第17話:距離
校門前のざわめきを背に、一真は何事もなかったかのように歩き出した。
歩調は普段通り。背筋も伸ばしている。
けれど内心では、確実に警戒のスイッチが入っていた。
(視線が……多すぎる)
すれ違う女子生徒のほとんどが、一度は足を止める。
そして必ず、二度見する。
中には、明らかに進路を変え、距離を詰めようとしてくる者までいた。
「……佐藤君?」
「昨日の……本当に、あの人?」
ひそひそ声は、もはや隠す気がない。
それどころか、確かめるような視線が、意図的に絡め取ってくる。
(転校初日は、“見られてる”って感じだったな)
今は違う。
見極められている。
値踏みされ、用途を測られ、どう扱うかを考えられている。
一真が靴箱へ辿り着いた、そのときだった。
「……」
思わず、足が止まる。
自分の靴箱の前だけ、妙に空間が歪んで見えた。
否、錯覚ではない。
溢れているのだ。色とりどりの封筒が、靴箱の隙間という隙間から。
(……昨日まで、こんなのなかっただろ)
嫌な予感が、確信に変わる。
この世界で手紙が意味するものは、単なる好意ではない。
独占の申請。接触の許可。
時には、所有権の主張ですらある。
一真が無言で立ち尽くしていると、背後から、よく知った気配が重なった。
「あら……やはり、こうなりましたのね」
落ち着いた声。
それだけで、周囲の空気が一段冷える。
一真が振り返るより早く、星野アカリは彼の隣に立っていた。
完璧に整えられた制服。
背後には、生徒会執行部の女子たちが無言で控えている。
「……アカリ。早いな」
「当然ですわ。一真さんがこの学園で、最も狙われやすい存在になったのですから」
アカリは靴箱を一瞥し、ほんのわずかに眉を寄せた。
それだけで、執行部の女子たちが動き出す。
封筒は、次々と回収されていった。
中身を確認することすらない。
まるで、存在そのものが許されていないかのように。
「おい……さすがに全部は」
「問題ありませんわ、一真さん」
アカリは即答した。
「これらはすべて、学園規約に抵触する“無許可の接触申請”ですもの。処理されて然るべきです」
そう言いながら、彼女は自然な動作で、一真の腕に自分の腕を絡めた。
強すぎない。
だが、離れようとすれば、はっきりと拒絶が伝わる力。
(……所有アピールが露骨になってきてるな)
一真が何か言う前に、背後から小さな声が重なった。
「あ……一真君」
振り向くと、そこにいたのは氷室愛華だった。
少し息を切らし、両手で包むように布袋を抱えている。
「……その、これ……昨日のお礼、というか」
布袋の中身は、手作りの弁当。
一真は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
「……もし、迷惑じゃなかったら、名前で呼んでほしいな」
一瞬、時が止まったように感じられた。
アカリの腕が、わずかに強張る。
一真は、ほんの少しだけ目を細めてから、穏やかに答えた。
「……分かった。愛華」
その瞬間。
愛華の表情が、はっきりと変わった。
「……うん」
短い返事。
けれど、そこには隠しきれない喜びが滲んでいた。
アカリは無言のまま、二人を見つめていたが、やがて、いつもの微笑みに戻る。
「……なるほど。そういうことですの」
絡めた腕は離さない。
だが、その力は、ほんの少しだけ――確かめるようなものに変わっていた。
「教室まで、参りましょう。……これ以上、無防備に立ち止まるのは危険ですわ」
「……分かったよ、アカリ」
絡めた腕を頼りに、一真はアカリと歩き出す。
隣には愛華が少し距離を置きつつも、自然に並んで歩いていた。
廊下を進むたび、すれ違う女子たちの視線が熱を帯びて絡みつく。
昨日までの好奇や噂話の目とは明らかに異なる――値踏みされ、用途を測られるような視線。
(……昨日までとは、確実に世界が変わった)
階段の踊り場も角も、窓際も、ちらりと覗く視線が絶え間なく注がれる。
だがアカリは腕をしっかり絡め、まるで「触れる者は許さない」と言わんばかりに護る。
愛華は少し緊張しつつも、視線を逸らさずに一真の隣を歩く。
その手に握られた布袋の存在が、彼女の決意と献身を物語っていた。
左右から注がれる熱、公と私、支配と献身――。
歩く一歩一歩が、昨日の合同演習の余韻と、三人の距離感を確かめる時間になっていた。
教室の扉が視界に入る。
ここから先はさらに視線が集中する場所だ。
だが、一真は歩みを止めない。
絡めた腕の力と、愛華の存在を背に、確かな手応えを感じながら教室へと向かうのだった。
◇
昼休み。
一真の机は、朝からほとんど動いていない。
動かす必要もなかった。
