~ 壱ノ刻 夢幻 ~
四国地方の山間部に存在するその村は、四方を森に囲まれた、典型的な農村だった。九月を迎えているにも関わらず、村の周りを囲むようにして生えている木々は、未だ濃い緑色を保っている。
K県土師見村。主に林業を中心とした、一見してどこにでもあるような山間部の村だ。麓の街との関わり合いもそれなりにあり、一目見ただけでは、単なる田舎の村の一つに過ぎないように思われる。
だが、この地域に古くから住まう人間は、この村のことを畏敬の念を込めて見ることを忘れなかった。村の名前の由来も含め、その村に住んでいる者達が、どのような人間の血を引いていたかを知っていたからである。
村の名前にも使われている土師という言葉。これは奈良の古代豪族である、土師氏の名前に由来する。日本神話に登場する男神、天穂日命の末裔である野見空禰が、埴輪を発明した功績を垂仁天皇に称えられて与えられた性だ。
後に、桓武天皇の時代になると、土師氏は姓を与えられ、大江、菅原、秋篠といった一族へと分かれていった。が、当時の貴族の中には彼らの存在を疎ましく思い、巧妙な策略を張り巡らせて失脚させようと企む者達も多かった。
氏と姓を与えられたとはいえ、土師氏は所詮、埴輪職人を祖とする一族。より簡単に説明するならば、葬儀道具を作ることを生業としていた一族である。当時、都の政治の中心にあった藤原氏などの貴族からすれば、土師氏の末裔の存在は、正に目の上の瘤と言っても差支えないものだった。
そういった諸々の理由から、土師氏の末裔は、徐々に朝廷内での権力を奪われていった。かの有名な菅原道真が太宰府に流され、その死後、雷神として京の都に舞い戻った祟り話などは、一度は耳にしたことのある者もいるだろう。
土師見村が、いつ頃に村として成立したのかは分からない。しかし、その土地につけられた名前から、村の開祖が土師氏の末裔を中心としていたのは間違いない。
恐らく、朝廷内で力を失った一族の末裔が、当時としては流刑地でしかなかった四国に流れつき、村を興したのではあるまいか。その証拠として、彼らの葬儀道具職人としての血脈は、今もなお色濃く村に残っているのだ。
例えば、村の周りに植えられた多数の樹木。秋になっても色を変えないその木々は、杉や檜といった一般的な林業で用いられるものではない。
土師見村の林業を支えているのは、樅だった。クリスマスツリーに用いられることで有名な木だが、そのために育てられているわけではない。
古来より日本では、樅の木は棺桶や卒塔婆の材料として用いられてきた。土師見村の樅も、古くから葬儀道具を作るために使用されることが多かった。豪族を古墳に埋葬していた時代より、彼らは常に向こう側の世界と関わる職人として、今日まで生計を立ててきたのである。
現世と常世を繋ぐ職人の村として、古来より周囲の村々から畏怖されてきた土師見村。だが、そんな土師見村であっても、現代社会における様々な問題から逃れられるわけではない。
近年、土師見村でも、離農や過疎の進行が深刻な影を落としていた。職人たちの後を継ぐ者がいなくなるのも問題だったが、それ以上に、子どもの数が減っていることは致命的だ。
昔は村内に複数あった中学校も、今では土師見第三中学をただ一つ残すのみ。第一と第二の名を冠した学校は既になく、今では廃校となった校舎だけが、打ち捨てられたかのようにして村内に佇んでいるだけである。
早朝の、まだ東の空がようやく白み始めた時刻。犬崎紅は、家の裏庭に生えた木の横で、独り刀を構えたまま風を感じていた。
彼の手に握られているのは、紛れもない本物の日本刀である。ずっしりとした鋼の重さは、練習用の木刀などとはまるで違う。ようやく顔を出し始めた太陽の光が、その刀身に反射して白く輝いていた。
普通であれば、持つだけでも一苦労である鋼の刃。だが、紅はそれを正面に構えたまま、決して動くことなく風の流れを追っている。腕を降ろすことも、肩を震わせることもせず、ただひたすらに風を待った。
その日は、風の強い初秋の日であった。真夏の蒸すような風から一変し、どこか涼しげな風が頬を撫でる。それは木々の梢を通り抜け、さらさらという音を立てて葉を揺らした。
一際強い風が吹いたところで、紅は今まで閉じていた目をカッと見開いて正面を見据える。燃えるように赤い瞳が、舞い落ちる数枚の木の葉を捉えた。
次の瞬間、風を切る鋭い音と共に、紅の手に握られた刃が空を斬った。一見して、ただ刀を闇雲に振りまわしているようにしか見えないが、紅の瞳には斬るべき相手の姿がはっきりと写っていた。
「ふぅ……」
軽い溜息と共に、手にした刀を鞘に納める紅。極限まで精神を研ぎ澄ましていた代償からか、その顔には若干の疲れも見える。そして、そんな彼の足元には、真っ二つに切断された枯葉の姿があった。
