2.うっかり忘れていたバレンタイン
「次回の打ち合わせは、来週の月曜日です。当日招集をかけますが、忘れないようにしてください。以上で解散します」
解散の号令が発せられると同時に、生徒たちがどっとざわめきだしたので、静かだった教室は騒がしくなった。生徒たちは一様にうんと背筋をのばして、長い間縮こまってしまった身体を元に戻す。
「あー、やっと終わったー。さっさと帰ろうっと!」
「これから部活なんだ。早く行かないと先輩に怒られるよー」
卒業生を送る会の打ち合わせのために会議室代わりの理科室に集められた生徒たちは、次の予定のためにあわただしく去っていく者がいれば、そのまま席に残ってのんびりおしゃべりを楽しんでいる者もいた。
その中で、マツリはひとりあせっていた。
――は、早く、早くしなくっちゃ。
あまりにもあせりすぎてしまったので、気が急くばかりで手が思うように動かない。机の上に広げたノートや筆記用具をもたもたと片づけるものの、急げば急ぐほど空回りしてしまう。あげくのはてに、
「あ!」
ガシャンと、ペンケースを床に落とすありさまだ。
――あー、もう、いや!
マツリは、床にしゃがんで落としたシャーペンや消しゴムを拾おうとした。すると、そこに彼女のシャーペンを先に拾い上げた手が伸びてきた。
「はい、どうぞ」
その声の主は、ふわふわ砂糖菓子のようなウェービーヘアをした女の子だった。にっこりとマツリにほほ笑み、弾んだ調子で話しかける。
「どうしたの、マーちゃん、そんなにあわてて? 急がなくていーよ、わたし待っててあげるから、ね?」
「アイちゃん、先に帰ってなかったの?」
「あったりまえじゃなーい。このわたしが、マーちゃんをひとりだけ置いて先に帰るわけないでしょう?」
彼女は、マツリの親友、愛子であった。帰りが遅くなるマツリを心配して、打ち合わせが終わるまで教室の外で待っていたのだ。
しっかり者でマツリに萌え燃えな彼女は、おっちょこちょいなマツリの学校における保護者と言ってもいい存在だった。そのため、マツリの一歳年下の弟タカヒロにも、彼女は頼りにされている。
しかし、そんな彼女にもただひとつだけ困ったところがあった。愛子はマツリを愛するあまり突拍子もない行動をたまにとってしまうのだ。
まあ、そのおかげでマツリとエイジが両想いになる最初のきっかけになったりしたのだが。結果オーライとは、まさしくこのことである。
「ほら、手伝ってあげるね」
マツリと話している間にも、愛子はマツリのカバンの中にてきぱきと手際よく荷物をしまった。あっという間に机の上は綺麗にかたづく。
「ありがとう、アイちゃん。でも……」
マツリは、親友の心遣いがとってもうれしかったが、今日は一緒に帰れないことをどうやって彼女に伝えればいいかわからなかった。
昨日の粉雪デートの折に見た満面のエイジの笑顔が思い浮かぶ。
『ねーねー、いーだろう、マツリ? ねーったら! 明日も一緒に帰ろうよ』
『えーと、けど、明日は……』
『何、明日用事あるの? だったら待ってるからさー。じゃないと、マツリのあーんなところや、こーんなところにもキスしちゃうよ、オレ!』
『えーっ、そんなのダメーっ! 絶対ダメっ』
『なんだよ、マツリ。どっちかっていったら、そっちのほうがいーんだけどなー、オレはー?』
『もーう絶対そんなのダメ! エイジ君のえっち!』
『だって、しょうがないだろう。マツリは、食べちゃいたいぐらい可愛いんだからさ。それに勘違いするなよ、オレがえっちなのはマツリにだけなんだから。そこんところ忘れないでくれよ、なっ!』
『わ、わ、わ、わかった、わかったってばーっ! 帰る、明日一緒に帰るってーっ! だからもう言うのやめてー、エイジ君の意地悪ーっ! こんなところで言わないでーっ!』
『へへっ、やったあー! I did it !』
