~ 逢魔ヶ刻 帰郷 ~
怪物と闘う者は、その過程で自分自身も怪物になることがないよう、気をつけねばならない。
深淵をのぞきこむとき、その深淵もこちらを見つめているのだ。
――――フリードリッヒ・ニーチェ
『ツァラトゥスラはかく語りき』より
四国地方某所。
四方を山と海に囲まれた、閑静な田舎町にその病院はあった。周りを覆うコンクリートの外壁は、ところどころに大小様々な亀裂が入っているのが見て取れる。それだけでなく、深夜、地元の不良達が訪れて残したと思しき、赤や黄色で描かれた派手な落書きもあった。
病院の入口にある鉄の門は、今は完全に閉じられていた。海から上がって来る潮風によって、その風貌には、既に元の姿の面影はない。赤く錆びついた鉄門は、時折、風に揺られてぎいぎいと鳴いていた。
入相の鐘に誘われて、今日も夜の帳が世界を包む。山も、海も、森も、街も、全てが宵闇の中に沈んでゆく。それは、この朽ち果てた病院とて変わらない。
月明かりの下、かろうじて門の前に取り付けられていた看板が、夜風に揺られて軋んだ音を上げた。
――――六石山病院。
腐食が激しいものの、辛うじて、かつて建物が病院だった頃の名前を読み取ることはできた。もっとも、それが分かったところで、この病院を訪れる患者がいないことだけは確かだが。
夏の蒸し暑い風が、廃墟と化した病院の上を吹き抜ける。風は雲を呼び、それが闇を照らす月を覆い隠した。
誰もいるはずのない、忘れられた病院。深夜の静寂の中において、その場所だけは、なぜか異様な空気を全身から発していた。時折、建物の中を吹き抜ける風の音が、まるで獣の雄たけびのように聞こえてくる。それこそ、地獄の亡者が地の底から這い上がって来る時に発する、苦痛と憎しみの籠った叫び声にも似た音で。
その日は何故か風が強く、病院の窓ガラスがいつもよりも震えていた。まるで、獲物が訪れたことを歓喜するかのように、ガタガタと激しい音を立てている。
ヒタ、ヒタ、という音と共に、病院の中を動く一つの影があった。今は無人となった院内の廊下を、明らかに誰かが歩いている。足音の主が履いているのは、革靴ではなく草履のようなものだろうか。
ジャリッ、という音と共に、今まで聞こえていた足音が急に止んだ。割れたガラスを踏みつけて、それが廊下のタイルと擦れた音だ。音の主は、そのまま窓ガラスに背を向けて、建物の奥へと続く廊下の先を睨みつけている。
月を覆っていた雲が切れ、その隙間から一筋の月光が射し込んだ。その光は、先ほどから廃病院を歩きまわっていた人物の姿を捕え、青白い光の中にその姿がぼんやりと浮かび上がる。
月明かりの下に現われたのは、全身を黒い衣に包んだ一人の少年だった。その手には、梵字の書かれた布を巻き付けた一振りの刀がある。頭には傘を被り、着ているものは随所にほつれが見えた。
およそ、現代を生きる者の格好とは思えない、修業中の托鉢僧を思わせるような身なり。全身を包む黒い色の衣とは対照的に、その肌は雪のように白い。割れた窓から吹き込む風に白金色の髪をなびかせながら、血のように赤い瞳で闇の奥を見据えている。
「さあ、出てこい。その奥にいるのは、分かっている……」
少年が、誰に語りかけるともなく言った。その声に答える者はいなかったが、代わりに生温かい風が窓から吹き込み、今にも砕けそうな窓ガラスを乱暴に叩いた。
ガタガタと、風が窓を揺する音だけが病院内に響き渡る。その音は次第に強くなり、まるで何者かが力に任せてガラスを揺らしているようにも聞こえる。それこそ、目に見えない何かが、何本もの手でガラスを叩いているような感じなのだ。
次の瞬間、激しい音を立てて、少年の後ろにあるガラス窓が一斉に砕け散った。風は吹いているものの、空を流れる雲の様子からして、決して強いものではない。が、それにも関わらず、廃病院の窓ガラスは、そのどれもが無残に砕け散ってしまった。
枠だけになった窓の外から、気持ち悪いほどに湿気を含んだ風が入り込んで来る。そればかりでなく、今度は少年の真上にあった、古びた蛍光灯までもが砕け散った。
粉のようになったガラスの破片が、パラパラと少年の上に降り注ぐ。もっとも、そんなことでは少年は動じない。傘の上に降り積もったガラス片を物ともせずに、ただひたすら、闇の奥を睨みつけていた。