枯葉居合斬り。風に舞い散る木の葉を、地に落ちる前に刀で切断するという技である。言葉で説明するのは簡単だが、実際に行うとなると、その難易度は極めて高い。
十分に水分を含んだ青い葉とは異なり、枯葉を抜付水平で斬るのは至難の業だ。少しでも斬る角度がずれれば、葉が刀に引っかかるか、刃から生じた風圧によってなびいてしまう。
ましてや、不規則に方向を変え、落下速度も個々に異なる葉を斬るとなれば、居合の達人であっても難しい。風に舞う枯葉を斬るというのは、それだけも極めて高度な技術を要するのだ。
だが、そんな高度な技を成し遂げたにも関わらず、紅の表情は複雑だった。
彼が斬るのに成功した枯葉は、自身の足元にある二枚のみ。一方、梢から舞い落ちた葉は、合わせて五枚ほどあった。成功二枚、失敗三枚。成績としては、負け越しである。
「さすがよのう、紅。その歳で、同時に二枚の枯葉を斬り落とすとは……」
気がつくと、紅の後ろには一人の老婆が立っていた。
犬崎多恵。紅の祖母にして、地元では有名な拝み屋でもある。犬崎の家に嫁ぐ形で入って来た女性であり、その瞳は紅とは違って普通に黒い。
「茶化すのは止めてくれ、婆さん。本当は全部斬りたかったんだが、三枚も仕損じてしまった。俺にはまだ、爺さんのように上手くはできないさ」
「何を言っておる。臙良のあれは、並み居る達人の中でも別格の域じゃぞ。修業を始めて十年も経っておらんお前に、そう易々と真似できるものではないわ」
「それでも、俺の結果が負け越しなことには違いない。ここ最近、どうにも技が上達していない気がするな……」
そう言って、紅は踵を返しながら、刀を片手に共に裏庭を後にした。多恵は紅の結果に満足していたようだが、そんな言葉も紅には気休めにさえならなかった。
紅の祖父である犬崎臙良。その実力は、孫である紅自身が一番良く知っている。既に六十を越えているにも関わらず、その刀さばきは一向に衰えを見せることがない。現に、今しがた紅の見せた枯葉居合斬りに関しても、容易く五枚の葉を切り落とすだけの実力を持っているのだ。
自分は未だ、祖父の足元にも及ばない。その事実を噛みしめたまま、紅は家の中へと戻って行った。
犬崎邸は、この土師見村の中でも古くから残る旧家の一つである。もっとも、所詮は田舎の村にある古い造りの屋敷。使用人の類を雇っているわけでもなく、今ではその部屋の殆どを持て余している状態だった。
紅が屋敷の中に戻ると、既に朝食の準備が成されていた。紅が戻るのを待っていたのか、そこには一人の老人の姿もある。
犬崎臙良。紅の祖父にして、彼に剣術を初めとした様々な指導を行っている人物である。その瞳は紅と同じように赤く、白金色の髪には、更に色の抜けたような白髪も交じっていた。当然、その肌は雪のように白く、知らない者からすれば、何かの病気を患っているのではないかと思われただろう。
先天的白子障。犬崎の一族には、決まってこの疾患を持つ者が産まれることが常だった。その代わりとして、一族には代々、不思議な力が受け継がれているのも常ではある。そんな犬崎家の人間のことを、人々は時に畏敬の念を込め、赫の一族とも呼んでいた。
祖父である臙良に一礼し、紅もそのまま食卓に着く。程なくして遅れてきた多恵も加わり、犬崎家の静かな朝食が始まった。紅と臙良、それに多恵の三人しかいない、少々寂しさの漂う光景である。
紅の両親は、今はどちらもこの家にいなかった。彼の母は紅を産んだ直後に他界し、父に関しては消息さえも不明だ。
しかし、そのことに関しては、紅は少しも不幸だとは思っていなかった。もとより、祖父母によって育てられてきた自分のこと。両親がいないことが普通であった紅にとっては、臙良と多恵がその代わりだった。時に厳しく躾けられ、鍛えられることもあったが、今でもその考えは変わらない。
「今朝の結果はどうじゃった、紅?」
焼いた魚の身をほぐしながら、臙良が尋ねた。稽古の時は修羅の如き形相になる彼だが、それ以外では素朴で温和な老人の顔しか見せていない。
「五枚の葉の内、二枚しか斬れなかった。残念だが、爺さんの望むような結果は出せちゃいない」
「まあ、そう慌てることはない。お前が立派に成人する頃には、わしを越える剣の使い手になっておろうて」
「その前に、俺は爺さんの身体の方が心配だがな。頼むから、婆さんを残して先に逝ったりしないでくれよ」
「なにを言うか! わしは、まだまだ現役の退魔師じゃぞ!!」
そう、口では言っているものの、臙良の顔は笑っていた。
紅の母であり、臙良の娘である犬崎美紅。彼女が亡くなった今、犬崎の血を引く者は、紅のみである。その紅が、自分の後を継ぐことを前向きに考えてくれていること。それが、臙良にとっては何よりも嬉しかった。
