第3話:戦場としての食堂
氷室さんに案内されてやってきた食堂は、一言で言えば、パニック映画のワンシーンだった。
広いフロアには、数百人の女子生徒がひしめき合っている。
そして、その全員が――入口に現れた俺に、一斉に視線を向けた。
「ひっ・・・・・・!」
隣で氷室さんが短く悲鳴を上げ、俺の制服の袖をぎゅっと掴む。
凄まじい視線の圧力だ。商社マン時代に経験した、数千万円規模のコンペのプレゼンよりも、はるかに緊張する。
だが、そのとき俺は、ひとつの異変に気づいた。
(・・・・・・男が、一人もいない)
見渡す限り、フロアにいるのは女子生徒と女性職員だけだ。
男子生徒の姿は、影も形も見当たらない。
困惑する俺に、氷室さんが耳元で小声を囁いた。
「佐藤君、やっぱり一般フロアは無謀だったかも・・・・・・。この学校の男子生徒は、みんな別棟にある男子専用特別室で食事をするんです」
「特別室?」
「はい。防弾ガラス越しに中庭を眺めながら、専属の栄養士さんが作った豪華な御膳をいただけるんですよ」
「・・・・・・防弾ガラスって。ここは戦場か何かか?」
「私たちからすれば、男子生徒はそれくらい守られるべき存在なんです。一般フロアで食事をする男子なんて、開校以来初めてじゃないと思います」
その説明を聞いて、俺は改めてこの世界の歪さを実感した。
どうやら俺は、ライオンの檻に放り込まれた一匹のウサギらしい。
しかし、中身が三十歳の俺にとって、防弾ガラスに囲まれて食事をするのは、VIP接待を受けているようで落ち着かない。それに、一般を知らなければ、今後の生存戦略も立てられない。
「大丈夫だよ、氷室さん。とりあえず食券を買おう。君のおすすめは?」
「え、ええと・・・・・・それなら、この日替わり定食が人気ですけど・・・・・・」
氷室さんはおずおずと、自動券売機を指差した。
俺が食券を買って受け取りカウンターへ向かうと、調理場の女性スタッフたちが、一斉に身を乗り出して俺を凝視してきた。
「あらやだ、本物の男子じゃない!」
「見て、あの筋肉の付き方・・・・・・すごく健康的だわ」
「おまけよ。たくさん食べなさい!」
トレイに載せられた日替わり定食は、明らかに規定量の倍はある。
山盛りのご飯に、溢れんばかりの唐揚げ。サービス精神が旺盛すぎて、むしろ食べきれるか不安になる。
空いている席を探して歩き出すと、俺が一歩進むたびに、女子たちがモーセの奇跡のように道を開いた。
その後方では、何人かが鼻血を押さえて座り込んでいる。
ようやく窓際の席に腰を下ろすと、周囲には半径三メートルほどの空白地帯が生まれた。
近づきたい。しかし、男子保護法と暗黙の了解が、それを固く禁じている。そんな奇妙な抑制が、場を支配していた。
「いただきます」
俺が手を合わせると、周囲から感嘆の囁きが漏れる。
「きゃあ、お行儀がいい・・・・・・」
「伝統的な男子の作法だわ・・・・・・」
ただの「いただきます」が、なぜここまで評価されるのか理解に苦しむ。
隣で氷室さんは、弁当箱を開けながら、緊張で手を震わせていた。
「佐藤君、味はどうですか・・・・・・?」
「うん、美味しいよ。ちょっと量が多いけどね」
「よかった・・・・・・。あの、佐藤君って、前の学校でもそんなふうに堂々としていたんですか?」
「堂々、か。まあ、物怖じしていたら生きていけない環境だったからな。自分の意見を言って、対等に接するのが当たり前だった」
そう答えると、氷室さんは箸を止め、真剣な眼差しを向けてきた。
「対等、ですか・・・・・・。そんなこと言ったら、学級委員長の星野さんに怒られちゃいますよ」
「星野さん?」
「ほら、授業中ずっと佐藤君を睨んでいた、金髪でポニーテールの人です。星野アカリさん。とても真面目で、佐藤君みたいな自由な男子は、教育上よくないって思ってるみたいで」
言われて思い出す。
確かに、俺が自己紹介をしたときも、問題を解いたときも、一人だけ険しい表情を崩さない女子がいた。
そのときだ。
俺が唐揚げを口に運んだ瞬間、食堂の空気が一変した。
ざわめきが、嘘のように消える。
女子たちは背筋を伸ばし、入口の方を向いた。
現れたのは、今まさに名前の出た星野アカリだった。
昼食のトレイも持たず、彼女は一直線に俺の席へと歩いてくる。
ポニーテールを揺らし、凛とした足取りで俺の前に立つと、見下ろすように言い放った。
「佐藤君。一般フロアで食事をするのは、即刻控えるべきです」
星野は腕を組み、冷たい視線を向ける。
「規律を乱す行為はやめてください。貴方がここにいるだけで、他の生徒の午後の授業に支障が出ています。現に、鼻血を出して倒れた生徒が三人、保健室に運ばれました」
「それは俺のせいか?」
「そうです。貴方の存在そのものが、この学園、ひいては世界の調和を乱すアグレッシブな毒なのです」
あまりの言い草に、俺は思わず苦笑した。
「星野さん、俺は特別扱いされるのが好きじゃない。もし迷惑なら、皆が俺を一人の生徒として普通に扱えるようになるまで、ここに居続けるだけだよ。慣れの問題だ」
「慣れ・・・・・・!? 男子という至宝に慣れるなど、不可能です!」
「できるさ。人間は適応する生き物だからね。それとも委員長さんは、俺が隣にいたら一生ドキドキして冷静でいられないタイプかな?」
少し意地悪な笑みを向けると、星野アカリの鉄面皮が一瞬で朱に染まった。
「だ、誰がドキドキなど・・・・・・! 貴方のような、不躾で、ワイルドで、知的な求愛を振りまく野蛮な男子など、私の管理対象でしかありません!」
「そうか。じゃあ午後の授業もよろしくな、委員長さん」
余裕を持って告げると、星野は言葉を詰まらせ、踵を返して去っていった。
それを見送っていた氷室さんが、ぽかんと口を開けている。
「佐藤君・・・・・・あの星野さんを、あんなふうに言い負かすなんて」
「ただの屁理屈だよ」
俺は残りのご飯を口に運びながら、心の中でため息をついた。
中身が三十歳のサラリーマンである俺にとって、女子高生を言葉でいなすのは難しくない。
だが、この小さな勘違いの積み重ねが、いずれ取り返しのつかない事態を招く――そんな予感だけは、はっきりと胸に残っていた。




