32.Good deal!
エイジは、胸元の部分だけ、Tシャツの布地が肌に張り付いていることに気づいた。
「マツリ、泣いてるの……?」
知らぬ間に、木々の間から月明かりが地上にまで届き、ふたりを淡い光で包みこむ。
彼女の目からぽろぽろここぼれ落ちる涙が、真珠のように玉となって、次から次へとエイジの胸に溶けては消えていった。
濡れた胸にじわっと熱が広がる。
エイジは、彼女の頬に触れようと手を上げた。
「あっ……」
マツリの声が漏れる。
指が頬をかすめるまえに、マツリの手がエイジの胸から離れた。
彼女が一歩後退したため、二人の間に隙間ができる。
距離にして、わずか四十五センチ。
手を伸ばせば容易く触れることができる距離なのに、今の二人にとっては近くて遠い。
「オレのことが好きなら、なんで逃げるの?」
「エイジ君……」
「オレが、いつ、イヌカイのこと好きだって言った……?」
エイジがあまりにも静かに優しい声で言ったので、マツリはもう一歩も動くことができなかった。
自分の気持ちを彼に伝えるという目的は果たしたのだから、ここから立ち去るべきだ。
いつまでも彼に初恋の影を引きずらせてはいけない。
わかっているのに、足が動かない。
「ひと言も、言ってない……」
エイジが前に進んで、マツリの手を取る。
「マツリを泣かせてばっかだけど、これだけは本当だ」
マツリの手を引っ張って、自分の腕の中に導いた。
「信じてくれるまで、何回も言うよ……」
彼女の背中に手を伸ばす。
浴衣を締める帯をつぶさないように気をつけて、彼女の腰に手をまわした。
「好きっていう言葉でも、Loveっていう言葉でも、足りないんだけど……」
もう我慢するのは、やめた。
カッコつけるのもやめた。
みっともなくてもいい。
「大好きだよ、マツリ。マツリだけが、大好きだ……」
彼女がいてくれるなら、それでいい。
彼のあたたかい胸に優しく包まれて、マツリは震えてしまいそうだった。
下を向きたかったが、彼から目を離せない。
じっとみつめていたら、エイジが大きく緩やかな息を吐いたので、その動きにあわせて彼の胸も上下する。
マツリの上半身も波のように動いたので、自分が彼の一部になったような気がした。
「エイジ君、本当にいいの? こんなはずじゃなかったって、思わない……?」
彼の鼓動が耳に伝わってくる。
とても早い音。
「思わないよ。 思うわけないよ……」
彼の声も振動となって伝わってくる。
とても心地いい声。
「だって、エイジ君、モテるんでしょう? わたし、きっとヤキモチ妬くよ」
それが、こわい。
わたしが、わたしでなくなりそうで……。
「モテるって……、オレ、マツリが思ってるほどモテないよ」
「ウソばっかり。わかってるんだから……」
エイジ君と会わなければよかった。
会わなければ、こんな想い知らなくてすんだのに……。
それでも、一緒にいたい。
エイジ君のこと信じたい。
「信じてる」
マツリは、手を伸ばし彼の引き締まった腰をぎゅっと抱きしめた。
「えっ、それじゃ……?」
エイジの目が大きく開く。
「これからも、ずっと信じさせてね」
マツリは、にっこり微笑んだ。
彼女の愛らしく眩しい笑顔に、エイジの目と心は奪われた。
前後を忘れ、しばらくの間ぼーっと彼女に見惚れる。
じわじわと身体の底から喜びがあふれ、胸が震えるのを感じた。
「Good deal!(よし、決まった!) やった、やったぞ!」
「え、エイジ君!?」
エイジは、喜びの声をあげると同時に、マツリを高く抱き上げた。
地面から足が離れて宙に浮いてしまい、その不安定な感覚に面食らって、マツリは思わずエイジの頭を抱きかかえる。
「わっ、マツリ!」
突然視界を奪われたうえ、彼女が足をバタバタ動かしたため、エイジはバランスを崩しそうになった。
マツリを抱えたまま、よろよろと二、三歩後ろに歩いて倒れるのを防ごうとしたが、神路の脇にそびえている木の根っこに足が引っかかる。
結局、ふたりは一緒に仰向けに倒れ込んでしまった。
「Oops!(しまった!)」
エイジが苦痛に顔を歪めた。
「だ、だいじょうぶ、エイジ君?」
「うん、背中を打って少し痛いけど……だいじょうぶ。下が土だったから、たいしたことなかったよ」
「よかったあ、びっくりした……」
エイジにケガがなくて、マツリはほっとした。
「もうムリしないで!」
口を尖らせて無謀なことをした彼に文句を言いながら、エイジの身体の上から降りるために、彼の顔の横の地面に手をついて身を起こしかけた。
すると、エイジがマツリの腰をがっしりつかまえたので、彼の身体の上に固定されてしまう。
「な、何?」
「I can’t take it any more」
マツリの首の後ろに手を添える。
「なんて言ったの?」
「……もう、我慢できない。そう言ったんだ……」
「え……?」
エイジが地面から頭を起こした。
徐々に彼の薄い唇が近づいてくる。
エイジ君、まさか……。
マツリは、彼が何をしようとしているのかすぐにわかった。
(ど、どうしよう、キスされちゃう!)