例え、その結果として、紅が現世に巣食う様々な闇と向き合うことになろうとも。逃れられぬ血の宿命によって、闇と関わり続けねばならなくなったとしても。
闇を用いて闇を祓う。それが、犬崎家を初めとした、赫の一族の生業である。幼い頃から非凡な才能を見せていた紅に、臙良は強い期待の念を抱いていた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
平穏な時というものは、いつまでも続くわけではない。
朝食を終えた紅は、いつも通りの身支度をして足早に家を出た。少しくたびれた感じのある学生鞄を片手に、学校に続く道を歩く。
いかに優れた剣の腕前を持っているとはいえ、紅はまだ現役の中学生だ。祖父の教えも大切だったが、学校をさぼるわけにもいかない。もっとも、今の紅にとっては、学校など何の面白味もない空間でしかなかったが。
「おはよう、紅君」
段々畑の横にある道を抜けたところで、紅は後ろから自分の名を呼ばれ、振り向いた。
「なんだ、朱音か。また、こんなところで待ち伏せしていたのか……?」
紅の振り向いた先にいた者。それは、彼も良く知る一人の少女だった。
少女の髪は、紅と同様に色の抜けた白金色をしている。その瞳が赤く、脱色されたかのように白い肌も同じだ。ただし、祖父の教えによって日々鍛錬を怠っていない紅とは違い、その身体は病的なまでに細く、か弱く見えた。
「いいかげん、一人で学校へ行くことを覚えたらどうだ。俺に付き合っていると、下手をすれば遅刻するぞ」
「そんなの気にしないよ。紅君が一緒に怒られてくれるんなら、私は怖くないもん」
「勘弁してくれ……。お前はよくても、俺は朝っぱらから人目を引くような行動は避けたいんだ」
自身の目の前で屈託のない笑顔を浮かべる少女に対し、紅は半ば呆れたような口調で言った。
狗蓼朱音。紅の遠い親戚に当たる少女で、彼の幼馴染である。その容姿からも分かる通り、彼女もまた、紅と同様に赫の一族の血を引いていた。今では名字を違えているが、犬崎も狗蓼も、元は一つの一族であったらしい。
ただ、紅とは違い、朱音は赫の一族としての力を行使するための修業を受けていなかった。なんでも、彼女の母が一族としての力を忌み嫌っていたらしく、娘には後を継がせたくないという思いがあったらしい。そのため、朱音は心身を鍛えることもなく、単に身体の弱い一人の少女として暮らしている。
そんな朱音が、幼い頃から殊更気に入っているのが紅だった。歳が一つしか違わないこともあり、昔は二人でよく遊んだものだ。その関係は紅が中学に上がってからも変わらず、今でもこうして共に通学する仲である。
「それにしても……」
秋晴れの青空を眺めながら、紅が呟いた。
「お前、この前の体育の授業の時、体調不良で倒れたんだって?」
「うん……。あの日は、皆でバスケットボールをしていたんだけど……チームを作るのにメンバーが足りなくなっちゃって。先生も、屋外でないのだから参加しなさいって言って、仕方なくね……」
「だからって、無理に参加する必要はないだろう。お前の身体が弱いことぐらい、周りだって分かっているだろうに……」
そう言いながら、紅は朱音の顔色を確かめるようにして彼女を見る。
先天的なアルビノである紅や朱音は、生まれつき虚弱な体質の持ち主である。日中は太陽の下を歩くことも酷であり、ましてや炎天下での運動などもっての外だ。日頃から鍛えている紅ならばともかく、何の訓練も受けていない朱音にとっては、屋内の激しい運動でさえ健康を害することがある。
当然、学校の教師やクラスメイト達も、紅や朱音の身体については知っているはずだった。それにも関わらず、屋内とはいえ体育の授業に参加させるとは何事か。
今度、学校側に改めて文句を言ってやろう。紅がそんなことを考えた時、二人の前に、見慣れた門が姿を現した。
土師見第三中学校。土師見村に唯一残る、最後の公立中学である。さすがに木造ではないものの、過疎の影響から、その生徒数は年々減っているとも言われていた。
下駄箱で靴を履き変え、朱音と別れて教室に向かう。これから始まる学校での一日は、紅にとっては退屈極まりないものだ。
窓から射し込む朝日を受けながら、紅は頬杖をついたままぼんやりと外の景色を眺めた。
体質の関係もあるのだろうが、どうにも明るい時刻は力が出ない。その上、自宅から学校まで小一時間程もかかったことも相俟って、早くも気だるい空気が紅の全身を覆っていた。明け方近くに枯葉を斬っていた際の目は既になく、赤い瞳は焦点の定まらないまま揺れている。
今日は、このまま一限の授業を寝て過ごそうか。そう思った次の瞬間には、紅は顔を机に伏せて眠りに落ちていた。
