第13話:独占の代償、あるいは女王の進撃
演習開始から三十分。
それは、星野アカリという完璧主義者にとって、生存の確認ではなく「所有の危機」を意味する時間だった。
彼女は第13演習場中央区画――二年A組が確保した拠点の屋上に君臨していた。切り立ったコンクリートの縁に立ち、冷たい冬風に長い黄金の髪をなびかせながら、手元のタブレットに映る戦況マップを凝視し続けている。
周囲に控える執行部の面々は、まるで石像のように微動だにしない。アカリから発せられる圧力は比喩ではなく、明確な「重さ」として彼女たちの肩にのしかかっていた。
「・・・・・・遅いですわね」
呟きは小さかったが、その声には刃物のような冷たさが宿っていた。
白手袋に包まれた指先が、わずかに震える。それは恐怖ではない。内側から噴き上がる衝動を、理性の枷で縛りつけている証だった。
一真は単独行動に出た。
それは彼自身の提案だった。廃ビルに籠城するのではなく、機動力のある彼が囮となり、敵の包囲網を攪乱する。その隙にA組が戦略的拠点を完全に固める。
一真の判断力、状況把握能力、そして前世の社畜時代に培われた「泥臭い生存本能」を信じるなら、それは合理的で、効率的で、そして成功率の高い戦術だった。
だが――合理性と感情は、常に別個のものだ。
(三十一分十二秒・・・・・・私の視界から、彼が消えてからこれだけの時間が経っていますわ)
理性は告げている。
彼は生きている。一真の反応を示す信号は、今もマップ上で力強く明滅している。
しかし、独占欲は別の可能性を囁き続ける。
もしも今、どこかの物陰で、名前も知らない他クラスの女が、一真の細い手首を掴んでいたら。
もしも、あのか細い男子の身体を、下品な力で五秒間抱きしめていたら。
――その「もしも」が成立した瞬間、一真は一週間、他人の所有物になる。
それだけは、決して許されない。
「アカリ様・・・・・・」
沈黙に耐えかねたクラスメイトの女子が、恐る恐る声をかけた。
「何ですの?」
即座に返された声音に、女子は身を竦ませる。
アカリの瞳は、もはやクラスメイトを「仲間」として見ていなかった。目的を達成するための「部品」、あるいは自分の財産を守るための「盾」。それ以上でも以下でもない。
「佐藤君の信号、まだ消えていません。位置データも北西方向へ・・・・・・恐らく移動中です。敵を引きつけながら、逃走経路を確保しているものと――」
「・・・・・・言い訳は結構ですわ」
淡々と切り捨てる。
「私は、彼が『無事か』を聞いているのではありません。
彼が・・・・・・『誰の手にも触れられていないか』を確認したいのです」
アカリはタブレットを操作し、学園の監視システムが捉えた高精度の熱源感知映像を呼び出した。
そこには、演習場全体を俯瞰する「狩り」の構図が映し出されている。
そして――。
「見つけましたわ」
視線が、ある一点に固定される。
廃ビル群の外縁部。森林との境界線近くにある半壊した倉庫の影。
そこには、伏兵として息を潜めていた別クラスの部隊が展開していた。
そして、その中心に――一真はいた。
映像越しでも分かる。
彼は建物の影に身を寄せ、呼吸を殺しながら、数人の女子にじわじわと追い詰められている。
距離が近すぎる。あと数メートルで、その手が「聖杯」に届いてしまう。
「・・・・・・なるほど。私を出し抜いて、掠め取ろうというわけですのね」
アカリの唇が、ゆっくりと優雅な弧を描いた。
それは彼女を知る者が見れば、即座に逃げ出すべき「死の微笑」だった。
「全隊に通達。第二区画へ進軍準備。
・・・・・・戦闘許可を、最大レベルまで引き上げます」
「アカリ様! ですが規約上、過度な女子同士の衝突は減点の対象に――」
「規約?」
アカリは振り返り、その女子を見つめた。
黄金の瞳が、冬の太陽よりも激しく燃えている。
「規約には“男子を負傷させてはならない”とあるだけですわ。
・・・・・・女子同士がどれほど血を流そうと、佐藤一真さえ傷つけなければ、失格にはなりません。違いますか?」
屋上を支配した静寂は、死刑宣告に等しかった。
「・・・・・・彼に触れようとする全てを、排除します。
塵一つ、残さずに」
◇
一方、その頃。
一真は、廃倉庫の錆びた壁に背を預け、荒い息を整えていた。
「・・・・・・計算が狂ったな。あいつら、想像以上に執念深い」
背後から迫る複数の足音。
別クラス――恐らく二年D組。正面からぶつかってきたC組とは違い、獲物をじわじわと袋小路に追い詰める、猟犬のような連携だった。
一真はポケットから、早苗に持たされた栄養ゼリーを取り出し、一気に流し込む。
体力は限界に近い。それでも、思考だけはまだ冷静だった。
「佐藤君、もう逃げなくていいんだよ」
「そう。星野アカリのところにいたって、窮屈なだけでしょ?」
背後から、猫なで声のような甘い誘惑が降りかかる。
だが一真は知っている。その「優しさ」の先にあるのは、権利という名の拘束だ。
(五秒・・・・・・たった五秒触れられれば、俺の自由は一週間分、売却される)
壁の角から顔を出し、脱出ルートを探る。
だが、すでに三方向を塞がれていた。残る一方は開けた平地。そこへ出れば、脚力差で数秒と保たない。
「・・・・・・さて、商談ならここからが逆転のチャンスなんだが」
足元の瓦礫を拾い、陽動のために投げようとした、その瞬間。
「――そこまでですわ、野良犬共」
凍てつくような声が、廃倉庫の空気を切り裂いた。
直後。
屋根から、壁の向こうから、黒い演習着を纏ったA組の精鋭たちが、文字通り降り注いだ。
悲鳴。
混乱。
それは演習というより、一方的な制圧だった。
アカリに率いられた執行部は、男子への「保護」とは裏腹に、女子に対して一切の容赦を見せない。関節を極め、地面に叩き伏せ、ゼロ距離からペイント弾を叩き込む。
「星野アカリ! あなた、正気なの!? こんなやり方――」
叫びは、ゆっくりと歩み寄る女王によって踏みにじられた。
アカリは一真の前に立つ。
周囲の惨状など、視界に入っていない。ただ、彼だけを見つめていた。
「・・・・・・三十分、経過しましたわ。一真さん」
一真は壁にもたれたまま、肩をすくめて苦笑する。
「・・・・・・相変わらず正確だな。あと少しで、俺の一週間分が競り落とされるところだった」
「当然です。貴方の時間は、一分一秒たりとも他人に渡すつもりはありません」
顎に添えられる指先。触れてはいない。
だが、距離も、熱も、香りも、逃げ場を完全に塞いでいた。
「私、言いましたわよね。三十分以上戻らなかった場合、全戦力で回収すると」
その瞳には、安堵と怒り、そして激しい独占欲が渦巻いている。
「・・・・・・無事でよかった。本当に」
一瞬だけ、少女の顔が覗く。
だが、すぐに女王の仮面が戻った。
「ですが、次に同じことをなさったら・・・・・・演習では済みませんわ」
一真は悟った。
この女は、ルールを守る。
――自分のルールを。
冬空の下、演習場はA組の制圧下に置かれつつあった。
そして誰もが理解する。
この合同演習は、もはや競技ではない。
佐藤一真を巡る、美しくも残酷な支配戦争なのだと。