結局エイジに強引に押し切られ、今日も下校デートをすることになっているのだ。
――最近エイジ君とばっかりで、アイちゃんと一緒に帰ってないからなあ。本当はもっとアイちゃんと一緒に帰って、女の子同士じゃないとできないおしゃべりしたいんだけど……。
「ひょっとしてマーちゃん、彼と約束しているの?」
自分にはっきりと返事を返さないマツリの心中を察したのだろうか。愛子の目にきらりと光るものがあった。
「え……と、えーと、実は、その……」
「そうなんだ、そうなのね、マーちゃん!」
「う、うん。ごめんね、アイちゃん……」
マツリが答えると、愛子が目を潤ませてマツリにガバッと抱き着いてきた。
「そ、そんなあ。せっかくマーちゃんと一緒に帰ろうと思って待ってたのにー」
と、声をあげる。いつもならマツリの方が愛子になぐさめられる立場であったのに、今回ばかりは正反対だ。マツリは愛子の身体を受け止めて彼女の背を撫でた。
「アイちゃん、ごめんね。わたしもアイちゃんと一緒に帰りたいんだけど、今日はちょっとエイジ君に頼みたいことがあって……」
――はあ、とてもじゃないけど、アイちゃんにあんな理由言えないよ……。
マツリは、心の中でため息ついた。
「だって今日は、じゃないもん! 今日は、じゃ! 先週だって一回しか帰れなかったしっ」
「アイちゃん、ごめんね。本当にごめんね。明日は必ず……」
「いーの、いーのよ、マーちゃん。アイコは、マーちゃんが幸せならそれでいーのよ、草葉の陰から見守るわ、ぐっすん。でもね、その代り……」
「その代り?」
「バレンタインにはチョコちょうだいね! お願い、宝物にするから!」
「え、バレンタイン……?」
マツリは、愛子の口から飛び出した言葉に驚いた。エイジに振り回されっぱなしの恋についていくだけでいっぱいいっぱいだった彼女は、恋人たちにとって大事な行事が近づいていることをすっかり忘れていたのだ。
「あー、そっかあ、もうそんな時期になったんだね……」
マツリがしみじみとつぶやく。
「まさか、マーちゃん、忘れてたの、バレンタインデーのこと? あと二週間もないのに」
マツリのつぶやきを聞いて、愛子の目が丸くなった。
「え、うん。つい、うっかりしちゃって……」
「うっかりしちゃって……って、マーちゃん……」
愛子は、苦笑いするマツリの小さな顔をあぜんと見つめた。
――らしいといえば、らしいけど。だいじょうぶかなあ、マーちゃん。もしかして彼とうまくいってないんじゃ……?
うれしいような、悲しいような。愛子は、微妙で複雑な気持ちになってしまった。
マツリにエイジという年下の彼ができてからというものの、大切な親友を取られてしまったような気がして、ちょっぴり、いや、かなりさびしい思いをしてきたからだ。
だからといって、マツリの悲しい顔は見たくない。親友の恋を応援したい気持ちはある。
――なんかいい方法ないかなあ。わたしもマーちゃんも幸せになれるいい方法が。
「アイちゃん、なあに? どうかしたの?」
「え! えーと……」
マツリの問いかけに愛子があせったときだった。突然「きゃーっ」という黄色い声が大きく響き渡った。
「ねえ、ねえ、あの子ちょっとすごくない? あの背が高い子!」
「え、どこどこ? あ、ホントだ! けっこう可愛いー。イケてる―!」
理科室を出た廊下の辺りから、生徒たちが騒ぐ声が聞こえてきたのだ。それも、みんな女子の声。
「どうしたんだろう、あっち。急に盛り上がってすごいね。なんかあったのかなあ。ねえ、マーちゃん。マーちゃん……?」
――背が高い……? 可愛い……?
マツリは、愛子の言葉が耳に入らなかった。
――やだ、もしかして。でも、でも。
言いようのないもやもやとした黒いものが、マツリの胸の中でうねる。
「アイちゃん、わたし、ちょっと見てくる」
マツリはそう言うが早いが駆け出して教室を出て行った。