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裕福な悪童に両手を潰された俺を、医師の母は診断書で加害者を守った

作者: 熾星
掲載日:2026/06/11

 

 俺の両手を砕いたのは、神崎翔真だった。

 彼は東京の私立・聖陵音楽大学で有名な問題児であり、神崎建設会社社長の一人息子でもある。

 あの夜、彼は五人の取り巻きを連れて、学校裏の路地で俺を待ち伏せしていた。

 奴らは俺の肩を押さえつけ、俺の両手を冷たいコンクリートの上に押しつけた。

 そして神崎翔真は鉄パイプを振り上げた。

 一度。

 また一度。

 俺の、ピアノを弾くための手を砕くために。

 救急外来に運び込まれた時、俺の両手はもう原形を失っていた。

 医師は言った。

 今後、箸をまともに持てるようになれば、それだけでも奇跡だと。

 けれど、俺の母――高梨怜子は、東京白桜大学附属病院の副院長だった。

 その母は翌日の夕方、俺に「重篤な後遺症は認められない」という診断書を出した。

 それだけではない。

 母は一枚の《示談書》を、俺の顔の前に放り投げた。

「署名しなさい」

 全身から冷や汗が噴き出していた。

 痛みで、顔を上げることさえできなかった。

「……どうして?」

 母は病床の横に立っていた。

 濃いグレーのスーツ。

 整えられた化粧。

 その声は、どうでもいい事務連絡でも告げるように静かだった。

「神崎さんは、昔、私の命を救ってくれた人なの。あの人がいなければ、今の私はいない」

「だから?」

「だから今回は、高梨家がその恩を返す番なのよ」

 母は少しだけ言葉を切り、続けた。

「翔真くんはまだ若いの。人生はこれからよ。前科がつけば、彼の一生は壊れてしまう」

 俺は、包帯でぐるぐるに巻かれ、完全に歪んだ自分の手を見た。

 十七年間、ピアノを弾いてきた。

 ウィーン国立音楽大学の合格通知は、家の机の一番下の引き出しに入っている。

 ようやく東京を離れ、夢を追いかけられると思っていた。

 けれど、俺の手は壊れた。

 俺の夢も壊れた。

 それなのに、実の母は俺にこう言った。

「奏太。あなたはもう、ピアノを弾ける人間じゃない。だったらせめて、翔真くんの人生まで壊さないで」

 その瞬間、痛みが消えた。

 心が死ぬと、身体の痛みなど、どうでもよくなるらしい。

 俺の人生を使って、あんたがその恩とやらを返すと言うのなら。

 見せてやる。

 その恩が、どれほど汚れたものなのかを。

 第1話 母が持ってきたものは、慰めではなかった

 手術室のランプが消えたのは、午前三時を過ぎた頃だった。

 中から出てきた医師はマスクを外し、父――高梨誠一を見たまま、しばらく何も言わなかった。

 父は壁に手をつき、唇を青くしていた。

「先生……息子の手は……」

 医師は数秒沈黙してから、低い声で言った。

「右手首、掌骨、指骨に複数の粉砕骨折があります。腱も断裂していますし、神経損傷も深刻です。左手は右手よりはましですが、決して楽観できる状態ではありません」

 父の身体が、ぐらりと揺れた。

 医師は続けた。

「まだ若い子ですから、私も厳しいことは言いたくありません。ただ……ピアノは、今後かなり難しいと思ってください」

 父は廊下にゆっくりとしゃがみ込み、両手で顔を覆った。

 半開きの扉の隙間から、俺は父の肩が震え続けているのを見ていた。

 父は、ごく普通の中学校の音楽教師だった。

 金持ちではない。

 身体も強くない。

 三年前に慢性腎不全と診断され、毎週、人工透析クリニックに通っている。

 それでも父は、この数年、ほとんどすべての金を俺のピアノに使ってくれた。

 子どもの頃、練習をやめたいと言った俺の隣に座り、何度も音階練習に付き合ってくれたのも父だった。

 聖陵音楽大学に合格した日、父は嬉しさのあまり一睡もできなかった。

「奏太。お前は父さんの代わりに、もっと広い世界を見てくるんだ」

 そう言ってくれた。

 なのに今の俺は、もう鍵盤を押すことすらできない。

 母が現れたのは、翌日の夕方だった。

 病室のドアが開いた瞬間、高級な香水の匂いがした。

 高梨怜子は入口に立っていた。

 今季の新作スーツを身にまとい、ブランド物のバッグを手にしている。

 髪は一本の乱れもない。

 俺を見るなり、母はわずかに眉をひそめた。

 最初の一言は、痛くないか、ではなかった。

 手はどうなの、でもなかった。

 母はこう言った。

「どうしてこんなに大ごとになっているの?」

