33.まだ始まったばっかり
「マツリ、忘れてるわよ!」
玄関のドアを開けて今にも外へ飛び出そうとしているマツリに、ママのあわてふためく声が飛んできた。
「もう、何よう、ママ! 忘れ物なんかないって!」
汗を拭くタオルにカンカン帽、風を送るための団扇、熱中症対策の塩味の飴と冷たい麦茶。
そして、二日掛けて凍らせたチューペット、十本入りの袋が二つ。
リンゴやブドウなどフルーツ味のものが五種類ある。
もちろん、マツリの大好きなレモン味は忘れていない。
昨日寝る前に何度も確認したのだ。
これで準備はバッチリなはず。
「これ以上、何が足りないのよう」
マツリを追いかけて玄関までやってきたママに、頬をぷうっと膨らませた顔を見せた。
「はい、これ! 何だと思う?」
「ああっ!」
マツリはママの手から、一枚の紙をひったくった。
学区内対抗ソフトボールの会場の案内と対戦表であった。
「ただでさえ方向音痴なのに、大事なもの忘れてどうするの! 会場でうろうろ迷って、ついた頃にはとっくに試合が終わってるってことになりかねないわよ!」
「だって……」
「どうしてタカヒロと一緒に行かなかったの? 早起きしたくせに、いままで何やってたんだか!」
ママは腕を組んでマツリを見下ろした。
毎度のことながら、怒り狂っているママはスゴイ迫力だ。
「だって、支度に時間がかかったんだもん……」
恋する乙女に時の流れは冷たい。
外出の支度をするだけで、あっというまに時間が経ってしまう。
シャワーを浴びたあと、クローゼットから服を何枚も引っ張り出して悩んでいるうちに、タカヒロはさっさと出て行ってしまったのだ。
クーラーボックスにはチューペットの他に、氷や保冷剤、お茶などが入ってるので結構重い。
タカヒロに運んでもらおうと当てにしていたのが外れる結果となった。
「ママは、まだ行けないのよ。ひとりでだいじょうぶ?」
ソフトボール大会の会場は、マツリが通う中学校の校庭だ。
歩いて十分の距離のところにあるので、それほど遠いわけではない。
「だいじょうぶだって、いつも行ってるんだから」
しかし、マツリのことだ。
交通量が多い道路を大きな荷物を持って横断しなければならないので、ママは心配顔だった。
そのとき、ピンポーンとインターホンが鳴った。
「はーい」と言いながら、ママが裸足で降りてドアを開ける。
とたんに、「あら!」と驚きの顔をあげた。
「どうしたの、ママ?」
「おはよう、マツリ」
紺色の野球帽を目深に被って、白と紺のユニフォームに身を包んだエイジが、門の前に立っていた。
帽子の縁を指でちょっと上げて、にっと笑う。
「迎えに来たよ」
「エイジ君……」
私服と違った雰囲気の彼に、マツリの胸はドキドキしてきた。
ぼーっと彼を見ていたら、ママに腕をぐいっと引っ張られた。
「ちょっと、マツリ! 例の彼なの?」
ママに耳打ちされて、マツリは赤面する。
「え、うん……。ママ、まだ会ったことなかったっけ? タカの友達なの……。花火大会のときも、家まで迎えに来てくれたのよ」
「なんで教えてくれなかったのよ! 超イケてるじゃない、美少年だわっ」
ママが興奮する。
目をキラキラさせて、マツリの手をがしっと握った。
「よくやったわ、マツリ。さすが、ママの子よ! しっかり彼のハートをキャッチしたのね?」
「ママ、そんな恥ずかしい言い方やめてよ!」
ママに文句を言いながら、気になってエイジをちらっと横目で見たら、やはり。
苦しそうに身をよじりながら、笑いを噛み殺している彼が目に入った。
「もう行ってきます! じゃあね」
マツリは、クーラーボックスを持ってドアをガチャンと閉めた。
「面白いな、マツリのママは!」
機嫌よくエイジは、笑った。
「エイジ君、重くない?」
自分のスポーツバッグにマツリのクーラーボックスと、彼は両脇に荷物を抱えていた。
試合が始まる前に疲れさせてしまいそうだ。
「わたし、やっぱり自分の荷物持つよ」
エイジの肩に伸ばしたマツリの手を、彼はひょいと避けてかわした。
「ダメだって、オレに恥かかすなよ! それに……」
エイジは、ちょっと頬を赤らめコホンと咳払いした。