学校に着くなり、授業そっちのけで爆睡する。普通であれば、朝の学級活動の時間に担任から叩き起こされるであろう行為。が、そんなことは間違ってもされないという、確かな自信が紅にはあった。
犬崎の家は、この土師見村においても特殊な存在である。葬式道具を作る職人の多い土師見村の村民でさえも、犬崎家には特別な感情を抱いていた。
――――あの家は、犬神筋の家だから……。
物心ついた時から、紅が耳にしてきた言葉である。村民達は、それを何かの合言葉のように用い、事ある毎に紅を避けた。彼らが紅の家を訪れるのは、当時から拝み屋として名を馳せていた、祖母の力を借りる時だけだ。
土師見村の中でも、拝み屋として特に強い力を持っているとされる紅の祖母。しかし、村民が犬崎の家を畏怖するのは、彼女の力のせいではない。
犬崎家が畏怖の対象となっているのは、むしろ祖父の臙良の存在が大きかった。彼を初めとした赫の一族のことを、この地域で知らない者はいない。
犬神筋。憑き物の一種でもある、犬神という下級神を使役する術者の家系である。その力は占いや退魔に留まらず、場合によっては特定の相手を呪い殺すことも可能だとされる。
味方につければ頼もしいが、敵に回せば、これほど恐ろしい相手はいない。そんな畏敬と恐怖の念は、当然のことながら紅にも向けられていた。それは、彼の親戚でもある朱音も同様だ。
幼い頃より、家族と親戚以外には親しい者は殆どいない。犬崎紅にとっては、それが常であり当然のことでもあった。別に、一匹狼を気取っているわけではなかったが、彼と必要以上に関わろうとする人間は少なかった。
朝の陽気にまどろみながら、紅はふと、昔に聞いたことのある言葉を思い出した。
――――孤影。
心許せる仲間も殆どおらず、ただ独り、影を背負うようにして生きている様を表す言葉である。硬派な一匹狼というよりも、学校での自分にはこちらの言葉の方が似合うと紅は思った。
だが、そんな暮らしではあったものの、別に紅はこれといって不満があったわけでもなかった。
両親は既にいなかったが、自分には厳しくも優しい祖父母がいる。話し相手としても、親戚の朱音がいれば十分だ。それに、自分は元より、どちらかと言えば静かな環境を好む傾向にある。
数少ない家族と親戚に囲まれた、少し寂しくはあるが、それでも平穏な生活。こんな暮らしがこれからも続くことを願いながら、紅の意識は夢の中へと沈んでいった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
秋になったとはいえ、まだ九月に入ったばかりである。残暑は相変わらず厳しく、昼近くにもなると、途端に空気が熱気を帯びた物に変わって来る。
土師見第三中学の屋上で、田所隆二は仲間と共に意味もなく集まっていた。
彼らの足元には、今しがたまで吸っていた煙草の吸殻が散乱している。彼を含めた五人の少年たちは、その誰もが気だるそうな表情を浮かべていた。壁に寄りかかる者、腰を落としたまま意味もなく目つきだけは鋭くしている者、そして、その場に寝転ぶ者と様々である。
彼らの足元に転がる吸殻からも分かるように、田所達は村内でも札付きの不良であった。まだ中学生であるにも関わらず、飲酒や喫煙は当たり前。万引きやカツアゲも日常茶飯事であり、何か気に入らないことがあれば、直ぐに恫喝や暴力に訴え出る。
さすがに、麻薬やシンナーの類に手を出していることはないものの、彼らの存在は校内でも問題視されていた。現に今も、こうして授業をサボった上で、屋上で煙草を吸っていたのだから。
「ったく……。夏休みってのは、どうしてこうも短けえんだよ。どうせなら、九月の終わりまで休みってことにすればいいのによ」
「それを言うなら、いっそのこと、学校なんか無くなっちまった方がマシだぜ。ウザい先公や湿気た面したクラスの馬鹿どもなんざ、俺は頼まれても会いたくないね」
少年たちは、各々で好き勝手に悪態をついている。自分のことを棚に上げ、周りを意味もなく軽蔑する。典型的な、不良の考え方である。
だが、そんな中において、田所だけは違っていた。一言目には「ウゼェ」、二言目には「ダリィ」しか口にしない仲間達とは違い、彼の目は常に、何かに飢えた獣のようにぎらついていた。
過疎の進む、田舎での暮らし。田所にとっては、それそのものが不満の根源だったのかもしれない。娯楽も少なく、ストレスを発散するための機会にも恵まれていない。そして、田所はそんな現実をただ嘆き、漠然とした日常を送るつもりもなかった。
今はしがない田舎の村の中学生だが、今に街に出て、自分の名を知らしめてやる。そのためには、まずはこの学校を、自分の力で締める必要がある。
所詮は過疎の進む田舎の村に残された学校。入学した当初は、締めるのに数カ月もかからないと考えていた。現に、田所は一年にしてその悪名を学校中に轟かせ、二年に進級する際には、上級生でもその名を知らない者はいなかった。
