中ばかりである。その上、この村に残る妙な因習のせいで、自分は未だに小さな中学校一つ締められない。現に、あの犬崎紅は、田所に対してまったく臆することなく話していたのだから。
できることならば、一刻も早く高校に上がり、街へと繰り出してゆきたかった。こんなダサい田舎の村で燻っていては、今に全身にカビが生えてしまう。
そう、田所が考えた時だった。
雲と雲の切れ間から、淡い一筋の月光が舞い降りる。その明かりに照らされて、闇の中から一人の少年が姿を現した。
「待たせたな……」
宵の闇の中から現れた少年、犬崎紅が、田所に向かって言った。田所も、「おう」とだけ返して紅を見る。
田所が明からさまにガンを飛ばしているにも関わらず、紅はその態度をまったく変えることがなかった。そのことが田所を無性に苛立たせたが、ここは仲間の手前、軽率な行動は控えることにした。
「へぇ、ようやく来やがったか。逃げ出したんじゃないかと思ったぜ」
田所に代わり、澤井が紅を挑発する。しかし、紅はそれを完全に無視し、目の前にそびえ立つ旧校舎を睨んだ。
今では使われることのなくなった、木造の古臭い作りの旧校舎。大きさも、紅達の通うコンクリート製の校舎と比べ、どこか一回り小さな印象を受ける。
だが、そんな旧校舎ではあったものの、その姿が今の紅達にはやけに大きく映って見えた。漆黒の闇の中、まるで獲物がやって来るのを待つ怪物のように、校舎その物が大きな口を開けて待ち構えているのではないかと感じてしまう。
「それじゃあ、さっさと行くぞ、犬崎。ところで……その手に持っている物はなんだ?」
紅の手に握られた、奇妙な棒状の物体。小太刀程度の大きさを持つそれは、一見してただの短い木刀にしか見えない。
「ああ、これか。簡単に言うなら、幽霊退治の道具ってところだな。この旧校舎に伝わる噂……あんたも知らないわけじゃないだろう?」
「理科準備室に出る女の霊の話か?」
「そうだ。万が一のことがあった場合、こいつでその霊とやらを祓う」
「へっ、頼もしいじゃねえか。まあ、お前がその気なら、こっちも手間が省けるってもんだな。なにしろ、今回の肝試しは、その女の霊の噂を確かめるためのもんだからよ」
「勝手にしろ。だが……仮にこの中の誰かが危害を加えられても、完全に守り通せるという保証はない。ヤバいと感じたら、すぐに逃げてくれ」
紅は本気で言っていたが、田所を初めとした不良達は、それを鼻で笑っていた。
幽霊など、この世にいるはずがない。そう思っているからこそ、今回の肝試しのような、死者をも恐れぬ暴挙を働くことができる。
正直なところ、紅は気が重かった。赫の一族の仕事とはいえ、何故に、このような輩を悪霊から守らねばならないのか。自業自得、因果応報で罰を受けるなら、それもまた仕方のないことではないだろうか。
ふと、そんな考えが頭をよぎったが、紅はすぐさま首を横に振って邪念を打ち消した。
彼らを守るのは、手段であって目的ではない。紅の本当の目的は、この不良達が禁忌に触れて、村に穢れを撒き散らすのを防ぐためだ。結果として田所達を救うことになるのが不満だったが、これも仕方ないことである。
閉鎖された学校の門を乗り越え、紅と田所達は校庭へと侵入した。人の手が入らなくなった校庭は、今やそのあちこちに、背丈の高い雑草が勢力を広げている。特に、隅の方は侵食も酷い。
雑草を掻き分けるのが面倒だったのか、田所は独り校庭の中心を突っ切るような形で進んだ。紅と、田所の仲間もそれに続く。
いざ、近づいてみると、旧校舎は想像以上に朽ち果てているようだった。木の腐った独特の匂いが鼻をつき、かつては通用口だった場所の奥からは、なんとも言えぬ陰鬱な気が溢れ出している。
「行くぞ……」
そう、一言だけ告げて、田所は旧校舎の中に足を踏み入れた。彼の仲間も、それに続く形で後を追う。