右にはアカリ。
左には愛華。
それだけで、周囲が勝手に距離を取る。
「一真さん。こちらは検食済みですわ」
「一真君……こっちも、ちゃんと火通してあるから」
二つの弁当が、同時に差し出される。
昨日までなら、もう少し胃が痛んだかもしれない。
だが今は、不思議と落ち着いていた。
「じゃあ……まずは、こっちから」
一真が愛華の弁当を指すと、彼女は目を丸くしたあと、ぱっと頬を緩めた。
「……うん!」
一真が愛華の手作り弁当――少し形の崩れた、しかし愛情の塊のような卵焼きを口に運んだ瞬間、愛華は今日一番の、そして人生で一番かもしれないほどの幸福そうな笑顔を浮かべた。
「……おいしい、かな?」
「ああ。味付けがちょうどいい。朝早くから大変だっただろ。ありがとう、愛華」
二度目の名前呼び。
愛華は耳まで真っ赤にしながら、隣で小さく身を震わせた。
彼女にとってそれは、どんな勲章よりも重い「権利」の承認だった。
だが、その光景を――一真の右隣から、静かな視線が射抜いていた。
アカリは微笑んだまま、何も言わない。
その完璧な表情の裏で、胸の奥に小さな棘が刺さった感覚を、確かに自覚していた。
(……先に、そちらを選びますのね)
分かっている。
手作りの弁当を先に取ることに、深い意味はない。
それでも、理性より先に感情が反応してしまう。
アカリはそっと、一真の制服の袖を引いた。
その仕草は控えめで、だが確実に意識をこちらへ向けさせるものだった。
「一真さん。こちらも、冷めてしまう前に……一口、いかがかしら?」
差し出されたのは、銀のスプーンに乗ったフォアグラのソテー。
教室という場には似つかわしくないが、アカリらしい完璧さだった。
「アカリ、自分で食べられるけど……」
「……嫌、ですか?」
潤んだ瞳。
ほんの少し傾げられた首。
演出だと分かっていても、抗いがたい「弱さ」。
廃倉庫で見せた、あの表情が脳裏をよぎる。
「……分かった。いただきます」
一真が口を開くと、アカリは満足そうに、しかしどこか執着を込めてスプーンを引いた。
「どうです? 一真さんの好みに合わせて、きちんと選ばせたものですの。
……愛華さんの真心も素敵ですけれど、毎日身体を預けるものは、安心できる方がよろしいでしょう?」
柔らかな言葉。
だが、その奥には明確な牽制があった。
「なっ……星野さん、それは……」
愛華が立ち上がる。
以前なら、アカリの視線ひとつで萎縮していたはずだった。
だが今は違う。
「一真君が喜んでくれたのは、私の卵焼きだよ。
……値段とか、ちゃんとしてるかどうかだけじゃないもん!」
「あら……」
アカリは一瞬、目を細めた。
「気持ちだけで無理をさせるのは、少し心配ですわ。
一真さん、最近ずっと気を張っていらっしゃるでしょう?」
静かな火花が散る。
一真は交互に差し出される箸とスプーンを処理しながら、前世の板挟み交渉を思い出していた。
違うのは、どちらも自分を守ろうとしていること。
そして、その「守り方」が真逆であることだ。
ようやく昼食が終わり、一真は立ち上がった。
「ちょっと飲み物買ってくる。……一人で」
二人を制し、廊下へ出る。
だが自販機コーナーへ向かう途中も、視線は途切れない。
小銭を入れた瞬間、背後から柔らかな感触が押し当てられた。
「……っ?」
振り返るより早く、アカリが自販機と一真の間に身体を滑り込ませる。
「……アカリ、一人でって言っただろ」
「無理ですわ……一真さん、貴方が悪いのです」
彼女は胸元に顔を埋め、深く息を吸う。
先ほどまでの余裕は、もうない。
「……愛華さんを、あんなふうに呼ぶなんて……」
低く、抑えた声。
責める調子ではない。けれど、確実に感情が滲んでいた。
腰に回された手が、わずかに力を込める。
「……分かっていますわ。
一真さんが、誰をどう呼ぶかは自由です。
それでも……」
一瞬、言葉を探すように間が空く。
「私の名前まで、同じ“距離”になってしまうのは……少し、怖いのです」
女王としてではない。
独占者としてでもない。
ただ、一人の少女として零れた本音だった。
「……ですから」
アカリは顔を上げ、一真をまっすぐに見つめる。
「今、この場で。
私を選んでいると……そう、分からせてください。
でないと、今日一日……平常心でいられる自信がありませんわ」
一真は、彼女の耳元が赤く染まっているのを見逃さなかった。
「……アカリ」
名を呼ばれた瞬間、
絡めていた腕から、すっと力が抜ける。
「……ふふ」
満足げな吐息が、耳元に落ちる。
「ええ。
それで、十分ですわ」
そのまま囁かれた声に、一真は冷たいコーヒーを飲む前から、喉の渇きを覚えていた。