「こけ脅しは終わりか。だったら、今度は俺の方から出向くぞ」
少年の脚が、闇の奥へ向かって踏み出される。それを阻むかのようにして、今度は廊下の奥の方から、どんよりと濁った空気が流れてきた。
埃と湿気の匂いを含んだ気味の悪い風が、少年の肌を舐めるようにして撫でた。頭の傘を飛ばされないように押さえるものの、その赤い瞳は、未だ闇の奥を睨みつけたままだ。
廃墟と化した建物の中を、不気味な音を立てて風が吹き抜ける。その音は、果たして本当に風のすり抜けるだけの音なのだろうか。まるで、この世に未練を残して亡くなった者達の、苦痛に満ちたうめき声のように聞こえないでもない。
だが、そんな音に耳を貸すことさえもなく、少年は暗闇の奥へと足を踏み入れた。一歩、また一歩と足を踏み出す度に、彼の周りを包む闇もまた深くなる。
距離にして、どれくらい歩いたのだろうか。
いつしか少年は、建物の地下にある一つの部屋の前に辿り着いていた。廊下を照らす明かりは一切無かったものの、少年の赤い瞳には、闇の淵に沈んだ建物の様子がしっかりと映し出されていた。
昼間、太陽の光の下では、少年の瞳はその力を発揮できない。生まれつき、身体の色素が薄い彼にとっては、日中の光は刺激が強すぎるのだ。
だが、その代わり、彼の瞳は夜の闇の中において、その力を存分に発揮した。例え明かりがまったく無くとも、彼には辺りの光景が手に取るように分かる。それは目で見るというよりは、むしろ頭で感じ取るという感覚に近かった。
朽ち果てた院内にある大きな扉を、少年は乱暴に押し開けた。開け放たれた扉の向こう側からは、今まで部屋に閉じ込められていたであろう、陰湿な空気が溢れ出て来る。
霊安室。不幸にも病院で亡くなった患者が、その身元を引き取りに来てもらうまで安置される場所。様々な死者の想いが蓄積しているであろう場所は、その匂いに引かれ、これまた様々な陰の気を持った者が集まるのである。
少年が部屋に入ったその時、彼は天井の方から一際強い力を感じた。その、どす黒い気の塊は、なにやら粘性の高い液体のように、天井からずるりと下へ落ちる。どろどろとした不定形の塊は、やがて一つにまとまり、人の姿を形取り始めた。
白髪混じりの髪の毛に、皺の刻まれた血の気のない顔。だらしなく開いた口からは、涎のような物が常に滴り落ちている。眼球はなく、瞳があったであろう場所には、ぽっかりと黒い穴が空いているだけだ。
目の前に現われた男がこの世の存在でないことは、少年の目には明らかだった。全身から発している腐臭のような匂いが、男が向こう側の世界の住人であることを否応なしに示している。
「さっきのこけ脅しは貴様のものか……。なんの未練があって、貴様はこの世界に留まり続ける……」
少年が男に向かって言った。何の同情も憐れみも感じられない、淡々とした口調だ。
「あ……あぁぁっ……あっ……」
男がその口内から、腐った水のような匂いのする息を吐き出しながら言った。全身を小刻みに震わせるその姿は、怒っているようにも怯えているようにも見える。
「もう一度聞くぞ。貴様の未練はなんだ。事と次第では……俺は貴様を、無に帰さねばならなくなるんだがな……」
少年が、再び男に問う。男はそれに答えない。無言の応酬が続いた後、最初に動いたのは男の方だった。
力なく、だらりと下に垂れさがった両腕。中の物を失い穴となった瞳が、真っ直ぐに少年の姿を捉える。黄色く汚れた歯をむき出しにし、男は少年の首筋目掛けて飛びかかった。
「うぅぅぅ……あぁぁぁぁっ!!」
既に、言葉さえも忘れてしまったのだろうか。かつては人であったであろう男は、今や貪欲に他人の魂を求める血に飢えた獣でしかなかった。
男の牙が、爪が、目の前にいる少年を食らい尽くさんと迫る。が、それでも少年は微動だにせず、赤い瞳で男を睨みつけていた。
「やれ、黒影……」
少年が、冷徹に切り捨てるような口調で呟いた。その声に呼応するかのようにして、彼の足元から漆黒の影が伸びる。一切の光がない霊安室の中において、その色は辺りを包む闇よりも更に深い。
伸びた影が、男の身体を遮るようにして立ち塞がった。どろどろと、不定形に揺らめきながら、影は中央に位置する金色の目玉で男を睨みつける。そのまま全身をかき回すようにして、影がぐにゃりと形を変えた。