昼間に見るのとは明らかに異なる、異様な空気に包まれた旧校舎。そんな場所にずかずかと入ってゆけることが、紅には不思議でならなかった。
普通の人間であれば、この場の空気に飲まれて躊躇いそうなものだ。やはり、不良の神経というものは、一般人のそれとはどこか一線を画しているのだろうか。
ぎしっ、ぎしっ、という木の軋む音と共に、田所を先頭にした一団が夜の旧校舎を歩く。頼りになるのは、手にした懐中電灯の僅かな明かりのみ。校舎の中に充満した埃臭い空気が、否応なしに紅の鼻を刺激する。
(見られているな……)
校舎のあちこちから妙な視線を感じ、木刀を握る紅の手にも力が入った。
一度、目を瞑ってから、紅は大きく息を吸い込んで静かに吐き出す。埃を吸い込むのは嫌だったが、この際、贅沢は言っていられない。
肺の中の空気を吐き出したところで、紅の瞳が再び開かれた。いつもの燃えるように赤い瞳が、さらにその赤さを増して輝く。それは炎の色というよりも、体に流れる血の色そのものだ。
現世を漂う、向こう側の世界の住人の姿を見えるようにすること。それが、紅が祖父に初めて教わった退魔師としての技だった。
常世の世界を除けるからといって、紅とて常に相手の姿が見えているわけではない。直感で何かを感じ取ることはあっても、よほど強い力を持った霊でもない限り、意識を集中せねば姿を見ることは敵わない。
霊的な存在に対する、可視と不可視の状態を使い分けること。簡単そうなことではあるが、向こう側の世界と関わる者にとっては重要なことだ。この切り替えがうまくいかず、その辺に漂っている浮遊霊まで常に見えてしまうのであれば、いかに紅とて発狂しないという自信はない。
今、紅は、その精神を集中させることで、霊的な存在に対して可視の状態に入っていた。未だ何の姿も見えないものの、こちらを舐めるように見ている妙な視線だけは確かに感じる。
物陰から様子をうかがっているだけなのか、それとも他に何か意図があるのか。
可視の状態を途切れさせないように集中しながら、紅は油断なく辺りの様子を見回していた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
薄暗い、朽ち果てた校舎の一室で、何かを待つようにして座りこむ一つの影があった。
兼元一也。彼もまた、あの田所隆二の仲間である。他のメンバーとは異なり徹底した現実主義者で、その上、頭もよく切れた。
実質上、田所のグループの中では彼が参謀であった。同じ学年の澤井と比べても、兼元の方が田所から信用されていた。それに気づいていないのは、ごますり男である澤井だけだ。
兼元が旧校舎の中に先回りしているのは、田所の命令である。犬崎紅を陥れるために、兼元はあえて理科準備室の中にいた。
準備室に現われる、少女の怨霊。兼元とて、その話を知らないわけではない。もっとも、幽霊がどうしたという類の話は、兼元はまったく信じてはいなかった。
怨霊が出るとされる場所で犬崎紅を待ち、本人が現れたところで、変装した自分が紅を脅かす。紅が、恐怖に慌てふためいて逃げだせば良し。逆に、お祓いのようなことを始めたら、それはそれで面白い。人間の扮した幽霊相手に除霊などを始めたら、それこそが紅の霊能力を否定する証拠となる。
どちらに転んでも、事は自分たちにとって都合よく運ぶのだ。村の年寄り連中が言っている迷信を暴き、更には目障りな紅を陥れることができるとすれば、これほど面白いことはない。
手にしたかつらを頭に乗せて、兼元は持ちこんだ白装束を身にまとった。どちらも、学校の倉庫から失敬してきたものである。数年前の演劇発表か何かで使われたものを、田所達と一緒にくすねてきたのだ。
白い着物を着た、長い髪の女の幽霊。本当はセーラー服でも着た方が良いのだろうが、さすがにそこまで激しい女装をする趣味はない。ステレオタイプな幽霊の姿であるとは思ったが、これでも驚かせるには十分なはずだ。