 父が勢いよく立ち上がった。

 目は血走っていた。

「怜子!奏太の手を見ろ!お前の息子だぞ!神崎翔真のあの野郎が――」

「誠一」

 母は冷たく父を遮った。

 そして後ろ手に病室のドアを閉め、ナースステーションからの視線を断ち切った。

「ここは病院よ。大声を出さないで」

 父は怒りで震えていた。

「お前こそ、ここが病院だと分かっているのか?自分の息子がこんな目に遭っているのに、母親のお前が――」

「手術は終わったのでしょう?」

 母はベッドの横まで来ると、俺のカルテを手に取ってめくった。

「執刀は藤原主任?腕は悪くないわ。ただ、余計なことを言いすぎるのよね」

 母はカルテを閉じ、無造作に戻した。

 それからようやく、俺を見下ろした。

「奏太。神崎さんから連絡はもらっているわ。今後の治療費は向こうが負担してくれるそうよ。翔真くんも相当ショックを受けているの。ずっと泣いているそうよ。自分は一時的にかっとなっただけだって」

 俺は母を見つめた。

「……泣いてる?」

 母はスマホを取り出し、一枚の写真を開いた。

 写真の中で、神崎翔真は銀座の高級レストランに座っていた。

 目の前には綺麗なデザート。

 彼はカメラに向かってピースをし、明るく笑っていた。

 母は言った。

「これは昨日の夜よ。彼、精神的に不安定になってしまって、神崎さんが気分転換に連れ出したの」

 俺はその写真を見て、笑いそうになった。

 だが顔の傷が動いた瞬間、視界が黒くなるほど痛んだ。

「あいつは俺の手を砕いて、そのあと銀座でデザートを食べていたのか?」

 母はスマホをしまい、淡々と言った。

「奏太。表面だけを見てはいけないわ。人それぞれ、後悔の表し方は違うのよ」

「後悔?」

 俺は歯を食いしばった。

「警察に行く。あいつを刑務所に入れる」

 その瞬間、母の表情が変わった。

 取り繕っていた優しさが消え、冷たさだけが残った。

 ぱんっ。

 母は俺の頬を平手で打った。

 顔が横に弾かれ、耳鳴りがした。

 父が止めようと駆け寄る。

 だが母は、父を一瞥しただけだった。

「誠一。よく考えなさい。あなたの来週の透析予約は、誰が手配していると思っているの?」

 父はその場で固まった。

 顔を真っ赤にしながら、それ以上一歩も動けなかった。

 母は再び俺に向き直り、俺の顎を掴んだ。

 無理やり自分の方を向かせる。

「高梨奏太。よく聞きなさい」

 母は一語一語、噛みしめるように言った。

「神崎さんは私に恩がある人なの。翔真くんは神崎家の一人息子で、あの家の未来よ。あなたのその両手は、母さんがあなたから借りたものだと思いなさい。神崎家への恩を返すために」

「借りた?」

 俺の声はかすれていた。

「母さん。借りたものは、返すものだろ」

 母は手を離した。

 バッグからウェットティッシュを取り出し、俺に触れた指をゆっくり拭いた。

「返せないものもあるのよ」

 母はさらにバッグから封筒を取り出し、俺の枕元に置いた。

「神崎さんからの補償よ。現金で百万円。残りは私が預かっておくわ」

 俺はその封筒を見た。

「……俺の留学用の口座の金は?」

 母の動きが一瞬止まった。

「それなら、翔真くんの口座に移したわ」

 聞き間違いかと思った。

「何だって?」

「彼、最近スタインウェイのD-274を気に入ったの。急いで手付金が必要だったのよ」

 母は当然のように言った。

「どうせあなたは、もう弾けないでしょう。あのお金を置いておいても無駄になるだけよ」

 父がついに叫んだ。

「怜子!あれは奏太が十年かけて、演奏会の謝礼やコンクールの賞金、奨学金を貯めた金だ!ウィーンに行くための金なんだぞ!」

「ウィーン?」

 母は鼻で笑った。

「今のこの子がウィーンに行って、何をするの?外国人に笑われに行くの?」

 俺は母を見ていた。

 この女は、俺が七歳で初めて舞台に立った時、客席の最前列で泣きながら拍手していた人だった。

 演奏後、俺を抱きしめて言った。

「奏太は、いつかきっと立派なピアニストになる」

 けれど今、彼女は言う。

 俺は笑われるだけだと。

 母はバッグを持ち直し、病室を出ようとした。

 ドアの前で、何かを思い出したように振り返る。

「そうだ。退院後の仕事は手配しておいたわ」

 俺は何も言わなかった。

 母は続けた。

「白桜病院の霊安室で、夜勤の遺体搬送スタッフを募集しているの。安定した仕事よ。大変ではあるけれど、住み込みもできる。今のあなたは手が不自由だけれど、遺体の搬送は主に肩と背中を使うから、大きな問題はないわ」