そんな田所ではあったが、彼が二年になった時、思わぬ障害が現れた。
「犬崎……紅……」
未だ先から煙を出して燻っている煙草を、屋上のコンクリートに押しつけながら田所は呟く。
彼が二年に上がったその年に、この土師見第三中学に入学してきたのが犬崎紅である。赤い瞳と白い肌、そして白金色の髪の毛は、否が応でも周りの目を引いた。しかし、彼の容姿に関しては、田所は何ら問題とはしていなかった。
田所にとって問題だったのは、この村に古くから伝わる奇妙な言い伝えだった。
――――赫の一族には手を出すな。
物心ついた時から、周りの大人から耳にタコができるほど聞かされてきた話だ。
赤い瞳と白い肌を持つ、この土師見村に古くから住まう犬神筋の家系。今では主に拝み屋としての仕事をしているようだが、その昔は、呪術によって人を呪い殺すようなことも生業としていたらしい。
田所自身、呪いだの祟りだのと言った話は信じていなかった。そのため、一度は犬崎紅に喧嘩を仕掛けようとしたこともある。下らない因習が元で一学年下の人間に手が出せないなど、自分のプライドが許さなかった。
もっとも、その際には学校中の教師が総出で田所を止め、家に帰ると父親に酷く殴られた。いつも口論の絶えない関係ではあったが、あそこまで激昂する父を見たのは、後にも先にもあの時が初めてだ。
犬崎紅がいる限り、田所はこの村はおろか、中学校一つさえも締めることができない。現に、三年となった今でさえ、自分よりも犬崎紅に畏怖の眼差しを向ける者がいる。
「面白くねぇ……」
そう言うと、田所はスッとその場で立ち上がり、屋上から煙草の吸殻を放り投げた。
「田所さん! どこ行くんですか!?」
後ろから、後輩たちが慌てた様子で田所を追う。説明するのが面倒臭いのか、田所は何も言わずに扉を開けて、屋上から下へと続く階段を降りた。
呪いや祟りなど、そんなものは年寄りの馬鹿げた妄想に過ぎない。
(何が赫の一族だ……。犬崎紅……。てめえの化けの皮は、俺がきっちりと剥いでやるぜ……)
学校は、既に昼休みを迎える時刻になっていた。四限の終了を告げる鐘の音と共に、田所達は三階にある、二年の教室へと向かって行った。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
犬崎紅は、夢を見ていた。
夢の中で、彼はまだ幼い少年だった。どうやら山の中で遊んでいるようで、辺りは胸の高さほどまで生い茂った、緑色の熊笹に囲まれている。その隣には、これまた首から下が藪に埋まりそうになっている、幼き日の朱音の姿もあった。
手にした棒で藪を掻き分け、紅は林道を進んで行った。途中、朱音がはぐれないように気を使いながら、開いている方の手で彼女の手を引いてゆく。
程なくして、二人は深い藪を抜けた場所に出た。そこは小さな広場のような場所で、正面には大きな洞窟が、ぽっかりと口を開けている。
「はぁ……。日が当らないのはいいけど……やっぱり、ここに来るまでが大変なんだよなぁ……」
額の汗を拭いながら、紅は隣にいる朱音を見て言った。
「なあ、大丈夫か、朱音。どこか、怪我しているなんてことはないだろうな」
「そんなの、全然平気だよ、紅君! 私だって、ちょっとは大きくなってるんだもん!!」
朱音が紅の顔を見上げるようにして笑う。二人とも、身体のあちこちに草が付き、服も少々汚れていた。
胸元に付いた草を払い落とし、紅と朱音は洞窟の中へと向かう。外の蒸し暑い空気とは違い、ひんやりとした冷たい風が頬を撫でた。
彼らのいる洞窟は、自然に生まれたものではなかった。戦時中、防空壕として掘られた横穴が、今でも昔のまま残っているものだ。その証拠に、天井や壁には木製の支柱が張り巡らされ、壕の崩落を防いでいる。また、生い茂る植物に隠されて分かりにくかったが、壕の入口にも木の枠がはめられていた。
壕の中にあるちゃぶ台の前に座り、紅は肩から提げていた水筒を置いた。内蓋と外蓋の二つをコップ代わりにして、その中に麦茶を注いでゆく。
「とりあえず、お茶でも飲もうか。朱音は小さい方でいい?」
「うん。ありがとう、紅君」
内蓋に注いだ方のお茶を渡されると、朱音はそれを一口で飲み干した。
日陰を歩いてきたとはいえ、今はまだ夏の暑い盛りだ。直射日光を嫌い、こと身体も弱い朱音にとっては、軽い山登りでも重労働となる。現に、この防空壕に来るまでにも、幾度となく休憩をはさんできた。
生まれつき身体の色素を持たず、朱音に至っては激しい運動もできない体質。しかし、そんな彼らにとって、この防空壕は絶好の秘密基地であるとも言えた。何しろ、日中の焼けつくような日差しからは身を隠せ、更には誰にも邪魔されることなく、思う存分に自然を満喫できたのだから。
