第5話:星野邸の傲慢な茶会と、揺らぎ始めた均衡
放課後、校門の目の前には、周囲の喧騒を黙らせるかのような威圧感を放つ一台の車が停まっていた。星野家の家紋が刻まれた、防弾仕様の真っ黒な高級リムジンだ。
並み居る女子生徒たちが遠巻きに息を呑む中、白手袋をはめた女性運転手が、恭しく後部座席のドアを開ける。
「佐藤一真様。お嬢様がお待ちです」
その言葉と共に、俺は車内へと滑り込んだ。車窓から見える景色は、次第に一般の住宅街から、高い生垣と重厚な門扉が並ぶ高級住宅街へと変わっていく。
やがて車が止まったのは、中世の城を彷彿とさせる石造りの豪邸だった。出迎えたメイドたちに案内され、広大な庭園を見渡せるテラス付きのサロンへと通される。
「お待たせしたわね。どうぞ、お掛けになって」
そこにいたのは、学校での制服姿とは打って変わって、清楚ながらも細部に高級感の漂う私服に身を包んだ星野アカリだった。だが、俺が真っ先に違和感を覚えたのは、その服装ではなく、彼女の「言葉遣い」だ。
「……へえ。学校では委員長そのものの口調だったのに、家では随分と丁寧なんだな。それとも、それが星野さんの『プライベート用の顔』なのか?」
俺がソファに深く腰掛けながら問いかけると、アカリはティーカップに紅茶を注ぐ手を、一瞬だけ止め、鋭い視線を向けてきた。
「……おかしなことを仰いますのね。場所と相手に合わせて振る舞いを変えるのは、上に立つ者の嗜みですわ。それとも貴方、私に学校の時と同じように、もっと……手荒な扱いをしてほしいのかしら?」
「いや、こっちの方が『お嬢様』らしくていいと思うよ。少しは話が通じそうな気がするしな」
「ふん。相変わらず、口の減らない男子ですこと」
アカリはティーカップを俺の前に置き、自分も正面に座った。その一連の動作は、どれも洗練されている。
だが、俺の指摘にわずかに眉を寄せた彼女の様子を見るに、どうやら無意識のうちに「家の教育」が漏れ出している部分もあるようだ。
「まずは、逃げずにここへ来たことだけは褒めて差し上げます、佐藤さん」
「招待状を頂いたからね。無視するのは社会人の、いや、学生のマナーに反すると思って」
俺がさらりと応えると、アカリは微かに眉を動かした。
「マナー、ですか。貴方が教室で見せた、あの振る舞いがマナーに適っているとでも? 男子が女子の庇護を拒み、あまつさえ対等に渡り合おうとするなど・・・・・・この国の秩序を根底から覆す暴挙ですわ」
「秩序ね。俺にとっては、自分の足で立ち、自分の言葉で話すのが当たり前なだけだよ。それが星野さんにとっては『暴挙』に見えるのかな?」
アカリはティーカップをカチリと音を立ててソーサーに戻した。その瞳には、昨日以上の熱が宿っている。
「・・・・・・そうですわ。その『当たり前』という顔。一ヶ月の入院生活を経て編入してきたというから、よほど殊勝な男子が来るかと思えば・・・・・・。調査書にあった『おとなしく繊細』という評価は一体何かしら。今の貴方から漂うその余裕は何? まるで、私と同等か、あるいはそれ以上の高みにいるような視線・・・・・・」
彼女は身を乗り出し、机に手を突いて俺に顔を近づけた。高価な香水の香りが、鼻腔をくすぐる。
「佐藤一真さん。貴方は、自分がどれほど価値のある『資源』か理解していない。貴方の母親が、貴方を守るために必死に『強力な後ろ盾』を探しているのも道理ですわ。そんな風に女子を恐れぬ不遜な態度を振る舞えば、飢えた獣たちが黙っていない・・・・・・。分かりますわね?」
「つまり、星野さんが俺を『保護』してあげよう、と言いたいのか?」
「『管理』と言いなさい。私という完璧な後ろ盾があれば、貴方のその傲慢な自由も、ある程度までは保障して差し上げます。これが貴方にとって最高の条件ですわ」
なるほど。これは「取引」だ。彼女は俺を自分の支配下に置くことで独占しようとしている。だが、その根底にあるのは支配欲だけではない。俺という異質な存在に対する強烈な好奇心と、無自覚な独占欲――つまり、彼女なりの「恋」の形なのだろう。
俺は差し出されたティーカップを手に取り、まずは香りを楽しみ、それから一口、ゆっくりと含んだ。
「……ダージリンのセカンドフラッシュ、かな。悪くないけど、少し蒸らしすぎだ。この茶葉なら、あと十秒早く引き上げたほうが、本来のキレの良い渋みが引き立つ」
「……なっ!?」
アカリは絶句し、手に持っていたティーカップをわずかに震わせた。
「貴方、何様のつもり……と言いたいところですけれど。……ふん、一応は味のわかる舌を持っているようですわね」
彼女は悔しそうに口を尖らせたが、その瞳には、俺に対する「得体の知れない存在」としての興味が、さらに深く刻まれたようだった。俺は冷めかけた紅茶を置き、彼女の目を真っ直ぐに見据えて、不敵に笑った。
「魅力的な提案だが、星野さん。一つ、重大な見落としがある。俺は、誰かの『所有物』になるためにここに来たんじゃない。俺が求めているのは・・・・・・俺を支配しようとする君を、逆に俺のパートナーとして『納得』させることだ」
「なっ・・・・・・!?」
アカリの顔が、瞬時に赤く染まった。サロンの空気は一瞬にして凍りつき、彼女は金縛りにあったように動けず、ただその大きな瞳を見開いている。