 父の顔が真っ白になった。

「お前……奏太に遺体を運ばせるつもりか?」

 母は淡々と言った。

「家で廃人のようにしているよりはましでしょう」

 ドアが開いた。

 出ていく直前、母は最後に俺を見た。

「奏太。現実を受け入れなさい」

 第2話 消された証拠

 母が去ったあと、病室には機械音だけが残った。

 父はベッドのそばに座り込んでいた。

 一晩で十歳も老けたように見えた。

 俺の手を握ることはできない。

 父はただ、布団の端にそっと触れた。

「奏太。父さんが、情けないばかりに……」

 俺は天井を見つめた。

「父さん。頼みがある」

「何だ。何でも言え」

「監視カメラを探してほしい。目撃者も。あの夜、神崎翔真が俺に何をしたのか証明できるものを、全部」

 父は強くうなずいた。

「分かった。父さんが探す」

 だが証拠は、まるで先に掃除されていたかのように消えていた。

 学校裏の路地の監視カメラは、ちょうどその日に配線トラブルを起こしていた。

 近くのコンビニの映像は、ちょうど上書きされていた。

 神崎翔真と一緒に俺を襲った五人は、全員が同じ供述をした。

 俺が先に楽譜ファイルで殴りかかった。

 神崎翔真は正当防衛をしただけだ、と。

 学校の倉庫管理人まで証言を変えた。

 彼は、俺が鉄パイプを持って神崎翔真に向かっていくのを見た、と言った。

 最も馬鹿げていたのは、俺の診断内容まで変わっていたことだった。

 医師の口から聞いた「重篤な後遺症」という言葉は、書面上では「回復状況は良好。日常生活に明らかな支障なし」に変わっていた。

 署名した医師は、母の部下だった。

 父は警察署、学校、病院を回った。

 返ってくる答えは、どこも似たようなものだった。

「高梨さん。この件は示談の方向で進んでいます。あまり騒がない方がよろしいかと」

「神崎家は賠償の意思を示しています。十分に誠意はあると思いますよ」

「高梨副院長も、家庭内の問題を刑事事件にまで広げたくないとおっしゃっています」

 家庭内の問題?

