8.まぶたの裏の影
一足早く春を感じさせるような暖かな日差しの午後、リビングに響くパキッと醤油せんべいが割れる音。
「あら、まあ! へえ……あのイケメン俳優が浮気をねえ……。相手の人も大変ねえ」
夕食の準備を始める前の長閑なひととき、日本茶を飲んで醤油せんべいをつまみながら、マツリとタカヒロ二人のママはテレビのワイドショー番組を熱心に見ていた。と、そこへ慌しく開くドアの音が。
「たっ、ただいま!」
ドタドタと廊下を走り去る足音と共に娘の声が聞こえてきたが、ママはテレビにかじりついたままボリボリ口を動かし続ける。
「おひゃえり、まひゅり」
一応娘に声をかけたものの返事がない。いつもだったら真っ直ぐキッチンへ来る彼女なのに、珍しいことに今日は二階にある自分の部屋へ真っ先に行ったようだ。
それから一、二分たって階段を駆け下りる足音が再び聞こえてきたと思ったら、マツリの大きな声が飛んできた。
「行って来ます!」
「どこ行くの、マツリ?」
ママは、慌ててソファから立ち上がり居間から廊下に出た。廊下の先の玄関ではマツリがブーツを履いている。彼女のコートの下から女の子らしいピンク色のニットスカートの裾が覗いていた。
「え……と、すぐそこ! 待ち合わせしているの。すぐ帰るからっ」
そう返事した彼女の前に、ショッピングバッグとしても使えそうな大きいトートバッグが置かれていた。カンがいいママはすぐにひらめく。
「エイジ君とデートなのっ?」
コレは一大事! とばかりに、ママは玄関にすっ飛んできた。ワクワクと嬉しそうに目を輝かせてマツリの全身を素早くチェックする。
娘の恋をプロデュースするのはわたし! ドジであわてんぼうな娘をフォローするのは母の役目! なのだと、自負しているからだ。
「う、うん……!」
「そう、頑張ってね、マツリ。ちゃんと彼のハートをシッカリつかんでおくのよ!」
ママは、マツリのコートの襟を直し、彼女の髪を手で整えてやった。
「これでよし。キスまでだったらママが許してあ・げ・る。パパにはナイショで認めてあげるわよ」
ジョークとも本気ともとれる言葉を平気で言って、彼女の肩をポンと軽く叩く。
――ひ、ひえ……!
「ママ、恥ずかしいって!」
もしかして顔に書いてあるんじゃ……? ママに自分の計画がバレてしまいそうな気がして、マツリは文句を言うことで狼狽をかくした。顔を両手で挟む。
「あら、いーじゃない。今日はバレンタインなんだから。それに初めてでしょう、イベントを過ごすの? クリスマスのときはエイジ君、お父さんがいるアメリカに帰ってたし……」
「それは、そうなんだけど……」
マツリが口ごもったのと重なるように、ちょうどいいタイミングで携帯が鳴った。着信音でママの携帯だと気づく。
「ウフッ、彼に甘えちゃいなさい! あーいうタイプは、攻められると意外に弱いのよ。最初が肝心なんだからガツンと行きなさい、ガツンと!」
「もーう、ママったら知らない! 早く電話に出れば!」
マツリは、ママに向かってイーッと歯を見せると玄関のドアを開けた。
「もしもし、パパ? このあいだ送った写メ見た? あら、まあ……えっ!」
電話の相手はパパのようだ。最後にマツリがパパと電話で会話したのは、一週間前。マツリも久しぶりにパパと話をしたいが、今はエイジとの約束の方が先決だ。今日は、バレンタインなのだから。
――ごゆっくり。
マツリは、音を立てないようにゆっくり静かにドアを閉めた。
――あ~、やばい! すっかり遅れちゃった……。
学校が終わってから一度家に戻り私服に着替えてきたマツリは、エイジと待ち合わせをしている場所へと急いだ。
待ち合わせの場所とは、マツリの家から五百メートルほど離れた近所にある公園。マツリとエイジが夏に初めて出会った公園だ。そして、二人が初ドキドキ体験をした思い出深い場所でもある。
せっかくのバレンタインなのに近所の公園でデートとはお粗末な気がするが、マツリはちっとも気にしていなかった。
今日は平日の月曜日。中学一年生の彼女に小学六年生の彼には、昼の三時まで学校がある。まだ幼いカップルの二人は、大人のように夜を一緒に過ごすわけにいかない。だから、会えるのは日が暮れるまで。ほんの少しだけだ。
おまけに、マツリは筋金入りの方向音痴。
ちょっと彼女から目を離すと、瞬間移動をしたかのように一瞬で、彼女はエイジの前から突然姿を消してしまう。テーマパークなど人込みが多いところは問題外。遠くの行楽地へ出かけることも叶わない。
そのため二人は、二人にとって一番相応しい場所である公園で、つまり貴重な時間を目一杯生かせる場所で、バレンタインデートをすることを昨夜メールで相談して決めた。
――エイジ君……?
