8.彼と彼女とお邪魔虫
「エイジ君」
気が変わらないうちに、小さな声で彼の名を呼んだ。
「ん?」
エイジは頭の後ろに両腕を組んで、背の低いマツリを見下ろした。
まだ、さっきのいたずらっぽい笑みを浮かべていたけど、きちんと自分を待ってくれている。
勘違いかもしれなかったけど、そんな気がして……。
謝るんなら、今だと思った。
『ゴメンなさい、エイジ君のチューペットわたしが食べちゃったの!』
そう言うつもりだったのに「ご」としか言えなくて、口をぱくぱくさせてしまった。
「キムラ君、練習終わった?」
マツリの言葉を打ち消すように、誰かがエイジを呼んだからだ。
凛と辺りに響き渡る声で。
歩道と公園を隔てる緑色のフェンスの向こう側を見たら、ストレートの髪を涼しげになびかせた女の子が自転車に乗ったまま、こちらを見ていた。
ファッション雑誌からそのまんま抜け出してきたような、おしゃれな女の子。
紫のタータンチェックのベアワンピに白のメッシュベルトを締めて、細いくびれと長く伸びた足を強調してる。
太陽の下にさらした薄い肩と鎖骨の線がきれいな、色白美人の目がパッチリとした子だった。
マツリの子供っぽいワンピースと正反対な大人っぽい着こなしに、マツリは不覚にも感心してしまった。
エイジに謝ろうとしていたこともすっかり忘れ、彼女をみつめてしまい、
(わあ、かわいい。こんな着こなし方あるんだぁ)
なんて、能天気なこと思ってしまった。
一方彼女のほうは、マツリをちらりとも見ないで完全に無視している。
エイジしかその場にいないような口調で、彼に話しかけた。
「十一時に図書館に集合なの覚えてる? まさか忘れてたりして」
「何べんも言うなよ、覚えてるって!」
エイジは、うんざりといった感じで返事した。
「夏休みのグループ研究のテーマ決めるんだろう? ちゃんと覚えてるよ」
彼女に口を尖らせた顔をしてみせた。
そんなお茶目なエイジを見て、彼女は笑った。
「だったらいいけど。だってキムラ君、同じクラスなのに女子の名前全然覚えてないじゃん」
彼女はきれいな長い髪を手ですきながら、うれしそうに言った。
「同じ班の子だけわかってればいいだろう、うるさいなあ」
エイジは面倒くさそうに頭をかいて、きちんと彼女の受け答えしていた。
なんか、このふたりイイ雰囲気。
まんざらでもなさそうな顔しちゃって。
お互い憎まれ口を叩きながらも、フェンス越しに親しそうに会話を交わす彼らを見て、マツリはふと思った。
このふたり、ホントお似合い。
もしかして……。
乙女の第六感がピンときた。
もしかして、このふたり両想い!?
エイジ君の気持ちはわからないけど、彼女のほうは絶対そう!
彼女、エイジ君のこと好きなんだ。
うれしそうに彼を見上げる彼女を見て、マツリは確信した。
だって、こんな暑い日に朝からファッション決めちゃって、自転車でここまで来てるもの。
きっと、エイジ君のことが気になって、わざわざここまで会いに来たんだ!
それじゃあ、ちょっと待ってよ。
自分のほうがお邪魔虫なんじゃない?
そう思った瞬間、大きく膨らんでいた風船が急にしぼんでしまったように感じた。
(これは……、気を利かして帰ったほうがいいよね)
彼らに気づかれないように、そっと後ずさりすると、マツリはくるっと背中を向けて走り出した。
「マツリ!」
エイジが突然呼び捨てでマツリの名を呼んだので、足が勝手に止まってしまった。
「何か用があったんだろ? 何で行っちゃうんだよ」
エイジが小走りで、マツリのところへやって来ようとしている。
(わっ、バカ! 来るんじゃないっ)
マツリは腕をクロスさせてバッテンを作り、『来るな』の合図をいっしょうけんめい送ったが、エイジは結局彼女をほったらかしにして来てしまった。
「もーっ、どうして来るの!? せっかく気を利かせたのにっ」
「なんのこと?」
エイジは不思議そうにたずねた。
「だって、あの子! エイジ君のこと待ってるんじゃないの? ダメじゃん、ほかったら!」
「今日の約束確かめに来ただけだって。それにマツリだってオレに用があったんだろう?」
「それは、そうなんだけど……」
と言いながら、マツリはフェンスの向こうを横目で見た。
なんかコワイ顔して、彼女がこっちを見てるような気がする。
(マズイ、誤解されたんじゃ……)
全身の血がさーっと引いて、ふらっと身体が前のめりになりそうになった。
懸命に気を落ち着かせるため、マツリはエイジから顔をそむけた。
「いいよ、別に。たいした用事じゃないから、向こうに戻りなよ」
すると、エイジの顔色が変わって、一瞬気まずい空気が流れた。
どきっ。
思わず、身体が固まってしまう。
「ふーん、それならいいや」
エイジはそうつぶやいたとたん、長い手を伸ばしてマツリの手からさっと何かを取り上げた。
気づくと、半分溶けかかったチューペットが彼の手のなか。
「ちょうどノド乾いてたんだ。もらうよ」
彼は、チューペットの口を吸って一気にノドの奥に流し込んだ。
マツリが止める間もなく、あっというまに細長いプラスチックの容器が空っぽになる。
(あーっ、わたしのチューペット!!)
呆然と、彼と空になったチューペットの両方を見た。
エイジは満足そうに言った。
「ごちそうさま、おいしかったよ」
そして、いきなりTシャツの裾をたくしあげたので、マツリは驚いて目を丸くした。
彼の日に焼けた腹筋がちらっと覗く。
細いけど筋肉質で男の子らしい平らな肌。
マツリはそれを目の当たりにして、かーっとなってしまった。
エイジはTシャツの裾で口を拭きながら、ふてぶてしくにやりと笑った。
「これ、チラ見したお返し。じゃあね」
彼はマツリにバイバイと手を振ってから、さっきいた場所へ走って戻り、フェンスに片足引っ掛けて再び彼女と話し始めた。
(もう、いったい何なのよ)
マツリは、不意打ちを食らって赤くなってしまった頬を両手で挟んだ。
あんなの、タカといっしょじゃない!
男の子の裸なんて慣れてるはずなのに……。
でも、彼のは全然違っていた。
全然違ってて、こうして目を隠していても、さっき見た光景がちらついてしまう。
心臓がどくどく音を立てるのを感じながら、マツリはエイジだけを盗み見た。
(もう、何考えてるのよ)
他の女の子と仲良くしゃべっている彼を見て、心の中で文句を言うしかなかった。
やっと話が一区切りできました。
ここまで読んでくださった皆様、ありがとうございました。
思わず「おいおい、それじゃセクハラ小僧だよ」と、ひとりツッコミしてしまったわたしです(^^;)