(しっかし……こんな昼間っから穴の中にいるのなんて、俺達とウサギかアナグマくらいのもんだろうな)
三月生まれのウサギは死に安い。以前、何かの本で読んだ話が、ふと紅の頭をよぎった。
草木の芽が出始める季節に生まれたウサギは、白い毛と赤い目を持った子であることが多いとされる。どこまで信憑性のある話なのかは知らないが、白ウサギが弱々しく見えるというのは、幼い紅にもなんとなく分かった。
ちなみに、朱音の生まれたのも三月である。その上、酷いアレルギー持ちで、肉の類はまともに口にすることもできない。
自分よりも更に弱い身体と野菜中心の食生活。そして、これは紅も同じであるが、雪のように白い肌と血のように赤い瞳。横目に見た朱音の顔が、紅には一瞬だけ白いウサギと重なって見えた。
「どうしたの、紅君?」
「いや、なんでもないよ。ただ、朱音のこと見てたら、なんかウサギみたいだなって思ったんだ」
鼻の頭をかきながら、紅は少し照れくさそうにして答えた。そんな彼の気を知ってか知らずか、朱音は不思議そうな顔をしたまま紅を見ている。
それから二人はしばらくの間、互いに他愛もない会話をして時間を過ごした。紅が祖父に教わっている剣術や退魔術の話をすると、朱音は喜んでそれに耳を貸した。
紅の家とは違い、朱音の家は既に赫の一族としての仕事を請け負っていなかった。彼女の母は村の郵便局で事務員をしている普通の女性であり、紅の祖父母のように不思議な力を行使できるわけではない。
そんなこともあり、朱音にとって紅の話は、まさに未知なる異世界のおとぎ話を聞かされているようだった。修業の内容は人に漏らさぬよう口止めされていたが、朱音が喜ぶので、紅は彼女にだけは話をしていた。無論、しっかりと口止めを約束させた上での話であるが。
「さて……。それじゃあ、俺はちょっとその辺を散策してくるぜ。分かっているとは思うけど……勝手に一人で遠くまで行くなよな」
「うん、大丈夫。私、紅君が帰って来るのを、ここで待ってるから」
紅の言葉に、大きく頷いて朱音が答える。赤い瞳を精一杯に見開いて、何の穢れも知らない無垢な笑顔をこちらに向けて。
水筒の蓋を閉め、紅はそれを再び肩にかけて立ち上がった。そして、壕の奥にある、何やら色々なガラクタが積まれている場所に目を移す。
そこにあったのは、紅や朱音が持ち込んだと思しき様々な道具だった。虫かごや釣竿などに加え、端の欠けた茶碗なども転がっている。紅はその中から、少し泥で汚れた虫かごと、小さな革袋を取り出した。
虫かごに付いている紐を肩にかけ、革袋を腰に下げる。少しだけ穴の開いた捕虫網を手に、忘れ物がないか確認する。どれも粗末な作りだったが、採集用の道具としては、これでも十分だ。
壕の外に出た紅は、辺りの様子を見回すと、そのまま手近な木と木と間から藪の中へと入って行った。傍から見れば違いの分からない森の中も、紅にとっては庭のようなものだ。故に、どこにどんな木があり、どんな生き物が住んでいるのか、地図など無くとも分かってしまう。
程なくして、紅は一本の大きな木の前に辿り着いた。これは、昔からこの山にある、大きなクヌギの木である。秋にはたくさんのドングリを地面に落としてくれるが、今はまだ、それも青い実の姿で梢にすがりついている。
実の成る季節には少し早かったが、紅がこの場所に来たのには理由があった。
夏場にもなると、クヌギの木はその幹から沢山の樹液が溢れ出す。当然、それを狙って様々な昆虫が木に訪れる。
樹液に集まる虫の代名詞と言えばカブトムシやクワガタだったが、彼らが行動するのは夜中から明け方にかけてだった。紅の狙いも、当然のことながら、そんな厳つい風貌の甲虫ではない。
樹液の出ている場所を見つけ、紅は捕虫網を持ってそっと近づいた。そこにいたのは、紫色の美しい羽を持った一匹の蝶。コガネムシやカナブンに混ざって、一心不乱に樹液を吸っている。
相手はまだ、こちらの接近に気づいてはいない。そう思った紅は、手にした捕虫網を一気に振り下ろした。白い朝靄のような蚊帳が虫たちに被さり、蝶は慌ててその場を飛び立つ。
「やった……」
網の中で暴れる蝶の羽を、紅はそっと指で摘まんだ。羽を痛めないように、慎重に力を加減して、そのまま虫かごの中に放り込む。
紅が虫を捕えるのは、決して彼の趣味などではなかった。彼が虫を捕まえるのは、壕で自分のことを待っている朱音のために他ならない。
自分と違い病弱な朱音は、当然のことながら野山を自由に駆け回ることができない。あの壕に行くことでさえ、紅の付き添いがあって初めてできることだ。
だが、そんな身体だからこそ、朱音は紅以上に様々な自然を求めた。花を愛で、蝶の美しさに感動し、森に流れる風の変化をも微妙に感じ取っているようだった。