準備は完了。後は、田所達が犬崎紅を連れて来るのを待てばよい。
「ったく……。それにしても、湿っぽい場所だな……」
暗闇の中、兼元は辺りの様子を窺うようにして首を動かした。
幽霊の存在を信じていない兼元にとって、暗闇そのものは別に怖いとも思わない。朽ち果てた旧校舎にあっても、それは同じことだ。ただ、古く暗いだけの建物というだけで、いちいち怖がっていたらきりがない。
幽霊の話など、所詮は年寄りか噂好きの小学生が作りだした与太話に過ぎない。そう考えていた兼元だったが、今日に限って妙な不安感が彼の心の中で蠢いていた。同学年の中でも特に肝が据わっているとされる兼元だったが、なぜだか今は無性に落ち着かない。
(馬鹿らしい……。こんなボロいだけの建物なんぞに、いちいちビビッてられねえぜ……)
不安を打ち消すようにして、兼元は独り鼻で笑う。この場の空気に飲まれてしまうほど、自分は弱い人間ではないはずだ。
――――ピチャッ……。
次の瞬間、兼元の耳に、何かの雫が滴り落ちるような音がした。それも、遠く離れた場所からではない。今、自分のいる場所の、すぐ近くから音がした。
――――ピチャッ……。
また、何かが垂れた。
間違いない。音は、この部屋から聞こえて来る。
水道の蛇口が閉まっていないのかとも思ったが、それは考えられないことだった。この旧校舎は、とっくの昔に電気も水道も止められているはずだ。
では、あの音の正体はなんなのか。雨漏りという線も考えられず、兼元は思わずその場で首をかしげた。
――――ピチャッ……ピチャッ……ピチャッ……。
音は、規則正しいリズムを刻みながら、絶え間なく兼元の耳に響いてくる。とうとうたまらず、兼元は音の正体を探るために腰を上げて動き出した。
音は、自分のすぐ側から聞こえて来る。薄暗い準備室の、窓辺の方からだ。
足音を立てないように注意しながら、兼元はそっと音のする方へ近づいて行った。いつになく緊張しているというのが、自分でもはっきりと分かる。単に水音の正体を調べるだけだというのに、なんとも情けない話だ。
(下らねえ……。何、ビビってんだよ、俺は……)
兼元が足を出すと、それに従って音も強くなった。窓際の、今では使われなくなった流し台まで辿り着き、兼元はそこに水溜りのような物を発見した。
「なんだ、こいつは……?」
校舎の水道は、とっくの昔に止められている。では、この流しに残る水溜りはなんなのか。そっと指を出して触れてみると、なにやら生温かく、妙に粘性の高い液体だった。
指に付いた液体を摘まむようにして、兼元はそれを自分の鼻先に近づける。何やら生臭く、それでいて錆びた鉄のような匂いが、彼の鼻腔を刺激した。
「……っ!?」
自分の指に付いている物の正体に気づき、兼元は思わず後ずさった。室内だというのに、妙に生温かい風が吹いて、彼のかぶっているかつらの髪を揺らした。
今、顔を上げてはいけない。そこにある物を見れば、決して日常には戻れない。そう分かっていても、自分の考えとは反対に、頭だけが動いてしまう。
自分の指先から、その視線をゆっくりと天井へ移す兼元。そこにいた者の姿を見た時、彼の精神は一度に決壊の時を迎えた。
「ひっ……!!」
天井からこちらを見下ろしている、醜く歪んだ顔をした異形の者。それは、ぱっくりと開いた腹から赤黒い液体を滴らせ、兼元の方を見つめたままニタニタと笑っていた。
「ぎ、ぎゃぁぁぁぁっ!!」
ドサッ、という音と共に、天井に貼りついていた者が床へと落ちた。その音に合わせ、兼元の叫び声が夜の旧校舎にこだました。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
深夜の旧校舎に、突如として悲鳴が響き渡る。その叫び声に、廊下を歩いていた紅達は思わず足を止めた。