 俺の両手が砕かれたことを、彼らは家庭内の問題と呼んだ。

 一週間後、神崎翔真が病室にやって来た。

 果物籠を持ち、最新モデルのスニーカーを履き、髪を明るい金色に染めていた。

 入ってくるなり、彼は笑って言った。

「奏太兄さん、ごめんな」

 俺は返事をしなかった。

 彼は勝手に椅子を引き寄せ、足を組んだ。

「あの日、酒が入っててさ。加減を間違えたんだ。あんまり気にすんなよ」

 父が立ち上がり、追い出そうとした。

 神崎翔真は首を傾げ、父を見た。

「高梨のおじさん、あんまり興奮しない方がいいですよ。透析している人って、身体弱いんでしょ?」

 父は固まった。

 神崎翔真は笑い、俺のベッドに顔を近づけた。

「正直さ、お前の母親って、俺に対しての方がよっぽど優しいよな」

 俺は彼を見上げた。

 彼は声を低くした。

「理由、知ってるか?」

 俺は黙っていた。

「俺の親父が、あの女の弱みを握ってるからだよ」

 その声は軽かった。

 面白い秘密を教えるような口調だった。

「医療事故。診断書の偽造。違法移植の仲介。リベート。お前の母親が、うちの親父のためにどれだけ汚いことを処理してきたか、知ってるか?」

 俺は彼を見つめた。

「何を言っている?」

 神崎翔真は、俺の頬を軽く叩いた。

「何も知らされてないんだな」

 彼は立ち上がり、ドアの前で振り返った。

「そうだ。ウィーンの推薦枠、俺がもらったから」

 呼吸が一瞬、止まった。

 彼はさらに楽しそうに笑った。

「行くかどうかは分からないけど、名前だけでも載せておくのも悪くないよな。ありがとな、奏太兄さん」

 彼は口笛を吹きながら去っていった。

 果物籠はベッド脇に残された。

 一番上にカードがあった。

 そこには、こう書かれていた。

 早く元気になってください。

 裏面には、さらに一行。

 お前の母さんは、俺の方がお前より息子らしいって言ってたぜ。

 その夜、俺は果物籠をゴミ箱に捨てた。

 第3話 母に握られた手で、名前を書かされた

 退院前日、母がまた来た。

 母は書類を持っていた。

「署名しなさい」

 書類が俺の前に置かれる。

 俺は視線を落とした。

 《示談書》

 その下にもう一枚。

 《被害届取下げ同意書》

 俺は母を見た。

「どういう意味だ?」

「この件はここで終わり、という意味よ。神崎家はあなたに賠償金を払う。あなたは、翔真くんの刑事責任をこれ以上追及しないと約束する」

「署名しない」

 母は、最初からそう言われると分かっていたように、ため息をついた。

「奏太。わがままを言わないで」

「署名しないと言ってる」

 母は俺の手を見て、ふっと笑った。

「ああ、忘れていたわ」

 母はペンを取った。

 そして、かろうじて動く俺の左手を掴んだ。

 痛みで顔が白くなる。

 それでも母は離さなかった。

 ペンを俺の指の間に押し込み、その手を握ったまま、署名欄に一文字ずつ名前を書いていく。

 高梨奏太。

 書き終えると、母は書類を持ち上げ、署名を確認した。

 満足そうにうなずく。

「これでいいの」

 俺は母を見た。

「母さん。もし今日ここに寝ているのが神崎翔真だったら、どうする?」

 母は迷わず答えた。

「彼を傷つけた相手に、相応の報いを受けさせるわ」

「なら、どうして俺は駄目なんだ?」

 母の目が冷たくなった。

「あなたは私の息子だからよ。母さんの事情を分かってくれてもいいでしょう」

「俺の一生を使って?」

「それがどうしたの?」

 母は反射的に言った。

 病室に、死のような沈黙が落ちた。

 父は隣の椅子に座ったまま、唇を震わせていた。

 母も、自分が言いすぎたことには気づいたらしい。

 だが、謝らなかった。

 ただ書類を整え、バッグにしまった。

「明日退院よ。家には戻らなくていいわ。荒川区に部屋を借りておいたから。病院からも近い」

「父さんは?」

「一緒に行きたいなら、行けばいい」

 母は少し間を置き、付け加えた。

「ただし、よく考えなさい。誠一には毎月、透析、薬、検査の費用がかかる。今のあなたに支えられる金額ではないわ」

 全身が冷えた。

「父さんは、あなたの夫だろ」

「昔はね」

 母は俺を見た。

 その目に、温度はなかった。

「今は負担よ。あなたも」

 ドアが閉まったあと、俺はしばらく動けなかった。

 父は椅子に座ったまま、涙を一滴ずつ落としていた。

 俺は、ふいに笑い出した。

 胸が痛くなるほど笑った。

 やがて、涙すら出なくなった。

 分かった。

 かつて俺がピアニストになると信じてくれた母は、もう死んだ。

 今、生きているのは、白桜大学附属病院副院長・高梨怜子。

 神崎剛造の共犯。

 神崎翔真の盾。

 俺の母ではない。

 その深夜、俺はかろうじて動く指で番号を押した。

「佐伯弁護士ですか。高梨奏太です」

「はい。誠一の息子です」

「お会いしたいんです」

「取引の話を」

 佐伯弁護士は、父の大学時代の友人だった。

 この数年は、主に医療訴訟や刑事事件を扱っている。

 俺の話をすべて聞いたあと、彼は長い間黙っていた。

 事務所の照明は白く、彼の表情をいっそう険しく見せていた。

「奏太くん。君は、自分が誰を相手にしようとしているか分かっているのか?」

「分かっています」

「君の母親は、白桜病院で三十年近く地盤を築いてきた。神崎剛造は昔から建設業でのし上がり、今は医療施設の工事も請け負っている。人脈は深い」

 佐伯弁護士は俺を見た。

「今の君には金もない。完全な証拠もない。身体も回復していない。何を武器に戦うつもりだ?」

 俺は自分の手を持ち上げた。

 包帯は一部だけ外れていた。

 右手首は醜く歪み、指はこわばり、握り拳すら作れない。

「これです」

 佐伯弁護士は目を閉じた。

 俺は用意していた紙を彼に渡した。

「第一に、神崎剛造の言う救命の恩の真相を調べます」

「第二に、母の金の流れを調べます。母の給料だけで、今の生活を維持できるはずがありません」

「第三に、母と神崎に傷つけられた人たちを探します」

 俺は佐伯弁護士を見た。

「一人の証言で足りないなら、十人集めます。十人で足りないなら、百人集めます」

 佐伯弁護士は長い間、何も言わなかった。

 やがて、深いため息をついた。

「奏太くん。この道を進めば、君は本当に母親を失うことになる」

「母に署名させられた時点で、もう失っています」

 佐伯弁護士はうなずいた。

「分かった。協力しよう」

 そして、彼は続けた。

「ただし条件がある。すべて合法的に進めること。録音、証拠収集、証人への接触、すべて違法にならないよう慎重にやる。復讐のために、君自身が第二の高梨怜子になってはいけない」

