第14話:戦場に沈丁花は薫る
我慢できなくなりました。
――地響きがした。
それは単なる足音ではない。廃倉庫の錆びた鉄骨を震わせ、積もった埃を天井から降らせ、空気そのものを殴りつけるような圧だった。
演習場という建前を、暴力でねじ伏せる存在が近づいてくる――誰もがそう理解するほどの衝撃。
「星野ぉ! どこに隠れてやがる! その男を抱えてコソコソ逃げるのが、規律の女王のやり方かよ!」
怒号と同時に、倉庫の裏口が爆ぜた。
蝶番ごと吹き飛ばされた鉄扉が床を転がり、土煙の向こうから姿を現したのは、二年C組の頂点――伊集院烈だった。
肩に担いだ大型の木刀は、すでに何人もの脱落者を示すペイントで汚れきっている。
筋肉の張り、呼吸の荒さ、そして何より視線。
その全てが、一真ただ一人に注がれていた。
彼女の背後には、A組の外縁警戒線を力で突破してきたC組の精鋭たちが控えている。
だが、その視線は戦場全体ではなく、烈の背中を追うだけだった。
この場において、彼女こそが絶対の捕食者であると、誰もが無意識に理解している。
「下品な騒音ですわね・・・・・・」
静かな声が、烈の咆哮を切り裂いた。
「せっかくの一真さんとの再会ですのに。これ以上、空気を汚さないでいただけますかしら」
星野アカリは、一真の前に立つ。
その背中は細く、華奢ですらある。だが、その立ち姿に迷いはない。
腰の演習用サーベルが抜かれ、澄んだ金属音が倉庫内に広がった。
周囲の空気が、一瞬で凍りつく。
それは威圧ではない。
秩序そのものが、ここに立っているという感覚だった。
だが――一真は気づいていた。
アカリの肩が、ほんのわずかに震えている。
恐怖ではない。
自分の管理下にあるはずの存在に、無遠慮な欲望を向けられたことへの、怒りと焦燥。
そして何より、「失うかもしれない」という感情が、彼女の理性を内側から焼いていた。
「ハッ、再会だぁ? 笑わせんな!」
烈が木刀を床に叩きつける。
コンクリートが悲鳴を上げ、ひびが走った。
「演習が終わる頃には、その男の隣にいるのは私だ! 全員退け! 佐藤一真は、私がこの手で抱きかかえて連れ去ってやる!」
その宣言に、A組の空気が一気に張り詰める。
だが、烈はもう止まらない。
床を蹴る音。
それは突進というより、砲弾だった。
(速い・・・・・・)
一真の背筋を冷たいものが走る。
女子特有の柔軟さに、この世界の常識を超えた筋力。
真正面から受ければ、アカリであっても被弾は避けられない。
烈は考えていない。
だが、だからこそ一直線で、だからこそ脅威だった。
アカリが迎撃態勢に入ろうとした、その瞬間。
一真は、反射的に彼女の肩に手を置いていた。
「アカリ・・・・・・落ち着け。あいつの動きは単調だ」
その一言で、世界が止まった。
アカリが目を見開く。
戦場の只中で、男子が口を挟むという異常。
だが、一真の瞳には恐怖も焦りもない。ただ、冷静な観察だけがあった。
「右の踏み込みが深い。三歩目で、左から薙ぎ払いが来る・・・・・・アカリ、右へ三センチ。姿勢を低くして潜り込め」
普通なら、聞き入れられるはずがない。
男子は守られる側であり、戦術を語る存在ではない。
それでも。
「・・・・・・分かりましたわ」
アカリは、即座に従った。
理由は一つ。
彼が、自分を「勝たせる視点」で世界を見ていると、理解してしまったからだ。
烈の木刀が唸りを上げる。
左からの大振り。
一真の読み通りだった。
「なにっ・・・・・・!?」
アカリは紙一重でその下を潜り、烈の懐へと滑り込む。
距離がゼロになる。
「終わりですっ・・・・・・! 伊集院烈!」
サーベルが閃いた。
本来なら致命。
だが、アカリは剣筋をわずかに逸らし、烈の胸元のセンサーへ正確にペイントを刻み込む。
「ぐ・・・・・・ああああっ!」
敗北を告げる電子音。
烈の突進が止まる。
それでも――彼女は伸ばした。
「まだだ・・・・・・触れれば・・・・・・そいつに触れれば・・・・・・!」
「させないと・・・・・・言ったはずです!」
アカリの声は、氷のように冷たかった。
烈の手首を掴み、一真から教わった合気の要領で力を流す。
次の瞬間。
ドォォォォン!
