10.冗談率九十八パーセント
エイジと理穂が二人でいるところを見たくなくて逃げるように公園の中に隠れたのに、手を振って別れる彼らの様子を、マツリはトイレの建物の陰からそっと覗いて見ていた。
彼の横に立つのは、彼女みたいな女の子がふさわしいのかもしれない。中学生のクセにチビで子供っぽい女の子じゃなくって、彼女のように大人でキレイな女の子が。
ふいに涙が溢れマツリの丸い頬をつたってこぼれ落ちた。
――バカ、マツリ! 二人は同級生なんだから一緒にいて当たり前でしょう……? もっと自信を持たなくちゃ。理穂ちゃんじゃない。エイジ君は、わたしを好きって言ってくれたんだから。
マツリは、しゃくり声を漏らしてしまわないようにグッと唇を噛んで堪えようとした。
しかし、血の味がする。強く噛みすぎて唇を切ってしまったようだ。
――どうしよう、こんなんじゃエイジ君に会えない。せっかく決心したのに……。
マツリは、バッグからあわててハンカチを取り出して唇を拭った。傷の具合を確かめるためにハンカチを見る。予想していた通り、四つに折り畳んだハンカチの真ん中にポツンと赤いシミがにじんでいた。
今日は、バレンタイン。エイジ君の喜ぶ顔が見たい。だから、初めてのキスを彼にプレゼントしようと思っていたのに、こんな唇じゃ……。
マツリは、ハンカチをギュッと強く握り潰した。
「なんだ、こんなところにいたんだ!」
――えっ!
明るい声を耳にしたとたん、マツリは指でピンと弾かれたように顔を上げた。眩しさに顔をしかめ目を細める。
エイジがマツリの目の前にいて、彼のちょうど頭の後ろから日が差していたのだ。
「エイジ君……」
「待った、マツリ?」
いつものように彼は薄い茶色の瞳でやさしく笑いかけてきた。
だが、急に彼の笑顔が消える。彼の緩んでいた頬の筋肉が強張ったかのように固まり、目の光が鋭くなった。
「マツリ、どうしたんだ? オレがいない間に何かあったのか?」
込み上げる苛立ちを抑えられない。エイジは、マツリの両肩に手を置いてカラダを折り曲げた。ぶつけようがない怒りを含んだ声でマツリに問いかける。
――まさか。
涙に濡れた彼女の黒い瞳を見て、彼の思考の歯車がカチリと音を立ててはまった。
「っていうか、ひょっとしてオレのせい……?」
血の気が引いていくのが自分でもわかった。いつでも守ってやりたい。そう願って止まない彼女の笑顔が見たくて会いに来たっていうのに。
彼女は泣いていた。顔をクシャクシャにして。そう、いまいましいことに自分が見つける前にたった一人で、だ。
エイジは、彼女の頼りない肩が小刻みに震えるのを手のひらに感じて自分自身に怒りをあらわにした。
――ちくしょう、公園なんかで待ち合わせするんじゃなかった! バカだ、オレは……!
彼女の家に迎えに行けばよかったのだ。こんなところで彼女を一人ぼっちにさせていたオレが、本当にどうかしていた。
自分のあまりの愚かさに脳天をかち割られたようなショックを覚える。
『タダでさえ年下なんだから、余裕を見せておかないとウザがられても知らないゾ』
タカヒロに忠告された言葉を思い出した。
――ふん! 余裕なんかどうだっていい。オレのやり方でやればいいんだ。面倒なことなんか、みーんなクソ食らえ、だ。
エイジは、彼女の両肩に置いた自分の手を滑り下ろすようにして彼女の腕をつたうと、腕の先端にある彼女の両手をやさしく包んだ。その一連の動作で彼女を引き寄せる。
「あ……!」
小さく声をあげた彼女のカラダを包み込むようにして、エイジは両腕でしっかり抱きしめた。
「マツリ、一人で泣いてたんだね。ゴメン、もっと早く来ればよかったよ……」
「エイジ君……」
マツリは、コートの襟の間に覗く彼の胸元に耳をくっつけた。彼の鼓動が聞こえる。ドキドキと大きな早い音。エイジの胸の高まりを彼女にアピールする音だ。
――わたし、エイジ君に必要だって言われている……?
マツリは、エイジの背中に腕をまわし彼との接点を増やした。
理穂ちゃんがまだエイジ君を好きでいてもかまわない。エイジ君を好きな女の子がわたし以外にいてもいい。
――エイジ君が大好き。この気持ちだけは誰にも負けない。絶対誰にも譲れない……!
マツリは、顔を動かして彼を見上げた。
「あ、あのね、エイジ君が来るの遅いから、寂しくて泣いちゃったの。待ってたんだよ、ずっと。責任とってくれる……?」
「な、何、責任って……? なんか怖いな。どうすれば、いいの?」
怖気づいたセリフを口にしながらも、この状況を楽しんでいるかのように、エイジはいたずらっぽく笑った。
「オレ、このまんまじゃ何にも出来ないけど、キス以外は?」
と、言って口の端を上げる。そして、彼女の頬の横に自分の頬をピッタリ密着させた。
「さあ、どうする? もう少しずらせば、唇にキス出来るよ」
彼のささやき声が耳にかかる。
――きゃ……くすぐったい!