「今日は、とりあえずこれでいいか。後は、朱音に少しでも土産が欲しいところだけど……」
そう言って、紅は再び辺りを見回した。もっとも、ここは山の中。そう簡単に、土産になるようなものは転がっていない。
「仕方ない。また、あれを採って帰るか……」
近くに生えていた葛の葉の一つを摘み取ると、紅は再び藪の中を捕虫網の柄で掻き分けて行った。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
紅が壕の中に戻って来たとき、そこでは朱音が何やら用意している真っ最中だった。壕の真ん中に置かれたちゃぶ台の上には、欠けた茶碗が二つ乗っている。
「あっ、紅君!!」
今まで、どこかぼんやりとしていた朱音の顔に、突然光が射す。壕の入口に戻って来た紅の手を引き、半ば強引に連れ込むような形で、ちゃぶ台の前に座らせた。
「ねえ、これ見て! 私、お赤飯作ったんだよ!!」
そう言う朱音の手元には、確かに赤い物が盛られた茶碗があった。もっとも、その中にある物が本物の赤飯などでないことは、紅も一目見て分かっていたが。
「これ……壕の入口に生えていた草の実じゃないか」
「うん、そうだよ。赤くて綺麗だったし、大きさも調度、お米くらいだったから」
「それで赤飯か。考えたな、朱音」
紅が、朱音の頭に手を乗せて撫でた。歳は一つしか違わないものの、朱音と紅の背丈は頭一つ分程もの差がある。こうしていると、朱音のことが歳の離れた妹のように見えなくもない。
「ねえ、紅君。今日は、何を採ってきてくれたの?」
朱音が紅の顔を覗き込むようにして言った。それを聞いて、紅は何かを思い出したかのようにして、腰につけた革袋を取り出す。
袋の中から出てきたのは、葛の葉に包まれた桑の実だった。赤黒く熟した果実は野イチゴのような味がして、潰してジャムにされることもある。
「今日は、ちゃんと湧き水で洗っておいたからな。偽物の赤飯じゃ、さすがに食べるわけにもいかないだろ?」
桑の実はそのままでも食べられるが、残念なことに、これが好きなのは人間だけではない。蛾の幼虫も好んで食べることから、彼らが実を食い荒らした後、その体毛が付着していることが常である。一度、それを知らずに口に入れ、紅と朱音は後で酷い目に遭ったことがあるのだ。
しかし、そんな記憶も、いざ木の実を口に放り込むとすぐに消え失せた。口の中に甘酸っぱい味と香りが広がり、二人の舌を刺激する。
「そういえば、今日はこんなやつも捕まえてきたんだ。朱音、前に話した時、本物を見たがってたから」
そう言って紅が見せたのは、虫かごに入れられた一匹の蝶だった。紫色の羽をゆっくりと動かし、今は静かに籠の中に納まっている。
オオムラサキ。日本を代表とする蝶で、日中の雑木林で活動する。その美しい羽はオスのみが持つものだが、ここまで綺麗な物は珍しい。人目につかない場所を飛んでいることもあり、朱音が見惚れるのも無理はなかった。
「へえ……凄いんだ。本当に、青い羽してるんだね」
「ああ。でも、見終わったら、ちゃんと離してやるんだぞ。無益な殺生はしちゃいけないって、俺の婆ちゃんが言ってたからな」
「うん。分かったよ、犬崎君」
視線をオオムラサキから紅に移し、にっこりと微笑む朱音。が、紅はそんな朱音の姿に、どこか違和感を覚えて顔をしかめる。
朱音はいつも、紅のことを紅君と呼んだはずだ。しかし、ここにきて、なぜ犬崎君と呼ぶのだろうか。
「ねえ、どうしたの、犬崎君。ねえってば……」
だんだんと、視界がぼやけてきた。慌てて目を擦るも、白い霧に覆われたように、どうにも視界がはっきりとしない。その上、なんだか身体を誰かに揺すられているような気もする。
「犬崎君……犬崎君……」
霞の向こうから呼ぶ声に導かれるようにして、紅の意識はだんだんと薄らいで行った。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「ねえ、犬崎君ってば!!」
耳元に響く覚えのある声に、紅はハッとして起き上がった。
見ると、ここは見慣れた教室の中である。寝ぼけ眼を擦りながら時計に目をやると、時刻は既に四限の授業が終了したところだった。彼の隣には、これまた見覚えのある少女がおり、紅のことを見降ろすようにして睨んでいる。
「まったく……。新学期早々に朝から昼まで寝るなんて、随分といい御身分ね」
「なんだ、学級委員か。頼むから、俺のことは放っておいてくれ。勉強なんて、家で独りの時にやった方が、俺の生には合ってるんだ」
「そういうわけにも行かないわよ。学級委員として、同じクラスの生徒が朝から爆睡しているのを放置しておくなんて、とてもじゃないけど出来ないわ。それに、もうすぐ給食の時間なんだから、いつまでも寝ていられたら、こっちも迷惑なの」