烈の巨体が床に叩き伏せられ、倉庫全体が揺れた。
C組の士気が、音を立てて崩れる。
◇
戦闘は終わった。
A組が制圧に動き、敵は完全に排除された。
だが、一真とアカリの周囲だけ、時間が切り取られたように静かだった。
アカリは剣を納め、荒い息を吐く。
頬は紅潮し、瞳には勝利と高揚が混じった異常な熱が宿っている。
――彼の言葉一つで、世界が思い通りに動いた。
その事実が、彼女の理性を溶かしていた。
彼女はふらりと一真に向き直り、そのまま壁際へ押し込む。
背中に、錆びた鉄の感触。
沈丁花の香りが、濃密に肺を満たす。
「・・・・・・アカリ?」
「一真さん・・・・・・貴方は、本当に・・・・・・恐ろしい人・・・・・・」
胸に顔を埋めたまま、熱い吐息が伝わってくる。
腰を引き寄せる力は、逃げ道を完全に断っていた。
アカリの指が、一真の腕に食い込む。
痛みを伴うほどの力だったが、一真は声を出さなかった。
「貴方の指示通りに動くだけで・・・・・・世界が、私の思い通りに動く・・・・・・」
アカリが顔を上げる。
その瞳には、もはや理性の光はない。
「もう・・・・・・誰にも見せたくありません」
一真は理解した。
この女王は、もう後戻りしない。
「・・・・・・交渉成立だ。ただし、心臓が止まらない程度にしてくれよ」
「ふふ・・・・・・努力いたしますわ・・・・・・一真さん」
その名を呼ぶ声は、甘く、重かった。
◇
そして、その光景を、廃倉庫の影から見つめる瞳があった。
氷室愛華。
彼女は息を潜め、物陰から一真とアカリの姿を見つめていた。
歓声も、戦闘の余韻も、彼女の耳には届いていない。
視界にあるのは、ただ一つ――アカリの腕の中で、逃げることも、拒むこともせずに立つ一真の姿だけだった。
「…………」
声にならない息が、喉の奥で震える。
胸の奥に芽生えた痛みは、鋭さよりも重さを伴っていた。
怒りでも、嫉妬でもない。
それらに名前を付けることすら、愛華はまだ自分に許していなかった。
(……やっぱり、遠いな……)
無意識に、制服の内側に忍ばせた小さなお守りを握りしめる。
自分が縫った糸の感触。
彼がそれを持っているという事実だけが、今の愛華をこの場に立たせていた。
「……一真君」
ごく小さく、誰にも届かない声。
呼んだ瞬間、胸が締めつけられる。
(守られてるんじゃない……選ばれてるんだ)
星野アカリは、力で抱き寄せている。
命令で縛っている。
けれど――それでも、一真は彼女の隣に立つことを選んだ。
その事実が、愛華の中で静かに、しかし決定的に何かを変えた。
「……でも」
ぎゅっと、指先に力がこもる。
「……それでも、私の気持ちまで……譲るつもりは、ないから」
声は震えていたが、逃げてはいなかった。
それは宣戦布告ではない。
ましてや敵意でもない。
ただ――
「自分も、そこに立つ」という、遅すぎる覚悟。
合同演習は、まだ終わらない。
戦場は、愛という名の別の戦争へと、確実に姿を変え始めていた。




