第12話:影を歩く者
演習開始のホーンが鳴り響いてから、まだ十分も経っていない。
だが第13演習場は、すでに戦場の様相を呈していた。
廃ビルの窓という窓からは、女子生徒たちの索敵用ドローンが飛び交い、森の奥からは獣のような雄叫びと、誰かが地面に引き倒される鈍い音が断続的に聞こえてくる。
一真は、コンクリートの崩れた建物の影に身を潜め、深く息を吸った。
(……速いな)
開戦直後から、各クラスは想像以上の速度で男子を狩り始めている。
遠くで見えた、別クラスの男子が五人がかりで取り押さえられ、歓声とともに地面に組み伏せられる光景が、その証拠だった。
アカリの指示は明確だった。
序盤は徹底防御。佐藤一真は拠点から出るな。
だが。
(……それは「普通の男子」の話だ)
一真は静かに視線を巡らせ、敵味方の動線を頭の中で重ねていく。
女子たちは強い。だが強いがゆえに、動きが派手で、そして直線的だ。
建物の影。
視線の通るライン。
地形による死角。
前世で、数百人規模の商談と修羅場を渡り歩いてきた男にとって、これは戦場ではなく「盤面」だった。
「……一真さん」
背後から、声がする。
振り返らなくてもわかる。星野アカリだ。
彼女は部下であるクラスメイトたちに指示を飛ばしながらも、一真から決して視線を外していなかった。
「……ここから先は、私の陣地ですわ。単独行動は許可していません」
その声は、あくまで冷静で、委員長としてのものだった。
だが、一真にはわかる。
その裏側にある、強烈な不安と焦燥が。
(……周りに人がいる。だからこそ、名前で呼んだか)
一真はわざと、はっきりと応じた。
「わかってるよ、アカリ。でも、ここは少し外を見てくる」
その瞬間。
周囲にいた女子たちが、わずかに息を呑む。
――呼び捨て。
それも、星野アカリを。
アカリ自身の内心も、大きく揺れた。
(……まずい)
理性が警鐘を鳴らす。
この場で、しかも他クラスの視線がある中で、名前を許すのは危険だ。
それは「特別扱い」を公然と認める行為に等しい。
だが。
(……それでも)
アカリの胸の奥で、別の感情が静かに勝利していた。
(私の一真さんが……私を呼んだ)
それだけで、胸の奥が熱くなる。
周囲に見せてはいけないはずの所有欲が、甘い疼きとなって広がる。
「……勝手にしなさい。ただし、三十分以上戻らなかった場合、私は全戦力を使って貴方を回収します」
「了解」
短い応答。
一真はそれ以上言葉を交わさず、影の中へと身を滑り込ませた。
アカリはその背中を見送りながら、無意識に拳を握りしめる。
(……信じなさい、星野アカリ)
これは命令ではない。
信頼だ。
◇
一真は単独で移動していた。
建物の影を利用し、視線の通るラインを慎重に読みながら、足音を完全に殺す。
女子たちの索敵は鋭いが、「守る対象」が多すぎるがゆえに、死角への意識が甘い。
(……いた)
廃ビルの二階。
別クラスの男子が一人、女子二人に追い詰められている。
「大人しくしなさい! すぐ終わるから!」
「いやだ……来るな!」
男の声は震え、足元はすでに覚束ない。
一真は、その様子を冷静に観察した。
(……無策。完全に追い詰められてる)
女子の一人が距離を詰め、腕を伸ばす。
――五秒。
それで終わりだ。
一真は、石を一つ拾い、壁の向こうへと投げた。
ガンッ、という乾いた音。
「!? 何今の!」
一瞬の注意逸らし。
だが、それで十分だった。
「今だ、逃げろ!」
一真の低い声に、男子は条件反射で身を翻す。
女子たちが振り返った時には、すでに一真の姿は消えていた。
(……これでいい)
助ける気はない。
ただ、盤面を荒らす。
混乱すればするほど、アカリの陣営が有利になる。
◇
一方、その様子を遠目で見ていたアカリは、静かに目を細めていた。
(……やはり)
一真は「守られる存在」ではない。
自ら動き、戦局を操る者だ。
その事実に、誇らしさと、どうしようもない独占欲が同時に湧き上がる。
(……あんな姿、他の女に見せたくありませんわ)
だが同時に、彼女は悟っていた。
彼を檻に入れれば、彼は必ず壊れる。
(だから……)
「戻ってきなさい、一真さん」
その声には、命令ではなく、祈りが滲んでいた。
影の中で、一真は微かに笑う。
(……呼ばれたか)
そして、再び静かに、盤面へと足を踏み出した。
これはまだ、序章に過ぎない。