少年の身体から離れた影が、一匹の巨大な犬の姿に変化する。それを見た男が、思わず動きを止めて立ち止った。
「う……うぅ……」
先ほどの、貪欲に血を求める異形の姿は既にない。影が形を変えて生まれた獣の前に、男はすっかり戦意を喪失しているようだった。
一歩、また一歩と、男が部屋の隅に後ずさる。そんな男の姿に冷めた表情を向けたまま、少年は獣に何かを命じた。
虎ほどもある巨大な獣の口が、全てを飲み込まんとするようにして大きく開く。その口の奥から、青白い炎のようなものが、ちろちろと燃えているのが見て取れた。
深夜の廃病院に、闇の獣の雄叫びが響く。先ほど、少年がこの病院を訪れた時、窓を叩いていた風の音の比ではない。それこそ、地獄を住みかとする魔物が、獲物を求めて高らかに吠えているかのような音だ。
部屋の空気が、一瞬にして変わった。陰鬱で暗い、湿りきった風は既にない。あるのはただ、全てを焼き尽くさんと迫る地獄の業火。冷たく、それでいて熱い、相反する力を合わせ持った青白い炎。
「うぅぅあぁぁぁぁっ……!!」
獣の口から放たれた炎が、男の身体を焼き尽くす。闇を照らす青白い炎は、激しく、そして冷徹に、男の身体を侵食してゆく。そして、その炎が消えると共に、男の身体も煙のように消滅した。
「さて……。とりあえずは片付いたが……」
辺りの様子を見まわしつつ、少年は刀の柄に手をかけた。彼が呼びだした黒い獣もまた、その隣で低い唸り声を上げている。まるで、闇に潜む異形の者は、未だ滅びていないとでも言いたげに。
果たして、その予想は正しく、今度は壁の中から新たに二体の影が現れた。先ほどの男と同じように、影は少年の前で人の姿へと形を変える。今度は黒髪を足元まで垂らした女と、床を這いずるようにして迫る老婆であった。
「やれやれ……。この分だと、どうやらかなりの数が巣食っているらしいな」
恨みに満ちた表情で、二体の異業なる者がこちらへ迫る。それを見た少年は、半ばうんざりするような顔をしながら、吐き捨てるようにそう言った。
ゴキブリは、一匹の姿を見かけたら、その家に百匹は潜んでいると言ってよい。こんな時に、何かの本で読んだ事のある一説を思い出した。相手は害虫ではなく、むしろ常世の住人と言った方が正しいのだが、人に害を成す存在という点では変わりない。
覚悟を決めたのか、少年も刀を抜き放って異形の前に立った。白銀の刃が鞘から抜かれると同時に、その刀身から異様なほど黒い気が一斉に放たれる。
貪欲に、生者も死者も問わず、ただひたすらに魂を求める暗黒の気。ミミズか、それとも蛇のようにして揺らめくそれは、無数の触手が獲物を欲して踊り狂っている様にも等しい。
「行くぞ、黒影。今日の仕事は、久方ぶりの大掃除だ」
少年の言葉に、黒い獣が低く唸って答えた。彼らは同時に大地を蹴ると、それぞれの持つ鋭い爪と牙を、異形なる者達に向けて振り下ろした。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
少年が病院を出たのは、丑三つ時を少しすぎた頃のことだった。
先刻まで風に揺れていた病院からは、既に何の音も聞こえない。建物を覆っていた禍々しい空気さえも失われ、そこにあるのは、ただ朽ち果てたコンクリートの塊だ。
いつしか、月を覆っていた雲も姿を消していた。淡い月明かりの下に佇む廃病院は、その中で起きていた喧騒が嘘のように静まり返っている。辺りから聞こえて来るのは、宵の闇の中で合唱する虫たちの声だけだった。
「おや、終わったのかい。今日は、随分と早かったねぇ……」
少年が病院の門をくぐったところで、彼の横から唐突に声がした。
振り向くと、そこにいたのは一人の老婆。腰は曲がり、常に杖を持たねば歩けないようだったが、その瞳に宿している力は相当なものだ。生への気力という点だけで見ても、並みの老人とは一線を画するものがある。
「婆さん、来てたのか?」
少年が、老婆の方に視線だけを向けて言った。そのまま夜道を歩き出すと、老婆も彼に足並みを揃えて歩を進める。
杖に頼らねば歩けないにも関わらず、老婆の足の速さは少年のそれに匹敵した。同じ歳の人間のものと比べても、少年の歩く速度は決して遅くないものだったにも関わらず。