あっ、そうか!
エイジ君アメリカ育ちだから、キスするの当たり前なんだ!
でも、まだ中学生と小学生だよ!
ちょ、ちょっと、この展開になるには、まだ早すぎる!!
一生懸命マツリはもがいたが、彼の力が強くてぴくりとも身体が動かない。
はっとして気づくと、エイジのまぶたがゆっくり下りるのが目に入った。
だ、ダメ! 目を閉じたら、絶対ダメ!!
するとエイジは、指先でマツリの鼻の頭をこすった。
「……マツリ、こわいよ、その顔。こういうときは、目を閉じてほしいんだけど……」
エイジは、むっとした顔をした。
そう言った彼の顔も十分こわい。
目じりを上げて目を三角にしている。
「だって、だって……、エイジ君は女の子に慣れてるかもしれないけど、わたし初めてなんだもん!」
マツリが声を曇らせると、エイジは血相を変えてあわてて言い訳しだした。
「マツリ、違うって! イヌカイのこと言ってるなら違うよ。オレたち、そんな関係じゃないんだから」
「だって、校門の前で仲良くしてたでしょっ」
マツリの言葉に、エイジはぎくりとしてうろたえる。
「そっ、そりゃあ、あんなに美人だもん。ちょっとはさあ……」
つい口がすべってしまった。
「ほら、やっぱり! リホちゃんのこと、タイプなんだ?」
「ああっ、もう! だから、そうじゃなくて!」
エイジは片手で髪をくしゃくしゃにした。
そして、すぐマツリの背中に戻す。
「それとこれは、全く別もんで……。マツリだって、イイ男がいたら気になるだろう?」
「そ、それはそうかもしれないけど……」
マツリは、しばらく考えてから口を開いた。
「わたし、監督さんの顔、すごいアップで見たことあって……、髪の毛が触れて、ドキドキしちゃって……」
「兄貴と!?」
(あの野郎、いつのまにそんなことを! ぶっ殺してやる!!)
瞬間湯沸かし器のようにエイジはかっとなったが、それは本当に一瞬で終わってしまった。
マツリがエイジの頬に自分の頬をぴったりくっつけたからだ。
「ただ、それだけだったの。エイジ君も、わたしのこと信じて、ねっ?」
「マツリ……」
エイジは、力いっぱい彼女を抱きしめた。
「わかってる、信じてるよ。それに、今は間接キッスだけで我慢するさ」
「間接キッス? そんなことしてないよ!」
「ちぇっ、もう忘れたんだ。オレは、ちゃあんと覚えてるのに!」
エイジはにっと笑った。
「公園、ソフトの練習、タカヒロのエラー、マツリのチラ見せ、それにレモン味のチューペット! 半分こにしただろう?」
「半分こって、それはエイジ君が勝手に食べたんじゃない!」
「いーじゃん、食べたかったんだから。また半分こして食べよーよ、いいだろう?」
「でも……」
「じゃないと、ホントのキスしちゃうよ。オレはそっちのほうがいいけど、マツリのイヤなことしたくないし。マツリの方からキスしてって言うまで、仕方ないから待ってあげるよ」
何、それ!?
マツリは、エイジのイジワルな態度に腹を立てた。
そんな恥ずかしいこと、絶対自分の方から言えない!
「ふん、絶対言わない! 言ってあげないんだから!」
「そ、そんなあ、言ってよ。マツリ、お願い!」
「い・や! 絶対に言・わ・な・い!」
仲良く言い争うふたりを余所にして、夜空に色とりどりの花火が上がり始めた。
風に揺れて木の葉が音を立てる――
前回も長かったのですが、今回のほうがもっと長くなってしまいました。
読んでくださった皆様ありがとうございます!
ちなみに作中に出てくる英文は、実生活でもよく使われるくだけた英語です。
Deal?(これでいいかい?) Deal.(いいよ)
ひとことで終わるので、結構便利です。
このはなのひとこと英会話でした♪(すみません、エラぶって。汗汗です……)