「おい! なんだ、今のは!?」
「あれは……兼元か!?」
「兼元だと? 貴様、いったいどういうことだ……」
その場にいない者の名を口にしたことで、紅が田所のことを睨んだ。
旧校舎の探索は、紅と一緒に行うはずだった。しかし、今の田所の話を聞く限りでは、どうやら一足先に校舎の中へと足を踏み入れていた者がいるようだ。恐らく、不良の田所のこと。きっと、何か良からぬ考えあってのことに違いない。
「旧校舎の探索は、俺を混ぜて行うって話だったんだがな……。それなら、今の悲鳴は何だ」
「さあてね……。誰か、他にも肝試しをやってるやつがいたんじゃねえのか?」
「下手な嘘だな。だが……今は、そんなことはどうでもいい」
あの悲鳴が、ただ事でないことは紅にも分かっていた。木刀を握る紅の手にも、思わず力が入る。
朽ちた校舎が崩れて事故でも起きたのか、それとも何か、恐ろしい物に遭遇したのか。原因など、考え出せばきりがない。
とにかく、今はあの悲鳴の主を、なんとかして助けることが先決だ。そう思ったが早いか、紅は板張りの廊下を蹴って走り出していた。声の聞こえてきた方角、理科室の方へと向かい、足を急がせる。
「おい! 待てよ、犬崎!!」
後ろから、田所達も追ってきた。それでも紅は、振り向くことなく先を急ぐ。不良どもに構っている暇など、今はない。
理科室の前に着くと、紅は部屋と廊下を隔てる扉を乱暴に揺すった。扉は建てつけが悪く、なかなか思うように開いてくれない。苛立ちを抑えきれない顔をして蹴り飛ばすと、ガタっという音と共に、扉は無残にも外れてしまった。
外れた扉を半ば放り出すようにして、紅は理科室への入口を開け放った。部屋の中には使われなくなった実験机が並んでおり、かつては様々な標本や薬瓶が並んでいたと思しき棚の姿もある。
「どこだ……。どこにいる!!」
焦りは禁物だと分かっていたが、それでも逸る鼓動を抑えることができなかった。
この校舎に入ってから感じていた、こちらを舐めまわすようにして見つめる奇怪な視線。それが、この部屋に入った途端、急に強くなった。可視の状態にある今ならば、相手の姿もはっきりと捉えるとができるだろう。
暗闇の中、紅の赤い目が、まるで何かを探すレーダーのように輝いた。日中は、強い光を受けただけで痛みを感じてしまう真紅の瞳。そんな彼の目は、闇の中でこそ真の力を発揮する。夜行性の獣の目のように、灯りを用いずとも闇の中の様子が分かるのだ。そればかりでなく、力を行使すれば、この世にはあり得ない者の姿を見ることさえも可能となる。
静まり返った理科室の中で、紅は油断なく視線を動かした。相手はどこから、何を仕掛けて来るか分からない。敵の正体が分からない以上、こちらも気を抜くことは許されない。
「あれは……」
紅の瞳が、部屋の隅で丸くなっている者の姿を捉えた。白装束に身を包み、手には長髪のかつらを持っている。その恰好から一瞬だけ女かと思ったが、相手はどうやら男のようだった。それも、自分とそう歳の離れていない少年だ。
「おい……。お前、こんなところで何をしている?」
紅が、暗がりの中で震えている少年に近づいて尋ねた。その声に、少年は一瞬だけ、肩をビクッと震わせて反応する。
「お前、田所の知り合いか? なんで、俺達より早く旧校舎に入った?」
紅は少年を問い詰めたが、少年は何も答えなかった。その代わり、掠れたような声を洩らしながら、震える指で部屋の奥になる扉を指差す。
それは、理科準備室へと続く扉だった。古びた木製の戸は開け放たれ、その奥からは漆黒の闇が顔を覗かせている。
間違いない。先ほどから自分達を見ていた者は、あの奥に存在する。
右手に木刀を握りしめ、紅は無言で立ち上がった。後ろから、なにやらバタバタと駆けて来るような音が聞こえる。きっと、田所達が追いついたのだろう。
――――ズルッ……。
