22.六年分の気持ち
声をもらさずに泣けるほど、マツリは大人ではなかった。
オレンジ色と紺色がひとつに溶け混じり合った空の下、水のみ場の前にしゃがんでいた彼女は、小さな背中を無防備にさらけだしていた。
彼女の頭上を電灯の淡い光が優しく照らし、柔らかな髪が光を受けて、天使の輪をつくっているのが見える。
はやる気持ちを抑え、手を伸ばせば彼女に触れることができる距離まで、エイジはそっと歩いて近づいた。
人気がいない公園はあまりにも静か過ぎて。
どくん、どくんと大きく脈打つ心臓の音が、彼女の耳にまで届いてしまいそうだ。
エイジは心臓の位置に手をやって、Tシャツごとわしづかみにした。
大きな音を立てて驚かせてしまったら、彼女が鳥のように羽ばたいて、するりと自分の元から去っていってしまう。
エイジは、そんな気がして仕方なかった。
彼女の真後ろに立つと、肺に空気を送り込んで、吐くのと同時に彼女の名を呼んだ。
「マツリ」
背中から声をかけられて、その声の主が誰かに気づき、マツリの身体に電流が走った。
ウソ、エイジ君……!?
なんで、ここに?
しゃがんで顔を伏せたまま、うしろを振り返らずに、膝を抱える両腕にぎゅっと力を込める。
小さく丸まった身体がますます小さくなって、彼女は白い卵のようになった。
扱いを間違えてうっかり落としてしまったら、すぐにひび割れ壊れてしまうデリケートで小さな卵だ。
優しく慎重に触れなければならない。
失敗は、もう許されなかった。
「マツリ、家まで送るよ」
エイジは緊張して声を震わせてしまった。
「……いい、監督さんがいるもん」
マツリがすねたように答えてくれたので、エイジはほっとして言った。
彼女に無視されなかったことを密かに喜んだ。
「兄貴は、もういないよ。先に帰ったから」
えっ、先に帰った!?
「ウソ! だって一緒にいたのに……」
しかし、エイジの言ったことは本当だった。
振り返ってうしろを見ても、エイジ以外誰もいなくて。
マツリを泣かせる原因をつくった少年だけが、ぽつんと立って彼女を見下ろしている。
自分より年下の、小学生の男の子なのに、彼は大人びた表情をしていた。
微笑みかけようと唇を持ち上げながらも、瞬きひとつせず大きく見開いて陰を落とした暗い瞳。
反目しあった感情がないまぜになった表情。
マツリは、見てはいけないものを見てしまったような気がした。
エイジは、彼女の頬に涙の筋を見つけた。
マツリ、オレ……。
オレが泣かせちゃったんだな。
一瞬で彼女の涙の理由を悟る。
兄貴、本当だよ。
ここがオレの踏ん張りどころなんだ。
さっき目にした兄からのメールを心の中で噛み締め、汗ばんだ手を握りしめた。
誠意を込めて謝って、彼女が笑って許してくれるまで、ひたすら謝り続けるしかない。
もっと気が利いたことをしたかったが、若干十二歳の少年には、そんな単純なことしか考えつかなかった。
今度は、オレが謝る番だ。
「マツリ、ゴメンな。オレが悪かったよ。昼間あんなふうに言ったから、泣いて……」
「エイジ君のせいじゃない!」
マツリは、エイジの言葉を最後まで聞かずに遮った。
「わたし顔を洗ってただけだもん、泣いてないもん!」
そう言って、何度もタオルに顔をごしごしこすりつける。
(か、かわいい……)
中学生とは思えない、子供っぽい彼女の態度に、エイジは上気して顔に赤みを帯びてしまった。
すねて自分に背を向けた彼女が、とても愛おしい。
どこでもいい、マツリに触りたい。
指一本でもいいから……。
彼女の身体の一部に触れたくて、彼女の温度を感じたくて、だんだん落ち着かない気持ちになってしまった。
うずうずと、しきりに手を開いたり閉じたりしてしまう。
でも、今はダメだ。
ケンカしたことを謝るんだ。
そうじゃないと、もうオレと口を利いてくれないかもしれない。
マツリに許してもらうほうが先だ!
「あれ……、ウソなんだ」
エイジは、しぼり出すような小さな声で言った。
「何が?」
タオルで顔を隠していたので、マツリの表情は見えなかった。
でも、彼女はちゃんと返事をしてくれた。
そのことに力を得たエイジは、話を続けた。
「好きになってくれって言った覚えない……って、こと……」
マツリは黙ったままだったが、きっと耳を傾けてくれている。
エイジは堰を切ったように話し出した。
「反対なんだ。本当は、ずっと思ってた。六年前、マツリがじいちゃんの店に初めて来たときからずっと。オレのこと、好きになってくれたらいいなって。オレ、ずっとそう思ってたんだよ……」
マツリは息が止まりそうになった。
エイジ君が、わたしのことを?
それに六年前って、わたしは七歳で、エイジ君は六歳だ。
「ま、また、からかってるんでしょう……? わたしのこと……」
そうに決まってる。
エイジ君は、ちゃんと彼女だっているんだもん。
「違うよ、からかってなんかいない。だから、家まで送らせてほしいんだ。」
彼は答えた。
信じられない!
彼女がいるのに、そんなこと言うなんて。
「そんなに送りたかったら、あの子を送ればいいじゃない。あの髪の長い、きれいな子!」
マツリは、しまったと思った。
「本当にそう思ってる? マツリは、オレがそうしてもかまわないって、本気で思ってるの? オレは、マツリに六年分の気持ち、告ってるのに……」
エイジの声が怒ったような、厳しい口調に変わった。
「だったら、残念だけど……」
砂利を踏みしめる音が聞こえた。
エイジ君が行ってしまう!
「待って、違うの!」
マツリはあわてて顔を上げて振り向いた。
わたし、バカだ。
また、エイジ君を怒らせることを言っちゃった。
すると、エイジがしたり顔でにっと笑っていた。
「それは無理なんだ。オレ、フラれたんだよ。家まで送るって言ったけど、そんなのいらないって言われちゃってさ」
彼は立ち去っていなかった。
マツリに合わせて、地面にしゃがみ込んだだけだった。
「どうしてだと思う?」
エイジは、端正な顔をマツリの間近に寄せてきた。
彼の茶色の瞳が、何かをたくらんでいるかのように輝いている。
(さ、さあ、どうしてなんでしょう……?)
マツリは、うろたえておどおどしながら、またエイジのペースにまんまと乗せられてしまったことに気づいた。
先週の土曜日、彼に初めて会ったときのように、心臓がどきどきして頬が赤く染まり、口をぱくぱくさせてしまう。
どアップでエイジにみつめられているせいで、酸欠状態におちいった。
「だから、そんな顔したらダメだろう?」
エイジは、うれしそうに笑った。
「身体が反応しちゃうから」
マツリは、あのときと同じようにひっくり返りそうになった。
やりました! とうとう告白シーンをやってしまいました♪
いかがだったでしょうか?
ご感想いただけたら、とってもうれしいです(涙)
ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
まだ続きあります。終わりじゃないですよ。