第2話:教室は熱帯雨林、元社畜は『高嶺の絶滅危惧種』
教室は、地獄だった。
先ほどの自己紹介で巻き起こった咆哮によって、俺の平穏な学園生活という甘い幻想は、文字通り木っ端微塵に砕け散ったのだ。
担任の大門先生は、筋骨隆々とした体格に短く刈り込んだ髪をした女性だった。どう見ても体育教師だが、担当科目は国語らしい。
その大門先生が、教卓をバンッと力任せに叩く。
「静粛にッ! 分かっているな、女子ども! 佐藤君は男子保護法に基づき、いかなる強引な接触からも守られねばならない! 彼の貞操は、この学園の、いや、国の未来に関わるのだ!」
――貞操。
その言葉が、まるで国家機密であるかのように教室に響き渡った。
この世界では、男子生徒は守るべき花であり、同時に将来の配偶者候補という、きわめて現実的な価値を持つ存在なのだろう。
四十人の女子たちは、獲物を前にした大型肉食獣のように、唾を飲み込みながら席に着いた。
俺の席は、教室の一番奥、窓際の特等席だった。
隣に座っていたのは、少し控えめな雰囲気の美少女だ。
透き通るような肌に、ふんわりとした茶髪。
俺が席に着いた瞬間、彼女は顔を真っ赤にし、小刻みに震え始めた。
「あ、あの・・・・・・わたし、氷室愛華って言います。その、隣の席で・・・・・・ごめんなさい・・・・・・!」
なぜ謝られたのかは分からなかったが、俺は前世で培った営業用の柔らかな笑みを浮かべた。
「佐藤一真です。こちらこそ、よろしく。氷室さん」
「ひゃっ・・・・・・!? な、名前で呼ばれた・・・・・・! それに、今の笑顔・・・・・・あんなに優しく微笑む男子がいるなんて・・・・・・」
氷室さんは限界だったのか、机に顔を伏せてしまった。
ただ挨拶をしただけなのだが、この世界の男子はもっと澄ましているのが普通なのだろうか。
ホームルームが終わると、すぐに数学の授業が始まった。
担当は、知的な雰囲気をまとった女性教師、藤本先生だ。
彼女は黒板に、難解な微分積分の数式を並べていく。
「この問題は、去年の入試でも難問とされた箇所です。誰か解ける人はいますか? ・・・・・・あら、佐藤君。転入したばかりで教科書も届いていないでしょうが、前の学校で習っていたら、答えてみてもらえますか?」
クラス中の視線が、期待と不安を帯びて俺に集まる。
だが、俺にとっては赤子の手をひねるような問題だった。
前世でそれなりの大学を出ている。高校数学、それも基礎的な計算なら、十年以上のブランクがあっても解法は体に染み付いている。
俺は立ち上がり、黒板へ向かった。
チョークを手に取り、淀みなく数式を展開していく。
(商社マン時代に叩き込まれた数字感覚を、なめるなよ・・・・・・)
わずか一分足らずで、答えを書き終えた。
教室が、水を打ったように静まり返る。
「・・・・・・正解です。それも、教科書には載っていない、非常に効率的な解法ですね」
藤本先生が、素直に感嘆の息を漏らす。
その瞬間、女子たちの間から、ため息混じりの歓声が広がった。
「嘘・・・・・・男子なのに、数学があんなにできるの?」
「あんなにサラサラ解いちゃうなんて・・・・・・知的でかっこいい・・・・・・」
「ワイルドなだけじゃなくて、頭脳まで完璧なんて、反則よ・・・・・・!」
俺は適当に謙遜しながら席へ戻った。
隣の氷室さんは、尊敬と憧れが入り混じった潤んだ瞳で俺を見つめている。
その後も俺は、当てられる問題を次々と解いていった。
中身が三十歳なのだから当然だが、周囲には「稀代の天才美少年」が現れたように映ったらしい。
そして、待ちに待った昼休み。
チャイムが鳴った瞬間、再び女子たちが立ち上がろうとする気配がした。
だが、それを遮るように、氷室さんが勇気を振り絞った声を上げる。
「さ、佐藤君! もしよければ、わたしが食堂を案内しますっ! この学校、広くて迷いやすいので・・・・・・」
その申し出は、今の俺にとって救いだった。
一人で歩けば、どこへ連れ去られるか分かったものではない。
「それは助かる。お願いできるかな、氷室さん」
「はいっ! 喜んで!」
氷室さんは、羨望と嫉妬の入り混じった視線を背中に浴びながら、少し誇らしげに俺を先導した。
廊下を歩くだけで、他クラスの女子たちが身を乗り出してこちらを見る。
氷室さんは、まるで姫を守る騎士のように、鋭い視線で周囲を牽制しながら進んでいく。
「あの、佐藤君。食堂には男子専用の特別室もあるんですけど・・・・・・どうしますか?」
「いや、普通の席でいいよ。皆がどんなものを食べているのか、興味があるし」
俺の答えに、氷室さんは目を丸くした。
「佐藤君って、本当に変わってますね。でも・・・・・・そういうところ、すごく素敵だと思います」
その純粋な笑顔を見て、俺は初めて思った。
――この狂った世界でも、案外、やっていけるのかもしれない。