暗闇の奥から、何かを引きずるような音がした。油断なく、紅は音のする方へと目を向ける。
――――ズルッ……ズルッ……。
再び、引きずるような音。それは徐々に、こちらへと近づいているようにも思われる。
「ひ、ひぃっ!!」
紅の横で丸くなっていた少年が、小さな悲鳴を上げて脚に縋りついた。一方の紅は、あくまで落ち着き払った表情で、闇の奥から這い出て来た者を見つめている。
「なるほど……。あれか……」
紅の瞳が、細く、鋭く変化した。いつもの、どこか儚くぼんやりとしたような目ではない。獲物を駆る時の肉食獣のような、向こう側の世界の者と戦う時のそれだった。
「な、なんだ、ありゃ……」
後ろから、田所達の声が聞こえてきた。今、紅の前に現われた者が、恐らくは彼らにも見えているのだろう。
黒い髪を振り乱し、ヒキガエルのようにして地面を這う奇怪な少女。その顔は半分が焼け爛れ、腹の部分からは赤黒い液体が溢れ出ている。少女の這った後には、腹から溢れたと思しき液体が、赤く太い線を描いていた。
「どうやら、噂はまったくの作り話ってわけでもなかったみたいだな……」
旧校舎の理科準備室に現われる、割腹自殺を遂げた少女の霊。話には聞いていたものの、こうして対峙してみると、やはりそのおぞましいしい姿に顔を背けたくもなる。
だが、ここで自分が逃げ出してしまっては始まらない。手にした木刀に力を込めると、紅は意識を刀身へと集中させた。木製の刀に刻まれた複数の梵字が、淡いオレンジ色に輝き始める。
霊木刀。鳴澤皐月から借り受けた、退魔師の用いる武器の一つだ。その威力は、純粋に使用者の力に比例して強くなる。本来であれば梵字が炎のように赤く輝くのが普通だが、今の紅ではオレンジ色の輝きを持たせるので精一杯だった。
「行くぞ……」
小太刀の形をした霊木刀を構えたまま、紅はじりじりと少女の霊に近寄った。その力を感じ取ったのか、少女の霊も動くのを止める。首を上げ、恨めしそうな顔をこちらに向けて、喉の奥から低く唸るような声を洩らした。
紅と少女。闇の中で、赤い瞳と淀んだ瞳が対峙する。一瞬たりとも視線をそらすことをせず、ただお互いに、その心の奥底を覗き込むようにして睨み合った。
静寂に包まれた理科室の中で、時間だけが無情に過ぎてゆく。ほんの数秒しか経っていないにも関わらず、一秒が一時間程にも感じられるような、緊迫した空気が辺りを包む。
(おかしい……)
目の前にいる少女の霊に、紅はふと、妙な違和感を覚えた。
噂が本当ならば、少女は呪いの言葉を残してこの世を去ったはずだ。つまり、強い恨みの念を持って怨霊となったはずなのである。
しかし、目の前にいる霊はどうだろうか。確かに恐ろしく、奇怪な姿をしているものの、その瞳からは悪意のようなものは感じられない。なんというか、こちらの怖がる様子を見て楽しんでいるような、そんな感じなのだ。
(去れ……)
そう、心の中で念じ、紅はその感情を直接相手にぶつけてみた。視線を通し、相手に気弾としてこちらの感情を叩きつける。これもまた、祖父から教わった技の一つだ。
こちらの意思が伝わったのだろうか。少女の霊が、一瞬だけ肩を震わせた。
(ここから去れ……。さもなくば、お前を無に帰すことになるぞ……)
再び、気弾に感情を乗せて叩きつける。その度に、少女の霊は怯えるようにして肩を震わせ、紅から視線を背けようとした。
間違いない。この霊は、紅の聞いた怪談話に出てきた少女の霊ではない。もっと低級で、それでいて性質の悪い存在だ。
そう、紅が考えた時だった。
「うぅぅぅぅ……あぁぁぁぁっ!!」
少女の霊が、突然奇声を上げて向かってきた。恐ろしいまでの速さで床を這い、紅の方へと迫って来る。
「ひ、ひぃぃぃぃっ!!」
紅の足元にいた少年、兼元一也が、情けない声を出して逃げ出した。そんな彼を一瞬だけ横目で見ると、紅は再び少女の霊へと視線を移す。