「そんなむき出しの肩で荷物かついだら、擦りむくじゃないか!」
「え、そう?」
マツリは、きょとんとした。
エイジは、無防備にさらけ出している彼女の肩が気になって仕方なかった。
動きやすいように膝丈のパンツをはいていたものの、襟ぐりと肩が広く開いている乙女チックなレースがついたチュニックを、肌の上にそのまま着ていたのだ。
「なんで、そんな服着てくるんだよ」
心の底ではうれしかったが、ハラハラして小言を言ってしまう。
何かの拍子に誰かにチラ見でもされたら……と思うと、とても試合に集中できそうにない。
エイジは、交差点までたどり着くと、荷物を肩から下ろした。
信号が赤になっている間に、スポーツバッグから着替えのTシャツを取り出す。
マツリの帽子を取って、彼女の頭からそれを被せた。
「日焼けするといけないから、着るんだ」
有無を言わさない態度で、彼女の手をとってTシャツの袖を通してやる。
最後にカンカン帽を彼女の頭に載せた。
「エイジ君、怒ってるの……?」
せっかくおしゃれしてきたのに、彼は気に入らなかったようだ。
マツリは、しょんぼりしてうつむいた。
「怒ってないよ。……あいつに、見せたくないんだよっ」
「あいつって?」
マツリは、エイジが誰のことを言ってるのかわからなくて聞き返した。
「キンキンだよ。オレたちの一回戦の相手、ヤツの町内なんだってさ。あいつ野球部だから、コーチやってるらしいんだ」
「ふーん、それは強敵だね」
また、キンキンか……。
エイジは、キンキンのことを強く意識してるようで、マツリとはただの友達だと知っても、何かとうるさい。
あの花火大会の日、コンビニの前でキンキンと話をしたときに、自分を苗字ではなく名前で呼ぶことを許したのは、彼には当分ヒミツ。
マツリは、キンキンと『何でもする』と約束をしていたのだから。
『これからは、カンザキのこと名前で呼びたいんだ』という申し出を、断るわけにはいかなかったのだ。
エイジに知られないようにするには、彼の気が済むようにしてあげればいい。
なんてたって自分のほうが年上で大人なんだから!
そんな思惑も知らず、マツリがおとなしく自分の言うことを聞き入れてくれたので、エイジはほっとした。
「オレのTシャツ着とけば、安心だろ?」
と言いながら、彼女をみつめる。
正直なところ、いちばん安心してるのはエイジ本人だ。
マツリは、オレの彼女なんだ。
男物のTシャツを着ていれば、試合の間目を離していても心配要らない。
彼女にはちゃんと彼氏がいるっていう、無言のアピールにもなるだろう。
自分の物でマーキングしないではいられないほど今日も彼女は可愛くて、エイジはめまいがしそうだった。
「この大会が終わったら、夏休みだな……」
エイジがつぶやきながら荷物を持った。
「うん、そうだね。夏休みだね……」
彼のTシャツを着てるせいで、うれしいような恥ずかしいような。
エイジに抱きしめられているような感覚がして、とても顔を合わせられない。
マツリは、うーんと背伸びして天を仰いだ。
今日も朝からぴーかん、空は晴れ渡り、夏らしいむわっとした暑さ。
こんなうだるような暑い日は、冷たく凍らせたチューペットを食べるに限る。
「エイジ君、試合が終わったら……」
交差点の信号が四つとも赤になる。
「チューペット半分こして食べようねっ!」
横断歩道が青になるのを見計らって、マツリはダッシュした。
「ええっ、マツリ! マジ?」
ガチャガチャと音を鳴らしながら、エイジがマツリの後を追いかける。
彼の呼び声を聞こえないフリして、マツリは横断歩道を渡った。
ちょっと、イジワルしちゃったかな……?
振り向いたら、彼はまだ横断歩道をゆっくり歩いている。
薄い茶色の瞳がいたずらっぽく輝き、マツリをどきりとさせた。
この気持ちに気づくまで、短い間にいろいろあった。
これからだって、もっといろんなことがあるんだろうな。
まだ始まったばっかり。
これからが、本番。
最後まで読んでくださった皆様、ありがとうございました。
マツリとエイジの話は、ここでいったん終わりです。
いつになるかわかりませんが、また続きを書けるといいなと思っています♪