歩道を隔てる公園の緑のフェンスの前で、マツリの足が止まった。エイジの方が先に来ているとばかり思っていたのに、彼の姿がなかったのだ。
今マツリが立っている場所は、公園全体をざっと見渡せる正面出入り口の近く。誰が公園内に来ているのか一目で見渡すことが出来る。
しかし、彼女は、犬を散歩させているお爺さんや、元気よく走り回っている小さな子供たちの姿しか見つけられなかった。
さっきまで高揚していた気持ちが冷えて、どうしようもない違和感を覚える。
「エイジ君、どうしたんだろう……。約束の時間とっくに過ぎているのにな……」
マツリは、肩から下げているトートバッグの内ポケットから携帯を取り出して着信メールがないか確認をした。だが、関係がない広告メールばかりで彼女が求めているものはない。
――メールしよ。
エイジのメアドを表示させるために、ボタンをピッと押した時だった。
「……へー、もう……」
ふいにエイジの話し声がかすかに聞こえてきたので、マツリはパッと顔を上げた。
「エイジ君!」
間違えるはずがない。どんなにうるさい場所にいても彼の声だけは聞き分けられる。エイジに会える喜びで胸がいっぱいになったマツリは、彼の声が聞こえてくる方向を頭を動かして探した。
――えっ……?
だが、次の瞬間、彼女は無意識にコブシを強く握りしめていた。
彼女の耳に届く声が、エイジ一人だけの声でないことに気が付いたからだ。大好きな彼とは別に、もう一人話し声がする。しかも、そのもう一人とは、女の子。小さいけれど鈴の音を鳴らしているような凛とした軽やかな声。
どうやらエイジは、彼女と話しながら歩いているらしい。
「まーね、それより犬飼の方はどーなってるんだよ……」
上機嫌に彼女に問いかけるエイジの声がマツリの耳に届いた。
――やっぱり……!
忘れたくても忘れられない。彼女のことを考えると、マツリは未だに胸にチクリと鋭い痛みが走ってしまう。そして、それは向こうの彼女も同じだろう。
直接面と向かって話したことはないが、その声の持ち主はマツリもよく知っている子であった。
長く艶やかなサラサラの黒髪、スラリとよく伸びた細い手足、雑誌に出てくるモデルのように背が高いキレイな顔立ちの女の子。マツリにないものをすべて持っているような、まるで正反対の女の子だ。
彼女もマツリと同じ想いでエイジを見つめていた。エイジもまたマツリと出会う前は、彼女のことをにくからず思っていた。マツリとエイジが出会う前の二人は、お似合いのカップルだと周囲に認められていたのだ。
いくら鈍感なマツリでも、エイジの現彼女として気にならないハズがない。彼女の立場にしてみれば、マツリは二人の間に割って入り彼女からエイジを奪ったようなものだったからだ。
――リホちゃん……。犬飼理穂ちゃんだ……。
マツリの目線は、いつのまにか下向きになっていた。黒いアスファルトに伸びる自分の影を見つめる。望んでいないのに黒い自分の影がくっきりとまぶたの裏に焼き付けられてしまいそうだ。
―いやっ。
エイジ君は、わたしと約束しているのに、どうして二人が一緒にいるの……? 二人っきりで……。
――見たくない……!
マツリは、急いで自分の胸の高さまであるフェンスに足をかけて飛び越えると、そのまま飛ぶように公園の奥深くにまで走って行った。