1.どうしても食べたいチューペット
「えーと……」
声に出してから、数学の教科書のページをめくって、応用問題を指でなぞった。
「こっちの基礎問題の公式はこれだから、XとYはこうなって、それから……」
先生だったか誰だったか覚えてないけど、わからない問題があったら、声を出して読んだほうがいい。
そう教えてもらったことがある。
そのほうが整理されて頭に入るからってことらしいんだけど、それって無駄じゃない?
だってテストの時そんなことやってたら、先生に怒られるもん。
声を出さずに問題を理解できて答えを出せるのが、いちばんいいに決まってる。
そっちの方法を教えてよ。
不満に思いながらも、マツリは声を出して一生懸命問題を解こうとしていた。
でも考えれば考えるほど、頭がごっちゃごちゃ。
XとYと数字のオンパレードで、脳みそがパンクしそう。
「もう数学なんて、大っ嫌い!」
教科書とシャープペンをテーブルの上に放り出して、ソファにごろりと大の字になった。
(こういうの、なんて言うんだったっけ? 『さじを投げる』だったかな)
居間の白い壁をみつめながら、ぼんやり考えた。
「マぁ・ツぅ・リぃ」
寝転がった頭の先のほうから、自分を呼ぶ声がした。
頭を向こうにそらして、そのままの姿勢でちらっと見る。
すると、物干し場のテラスに面した居間の大きな窓から、ママがこちらをにらんでいるのが逆さまに見えた。
(まずっ!)
思わずあせって飛び起きた。
「テスト勉強、はかどっているんでしょうねえ?」
す、すごい迫力。
ママは、腕を組んで仁王立ちしていた。
「は、はい! もちろん」
背中をピンと真っ直ぐ伸ばしてソファに正座し、両手をきちんと揃えて膝の上に乗せた。
しかし、そのあとに続く『全然はかどってないよ』の言葉は、ごくんと飲み込んでしまう。
言ったが最後どうなるか、火を見るよりも明らかっていうやつだったから。
マツリは恐る恐るママの顔色を伺った。
「この前の中間テストみたいに、赤点すれすれの点数とるのはやめてよね」
足元に置いた洗濯物が入っているカゴから、ママはTシャツを一枚取り出した。
水色に白のドット模様、マツリのお気に入り。
「中学生になって初めての期末テストなんだから、しっかり勉強するのよ。そうじゃないと……」
言うが早いか、ママはTシャツの裾をつかんだ両手を上から下へと一気に振った。
パンッと気持ちのいい音が大きく響いて、Tシャツのシワがきれいに伸びてなくなる。
「わかってるんでしょうね?」
それを見たとたん、背筋がぞーっと寒くなった。
冷房が必要でなくなるほど、体温が下がったような気がする。
「わ、わかりましたっ」
ますます背中を伸ばして素直に答えると、ママは満足そうにうなずいた。
鬼より怖いママのお説教がやっと終わったので、内心ほっと胸を撫で下ろし腰を上げた。
「さあて、そろそろ休憩にしようかなあ」
わざとらしく大きな声を出して、ママと目を合わせないように背中を向け、大股でキッチンへ行った。
気分を変えたいときは、これを食べるに限る。
冷凍庫から目的の物を一本取り出した。
夏の定番、チューペット。
すっきりさわやかレモン味だ。
中身を凍らせてから、半分にポキッと割ったり、上部にはみ出している細長い部分を切り取って、ちゅうちゅう吸いながら食べたりする。
その独特の食べ方から、ポッキンアイスとかチュウチュウアイスとか言われることもあるけれど、正式名称はチューペットというらしい。
とにかくマツリは、小さい頃からこのチューペットが大好きで、夏になるとよく食べていた。
今日も朝からうだるような暑さだったので、ひんやりと手にあたる冷たさが余計気持ちがいい。
鼻歌を歌いながら、キッチンバサミが閉まってある引き出しの取っ手に手をかけたとき、洗濯物を干し終えたママがキッチンに入ってきた。
「ダメよ、食べちゃ」
残酷なひと言をさらりと口にした。
「ええーっ、どうしてえ?」
マツリは口を尖らせて、恨めしそうにママの顔を見た。
「だって、それソフトボールの差し入れだもん」
ママはマツリの手からチューペットを取り上げて、冷凍庫に閉まった。
「残念でした」
ぺろっと舌を出して、にっと笑う。
わが子をからかうことを忘れなかった。
「じゃあ、家で食べていいやつ一本もないのぉ?」
情けないことに、餌を前にしてお預けを食らった犬みたいな気持ちになってしまった。
「足りなかったら困るでしょう。それに今日差し入れ当番だもん。そろそろ行かないと」
ママは、よしよしとマツリの頭を撫でた。
あっ、そうか。
すっかり忘れてた。
そういえば、今日は土曜日。
ソフトの練習がある日だ。
夏休み前の最後の日曜日に学区内対抗のソフトボール大会が開催されることになっていて、小学生たちは毎週土日になると公園に集まって大会に向けて練習していた。
ついでにいうと、小学六年生になるマツリの弟タカヒロも練習に参加している。
この暑いのにご苦労さん、中学生でよかった。
マツリは高みの見物でいたが、本当のこというと弟がちょっぴりうらやましかった。
町内の人たちが、ジュースやお菓子などをたくさん差し入れに持ってきてくれるからだ。
タカヒロは練習があるたびに、両手いっぱいおやつを抱えて持って帰ってきた。
「ねえ、ママ。わたしが持ってくよ、差し入れ」
名案を思いついた。
「だから、もし残ったら食べてもいいでしょう?」
「うーん、そうきたか」
ママは苦笑いした。
「そうしてもらえるとママも助かるんだけど、でもテスト勉強はどうするのよ」
「わかってるって。帰ってきたら、またやるから。お願い!」
ぱちんと手を合わせて拝んだ。
「もう、しょうがないなあ」
ママは居間のテーブルに視線を動かして、あきらめたような調子で言った。
「その代わり、すぐ帰ってくるのよ。いいわね!?」
と、釘をさすのも忘れなかった。
まだ肝心の彼が登場しなくて、すみません。
次回は、たぶん登場すると思います。