「約束します」

 調査は、想像以上に難航した。

 神崎剛造の表向きの経歴は、きれいすぎるほどきれいだった。

 神崎建設会社はきちんと納税し、契約書類も揃っている。

 毎年、孤児院に寄付までしていた。

 母の口座にも、大きな不審点は見つからなかった。

 彼女は慎重だった。

 金は決して直接、自分の名義に入れない。

 それでも、この世では、何かをした者は必ず跡を残す。

 佐伯弁護士は、ある退職刑事にたどり着いた。

 その男は若い頃、白桜病院の医療事故を調べたことがあるという。

 酒が進むと、彼はようやく本音を漏らした。

「神崎剛造?あいつは昔から汚かった」

「違法な血液売買にも関わっていたし、いくつかの病院で表に出せない遺体の処理をしていたとも聞いた」

「その後、高梨怜子とつながってから、急に表の人間になった」

 佐伯弁護士が聞いた。

「証拠はありますか?」

 退職刑事は首を振った。

「もう残っていない。あの女は書類をいじるのが上手かった。カルテ、死亡診断書、事故報告書。彼女の手に渡れば、別物になって戻ってくる」

 線は途切れた。

 それでも、俺は止まらなかった。

 第4話 悪童の酔った本音

 俺は神崎翔真を追い始めた。

 彼の生活は、笑えるほど単純だった。

 昼まで寝て、午後は車を飛ばし、夜はクラブに入り浸る。

 銀色のポルシェに乗っていた。

 ナンバーは彼の誕生日だった。

 購入記録を見ると、一括払い。

 支払ったのは神崎剛造ではない。

 高梨怜子名義の会社だった。

 俺は証拠写真を撮り、佐伯弁護士に渡した。

 神崎翔真は、六本木の会員制バーによく出入りしていた。

 俺は人づてに頼み、臨時のホールスタッフとして中に入った。

 右手ではトレーを持てない。

 左手だけで運んだ。

 店長には動きが遅いと嫌な顔をされた。

 だから俺は、出勤の二時間前に行って練習した。

 三日目の夜、俺は個室で酔った神崎翔真の声を聞いた。

 彼の声は大きかった。

「お前ら知ってるか?高梨怜子ってさ、実の息子より俺の方に優しいんだぜ」

 個室の中で誰かが笑った。

「お前の親父が命の恩人だからだろ?」

「命の恩人?」

 神崎翔真は大笑いした。

「そんなの、馬鹿を騙すための話だよ」

 俺は扉の外で足を止めた。

 彼は声を低くした。

 だが酔っているせいで、まったく抑えきれていなかった。

「俺の親父は、高梨怜子の弱みを握ってる。あの女、怖くて逆らえないんだよ。だから俺が欲しいものは、何でもくれる」

 誰かが尋ねた。

「でも、お前、あの女の息子の手を潰したんだろ?それでも平気なのかよ」

 神崎翔真は鼻で笑った。

「あの女が何を気にするんだよ。俺が電話した時、あいつ言ってたぜ。奏太は少し傲慢になりすぎた。少し痛い目を見た方がいい、ってな」

 血が冷たくなった。

 神崎翔真は続けた。

「親父が言ってた。派手にやった方が安全だって。あの女が俺を守らなければ、親父が昔のことを全部ぶちまけるだけだからな」

 個室の中で笑い声が起きた。

 俺は壁にもたれ、左手で録音ペンを強く握りしめていた。

 その瞬間、俺が感じていたのは恐怖ではなかった。

 興奮だった。

 ようやく。

 最初の亀裂が見えた。

 それから二か月かけて、俺は神崎翔真の周りにいた五人の素性を調べた。

 最初に会いに行ったのは矢野だった。

 金髪だったため、周囲から黄毛と呼ばれていた男だ。

 学校はすでに退学になり、ネットカフェで時間を潰していた。

 俺が現れると、彼の顔は真っ青になった。

「た、高梨先輩……」

 俺は隣に座った。

「少し話そう」

 彼は逃げようとした。

 俺は録音ペンと一枚の書類を机に置いた。

「逃げてもいい。ただ、あの日、俺の右手を押さえていたのが君だということは、もう分かっている」

 彼の顔はさらに白くなった。

「喧嘩をしに来たんじゃない。一つだけ聞きたい」

「神崎翔真があの日やったことは、突発的な衝動だったのか。それとも、前から計画していたのか」

 矢野は長い間、黙っていた。

 やがて、小さな声で言った。

「……前から計画していました」

 神崎翔真は、俺のことをずっと気に入らなかったのだという。

 ウィーンの推薦枠が、本来は俺のものだったから。

 校内コンクールで、彼が三度も俺に負けたから。

 そして母が、彼の前で言ったから。

「奏太は少し傲慢になった。たまには挫折も必要ね」

 その一言を、神崎翔真は覚えていた。

 矢野は言った。

「神崎は言ってました。殺さなければ、高梨副院長がどうにかしてくれるって」

「そのままの言葉か?」

 矢野はうなずいた。

「そのままです」

 俺は証言書を彼の前に押し出した。

「署名して、拇印を押せ」

 矢野の手は震えていた。

「神崎に知られたら、俺、殺されます」

「彼はすぐに捕まる」

 俺は彼を見た。