既に、少女の霊は、紅の足元近くまで迫っていた。赤黒い血にまみれた手で、動かない紅の足をがっしりとつかむ。
ぞっとする程に冷たい感触が、紅の足を痺れさせる。肌に直接ドライアイスを押し当てられているような感覚に、紅は思わず舌打ちをした。
この世の者ではない、死者の手に握られる感触。それは、決して気持ちの良いものではない。
紅の足元で、少女の霊が勝ち誇ったような笑みを浮かべている。爛れた顔を見せつけるようにして、カッと見開かれた瞳が紅を捉えた。
並みの人間であれば、今すぐにでもここから逃げ出していただろう。もしくは、完全に正気を失うか、硬直して動けなくなってしまうかだ。
ところが、そんな状況にあってもなお、紅は至って冷静に相手のことを見据えていた。腐っても、退魔師である赫の一族の末裔。この程度のことで、驚いて逃げ出したりする紅ではない。
「ハッタリはそこまでだ。いいかげん、正体を見せたらどうだ?」
最早、何の興味もないと言った口調で、紅は手にした小太刀を少女の頭に突き立てた。
「ぎぃぃぃぃっ!!」
ガラスを引っ掻いたような甲高い悲鳴が、夜の理科室にこだまする。霊木刀の一撃を受けた少女の霊は、その頭から白い煙のようなものを上げて苦しみ悶えた。
「な、なにが起きてるってんだよ……」
あまりのことに、後ろで様子をうかがっていた田所が思わずこぼした。その間にも、少女の頭からは白い煙が立ち昇り、水をかけられた泥のように、全身が崩れてゆく。
やがて、その身体が全て青白い塊になってしまうと、それは徐々に四本の足を持つ生き物の姿へと変わっていった。
「なるほど……。狢か……」
タヌキとも、アナグマとも取れる、奇妙な動物の形をした青白い物体。紅の一撃によって正体を晒したそれは、やがてゆらゆらと揺れながら、天井の隙間に吸い込まれるようにして消えて行った。
「終わったぜ」
田所達の方を振り向き、紅が感情のこもらない口調で言った。その声を聞き、不良達も初めて我に返った様子で紅を見る。
気がつけば、理科室は再び静寂に包まれていた。気のせいか、先ほどまで部屋に漂っていた、気持ちの悪い空気も消えている。
「あれが、噂の正体だ。残念だが、自殺した女の霊ってやつは、誰かの作った与太話みたいだったな」
自分の見解だけを簡単に述べ、紅は独り理科室を出る。後ろから田所達が何かを言っていたが、そんなことはどうでもよい。
旧校舎に巣食う少女の怨霊。その正体は、実に下らないものだった。全てを祓ってしまった今となっては、旧校舎を覆っていた薄気味悪い気も感じられない。あるのはただ、老朽化した校舎の放つ哀愁にも似た木の香りだけだ。
「あの……。田所さん……」
状況を飲み込めず、澤井が田所の顔を覗き込むようにして尋ねた。しかし、田所はそんな澤井には目もくれず、去り行く紅の後姿を険しい表情のまま見つめていた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
犬崎家。
旧校舎から戻った紅を待っていたのは、多恵と皐月の二人だった。祖母の多恵はともかく、皐月まで一緒とはどういうことだろうか。まあ、霊木刀を返さねばならない手前、この場に居合わせてくれたのは幸いだが。
「おや。帰ったのかい、紅」
「ああ、たった今な。一応、五体満足な姿で帰って来れたぜ」
「それはなによりじゃ。まあ、座りなさい」
多恵に促され、紅も座布団の上に腰を下ろした。見ると、ちゃぶ台の上には酒の入ったとっくりと杯が置いてある。どうやら、多恵が皐月に勧める形で出した物のようだった。
「それよりも……例の学校やらには、何か出たのかえ?」
「まあな。最初は怨霊だと思ったが、ちょっと揺さぶりをかけてやったら、すぐに尻尾を出しやがった。古い建物になら大概は巣食ってる、狢の霊の類だったな」
「なるほどのう。まあ、お前さんのことじゃ。私は大丈夫だと思っておったがな」