「パ、パートナー・・・・・・? 貴方、何を・・・・・・」
彼女の白い喉が、小さく上下する。この世界の女性、特にエリート教育を受けてきたアカリにとって、男子から「対等」などという言葉を向けられるのは、未知のウイルスに感染するような衝撃なのだろう。
俺はゆっくりと身を引き、ソファの背もたれに深く体を預けた。
「驚くのも無理はない。でも、考えてもみてほしい。君が俺を無理やり『管理』したとして、手に入るのは魂の抜けた操り人形だけだ。君が俺に興味を持ったのは、俺が君を恐れず、自分の意見を持っていたからじゃないのか?」
アカリは言葉を詰まらせ、視線を泳がせた。その隙を逃さず、俺は商談の詰めに入る。
「星野アカリさん。君は優秀だ。だからこそ、自分の思い通りにならない存在をコントロールすることに、至上の価値を感じるタイプだろ?」
「失礼な言い方ですわね・・・・・・。でも、否定はしませんわ。私は、手に入らないものほど欲しくなる性質なんですもの」
彼女は少しだけ落ち着きを取り戻し、乱れた髪を指先で整えた。だが、頬の赤みはまだ引いていない。
「いいでしょう。そこまで言うのなら、貴方の言う『パートナー』としての価値を証明していただきましょう。来週行われる『全学年合同演習』。そこで貴方が、私の期待を超える成果を出してみせなさい。貴方は私のチームの一員として、最前線で私をサポートしていただきます。もし失敗すれば、貴方の自由は、今度こそ私が剥奪します」
「……全学年合同演習? それは一体なんだ?」
俺が問い返すと、アカリは「ああ、そうでしたわね」と合点がいったように頷いた。
「転校してきたばかりの貴方には、まだ馴染みのない言葉でしたわね。いいでしょう、教えて差し上げますわ。それは、この学園の女子生徒たちが、将来の指導者としての資質を示すための、最も重要な伝統行事のことよ」
彼女はティーカップを置き、立てた指で説明を続ける。
「広大な演習場を舞台に行われる、知力、体力、そしてチームワークを競う模擬戦……いわゆるサバイバル形式の競技ですわ。本来、男子生徒は『守られるべき旗印』。安全な陣地で、女子たちが自分を奪い合うのを眺めているのが役割ですけれど……」
アカリは不敵な笑みを浮かべ、俺に指を向けた。
「貴方は私のチームの一員として、最前線に立っていただきます。私が、一真さんに背中を預けられるかどうか、その目で見極めたいのですわ」
「なるほど。本来は安全圏にいるはずの男子が、前線で動くわけか。それは目立ちそうだな」
「目立つどころではありませんわ。男子が戦場を歩くなど、前代未聞の暴挙。他の女子生徒たちは、貴方を『無防備な獲物』として襲いかかってくるでしょう。もし失敗すれば、貴方の自由は、今度こそ私が剥奪します。……受ける勇気はありますか?」
「面白い。事実上の『試用期間』というわけだ。受けて立とう」
俺が即答すると、アカリは意外そうに目を細めた。
「交渉成立だな。期待しててくれ、星野さん」
「・・・・・・アカリ、でいいわ」
彼女は、顔を背けながら小さく呟いた。
「パートナー、なのでしょう? でしたら二人きりの時は、名前で呼びなさい。特別に許可を与えて差し上げますわ」
その態度は依然として高圧的だったが、耳の先まで真っ赤になっているのが、夕暮れの陽光に照らされて透けて見えた。俺は少し考え、彼女の目を真っ直ぐに見て言った。
「わかった。じゃあアカリ、君も俺のことを『一真』と呼んでくれ。対等なパートナーシップなんだ。片方だけが呼び捨てなのは、フェアじゃないだろ?」
「・・・・・・えっ?」
「名字じゃなくて、『一真』。そう呼んでくれないか」
アカリは、まるで禁断の言葉を耳にしたかのように、顔を上気させた。
「・・・・・・、・・・・・・か、・・・・・・一真・・・・・・一真、さん」
結局、彼女の口から出たのは、呼び捨てと敬称が混ざり合った、どこか可愛らしい響きの呼び方だった。
「今は、これが限界ですわ・・・・・・! さあ、もう帰りなさい! パートナーなら、私の顔をこれ以上赤くさせないのも、マナーではなくて!?」
俺が席を立ち、サロンを後にしようとしたその時。背後から、今までよりずっと体温の上がった声が追いかけてきた。
「次は、その・・・・・・私の好みに合う紅茶を持参なさい。それが、パートナーとしての最初の宿題ですわよ、一真さん」
俺は振り返らずに手を振って応え、城のような屋敷を後にした。
門の前には、約束通り早苗さんの車が停まっていた。車に乗り込むと、バックミラー越しに早苗さんの鋭い視線が飛んでくる。
「一真くん。・・・・・・随分と、お嬢様を刺激してきたようね?」
「え、どうして?」
「お見送りに来たメイドたちが、『アカリ様が男子をさん付けで呼んだ・・・・・・!』って、顔を真っ白にして震えていたわよ。星野家の歴史がひっくり返るような大事件なんだからね、それは」
どうやら、俺が思っている以上に、「星野アカリ」という城壁を揺るがしてしまったらしい。スマホのバイブが鳴り、画面を見ると、氷室さんからメッセージが届いていた。
『佐藤君、大丈夫・・・・・・? 無事に帰れるのを、ずっと祈ってます』
この歪な世界で、独占欲を剥き出しにする女王と、献身的に支えようとするクラスメイト。俺の「自由」への道のりは、想像以上に波乱に満ちたものになりそうだ。