「君には二つしか選択肢がない。俺の側に立って証人になるか。神崎翔真の側に立って、一緒に引きずり込まれるか」

 矢野は俺を長く見ていた。

 最後に歯を食いしばり、署名した。

 最初の証人を手に入れた。

 一人目が崩れれば、後は早かった。

 二人目。

 三人目。

 四人目。

 五人目。

 彼らは忠義で神崎翔真に従っていたわけではない。

 怖かっただけだ。

 金が欲しかっただけだ。

 神崎翔真が自分たちを守れないかもしれないと分かった瞬間、全員が自分の逃げ道を探し始めた。

 五つの証言は、細部まで一致していた。

 神崎翔真は事前に現場を確認していた。

 裏路地の監視カメラの電源を切らせた。

 倉庫管理人には、見ていないふりをさせた。

 鉄パイプまで準備していた。

 そして何より重要だったのは、高梨怜子が事前に知っていたことだ。

 彼女は「手を折れ」とは言っていない。

 だが、黙認した。

 むしろ、神崎翔真に暗示を与えていた。

 奏太は傲慢になった。

 少し痛い目を見てもいい。

 軽く放たれた一言が、人の一生を壊すこともある。

 第5話 二十五年分の罪

 一方で、佐伯弁護士の調査にも進展があった。

 彼は古い伝手をたどり、神崎建設会社で昔働いていた会計担当者を見つけた。

 老人は七十を超え、埼玉の老人ホームで暮らしていた。

 神崎剛造という名を聞いた瞬間、彼は長く黙った。

「あいつは、心の黒い男だ」

 老人は言った。

「九八年、工事現場で三人死んだ。本来なら重大な安全事故だったが、あいつはただの事故として処理した。遺族への賠償金もひどく少なかった」

 佐伯弁護士が尋ねた。

「誰がその処理を手伝ったんですか?」

 老人はしばらく考えた。

「高梨という女医だ。まだ若かったが、やり口は巧妙だった。死亡診断書、病院の記録、保険関係の書類、すべて彼女が整えた」

「証拠はありますか?」

 老人はゆっくりとベッドの下から鉄の箱を引き出した。

「当時、念のため帳簿をコピーしておいた」

 帳簿は黄ばんでいた。

 だが文字は読めた。

 そこには、いくつかの「調整費」が記録されていた。

 受取人はこう書かれていた。

 高梨医師。

 日付は一九九八年六月。

 その年、母は白桜大学附属病院に入って間もなかった。

 証拠は雪だるまのように増えていった。

 だが、俺たちが本当に欲しかったものだけは、なかなか見つからなかった。

 神崎剛造が握っているという、母の弱み。

 その日、父が古い家の整理をしていた時だった。

 彼は一つのブリキ缶を見つけた。

「これは、君の母さんが若い頃に残していったものだ。出て行く時に持っていかなかった」

 中には古い写真、数通の手紙、そして一冊の日記が入っていた。

 表紙は色あせていた。

 俺は最後の数ページを開いた。

 一九九五年七月十五日。

 実験室事故。

 王教授が死んだ。

 神崎剛造は外部業者の臨時作業員として現場にいて、一部始終を見ていた。

 彼は、これは事故だったと証言してもいいと言った。

 条件は、私が彼に一つ命を借りること。

 一九九五年八月三日。

 神崎剛造がまた来た。

 彼は金を要求した。

 かなりの額だった。

 払わなければ、学校と警察に言うと言った。

 王教授を死なせたのは、私の操作ミスだったと。

 私の人生は終わる。

 一九九五年八月二十日。

 五百万円を渡した。

 父の貯金だった。

 彼は、これは始まりにすぎないと言った。

 日記はそこで途切れていた。

 その後のページは、きれいに破り取られていた。

 俺は机の前に座ったまま、しばらく動けなかった。

 つまり、救命の恩など最初から存在しなかった。

 あったのは、一つの事故。

 一人の目撃者。

 そして二十年以上続いた恐喝だけだった。

 父は俺の後ろに立ち、震える声で言った。

「奏太……父さんも昔から疑っていた。でも、聞けなかった」

 俺は日記を閉じた。

「父さん。怖がるべきなのは、父さんじゃない」

 俺たちは証拠を三冊にまとめた。

 証言。

 録音。

 映像。

 帳簿。

 日記。

 資金の流れ。

 偽造された診断書。

 改ざんされたカルテ。

 佐伯弁護士は読み終えると、長く沈黙した。

「奏太くん。これを提出すれば、君の母親は少なくとも二十年は出てこられない」

「分かっています」

「本当にいいのか?」

 俺は自分の右手を見下ろした。

 骨はつながった。

 けれど、指はもう二度と元には戻らない。

「彼女が神崎翔真を選んだ時点で、もう俺の母親ではありません」

 佐伯弁護士はうなずき、電話を取った。

 逮捕は金曜日の午後に行われた。

 高梨怜子は手術を終え、医局へ戻ろうとしていた。

 そこへ東京地検と警視庁の捜査員が、白桜病院に直接入った。

 病院の廊下では、看護師も医師も息を潜めていた。

 捜査員が身分証を示す。