「え、エイジ君! エイジ君の意地悪!」
マツリは、ビクンと跳ねて動いた自分の肩が恥ずかしくて、燃え上がるような熱により顔が真っ赤になってしまった。
「もーう! バレンタインのプレゼントをあげようと思ったのに……! あげるのやめちゃうからっ」
プーッと大きくほっぺを膨らませる。
「ウソ、ゴメン! 冗談だって! お願い、許してよ!」
――ちぇ、もう終わりか。ま、いっか。マツリが元気になったから。
いつもの彼女に戻ったことにホッとしながら、エイジは顔をしぶしぶ離した。
「じゃあ、目を閉じて。左手を出してネ。イイって言うまで目を開けたら絶対ダメだよ」
「うん、わかった」
エイジは、マツリの言ったとおりに目を閉じて左手を彼女の前に出した。
――ホント……女の子みたい。
目を閉じたら彼の長いまつ毛が濃くなって一段と美少女のような美しさが際立ったことに、マツリは感動した。
彼のまぶたがピクピク動いている。高く通った鼻筋に引き締まった薄い唇。日の光を受けて彼の茶色の髪が輝き、サラサラと風に流されてそよいだ。
でも、エイジは正真正銘の男の子だ。彼の喉仏が縦に動くのを見て、マツリはドキリとした。
「マツリ?」
「あ、ちょっと待ってね!」
――いけない、つい見惚れちゃった……!
「えーと……」
彼女がつぶやく声とゴソゴソと何かを探しているような音がした後に、エイジは自分の手首に薄い布切れみたいなものが巻かれるのを感じた。
「いいよ、エイジ君。目を開けて」
彼女の声に導かれるまま、ゆっくりまぶたを開ける。
青と白が交互に並んでいるハート模様。少し歪んで扁平になっているけれど、かろうじてハートだとわかる。そこがとっても可愛らしい。
彼の左手首の骨が出っ張っている部分に、青と白の刺繍糸で作られた細長いものがぶら下がっていた。
「これは……マツリの手作り……? ほら、アレだろ? 切れたら願いが叶うというヤツ……」
「うん、そうなの。わたし、お料理苦手だからエイジ君のチョコレートは買ってきたんだけど。その代わりにコレを頑張って作ったんだよ」
マツリは、にこりと笑ってエイジに見えるように手首を掲げた。彼女の色は、女の子らしい赤とピンク。模様はエイジと同じ、色違いのハート模様だ。
「あのね、ミサンガって言うんだって。ママに作り方を教えてもらったの」
「ありがとう、マツリ。オレ、すっげー嬉しい……。大切にするよ、ずっと」
「フフッ、変なの。大切にしてたら、なかなか切れないよ。どうする、お願いがかけてあるのに?」
「あー、そっか……。すっかり忘れてたよ」
エイジは、ミサンガの位置が気になるのか、しきりに結び目を気にしていた。指でつまんで紐の部分を引っ張る。
「で? どんな願いをかけたの、マツリは? オレとキス出来ますように、だったりして。なーんてな!」
――え?
冗談率九十八パーセント。
そのつもりでサラリと流すように言っただけなのに、彼女が真っ赤な顔でコクンとうなずくのを見て、エイジは固まってしまった。
ドクドクと心臓が暴れだす。信じられない。クイズの正解は、残り二パーセントの方にあったのだ。
口を半開きにしてあっけにとられた顔で彼女を見下ろしていたら、マツリが恥ずかしそうにスカートの裾を持ってもじもじ手を動かし始めた。
「ほ、本当はね、エイジ君。本当は、今日ね……今日、と思って、ずっと前から決めてたの……。でも、でもね、唇が切れちゃったから……今日は、その……無理みたい」
「ま、マジ……? と、いうことは……ちょ、ちょっと待てよ。まさか、もしかしてコレが切れるまで……」
浮遊感と同時に突き落とされるような絶望感。
ジェットコースターに乗っているような複雑な感覚を胸に抱いたせいで、エイジはくらくらと眩暈がした。聞き返すのがやっとだ。
すると、マツリはパッと顔を上げた。
「あの、だいじょうぶ! ミサンガが切れるまでには唇治ってると思うし、時間がかかると思うから、きっとだいじょうぶだと思うよ」
エイジの心中を思いやっているつもりなんだろうか。小首を傾げて照れたようにはにかんで笑う。
「あ、そう……なんだ」
だから、だ・か・ら! 時間がかかるからマズイんだよ。ミサンガが切れる前に、オレの忍耐の方が切れてしまいそうだ……!
――は~、半年も付き合っているのに。オレの人生の半分もかかってんのに。女の子ってもんは、ちっともわっかんねーよ。なんで今じゃダメなんだよ!
エイジは、マツリのぷっくりとした唇を見ないように空を仰いでため息をつくのであった。