頭のすぐ横で早口にまくし立てられ、紅は思わず両手で耳を塞いだ。
「勘弁してくれ、野々村。俺は別に、周りと慣れ合いながら食事をするような趣味はない」
「なに言ってんのよ。そんなことだから、いつまで経ってもクラスの中で浮いちゃうんじゃない」
そう言いながら、少女は紅が耳を塞ぐのに使っていた両手を強引に引き剥がす。
野々村萌葱。紅のクラスで学級委員を務める少女であり、クラス内でも数少ない、紅に対して臆することなく話をしてくる人間だった。
実際に、彼女以外の人間は、紅とは殆ど必要以上の会話をしようとはしない。もっとも、周りが静かなことを望む紅にとっては、萌葱の存在でさえ喧騒の一部にしか思えなかったのだが。
「とにかく、今はもう給食だって配り始めてるんだからね。さっさと取りに行かないと、犬崎君の分、無くなるよ」
「ああ、分かったよ。分かったから、そう耳元で騒がないでくれ」
あまりにしつこい萌葱に降参したのか、紅もしぶしぶといった様子で席を立った。だが、そうして彼が給食をもらいに行こうとしたその時、クラスメイトの一人が彼のことを呼び止めた。いつもは話さえろくにしない相手のため、紅の視線も自然と鋭い物になる。
「おい、犬崎。なんか、上級生が、お前のこと呼んでるぜ」
「上級生? いったい、どこの誰なんだ?」
「それは……自分で行って確認してくれよ……」
伝えるべきことは伝えた。そう言いたげな表情で、その男子は紅の前から去って行った。後に残された紅はしばし考えていたが、やがて仕方ないと言った表情で、そのまま教室から廊下に出た。
この学校で、自分を直々に呼びだすような者とはどんな人間だろうか。別に無視してもよかったが、後で揉め事が増えることの方が、紅には問題だった。
廊下に出ると、そこには数人の男子生徒が待っていた。真ん中にいるのは三年だが、他には二年も一年もいる。
「あんたか、俺に用があるってのは?」
いつも通りの、ぶっきらぼうな口調で紅が言った。相手が上級生であろうと、紅の辞書に遠慮をするという言葉はない。
「お前の顔を見るのは二度目なんだがな。俺のことを忘れるとは、お前、随分と偉いみたいじゃないか、犬崎」
「悪いが、下らない過去の出来事を、いちいち覚えてはいないんでな」
「てめえ……。まあ、いい。今日は、お前に用があって来たんだからな」
真ん中にいる少年が、苦虫を噛み潰した様な顔をして言った。紅から見てもはっきりと分かるくらい、怒りの感情を押し殺しているというのが見て取れた。
「俺達、今度の週末に肝試しをやることになってな。場所は、ここから少し行った場所にある、土師見第二中学の旧校舎なんだが……。その肝試しに、お前も来てもらいたいんだよ」
「肝試しか。下らないな、そんなもの。あんた達だけで勝手にやればいい」
「まあ、そう言うなよ。二中の旧校舎なんだが、あそこは俺達の間でも『出る』って噂でな。万が一のことを考えて、拝み屋の家の人間でも連れて行った方がいいと思ったんだが……」
「そういうことか。だったら、俺もつき合ってやる」
「話が分かるじゃないか。それじゃあ、今週末の金曜、夜の九時に土師見第二中の前に来い」
含みのある笑みを浮かべながら、リーダー各と思しき少年が言った。何か企んでいることは火を見るより明らかだったが、紅はあえて、相手の話に乗ることにした。
肝試しの付き添いなどは、方便だ。きっと、他に何か考えがあってのことに違いない。見るからに柄の悪そうな連中が相手だけに、本当は闇討ちでも考えているのかもしれない。
だが、仮にそれが事実だとしても、紅は彼らを放っておくつもりはなかった。
土師見第二中学の旧校舎に出る幽霊。その話が本当だとすれば、下手に肝試しなどを行うことは、霊を無駄に刺激することになる。向こう側の世界に通じる者としては、事故は可能な限り未然に防いでおきたいのだ。例え、その被害者が、世間から存在を煙たがられている不良であったとしても。
「あんた、名前は?」
その場を立ち去ろうとする少年達のリーダーに、紅は抑揚のない口調で尋ねた。
「三年の、田所隆二だ。二年のお前も、名前くらいは聞いたことがあるんじゃないか?」
「ああ、あんたが田所か。俺も、少しは話に聞いている。確か……三中の癌って呼ばれている不良だっけか?」
「てめえ……。田所さんに向かってそんな口をきくなんざ、いい根性してんじゃねえかよ……」
紅の言葉に、周りにいた取り巻きが一斉に彼を睨んだ。しかし、田所はそれを軽く制すと、何も言わずに廊下の向こうに去って行った。
学校一の不良から、直々に肝試しへの誘いがある。何か裏があるとは分かっていたが、それでも紅は、彼らの軽率な行動が闇を掘り起こしてしまうことの方が心配だった。