「高梨怜子さん。あなたには診断書偽造、収賄、傷害事件の犯人隠避、医療事故証拠隠滅への関与などの容疑がかかっています。同行をお願いします」

 母の表情が、初めて崩れた。

 最初に浮かんだのは恐怖ではなかった。

 怒りだった。

「ここがどこか分かっているの?私にはまだ患者が――」

「他の医師が引き継いでいます」

 捜査員は言った。

「ご協力ください」

 手錠がかけられた瞬間、病院全体が静まり返った。

 高梨怜子が医療棟から連れ出される時、多くの人間がスマホを向けた。

 母はずっと顔を伏せていた。

 だが、道端に立つ俺を見つけた瞬間、足を止めた。

「あなたなのね」

 俺は何も答えなかった。

 母は笑った。

 ひどく醜い笑みだった。

「いい息子を産んだわ」

「あなたの教育が良かったんだ」

 母は車に乗せられた。

 扉が閉まる直前、母は突然顔を上げ、鋭い声で叫んだ。

「高梨奏太!あなたのお父さんの腎臓は――」

 ばたん、と扉が閉まった。

 後半の言葉は車内に閉じ込められた。

 だが、俺には分かった。

 父の腎臓の件も、もしかすると汚れているのかもしれない。

 その瞬間、俺の中に残っていた最後の甘さが砕けた。

 第6話 法廷に立った母

 三日後、神崎剛造も逮捕された。

 逮捕された場所は、横浜の高級マンションだった。

 警察は彼の金庫を押収した。

 中には現金、金塊、古い帳簿、そして写真の束が入っていた。

 一九九五年七月十五日。

 白桜大学の実験室事故現場の写真。

 若い高梨怜子が、混乱の中で青ざめた顔をして立っていた。

 写真の裏には、一行の文字。

 高梨怜子は俺に命を借りている。

 神崎剛造は、それを自分の護符だと思っていた。

 だが、それこそが彼を押し潰す決定的な証拠となった。

 神崎翔真も逮捕された。

 連行される時、彼は最後まで罵っていた。

 俺は廃人だと言った。

 俺が彼の人生を壊したのだと言った。

 俺の母は本来、自分を守るべきだったのに、とも言った。

 笑える。

 他人の両手を壊した人間が、自分の人生が壊れたと嘆くのか。

 裁判は四か月にわたって続いた。

 公判の日、俺は傍聴席に座っていた。

 母は拘置所の服を着ていた。

 髪には白いものが増え、痩せていた。

 かつてのような、常に完璧で冷静な副院長には見えなかった。

 検察側は一つずつ証拠を提示した。

 診断書の偽造。

 カルテの改ざん。

 医療事故の隠蔽。

 神崎建設会社からの資金提供。

 神崎翔真の傷害事件における虚偽の医学的証明。

 一つ一つが、傍聴席に低いざわめきを生んだ。

 母はずっと俺を見なかった。

 最後の陳述の時になって、ようやく顔を上げた。

 母は裁判官を見た。

 そして、俺を見た。

「認めます」

 その声は静かだった。

「ただ、一つだけお願いがあります」

 裁判官が言った。

「述べてください」

 母は俺を見た。

「私の息子、高梨奏太の手は、私が間接的に壊しました」

 母は少しだけ言葉を切った。

「私名義の預金と資産があります。すべて、彼への賠償として渡したいと思います」

 法廷が静まり返った。

 全員の視線が俺に向く。

 裁判官が尋ねた。

「高梨奏太さん。受け取りますか?」

 俺は立ち上がった。

「拒否します」

 母の目が、初めて揺れた。

 裁判官が聞く。

「理由は?」

 俺は高梨怜子を見た。

「その金は汚いからです」

「一円一円が、改ざんされたカルテ、隠された事故、沈黙を強いられた遺族から来ているかもしれない」

「受け取っても、俺の手は治りません」

「あなたに傷つけられた人たちも、生き返りません」

 母は目を閉じた。

 涙が落ちた。

 あの事件以来、俺が初めて見た母の涙だった。

 判決の日、東京には雨が降っていた。

 高梨怜子は懲役二十五年。

 神崎剛造は恐喝、贈賄、有印私文書偽造への関与、違法医療仲介などにより懲役十八年。

 神崎翔真は故意傷害致重傷に加え、過去の飲酒運転事故なども併合され、懲役十二年。

 あの一家は、そろって塀の中へ入った。

 それでいい。

 その後、父の透析の問題は解決した。

 佐伯弁護士が正規の医療ルートを手配してくれ、移植の適合を待つために改めて登録した。

 俺は、母が借りた古いアパートを出た。

 子どもたちにピアノの基礎を教えて得た金で、東京郊外に小さな部屋を借りた。

 ベランダのある部屋だった。

 広くはない。

 けれど、日当たりは良かった。

 右手は、もう元には戻らない。

 手首は歪み、指は硬い。

 少し重いコップを持つだけで震える。

 それでも、左手は動く。

 俺は子どもたちにピアノを教え始めた。

 裕福な家の子は、週に三回来る。

 あまり余裕のない家の子は、二週間に一度だけ来る。

 どちらも教えた。

 夢は、金がないからという理由で消えていいものではない。