「随分な自信だな。さては婆さん、あの場所に出る幽霊の正体、知っていたんじゃないだろうな」
「はて、何のことかのう? 私はただ、お前に退魔師として最初の試練を課してやったに過ぎんのじゃが……」
そう言う多恵の視線が一瞬だけ逸れるのを、紅は見逃さなかった。
恐らく、多恵は知っていたのだろう。あの旧校舎に巣食っている霊の正体も、それが今の紅の力でも十分に対処できるような存在であるということも。だからこそ、肝試しに向かう紅を止めることもしなかったに違いない。
そもそも、冷静になって考えれば、すぐに気づきそうなものだった。この土師見村に、立入るのも憚られるような穢れ地は存在しない。仮にそんな場所があれば、紅の祖父である臙良が真っ先に魔を祓っているはずである。
土師見第二中の旧校舎が、しがない動物霊達の住処になっていること。多恵はそれを知った上で、紅を向かわせたのだろう。本当に悪鬼と化した怨霊が相手ならともかく、悪戯好きの動物霊が相手なら、今の紅でも十分に祓える。皐月の道具を用いるという前提はあるものの、危険性は殆どない。
結局、あれこれと悩んでいたのは自分だけだったのか。妙な使命感に駆られて不良どもと旧校舎の探索に向かったが、それはあくまで多恵の掌で踊らされているに過ぎなかった。
真相が分かってしまえば、途端に緊張の糸も解れて来る。何やら色々と振りまわされたような気がして、一気に疲れが襲ってきた。
「悪いな、婆さん……。今日は、早目に寝かせてもらうぞ。雑魚相手とはいえ、初めて霊と戦ったんだ。霊傷の類は受けていないが、さすがに少し疲れた……」
「おや、そうかい。だったら、布団は私の方で敷いておくよ。お前は先に、熱い風呂にでも入っておいで」
「あら、いいわね、紅ちゃん。なんだったら、私も一緒に入ろうかしら?」
先ほどまでは黙って酒を飲んでいた皐月が、途端に話に割り込んできた。見ると、その顔はかなり赤い。普段は冷静な美人を装っているが、今はその表情にもどこか締まりがない。
「勘弁してくれ、皐月さん。俺だって、もう小学生のガキじゃないんだ。風呂くらい、一人で入れるさ」
「だったら、今晩は私もこの家に泊まるから……一緒に添い寝してあげるってのは、どう?」
「だから、そういうのを止めてくれと言っているんだ。いくら俺が男だからって、いつも女の裸しか頭にないと思わないでくれないか」
「もう、面白くないわね、紅ちゃんは。折角、今宵は紅ちゃんの、記念すべき筆降ろしの日にしてあげようと思っていたのに……」
「もう、下ネタはいいかげんにしてくれ……。俺は、好きでもない女と一緒に寝るような趣味はない……」
そう言うと、紅は借りていた霊木刀を皐月に押しつけるようにして手渡した。そして、次に彼女の口から言葉が出る前に、そそくさと茶の間を後にする。
あのまま茶の間にいたら、それだけで疲労が増すばかりだ。こちとらは一仕事終えてきたばかりだというのに、酔った皐月の玩具にされてはたまらない。
(今日は、襖につっかえ棒でもして寝るか。いや、それこそ、部屋の中に鳴子でも仕掛けておいた方がいいかもしれないな……)
風呂場へと続く廊下を早足で歩きながら、紅は本気でそんなことを考えた。
あの、皐月のことである。下手をすれば、酔った勢いで本当に夜這いの一つでもしかねない。まさかとは思うが、念には念を入れておかないと、決して安心はできないだろう。
結局、幽霊よりも恐ろしい存在は、家で待ち構えていた女達であった。いつの世も、本当に怖いのは生きている人間の方だということだろうか。
万が一、皐月が自分のことを本気で襲ってきたならば、貞操を奪われる前に舌を噛み切って死んでやろう。その上で、自ら怨霊となって末代まで呪ってやる。
そんな物騒なことを考えながら、紅は脱衣所の扉を開けて、上着を脱ぎながらその中へと入っていった。