「ところで……今日の仕事はどうじゃった、紅。五年前、臙良が祓った時には、五十もの御霊が彷徨っていたらしいがの」
「いや、そこまでは多くなかった。俺と黒影が倒した連中は、ざっと数えても十七か十八ってところだ。臙良の爺さんが祓ってから、十年も経っていないことが幸いしたな」
老婆の問いに、その少年、犬崎紅は、淡々とした口調で己の見解を述べた。
ちなみに、彼らの話に出てきた臙良というのは、今は現役を退いた紅の祖父である。彼は優秀な外法使いであると同時に、紅の隣にいる老婆、犬崎多恵の夫でもあった。
犬神筋。この四国地方に古くから存在する呪術師の家系であり、古来より忌み嫌われてきた存在。だが、その強大な闇の力は、時として人界を護るための剣となる。
紅を初めとした犬崎の家も、そうした者の血を引く家系の一つだった。彼らの仕事は、法事や葬式などといった、表側の人間が扱うものではない。同じ向こう側の世界に通ずる者でも、寺の住職や神社の神主とは全く別の存在なのだ。
闇を用いて闇を祓う、赫の一族。いつしか人々は彼らのことを、畏敬の念を込めてそう呼んだ。そして、その血脈は、今もこの現代に受け継がれている。例え、歴史の表舞台に姿を見せることはなくとも、この世に闇がある限り、彼らもまた存在し続けるのだ。
今回、紅が訪れていたのは、地元でも有名な心霊スポットになっていた廃病院だった。廃墟となってから既に二十年以上の年月が経ち、倒壊の危険性から立ち入りが禁じられていた場所だ。
だが、物好きな人間というものは、どんな場所にもいるものである。
病院が心霊スポットとして名を馳せると同時に、肝試しと称して不法な侵入をする者達も後を絶たなかった。探検気分で訪れるような学生もいたが、中には度胸試しの意味合いを込め、建物を破壊したり中の物を持ち帰ったりする輩もいた。
そんな折、夏休みを利用して実家へ帰省した紅の下に入って来たのは、例の病院に侵入した人間が発狂したという事件だった。
犠牲者は、地元の警察からも目をつけられていた、札つきの不良グループの一人である。なんでも、肝試しの一環として病院に不法侵入し、そのまま行方不明になってしまったらしい。そして、次に発見された時には、彼は廃人同然の姿となっていた。
程なくして、紅の下には廃病院の怪異の原因を探って欲しいという依頼が舞い込んだ。仕事を引き受けた彼は、単身深夜の廃病院に潜入し、その原因を根元から断ったというわけである。
実は、この六石山病院では、以前にも同様の事件が起きていた。五年前、まだ紅が小学生だった頃、それを解決したのが祖父である臙良だ。彼によって、廃病院に巣食う闇は完全に滅せられ、事件は解決したかに思われた。
しかし、五年という歳月は、朽ち果てた病院に新たな闇を呼び込むのに十分な時間だった。臙良が事件を解決した後も、六石山病院は、未だ心霊スポットとして名を馳せている。
この世界には、陰の気が流れ込みやすい土地というものが存在する。かつては人の手が入っていた場所でも、長い年月の間に朽ち果ててしまえば話は別だ。
そういった場所には必然的に淀んだ気が溜まり、その気に誘われるようにして、迷える御霊が集まって来る。そして、その場に溜まった穢れた気の影響を受け、集いし御霊もまた禍霊となる。最後は己が人であったことさえも忘れ、ただ本能の赴くままに、他者の命を啜るだけの存在と成り果てるのだ。
今回の事件は、そんな禍霊の巣に足を踏み入れた者が見舞われた惨事だ。土地の浄化が行われない限り、そして、その場所を訪れる者がいる限り、向こう側の世界の住人の犠牲になる者が出るのも、また必然。
「なあ、婆さん。今回の報酬だが……どれくらい入った?」
淡い月明かりの照らす夜道を、紅が歩きながら尋ねた。
「土地の持ち主からは、百万ほど貰っとるよ。足りなければ、後から追加で請求するかえ?」
「百万か……。まあ、妥当な金額だな。しかし……それだけの金が払えるなら、いっそのこと病院を取り壊して更地にでもしてしまった方が、後腐れがないような気がするが……」
「本当は、それが一番ええ。もっとも、土地の持ち主からすれば、五年毎に百万の支払いで大掃除が済むなら、そちらの方が割に合っとるみたいじゃな」
「なるほど。建物を取り壊すくらいなら、俺のような者に厄祓いをさせた方が安上がりか……」