 手は、悪意によって壊されていいものではない。

 俺はそれを知っているから。

 第7話 旋律はまだ死んでいない

 三か月後、一通の手紙が届いた。

 差出人の住所は刑務所だった。

 筆跡は母のものだった。

 奏太へ。

 あなたが、私の「ごめんなさい」を聞きたくないことは分かっています。

 それでも、言わせてください。

 ごめんなさい。

 母さんは、この人生であまりにも多くのことを間違えました。

 一九九五年のあの事故から、私は戻れない道に足を踏み入れました。

 神崎剛造に脅されて、私は怖くなり、金を渡しました。

 金が足りなくなると、彼のために動きました。

 一つ目の罪を犯すと、二つ目、三つ目が続きました。

 いつしか私は、自分が人を救っているのか、人を傷つけているのかすら分からなくなっていました。

 あなたが生まれた時、私は本当に良い母親になりたいと思っていました。

 あなたに最高のピアノを。

 最高の先生を。

 最高の未来を。

 そう思っていました。

 けれど私は、その「最高」を手に入れるために、最も汚い手段を使いました。

 地位を得ました。

 金を得ました。

 人から羨まれる視線を得ました。

 そして、息子を失いました。

 あの日、翔真くんから電話がありました。

 彼は、あなたを少し懲らしめると言いました。

 こう言ったのです。

「怜子さん、あなたは奏太が少し傲慢になったと思っているんでしょう?俺が少し磨いてやりますよ」

 私は同意しませんでした。

 けれど、止めもしませんでした。

 ただ電話を切っただけでした。

 三時間後、あなたの手は壊れました。

 奏太。

 私は、あなたに許してほしいとは思っていません。

 ただ、この二十五年は、私に相応しいものだと知ってほしい。

 もし来世があるのなら。

 私は、あなたにふさわしい母親になりたい。

 手紙は、そこで終わっていた。

 俺は読み終えると、丁寧に折りたたみ、引き出しの一番奥にしまった。

 そして、レッスンの準備を続けた。

 翌日、六歳の女の子が初めてのピアノレッスンに来る予定だった。

 その子の母親は、電話で遠慮がちに尋ねてきた。

「先生、うちはあまり余裕がなくて……週に一回しか通わせられないのですが、大丈夫でしょうか」

「大丈夫です」

「それだと、上達が遅くなりませんか?」

 俺は窓辺に置かれた古いピアノを見ながら、静かに答えた。

「その子が弾きたいと思っている限り、遅すぎることはありません」

 夜、父がカレーを作った。

 食事の時、父はしばらく迷ってから俺に聞いた。

「君のお母さんからの手紙……読んだのか」

「読んだ」

「何て書いてあった?」

 俺はカレーを一口食べた。

「ごめんなさい、って」

 父は黙った。

 少しして、また聞いた。

「許すつもりはあるのか?」

 俺はスプーンを置いた。

 窓の外には、東京の夜が広がっていた。

 遠くを走る電車の明かりが、闇の中を一両ずつ流れていく。

「ない」

 父はそれ以上、何も聞かなかった。

 食後、俺は皿を洗った。

 水が右手の上を流れていく。

 傷跡は少し薄くなっていた。

 けれど、歪んだ形は永遠に戻らない。

 握れない。

 安定して持てない。

 昔の曲を、もう二度と同じようには弾けない。

 それでも。

 茶碗は持てる。

 字は書ける。

 鍵盤の温度にも触れられる。

 それで十分だ。

 俺は手を拭き、ピアノの前に座った。

 父が中古店で買ってくれた、古いピアノだった。

 音色は良くない。

 少し緩い鍵盤もある。

 それでも、俺はこのピアノが好きだった。

 左手を上げ、ゆっくりと最初の音を押した。

 次の音。

 その次の音。

『エリーゼのために』

 いちばん簡単な版だ。

 途切れ途切れだった。

 何度も音を間違えた。

 それでも、旋律は残っていた。

 俺は目を閉じ、壊れていても確かに存在する音を聞いた。

 俺の右手は戻らない。

 母も、昔の母には戻らない。

 それでも構わない。

 音がある限り、音楽は死なない。

 真実を口にする人間がいる限り、この世界はまだ完全には腐っていない。

 俺は生き続ける。

 この壊れた手で。

 弾き続ける。

 告発し続ける。

 生き続ける。



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― 新着の感想 ―
副題と本文の間に空行がないのが読みにくいです。 本文中、急に『第◯話 〜』とあり間違ったのかと思いました。 結局、母は実際に息子が傲慢だと口にしたのでしょうか。 それとも翔真が誘導しただけ? それか…
夢を壊され、母に裏切られても前に進む主人公が素敵です。
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