21.ため息と一緒に逃げた幸せ
「あつっ!」
蛇口の下に手を置いて水道のコックをひねったら、予想に反してお湯のように熱い水が流れ出てきた。
あっ、そうか。暑いからお湯になってるんだ。
冷たい水に変わるまで待たなくてはならない。
マツリは、公園の水のみ場の前にかがんで、水が渦を巻いて排水溝に飲み込まれていく様子を眺めた。
「だいじょうぶかい、マツリちゃん?」
近くのベンチに腰を下ろして携帯をいじっていたショウゴが、声をかけてきた。
彼の足元には、さっき脱いだばかりの下駄が、意外にもきちんと向きをそろえ並べられている。
ラーメン屋の立て看板にぶつけた方の足を上にして長い足を組んで、彼はこちらを見ていた。
「だいじょうぶですよ、少し熱かっただけですから」
彼に心配かけないように、唇の端をあげて笑ってみせた。
「すぐにタオル濡らして足を冷やしますから、待っててください」
頬がぴくぴくけいれんを起こす前に、あわてて目をそらした。
『早く逃げ出したい、君はそう思ったんだろう?』
マツリは、彼に言われたセリフを思い起こした。
それは図星だった。
あまりにも簡単に、エイジの兄に見抜かれてしまったので、「はい、そうです」だなんて返事をすることなど、とてもできなかった。
放心状態同然に陥ってぼーっとなって気がついたときには、監督の手に引かれて、ここまで連れて来られていた。
ここは、エイジと初めて出会った、あの公園だ。
夕飯時なので、公園には人気があまりなく、マツリとショウゴのふたりの姿しかなかった。
犬の散歩のために公園内の散歩道を通る者達がちらほらいたが、皆「あっ」という顔をして足早に横を通り過ぎていく。
若いカップルの語らいを邪魔してはいけないと思われたのかもしれない。
そのたびに複雑な思いがして、マツリはため息をこぼしてしまった。
マツリには、蛇口から流れ落ちる水の音が、やたら大きく聞こえた。
だいぶ流れたので、水はもう冷たくなっているはずだ。
しかし念のために、今度は慎重に手を出して、水の温度を確かめた。
四角に折り畳んだショウゴのタオルを濡らして軽く絞る。
同時に、タオルに含まれていた余分な水分が、マツリの両腕を伝って流れ落ち、しずくとなって地面に落ちて消えていった。
『ため息をつくと一緒に幸せも逃げるのよ』
この前、ママが得意げに言ってたっけ。
もし、それが本当だったら、さっきのため息と一緒にわたしの幸せも逃げていったことになる。
じゃあ、わたしの幸せって?
さっき逃げていってしまった、わたしの幸せって、いったいなんだったんだろう。
それにはエイジ君のことも入ってるのかな……。
マツリは、絞ったタオルをデニムのスカートから伸びた膝の上に乗せると、いきなり蛇口に手を出して、ばしゃばしゃ顔を洗った。
濡れたのは、顔を洗ったからではない。
洗う前から、マツリの頬は濡れていた。
両手で膝を抱えると、濡れた顔を伏せて身を震わせた。
「マツリちゃん!」
ショウゴが裸足のまま駆け寄ってきた。
「ゴメン、泣かすつもりなかったんだ。ゴメンな、あんなこと言って」
こんなところエイジに見られたら、確実に殺されるな。
内心そう思いながら、ショウゴはひざまずいて、泣いている子供をあやすようにマツリの小さな背中をさすった。
「いえ、監督さんのせいじゃないんです。わたし、自分で勝手に泣いてるだけで……」
マツリは顔を伏せたまま、途切れ途切れに話し始めた。
「本当は……、エイジ君とケンカしちゃったんです。友達とじゃなくて……」
「うん、そうだと思ったよ」
ショウゴは、彼女の背中をさする手を休めることなく答えた。
「エイジ君、わ、わたしのこと心配してくれて…」
「うん、うん」
「ちゅっ、中学校なのに、エイジ君来て……」
「うん、うん……、!?」
聞き間違いか?
ショウゴは、思わずマツリの背中をさする手を止めてしまった。
「保健室に、きっ、来てくれたのに……」
「ほ、保健室……!?」
「わっ、わたし、キライって! 大っキライ……って」
ショウゴは口をぽかんと開けた。
「い、言っちゃたんだ?」
ショウゴがマツリの言葉を継いだので、マツリは返事をする代わりにうなずいた。
マツリはもう何も話せなかったし、話すつもりもなかった。
今だったら、だいじょうぶ。
このまま泣いてしまえば、たぶん忘れられる。
これからは公園にも近づかないし、小学校にも行かない。
しばらくは胸の痛みが続くかもしれないけど、もうすぐ夏休みだもん。
夏休みになれば、きっと楽しいことがある。
だから……。
日が傾き始めてから、だいぶ時間がたっていた。
直に空の色も紺色に変わるだろう。
ひとつ、またひとつと、公園の電灯が順番に灯りはじめた。
ショウゴは、開いた口がふさがらなくなった。
だからか。
あいつ、マツリちゃんにキライって言われたから、あんなにいらいらしてたのか。
ふたりの間に何かある――と思ってはいたが……。
妙ななぞなぞを出して彼女を連れ出すのに成功したものの、こうも泣かれてしまっては作戦は失敗だった。
彼女を慰めてエイジと仲直りさせようと、ショウゴは思っていたのだ。
ただ自分が考えていたより、問題は複雑だったらしい。
まさか、エイジのヤツ……。
保健室で、嫌がる彼女を無理やり!?
それで、キライと言われちゃったのか?
まあ、確かに。
学校の保健室とは、なかなかそそられるシチュエーションだ。
だからといって、今まで大切にしてきた恋を無駄にするつもりか?
それとも、ここにきてあせってるのか!?
ダメだ、我慢できないっ!
あの、エイジがあせってる?
お、面白すぎる!
「ぶはっ」と笑い出しそうになったそのとき、ショウゴのハーフパンツのうしろポケットにある携帯が震えた。
マナーモードにしてあったので、顔を伏せて泣いているマツリには気づかれていない。
ショウゴは手で口を押さえながら静かに立ち上がると、水のみ場から数メートル離れたところへ後ろ向きで移動して、急いで携帯を取り出し画面を開いた。
『きたぞ』
たったひと言だけの短いメール。
(やっと、来たか)
ショウゴが顔を上げたら、公園の緑のフェンスの向こうに少年がひとり立っているのが見えた。
彼は、無表情でこちらを見ている。
何気ない様子でジーンズのポケットに手を突っ込んでいたが、彼は肩で息をしていた。
弟がかなり緊張していることが、数メートル離れたここからでもよくわかった。
ショウゴは顔を上げたまま、親指打ちでメールを打った。
『ふんばれよ』
兄から弟への、忠告と激励を込めたメッセージだった。
ショウゴは送信ボタンを押すと、マツリに気づかれないようにベンチまで戻り、自分の下駄を拾った。
そして、ちょっとばかり真相を誤解したまま、裸足で歩いてその場を後にした。
ふたりにとっての長い一日は、まだ続きます。
ここまで読んでくださった皆様、ありがとうございました♪