他人の安全よりも自分の金。そんな汚い人間の一面を垣間見たような気がして、紅は、それ以上は何も言わずに口をつぐんだ。
今は束の間の平穏が訪れている六石山病院も、いずれは再び悪鬼の巣窟となるだろう。心霊スポットとしての名が残り続ける限り、廃病院に真の平穏は訪れない。
穢れた土地が存在する限り続く、終わりなきいたちごっこ。この世に闇が存在する限り、赫の一族の使命も終わらない。
宵の風が、少年と老婆の横を吹き抜ける。夜明けまでは数時間といったところだったが、自分達にとっての真の夜明けは、未だ先の見えぬ闇の中にある気がしてならなかった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
翌朝、犬崎紅は、日が昇ると共に家を出た。満足な睡眠を得たとは言い難かったが、不思議と頭だけは冴えていた。
彼が向かったのは、村内にある墓地だった。寺の住職に形だけの挨拶を済ませ、紅は独り墓場の中を歩いてゆく。途中、どこぞの墓に供えられた線香の匂いが鼻を刺激したが、それにも構わず紅は歩を進めた。
墓地の中の、奥まった場所に佇む一つの墓石。決して新しいものではないが、念入りに手入れが成されている。紅はその前に立つと、持ってきた線香と花を供えて両手を合わせた。
――――野々村家の墓。
丁寧に磨かれた墓石には、ただそれだけが刻まれている。その下に眠る少女のことを思い出しながら、紅は軽い溜息をついて目を開けた。
「すまないな……。あの時、俺にもっと力があれば……俺が、闇の中に蠢く者の存在に気づいていたなら……お前を、こんな目に合わさずに済んだのかもしれない……」
燃えるように赤い瞳に、重たい影が射していた。いつもの彼が見せている、どこか遠くを見ているような儚い眼差し。それに加え、今日は一段と重い何かが、その瞳の中に渦巻いている。
後悔など、したところで何も変わらない。そう、頭では分かっているつもりでも、やはり割り切れないものは存在する。自分が墓所を訪れたのも、そんな理由から来るものだ。
墓石の下にいる人物に、紅は別れの言葉を告げなかった。そのまま踵を返して歩き出すと、足早に墓地を後にする。
今日、この場所に来たのは、なにも過去の行いに対して謝罪を求めに来たわけではない。むしろ、自分の罪を忘れないようにするために、あえて辛い思い出の場所を訪れたのだ。
墓地のある寺を後にした紅は、今度はその足で山へと向かう。県道を上り、林道を抜け、藪を掻き分けるようにして先を急いだ。
もう長いこと使われていなかったであろう、林の中を貫く一本の道。そこを抜けると、程なくして開けた場所が顔を出す。さして広くはない場所だったが、その中央には大きな洞窟が口を開けて待っていた。
木製の枠や柱の目立つ、人為的に作られたと思しき横穴。恐らく、戦時中に掘られた防空壕の名残だろう。その周りには、赤い小さな実をつけた植物が生えている。茎の先端から枝分かれするように出た多数の穂が、早朝の風に揺られていた。
秋にはまだ少し早いためか、実の数は決して多くはない。だが、それでも紅は数本の茎を摘み取ると、そのまま洞窟の中に広がる闇へと目を向けた。
洞窟の口に吸い込まれるようにして、紅はその中に足を踏み入れる。中は薄暗く湿っていたが、夏場である今は、むしろ過ごしやすい。
壕の中にある木製の柱に刻まれた、小さな傷と大きな傷。泥と埃で汚れながらも、未だに原型を保ったままのちゃぶ台。そして、その上に転がる端の少し欠けた茶碗。およそ場違いな物ではあったが、明らかに誰かの生活したような跡が残っていた。
「あの時のままだな……何もかも……」
薄汚れた茶碗を拾い、紅はそれを愛でるようにして呟く。その瞳には、先ほど墓所を訪れた時のそれ以上に、深く濃い悲しみが広がっていた。
本作品は一部に暴力的な表現を含みますが、これは作中の暴力行為その他を推奨するものではありません。
また、一部の人間が差別的な考え方に囚われて非道な行いを働いたり、それらの人間が法ではなく、個人の意思や超常的な存在によって裁かれる描写が存在します。
これらの描写に対して政治的道徳観、及び宗教観から不快な思いをされる可能性がある方は、これより先の内容を読むことを控えるようお勧めいたします。